だれでもない

 

 

早々に通話を切り上げ早めの就寝。朝ごはんはカレーうどんとキムチとご飯。いや、キムチは小パックの残りで早めに食べねばというだけ。付け合わせたかった訳ではない。濃厚なかれーうどん。汁が余って夜ご飯はカレー鍋になった。カレーうどん風煮物だと満月さんに言ったら、うどんも入ってないし煮物でもないし和風カレーでしかないだろうと返される。妥協点を探ってカレー鍋に至った。美味しいから名前なんてなんでも良いのだが。

 

また運動。上限の損失を決めてちょっと余らせて1日終わったからなかなかの遊びだったと言える。楽しいの中にはきっと消耗もあって、消耗度合いで言えば仕事よりそう。アウトプットもインプットもない時間というのは貴重。

 

森成分の散歩も良いのだが、なんというか無意識的なアプトプットタイムという感じがある。発想とか連想とかが無茶苦茶捗るし、体だってアウトプット(運動)されているし。本を読むことはインプット的だが、小説は特にいやむしろ読書全般が両義的かもしれない。

 

 

そもそもインプットとアウトプットってなんだろうな。個人的には切り分けなくなった時から頭が広くなった気がする。

 

 

まずインプット。お勉強、研修、探求、はちょっと違うか。収集した情報を正確に吐き出すことをアウトプットとするのであれば、こんなのコンピュータに任せておけば良い。長期的な記録の保存性は調べりゃ分かるようなデータベースがインターネット世界に構築されているし。もちろん考える材料としての情報は要るから、中期的な記憶力があったほうが良さげ。たぶんこれって暗記では対応できない。いや、僕が暗記をつまらないとしているだけかも。定義で考えると定義の外には行けないのは当たり前で、概念を感じとして捉えるのは言葉ではないような。

 

会話だと短期的なところが大事。相手が今言ったことを会話中は覚えていないと成り立たない。保存性よりもレスポンス性の方が大事で、1日後にはほとんど忘れている。グルーミング的とも言える。

 

ただ、この短・中・長の時間感覚って、統計的には多数派で切り分けられるのだろうけど、主観的な時間の長短って学歴とかではなく、具体的な個人による気がする。人と接するとなんでそれを覚えているのだろうって人間の凄さを感じる。記憶領域の神秘。

 

インプットとアウトプットって別に人間の本質的な機能ではなく、人間の機能の一部を外化させたものと思われる。入力と出力をそもそもいちいち切り分けられるようなものではないような。機械じゃあるまいし。たしかに物理的な領域に限れば食べ物が口から入って排泄として出るし、テストって入力した情報をどれだけそのまま排泄できるのかを問われることが多い。

 

書くことがアウトプットなのかというと、この入出力の概念からは微妙にズレている気がする。消耗するものであるとするのは、入力したものをそのまま書くと著作権侵害になるからかとか茶々を入れつつ、要は、自分が言葉によって消費対象になるという感じなのではないかという観。

 

人の本質はそんなことで消耗されないし、しんどいことから対価を得るような条件付けからも離れられる。こんなの誰も教えてくれなかったが、僕の人生劇場の中で学習した。相対的に何者である必要もない。

 

ここでいう学習は入力しつつ運動(出力)するみたいなことで、世間一般論ではない。

僕は誰かに自分が得た教訓を教えることができそうもない。一緒に学習しようかというだけ。

 

ついでにちょっと考えたのだが、ある程度生きてしまえば、本当の意味で新しいことはほとんどない。外国語学習だって自国語が前提になっていて言語として括ってしまえば新しくないし、自分の世界線が移動するような概念に出逢う機会はどんどん狭くなる。もちろん知った概念の中で分かることを増やすというのは可能であって、これも楽しからずや。ただ、それをしているから自分は相対的に上位というのも何か違う。筋トレが趣味なのと同じ感じ。

 

で、僕が本日ふと思ったのが、ほんとうに新しいことって具体的な人くらいだろうなという発想。具体的に出逢う人数が増えると省略して類型化してしまう傾向は知っているが、類型的な一致と具体的な一致が一致する訳がない。おみくじみたいな人間観。

 

もちろん、情報として人間ではなく人としての人を捉えるってそうとう消耗する。

だって、そんな世界観になってしまったら、自分が誰とも類似していないという孤独になるし。エックハルトさんがそういうことを書いていたらしい。具体的な自分であるというのは孤独なことだ。

 

という風に考えたとき、僕の文章の好みに思い当たる。何か良いことを書いているではない。スキがいっぱい付いて居る文章って基本的に自分のことを共通項に落とし込んでいる。のはどうでも良くて、具体的な僕が、著者の具体的人間が気になるところまで至れるかどうか。

 

 

太宰治さんと、坂口安吾さんは一回呑んでみたかった感とか。

哲学者は気になるところだけど、僕はそこまで哲学的なこと話せないし、哲学の権威の人達ってだいたい瞑想領域で書いている感じがあって、読むだけで良いかなとなる。

 

あくまで僕の好みの話。

 

好みといえば、ちょっとだけのろけ。

満月さんは僕の酔っぱらいモードも好きらしい。なんとも奇特。むかーし、酔っぱらってなかったら良い人だと言った恋人さんが居た。たしかに当時僕は酔いを逃げにしていたから、無理もない。まぁこの宵がなければ僕の文章の継続は無い訳だが、当時の恋人さんに関する叙述を読ませた派遣君が、そういうことを書かない方が良いですよってアドバイスしてくれる。たぶんその人の傾向を語ったのだと思われる。

 

こんなの基本嫌なこと。なのに、満月さんは大丈夫らしい。

なんで嫌なのかって考えると、実は誰かにとって具体的になりたくないからという連想が浮かぶ。人が自分のことを外的なところでしか語れないのは、自分が外化された存在だと言う信仰があるからだよな。

 

僕は類型的に読まれるつもりはないから、具体的な人だけ読めば良いという立場。

剥き出しで生きましょうな。

 

こんな感じでおしまい。

 

おやすみなさい。

 

まだまだ楽しい。

 

 

良い夢を。