水曜日を毎週祝日にしたらもっと世界が平和になるに違いない。
仕事はまたまた暇。1人でタイムアタックをする。案件記録をなるべく早く最低限の文字数で最大限の記録を。あんまり突っ走ってもいけないというバランスも取りつつ。明日辞めるとなってもサボる気はない。別に真面目でもないが。
新人さんが残業ばっかりする仕事振りをしているから、暇だったらという限定付きで5分前に後片付けタイムでええよとなった。当人がそれを自分が原因となっているか気付かないかは知らないが、本日も20分くらい遅くまで残っていた。何をしているのだろうな。僕はこの制度を利用して終わってから2分で出て満月さんと合流。ありがたや。
物として残らない遊び時間を愉しんだ。
少し遡って、お昼時間。
本日は天気が良かったから、ベンチが大盛況。この時間だけしか外に居られない人より、この時間でなくても良い人が多そうな印象。まったく問題ない行為だが、個人的には皆のことを考えてなるべく早く動くとか、想像力働かせて時間をずらせる人の方が好みだと思った。別にお昼時にまったり時間をかけることなんてできないし、食べる時間が終わったらすぐ立つ。
もちろん、これは倫理感から来ているものではない。善いことだからしようと無理しているのではなく、当たり前なだけ。公共スペースを譲り合って使うみたいな標語的な感覚ではなく、世界ってそういうものよなという感じ。たしかに、自分が場所を取って良いというのは個人に成る前提みたいなところはあるから、発展としては大事な段階なのかもしれない。
というところから、個人主義とか資本主義とかに想いを馳せる。
実存的自己を証明するためには、自分の物を持っているのはとても手っ取り早い。子供の時分、自分だけのおもちゃが欲しかったのと同じ。持っている物によって自分の存在が確証できることの魅力は老若男女を問わない。空間を確保できるのも同じような感じかもしれない。1人部屋になったことで嬉しいとか。時間もそうか。
ただ、この感覚って、より人間が個別化されるというか断絶かされそう。
こういった物、空間、時間の中では人は独りぼっちになってしまう。人間である以上完全なぼっちは無いのだが、この三者の指標で区切ったら完全にぼっちになれそう。
かといって、全てが共有という感じもおかしいと思う。そもそも自分が持っているものだけ大事にするという倫理がおかしい。共有スペースにおいては犯罪にならない限り何しても良いとなってしまうし。駅から駅ビルの通路で良いオトナのビジネスマンが唾を吐いているのを見るにつけ、何か人格が幼稚なのではないかと想う。仕事でいくらでも想像できるだろう人が、その吐いた唾を掃除することに思い至らないってやばくないか。
僕は人をこういう部分で見ている。別にどれだけ内側の関係で愛想が良くても外側に対する想像ができないようだと、否定はしないけど、時間をかけて関係する人ではなかろうなって。何の統制も取られれていない領域できちんと他者が居るかという話。インターネット世界もそう。
どれだけ知識を持っていたところでこの部分が発展する訳ではないから、あくまで当人の人生劇場の話。良質な体験をしたところで培われない気もする。個人的には発展しているのではなく戻っている感覚はある。
教えられていない不文律の部分でどれだけ他者が居るか。例えば同期が駄目なのは、行動の中に他者が居ないところが見えるから。別に居ない部分でどれだけちゃらんぽらんでも良い。スライド椅子を引いてそのまま座れるようにした状態でお花を摘みに行くのは人の導線を考えて居ないとかそういう細かいところ。箸の持ち方よりそういう部分がノイズになる。僕も別に教えられてない。ノイズだからといって別にストレスにもならないけども。
まぁ、こういう意味で他者を世界と同列に置いている人が上手く生きられる訳がない。
僕はそれをやろうとしているけども。
やれやれ。
そういえば、本日満月さんにプレゼントをした。特に歓心を買いたいという部分ではなく、最近のアイフォンはケーブルのイヤホンを受け付けないらしく、音がない世界で不自由は不自由だなと感じただけのこと。対価性があるような発想ではない。別にプレゼント贈らなくも充分尊重して貰っているし、お金が無くなっても問題ないからこそ贈れる。
昨夜さんの日記が盛り上がっている。
彼女さんは読む感じそうとうやばい精神傾向がありそうだが、昨夜さんもまぁまぁやばそうなので、なんだかんだ上手くいくかもしれない。個人的には継続するかどうかよりも、両者に無理がなければ良いなという感じ。やばいは褒め言葉。
物性を信仰している人にとっては対価なくそれらを取られるのはどうしようもない不安だし、そういう世界観からすれば、一方的に取る人物は問答無用でアウトになる。当人同士の関係性を慮る余地がない。実際詐欺師も居るだろうし、なかなか微妙なところ。客観的に確証できない領域で信じられるのは自分の感覚だけ。
僕の歴代の人には色々不詳な人が居たが、僕はその人達に物的に与えられるものはほとんど無かったから、特に気にしなかった。満月さんだって特に戸籍を見たことないし、可能性としては人妻かもしれない。それに確証を求めなくても良いのは、嘘の味は分かっている、もしくは度外視できるという無意識がある模様。
満月さんは僕の言葉をいちいち気にするのだが、それと同じ水準で満月さんの言葉を読めば口が悪いドMで、僕は何回凹んでも足りない。でも、自分の基準と他者の基準が違うという感覚はとても賢明な基準。
主観は色々ブレていたが、無意識はずっと僕だったという感。
自分に安心するとはこういうこと。どこにも向いてなくてきょろきょろして良い。
どういう境遇でも良い。要は、自分の人生劇場を自分の中で楽しめているかどうか。
実感と言い換えても良いが、実感を保つために禁欲しなければいけないという禁欲の宗教観になってきてややズレる。
相対的でない絶対自分で在ることに、他者とか物は要らない。
要らないからこそ大事でもある。
はい、ここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。