たいよう属性

 

 

ここのところタイトルが雑だ。いや、ずっとか。

 

 

遅番が良く眠れるのは、帰宅後の無駄時間かないからなのか。帰宅後に座ることなくお風呂読書まで一直線。昨日は洗濯して徒歩2分くらいのコインランドリーで乾燥をするというなかなかの稼働率。もやしのナムル作ったのも昨日か。

 

少し通話をしておやすみなさいをして、見た夢。

音信不通の姉が出てきた。当人に対して嫌だと発言していた。なかなかやりおる。

 

最初の環境というのはどうしても残るもの。人間性が嫌だというのは確か。嫌だからと言って何か悪いようにすることもない。母親と姉と妹には共通項がある。どうもあんまり関わりたくないなぁという感じがそろそろ言語化される。

 

トラウマの開示みたいな話になりそうでそうでもない。相対性というか、誰かを否定して自分の存在が保持されるみたいな感じが嫌だった。人は僕が知らないところで僕のことを悪く言っているに違いないという強迫観念も、家族が外には良い顔して内ではその人達のことを悪く言うというところから来ているに違いない。今や、僕のことを外で話題にしている人はそんなに居ないだろうし、言われたところで僕がそれを不安に思う謂れもないという立ち位置になれた。

 

姉が音信不通になったのは、直接的には母親との隔絶で、僕が母親寄りだと思い込まれていることによる。まだ交友があった頃、姉がなんで母親を切ったかの話で、自分の子供のことを悪いようにしか言わないから悪影響だみたいなことを言っていた。ただ、これって僕が幼少期に姉から言われ続けたことと似ている。顎の長さを馬鹿にされたし(実際尖り気味だがそれほどでもない)、不器用だとか、絵で入選したのはたまたまだとか。

 

このおかげ()で僕はそのものの存在よりも自分のことを小さく捉えるようになったのだが、こういう風に評する人をどれだけ切ったところで居なくはならないのだから、自分が子供をそういう環境から守れば良いのではないかと思った。要は、子供を理由としているとしても実態は当人が母親から離れたいというだけなのでは。いや、別に当人が離れたかったということに気付いていれば問題ないが、外を理由とするのは何か危うい気もする。子供が保護対象でなくなって反発してきたとき、同じ轍を踏まないかって。

 

妹とは割と交友がある(あった)。ただ、僕が知らないところで、母親に対して母親は僕に甘いのではないかとか言っていたらしい。そりゃあ人情的に否定してこない(特に肯定もしないが)人の方に甘くなるのは仕方なかろう。

 

別に他人に対してそれは違うと言えるほど真っ当なレールで生きていないし、母親にも姉にも個人的に恨みがある訳でもない。母親的環境、姉的環境に対する嫌悪はあるが、別に具体的な話でもないし、そういう人に影響されないで居られる自分にはなれたし。

 

本来というか普通だと生まれた家族であるだけで無条件の親しみを感じないといけないところだが、そういった義務感はない。少なくとも無条件じゃなかった。無条件的なのはお祖母ちゃんか。同性の兄弟が居れば何か違ったような気もする。弟と対等にゲーム対戦してみたかった世界線。気のせいか。

 

読む、読まれるだけの関係の方が否定しながら具体的に関係するより親しみを感じてしまうのは、何かの欠陥なのかもしれない。

 

 

本日の仕事。結構暇だなーとPhotoshopで検証生活していたら、人が居なくなった仕事終わりが滅茶苦茶忙しくなる。古参の先輩も手が取られていて、なかなか1人で盛り上がる。喧噪が去ったあとのエピローグの歓談で、先輩が「硯さんは人間ができている」と言ってくれて、およよと響く。

 

人間ができているってなんぞや。

たしかにあんまり怒ったりしないが、こんなの社会人としては普通のこと。裏で何か悪口を言うこともないが、そんなことは先輩に把握できる領域でもないし。そんなことより自分の人生劇場で遊んでいる感はある。

 

この内部事情が人から読まれるなんてことは、ありうるか。人って人を言語では捉えていなくて感じで捉えるから。感じの権化は見た目の雰囲気が9割だっけ。僕の見た目は社会生活においては忍びの者くらいの希薄さだと勝手に解釈している。

 

あぁ、世界を恨まなくなることを人間ができているとことと定義するのであればそうかも。

 

公平性で捉えるとどうあっても不公平が起こるし、平等の観念って理想ではあっても現実ではない。こうやって世界のことを恨むように仕向けた方が造物主としては楽だろうな。こういった感覚は自明ではなく、集合的無意識の領域だと思っている最近。もともと持ち合わせているものではない。

 

小説が書けないかもしれないという危惧は、自分の中に時代の中にあるうごうごを感じないところにある。鬱屈したうごうごを物語化している小説家の読み味が僕の創作に宿る感じがない。吉本隆明さんの「ハイイメージ論」という本で小説を解体しているだが、この論考だと、小説には入口と出口あるとかなんとか。太宰さんはほんとの意味で許容してくれる人が存在しなかった人だよな。イケメンだし文士だしパートナーはいっぱい寄ってきただろうが、満たされない。知らんけど。

 

詩ならあるいは。

詩作はうごうごというより、世界がどう見えるかな気がする。

 

 

そんなこんな。

 

今朝、ハイデガーの講義録がないか検索してみたら、大学図書館とか国立国会図書館にはあるとのこと。満月さんに言ったら、一緒に行きましょうと言ってくれる。楽しい未来。僕の世界線に完全に合わせてくれている訳ではなく、一緒に当人の世界線も楽しんで居るのが良い。

 

好きだから完全に合わすのを辞めても問題ないとできた満月さん。

僕は基本的に合わせることから始めるベースだが、いちいち合わせなくても居てくれるのが良き。

 

苦言を言わなくても済むキラキラしているのも、ぬらぬら暗所を書いても誰かが読んでくれるのもインターネット世界だが、それで存在を確保しているとしたら、止めといた方が良いような。

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。