笑顔の効用

 

 

夢がカオスで朝から楽しい1日。

 

前半は夢の中で寝ていると、足元に何かの粉がパラパラ落ちてくる。土石流の前兆だったようで、一目散に避難所へ。そこで知らない2人と意気投合して、楽しそうに過ごしていた。夢に筋を求めるなんてナンセンス。そのあと3人で動画を投稿するということをして、果ては話題の某国首脳と会見するようなシーン。結構英語だった。(英語全然話せないのだが)

 

 

後半はもっと面白かった。電車か車に乗っていて、車窓から彼岸花とか、ピンクの花が見える。綺麗。そのあと何人かと遊んでいて、良い感じになる。その次の日までの1日に僕は別の所で1週間ほど過ごし、伴侶を得てしまう。そうして浦島太郎さながら戻って来て再開すると、すぐ気付かれる。なぜ気付かれたかというと、昨日はあった鼻の下の面皰が無くなっているからとのこと。よく見ているものだと思いつつ目が覚めた。

 

 

起きたあと、スマホを見るとフォトアプリから通知。9年前の本日の写真を見ましょうというとのこと。9年前の本日も彼岸花を見ていた。なんで撮ったのかも残っているのかも不明だが。セットの画像は実家にある百科事典だから、おそらく実家で散歩中に撮った彼岸花。9年前と中身が変わっていないというのもなかなか。

 

そうして仕事に出発し、白彼岸花と稲穂を眺めて歩く。もうそろそろ稲刈りか。って、遅くないか。

 

仕事はそういえば昨日残業だった。1人が休んだら残業しないといけないってなんだかおかしいし、休んだ人が謝らないといけないのもおかしいような。そういうぎりぎりの人員体制が責任感を醸成する、スケールを拡げたら普通にありそうな世界観。個人的にはなんにも思わなかった。体調回復して何より。眩暈で仕事が休める社会は健全だ。眩暈なんて外から完全に見えない体調不良。まぁ古参だから許される理由とも言える。

 

ほんとうに個人主義にしたら、体調崩しやすい人より無遅刻無欠勤で穴を空けない人の方が良い仕事人になる。

 

それよりも僕は同期が先生に上げた案件に対して口を出したくてしょうがなかった。同期の案件に留まっている間だったら単なるおせっかいだが、先生に行ってしまうと越権になる。僕が口を出していたらこの案件が解決するのが早かった。単純な見落とし。僕が不自由を感じるのはこういう事象。でも、越権してはいけないという仕事上のルールは守る。ルールの遵守は僕を守るためというより、秩序が崩壊するかなという意味合い。先生はプライドより解決を慮る人だから、しれっと席を立って口を出して良いですかと言っても別に受け入れてくれるのは分かりつつ、いうて下っ端だしなって。別に僕がある程度自由におせっかいしたところで問題がないのも分かっている。ただ、同じように動いて良いという前例を作るのはどうなのだろうなとか。

 

そんな感じで、動くに動けないところにやきもきした。

自由って、できないのにすることができるようにしたいみたいな欲求ではなく、できることができるという可動域。僕の解釈がおかしいのかもしれないのも知っている。

 

これも昨日の話。最古参の先輩には色々情報が漏れていて、僕が目指している(となっている)資格試験のことも伝わっていて、駄目だったら駄目でお腹いっぱいで次は何をしようか考えていますと漏らすと、「政治家」になれば良いみたいなことを言われる。僕の苗字がそれを彷彿させるからなのか(高校時代のあだ名が○○町だった)、仕事に手を抜いていないからなのか。

 

地盤がないから無理ですわーと返したし、僕の素朴は地位とか資格の椅子を取るという野心がない。僕の人生のプランの最終形は文章書いて、本を読んで、お酒を飲んでののほほんと手を抜かずに生きていくという感じ。

 

ただ、学としての政治はちょっとそそるところがある。政治家の役割って票を集めることではなく、国費をもって利害調整をすること。変な話、国民の自由をどう案分するかみたいなお仕事なのではと想像しているが、その役ができている政治家って日本に存在しているのだろうか。色々利害が魑魅魍魎としているのは分かるが、このタイミングでするようなことではないよなというは普通の感覚を持っている人なら誰でも感じているような。

 

先生が、国会議員の人員を減らすプランをいつか話していたが、賛同。

人件費を使う効用があまりなさげ。

 

行動経済学にも出てくるのだが、効用という言葉の中身がよく分からない。

価値を置いていることを満たすという語義なのはもちろん分かる。ただ、これって統計的に把握できるものなのだろうかと考えると、ここら辺の学問が何をやっているのかが全然分からなくなってくる。

 

こういうところがINFPなのだろうが、一応マジョリティが何に価値を置いているかは経験則的には把握しているつもり。

 

結局守りたいのは当人かという世界観を把握するにつけ、そういう人達が語る「現実」とか「考える」みたいな言葉がほんとは中身がないんだなと思う。別に文句はない。ただ、同列には生きられないなというだけ。

 

きっと、それっぽいことを語ることはできる。

でも、僕は自分の過去が拙かったとは思っていなくて、経年自体に価値を置いていない。よくここまで生きて来られたなというくらいの気持ちはあるが、だからといって、他人に対して自分が偉いは無い。

 

パートナーさんが、からくりサーカスでしこたま負けてきたらしい。

不機嫌になることもなく、からっとしている。この人もINFPとのこと。良いことだ。

 

パートナーさんが怒ったり引っかかったりすることを分析すると、善の価値というかルールの遵守とか、割と普通とされている人が、社会には他人が居るということを見てない世界観で振る舞っていることと見受けられる。運転中の悪態は交通ルールに対するもので、自分が恙なく運転できることではない。僕も喫煙者がイマドキ歩き煙草をしていると、風評被害になるからやめてくれと思うし、同族として煙草を嗜む人とみなせない。

 

要は、普通とされている人の方が、案外人のことを蔑ろにしているということ。

僕の母親も社会的には普通の人だが、子供に対して普通の母親ではなかった。

 

こんなのは「普通」に括っただけのひとそれぞれであって、どれだけ過ごしたって中身を把握することはできない。当たり前で存在する自分で居る限り。当たり前は文化と環境の中のインストールであって、自我の前ある。自我の後にあるのであれば素晴らしいが、他人を許容できないのであれば、あんまり自分が確立できてない。

 

ここでからくりサーカス

そういえば、この漫画も劇場というか舞台の話だった。本日も休憩時間で読んだし動画も見てよく泣いた。

 

人間はもっと笑えば良いし、泣けば良い。

 

 

人生は限られているのだから、余計なことに悩む時間はない。

普通の人は自然にこれをできるのか。僕にはちょっと10年ばかし時間がかかったが、終わった時間に対して後悔もない。後悔は自己否定だから、どんな文脈でもこれをしてしまうと存在がぼやける。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良き人生でありますように。