舞台

 

 

今日も今日とて遊び惚ける。

10時くらいに出発して、21時半くらいに帰宅。そしてお風呂読書をして今に至る。

 

午前の部。運試し。

からくりサーカスエヴァを狙って行くとどちらも空いておらず、そんなことよりエウレカセブンが見たくなった。ちれっと当たる。そのあと別の店舗でからくりサーカスを眺めつつ、漫画の方でも読み進める。「ありがとう、たくさん笑わせてくれて」の演出が最高に好き。僕は基本的に世界に笑っているので、世界に感謝。

 

そうして、おやつ時間に理容院の予約をしていたため切り上げて、微妙に時間が余ったかたら、電車に乗って大き目の本屋さんへ。滞在時間10分くらいだが、本屋の空気が美味しかった。この10分で惹きつけてくる本があればあぶく銭で買うつもりだったのだが、いい出会いがなかった。個人的にちょっと気になったのが民法の入門書。従来の民法の入門書って民法から考えた日常の視点なのだが、あの本は逆なような気がする。

 

最近気になっている分野にメタバースがあるのだが、どこの本棚に置いてあるのかが分からなかった。コンピュータ系のところかなと当たりを付けて見たのだが、まだ出逢うのが早いのか。いや、仕事場のビルに入っている本屋では一般書の分類では置いてある。ただ、僕は日常的感覚で把握できるようなかみ砕かれた文章より、一見よく分からなくて、何度も噛まないと読めないくらいの歯ごたえがお好み。

 

メタバースの概念は一般書を立ち読みして、なんとなく仮想現実というか超現実という感じと想像している。サマーウォーズの世界観もそれだと書かれていて、今で言えばあつもり(やったことない)もそうなのかも。

 

僕としてはシュールレアリスムの超現実と繋げてしまって、人間の存在の領域からすればメタバースも別にメタではなくもともとそこも含まれているのではという感じがある。良い専門書に出逢えれば良いが、出逢うに違いないとも思う。僕は本に対する運試しはだいたい当ててきているし、これからもいっぱいシンクロすると思われる。

 

そうして、まだ時間があったから、最短距離ではなく、1駅離れたところに降りて歩くことにした。歩くことに対して労を感じない。時速6キロで歩けると移動時間の換算が簡単になって良いのに。時間が60進法で距離が10進法だから、算数問題で単位を均すのが面倒になるのだから、いっそ、1日は10時間とかにしたら良いのでは、長さは同じで測り方が違うだけ。もともと別の目的で設定された単位だから統一化すると計算がずれるのだろうけど。自然にもともとあった測り方でない。むしろ自然を測るためにそれぞれのものさしが発明されたというくらい。

 

とはいえ、自分のものさしで1分を正確に測れる人も稀有だろうし、1メートルがどれくらいかってきちんと示せるのは建築界隈の人しかいなさそう。なのに、単位自体が自明だという仮想の上に社会が成り立っている。時計が正確だという前提って、ほとんど検証しようがない。夜と昼が逆転するくらいのズレならともかく。

 

たぶん2キロくらい歩いた。勝手にアヒル公園と命名している公園を通って、理容院にたどり着く。雑談はあんまり捗っている感じがなかったが、アプリに課金するよりきちんとしたゲームをやった方が形があるとの主張。Switchという単語。僕は自分でこういうゲームすることは辞めているのだが、そのうちこの世界線もあるのかもしれない。

 

そもそも、「形がある」ことってなんだろうな。

アンインストールしたら無くなってしまう成果だって、セーブを消したら同じことのような気がする。ゲームで言えば、違いは知見とか経験則がフィードバックされることなのか。

 

 

午後の部。

 

こんなことを考える人がパチンコを打つ不思議。

まぁ個人的なリハビリ的な感じで、遊びたいだけ自分を遊ばせて良いのがこの人生劇場だというチュートリアルな感じ。こういう人はこういうことをしていないという思い込みの因果における固定観念の払拭というか。

 

まぁなにせ面白い。

そこに居る人達もボタンを押す力は強いが、場に対する礼儀が正しい。うっかり財布を置きっぱなしでトイレに行ってしまったことがあったが、そんなことより皆自分の運試しに傾注しているみたい。もしくは、きっと店内きちっと監視体制があるのだろうなという想像。

 

エヴァの新台はアニメで見ていた世代には来るものがある。絵柄がやたらとかっこいい。

割と相性が良くなってきた。

 

ちょうどからくりサーカスを読み返している時に全巻読み返しが終わる。最初の方は無料だったから買ってないが、だいぶ課金した。紙媒体では全巻買っていたのだが、諸事情で今は無かったから拾い集めた感じ。

 

エヴァ勢の楽しんで打っている感じと比べたら、原作知って打っている人はあんまり居ない感じがある、まぁ読む人を選ぶ漫画だから仕方ないか。CRうしおととらがあったらもっと楽しいのに)

 

からくりサーカスオタクは抑えて。

 

帰り道。時速6キロ(体感)で急いで歩いて帰る。急ぎつつも世界を眺めると、とても綺麗な斜めの半月が浮いていた。生きていることって良いことだ。それに気付いたのがほんとうに最近で、誰も教えてくれなかった。素面でも酔っぱらって生きて良い。

 

物理的な時間が押しているから、お弁当を作るかお風呂読書をするかという選択肢。迷わずお風呂一択。ご飯はちゃんとお惣菜を買って食べた。一瞬お惣菜を弁当用に確保すれば明日の時間も省エネになるのではないかと思ったが、これは単なる節約であって、僕は節約を目的として自炊していないから却下した。明日のお昼はオリジンで買って公園食べる。

 

 

ここのところ温めている哲学的徒然。

かつて人が個人に成る為には、存在の前というか後にある物質的な領域で個を切り離す必要があった。所有権が筆頭で思想・良心の自由が言うところの内心の領域でも。

 

でも、もうそろそろ、分断が終わっても個人で居られるくらいの人格形成できるのじゃないかという感じ。個人のままで共有できるようになったらエネルギーが随分少なくて済むような。自分をシャアしていることにはならない。

 

もうそろそろ幕。

 

そういえば、劇評は先延ばしになっているのが、先にしたいことが押して居るからであって、本来の語用における先延ばしでもない。

 

こう考えていくと、そもそも日本語って結局当人がどう捉えるかに開かれている。

まだコップに半分残っているも、もう半分しかないも、解釈によってポジティブネガティブが反転する。まだ半分も残っているのか飲み切れない(ネガティブ)、もう半分しかない、いっぱい呑んだけど残量残っていた。

 

言葉遊びは人生遊びでもある。

 

そろそろパートナーさんがお待ちかねなのでここまで。

いや待っているからここでやめてお話パートに行ってきます。

 

おしまい。

 

おやすみ。

 

良い夢を。