どっかい

 

 

 

 

今週は体感時間が長かったような、そうでもないような。本日はあれよあれよという間に終わった。先生はなるべく平等に仕事を回すが、年下上司はあからさまに回してくる。仕事がないと眠くなるから別に問題ない。ほんと我ながら使い勝手良い駒だと思う。それでも余力はある。面白そうな案件をおせっかい的に解いている。しかも権限がないから答えはだいたい闇に葬り去られる。

 

年下上司と先生が終わり際にぼそぼそと密談をしていた。聞こえてきたから聞いてしまったのだが、やや厄介な新人さんについての相談。気にしているポイントが上層部の考えているところと違うらしい。たしかに自分の畑からもってきている語彙と認識だから、言い回しが冗長になる。(自分の中の)正しさに固執しているというか、バランスがずれているというか。やる気はあるというのが先生の認識みたいだけど、個人的には目的に適わないやる気をやる気とは呼べない。仮に僕が上司ならそんなやる気は要らないから気を抜こうかとなる。

 

頑張るって無理がある状態だから、そんなに気張るよりできることとできないことの分け目を探った方が省エネで有能だと思う。やる気を見せている人はだいたいこの職場からは脱落するある意味魔境みたいなところ。

 

僕はドMというか、徒労でない負荷ならウェルカムだから問題ない。むしろ生き生きとぽけーっと仕事をしている。この職場、ミスは別に許容しているし、問題はミスを続けたり、行動を改めなかったりというある意味当たり前の所作しか求められていないのに。

 

 

頑張ると言えば。

 

デートの様子を細々と書いてくれている「昨夜」さんが、どうやら上手くいったらしい。上手くいきすぎてフィクションではないかという読み味もあるが、実際か虚構化なんて読者である僕には判別できないため、ここはスルー。

 

お互い頑張らないといけない関係というのは大丈夫かと老婆心が芽生える。お相手の美人の言い回しが頑張ることを正としていて、強迫神経症ちっくというか、どこかで気を抜くことができていれば良いなという感じがある。張り詰めると容易くちぎれるのが人間の神経。

 

たやすくおめでたいと思えないのは、僕の性質の問題。

運について考えていて気付いた。例えば結婚式っておめでたさとか感動を演出するが、観劇者としてはその場でそれらを味わえば良いが、当人達はこれからが共同生活の始まりであって、今後どうなるか分からないし、結婚式ではそこは語られない。だって未定だし。

 

さらに例を追加して、宝くじの1等を当てたとする。とてもラッキー。ただ、その後に当選したことによって未来の場所が変わって、例えば世界一周旅行をしようとして飛行機に乗ったら墜落してしまって退場することになったら、この人はきっと宝くじで運を使い切った不幸な人になるはず。

 

未來は未然には分からないから手放しでその瞬間だけを切り取れないというのが共通項だが、別に悲観的なことばかり考えているということではなく、悲観的なこともありうるよなというだけ。特に備えたって意味はなく可能性としてありうるというだけのこと。

 

関係性の呼び名も、恋人であろうが配偶者だろうが、一応継続を約束できるけど、未來としては約束されない。告白されて恋人さんになって一ヵ月でフラれるということを繰り返した人生劇場だから、こういう観念になっても仕方ない。あの現象、なんだったのだろうな。

 

未解読。きっと相手の想定と僕の実在が違ったということだろうが、当時は別に奇声やら小躍りもないし、変な性癖がある訳でもない(半分くらいは触れてもいない)のに。得体の知れなさが駄目だったという説が今のところ有力。

 

ちょっと逸れたので戻して。

 

頑張ることを美徳とする観念。マルクスさんの論考にヘーゲルさんが出てきた。ヘーゲルさんは人の本質を労働と捉える国民経済学の派閥らしい。この文脈では人間の本質は労働ではなく運動では。ヘーゲルさんと話したことはないから定かでないが目的に適う無欲を労働と捉えて居るのかもしれないけども、自分が有利になる行為であれば、別に人間以外でもできる。奉仕的行為でもだいたいがあくまで自分の使命感とか快とかの効用を求めている訳で、ただのバリエーション違い。

 

効用とは無関係で無軌道な動きができるのが人間なのではという次第。

この動きが芸術の領域だと思うし、ここで動ける人は人間を満喫している。

 

ともあれ、色々書いたが、昨夜さんもうまくゆるく恙なくなったら良いな。

上手くいったところで僕には何も効用はないが、勝手にほくほくできる。宵顔さんの日記はいまいちほくほくできないのは何故だろう。視点が一人称だからだろうか。とか言い出すと僕のも一人称か。

 

 

やれやれ。

 

本日は帰りに農学の本があるかと大きめ本屋さんに寄った。農業棚には具体的な農業の方法とか、農業経済的な本ばかり。そういうのじゃない。もっと学問としての農学を希望。まぁこれを普通の本屋さんに希望するのは無理強いだから、なくても特に気にはしていない。生活環境が向上したらこのラグがないようにしたいと思わなくもない。一日中引きこもりして、文章としてアウトプットする。希少価値はあっても交換価値がないから生業にはできないに違いない。

 

小説枠もがんがん終わる。「星の子」の最後はひたすら流れ星を眺めて終わるのだが、個人的には変な違和感があった。もしかしてお姉ちゃんが亡くなってしまったことを両親が知っていて、それを主人公に伝えるのをためらって引き延ばしているのではって。この印象をこの本を貸してくれた満月さんに一蹴されたから、文字を読み取るという読解としては不正解。不正解をどれだけ可能性として思い付けるかが小説を読む醍醐味だから個人的には正解だし、読んだ後の見解が一致するのもつまらない。

 

個人的な見解に賛同されるって何か気持ち悪くないか。

同じ時間軸に生きているというのは確かだが、個人はあくまで個人だし、何をどう読んでも良いし、自分の読み方しか認めない集団はだいぶやばい。

 

「紫のスカートの女」もそろそろ終盤。語り部が仕事場のチーフの一人だったのか。語り部の現実感が狂っているからこそ成り立つ小説ということか。

 

あと、西尾さんの「悲鳴伝」も終わってしまった。

なかなかやばい古き良きライトノベル感。文字数自体は多いけど、状況描写がほとんどだから、疑似映像に変換される。結局ここまでかいなとなりつつ、そこまで続きには飢えてない。僕が唯一続きに飢えている作品は十二国記かな。かといって作者さんも人だから無くてもしょうがない。

 

言語野がもごもごしてきたからここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。