愚痴らないようにカタルシス

 

 

腕枕をしている方の左腕はなんともないが何故か右肩が凝っている。

 

夢は朝一で、どんな夢を見た? と聞かれた時点では忘れていたが、その後思い出した。トンネルのようなところでこちらは車、向こうから自転車が満遍なく道に拡がってやってくる夢。人の浅慮というか、どうしようもない習性というか。

 

リーガルハイでは人の公平性(純粋さ)と醜さ(欲望)が対比されていたが、個人的には、人って別にそんな風に2分されるものではないという立場。

 

 

仕事は暇。居眠りなんかもする。僕より早上がりなはずの新人さんが何やら捕まっているの横目に帰った。ほんとに残念に長引くこともあるから一概には言えないが、あえて捕まっているような感じ。

 

僕ならもっと早く終わらせられそう。これって別に僕が有能かどうかではなく、自分の為の仕事をしているからだと想った。自分で完結させたいとか想うのはまだ早いようなというのと、親密なことを話しているようで中身があんまりない言葉を羅列して長引かせているような。どうも言葉遣いが好きではない。なんか好かれる層もありそうだが、僕はクッション言葉的なのは拙い。割とダイレクトに淡々としている。嫌われないことよりより相手の仕事が早く終わる方が良い。難しい塩梅だが。

 

言葉遣いが好きではないからと言って、特に排斥することもないが。

というかそういう立場でもないし、立場になったら、もう少しうまく行くように誘導しそう。まず完結癖は止めましょうとか、全部理解して説明しようとするのも止めましょう、今はまだキャパオーバーですとか。営業マン畑って自己完結傾向があるのだろうか。

 

お昼は光合成しながらお弁当。日向で満月さん印のお弁当をいただく。美味しい。

親子丼の上の部分と玉ねぎの中華風鰹節和え物。新玉ねぎじゃないのにしっかり辛味が取ってある。良いお仕事。

 

終わった後に合流して、スーパーへ。運試し場でまた負けてきたらしい。僕が満月さんの運試し場におけるバイオリズムを狂わせているという説が浮上するが特に気にならない。僕より遥かに破綻は無い性質と見受けられるし。そんなこんな、夜ご飯はポトフと無限ピーマンオリーブオイル仕立てと、きのこの副菜とか贅沢。お土産の静岡夏みかんワインで乾杯。

 

ついでに、夜ご飯と明日のお弁当のメインが違うという贅沢の極み。ピーマンの肉詰めの下ごしらえだけして今は何かのアプリに夢中だから実現するか定かではないが、どうなっても問題ない。別にご飯を作ってくれるから一緒に居る訳でもないし。

 

 

帰り道、満月さんの同僚がやらかした事実(失態ではない)を聞いていた。簡略化すると体調不良(名前を書くと微妙な病状)で職場に穴を空ける時の振る舞いについて。どうなるか分からないところでは悪い世界性と良い世界線を等価に考えてどちらでも対応可能なように連絡すべきだろうという感じ。満月さんの言い分の方が合理だった。心情とかしんどさ慮れるのは他人という立場だからであって、シフトを組んで仕事場の人員を確保する立場とは違う。同僚はどちらかという後者の立場。

 

たまたま当人と満月さんが通話しているのを聞いたのだが、特に遺恨はなさげ。満月さんが問題としていたのはあくまで仕事上の振る舞い。

 

 

やれやれ。

 

なんとなくシンクロニシティ、の前に。

 

リーガルハイで、証拠物件として、毎日ブログを書いている可愛らしい大学生が出てきた。曰く、生きていれば毎日新鮮な出来事があるとのことだったが、実際は出来事をストックして別日の日記にあてがっていて、証明力が減殺されてしまった。

 

たしかに出来事ベースでしか書かないとなると、ネタがない日もありそう。

僕のは日記を皮に被った日々の記録ではないから微妙だが、なんというか、無理して生きるのは大変だなと思った。

 

最終講義の「木田元」さん。この人の本は読んだことがある。有斐閣アルマの法哲学入門だったような、仏教界隈だったような。キルケゴールさんの死に至る病の「絶望」とは自己分裂だと分解してくれる。「現実的自己」と「可能的自己」が裂けてしんどい。ネット界隈無理して可能的自己を演出するのもそのうちしんどくなりそう。僕はとくに自己承認においてひもじくないから、人から読まれることに感謝はない。読んでくれる稀有な人への感謝めいめいた感覚はあるけども。分裂が収まってしまうと人生劇場は楽しいだけ。

 

現実的な自己って結局は他己評価の集積であって、可能的自己はそこを取っ払って事故がどう在るかの劇場。動きがあるのは後者で、僕はそういう動きをしている人が好き。全然馬鹿にできない。なんなら僕も馬鹿だし、馬鹿にされることはどうでも良い。なんかあんまり馬鹿にされなくなってきたが、満月さんは僕の現実体に対して愛を持って馬鹿にする。

 

 

シンクロニシティ

 

「普通に考えれば分かる」という概念について再考していたここ数日。これってかなり難しいというか、このフレーズだけで言い切ったことにはならない。

 

まず「普通」は生活圏とか社会圏という意味合いでしかなく、領域が移動されると全く正しくならない。で、「考えれば」もこういうフレーズを使える人はほとんどが特に考えてない、蛇口を捻るように考えているだけ。知識を習得することがすなわち考えるとしてしまう領域。数式を覚えたら数学の問題を解けるようになると同じ感じ。こういう人の人生論のアドバイス受けたとしても参考値にしかならない。

 

とはいえ、本当に考える為には、参考値に倣うのではなくあくまで参考して、自分の頭で世界を想像する必要があるんだなというのが、僕の世界観。自分の頭でどれだけ想像したところで足りない。死ぬ間際まで生きたってそう。だからこそそういう頭がある人間で生きる意味がある。

 

考える、を未知の領域に想像を至らせるという語彙で遣っているのは先生くらい。

だから僕は考えて居ない人に見られて良い。

 

たしかに昔は自分の中で色々考えていた。言葉は箱であるとか。自分はなんであるまでは至れない。だって、主観的世界観に生きていると自分を中身で客観視できない天動説みたいな世界観がインストールされているから。

 

今や主観的存在論はどうでも良い。自分で居るだけ自分なのだから、そこと世界への可動性は別もの。誰かへの印象をよくする為に存在していないし、僕の文章を読み続けるのは悪影響だし。たぶん

 

ビギナーというドラマで、同意殺人がテーマの回。

高瀬船を想起。たしかに、肉体としての人を殺した事実は証拠上揺るがないから、人を殺すことがイレギュラーな世界観からすると、自分の行為で人を退場させたことはとても重い事実。

 

ただ、肉体として生きていくことがどうしてもしんどい人は居る訳で、だから同意殺人とか自殺ほう助みたいな犯罪類型もある。

 

同意が行為と同時である必要があるというのが、法律的な世界観だが、同時の意味を時計時間で測るのは何か違う気もする。客観的な論理的な説明としては時計時間で換算するしかないし、国家側としては時間厳守だが。お役所仕事は冗長になりがち。

 

犯罪的な行為論はあくまで最大公約数的な最大限で、こういうことを取集した後にあくまで自分の行為論を思索する。満月さんの行為は意志と時間差があるが、きちんとやる。手助けで洗い物はする。

 

ここまで。

 

おやすみ。

 

良い夢を。