意志なき世界

 

 

数日前押し入れを探っていたら、ウルトラライトダウンを発見。あれ、たしか4月辺りの飲み会の帰りに溝に落ちて破けたから捨てたような。点検してみると特に穴も空いてない。世界線の移動とはこういうことなのか。ファブリーズして出勤用にしよう。

 

 

毎日楽しい1日。

 

朝6時に目が覚めて、ぶどうカルピスを2杯飲んで、しばしアプリゲーム。たぶん既に飽きているダダサバイバーというPCゲームの二次創作。あと、ぴよ将棋という名の将棋アプリ。個人的には詰将棋で良かったのだが、めぼしいのがなかった。こちらはぼちぼちやりそう。閉じた盤面での思考錯誤は苦手なのだが、まぁ遊びで。

 

お腹が空いてくる。昨日1本余計に飲んだからきっと胃がバグっている。大人しいのがよかろう。冷凍ご飯でおかゆを作った。昆布茶と塩で味付けして梅干しを乗せてゆっくり食べる。

 

昼寝して髪を切りに行く。いつもの楽しい雑談なのだが、何か違う。世界線が微妙にズレている? 別に単なるゲーム談義とかをするだけなら時空が一致するこの理容院だけで良いし、話を聞くのが楽しい。ただ、あんまり共鳴はしていないのかとなった。先月僕が紹介した実況者を見てなかったこと。肉体改造に忙しいとかはあるだろうけども、見ときますねと言ったのは社交辞令だったのかと。別に良いというか行ってもあと3回くらいだからしょうがないか。

 

普段の社会生活においてはなるべく地を出さずに空気のように生きているつもりだが、内側であれば、単に場とか興味の共通項があるとかではなく、お互いの世界線が連動するのが良いと思って来ている。簡単に言えば影響し合うことであって、行動を改善し合うみたいなことではない。認識がズレたら行動もズレていくし。僕は別に影響を人に限定していないから、生きているだけで影響されまくっているのだが。

 

 

帰り道。本屋に気になる本(ドイツ語と社会保障法)を探しに行くか、帰るかの分岐。どっちの世界線でも楽しいから良いとして、気分は後者を選んだ。スーパーに寄る。クリスマスの空気。空気を読んで安くなったスナップエンドウといつも空気を読まずに安いもやし。それと豚肉とドレッシングと入浴剤とファブリーズの詰め替えと。品揃えを変えたのか、このスーパーのベビーリーフミックス、やたらとでかくなった。産地直送コーナーにちょうど良いサイズがあって良かった。御用達は職場の帰り道にあるスーパーのなのだが、愛知のスーパーにも同じのがあって全国区なのかもしれない。産地と鮮度が連動しなくて良くなっているのは農業の発展よな。

 

帰宅。タイムラグなく鍋にお湯を沸かしつつ洗濯機を回す。パジャマも洗ったからあんまりパジャマっぽくない部屋着に着替え、無糖レンチンホットカフェオレの準備をしてスナップエンドウの下準備。スナップエンドウの節は上の方からちぎって房(?)をもぎ取って下の筋に至るのが最適。

 

その後は、スパイアニメを5話分進めつつ、サンデーの漫画アプリに課金してKATSUの終盤を読みつつ、アプリゲームもしながら、お風呂読書の高校数学+αを引っ張りだして微分の基礎のところを書きながら捉えていた。

 

なんともよく動く体。

あだち充さんの漫画で一番かもしれないKATSU。終盤が駆け足になっているが、打ち切りでも無かったというエピソードをコメント欄で読んで、なるほど、だから響くのかとなった。バトンタッチのシーンが作者の現実と連動している模様。普遍的な漫画を描く人。

 

スパイアニメはビジュアルがみんな綺麗。出自の媒体もあるのかもしれない。

 

そうして、微分

やっとこさちょっと理解できてきた。理解ってなんだろうなとずっと思っていたのだが、言葉とか公式を覚えるではなくて、その概念を自分の中でイメージできるようになるということだった。今更だが、こういう無駄が人生劇場を彩ることを知ってしまった以上、人類が培っきた英知を逆に辿るベクトルは止められない。ベクトルの概念では逆に行ったとしても距離としてはプラス方向と変わらない。

 

なんで瞬間速度が接線になるのかというイメージの連動はまだ微妙なのだが、ニュートン氏の思い付きはすさまじい。信念の転換はある意味宗教的な改宗に近そう。

 

高校数学でベクトルと微積分の概念についていけずに逃げちゃったから、逃げたところからまた始めているだけ。逃げたところはいずれ帰ってくるから、自分から向かう。

 

 

やれやれ。

 

僕は生粋の無神論者なのだが、仮定的に神が居るとすればどういう存在なのかということを散歩していた。五次元とかスピリチュアルで言うところの意志の現実化って、意志と現実にラグあるということだろうなというところから、万能だったら時間のラグはないはずで、神様の定義として、意志を持たない存在だろうなとなる。意識がラグなく現実になる。旧約聖書でも古事記でも、神様は何かしようとしていないような。

 

しようとする前にしているし意志は動機として人間が何か解釈して意志としている。

 

 

個人的な素朴の感覚としてもともと意志が欠如しているような感じ。

したいからしているというトートロジーを因果とするってなかなか変だなって。

 

宗教学なのか哲学なのか社会学なのかは分からないけど、意志という概念って何かフィクションとして精製されているような気がする。普通の感覚として当たり前に意志⇒行動みたいな因果がまかり通っているが、人間が意志して行動するってアダムが禁忌のりんごを食べたこと由来くらいの根がある原罪ちっく。

 

だって、意志したところで現実化するにはラグがあるし、現実化しなかった意志は何処にいったのだって。この時点で意志は現実に直結はしていなくて、逆算的に自分がした現実的行動に意志という原因があったと創造しているだけなのでは。

 

もちろん、人間に任意性がないなんてことはない。

人間の任意は、意志というフィクションではなく、意識という実在だという説。意識は物質ではないから手に取れないが、これが存在しないと言える人はきっといない。

 

意識⇒意志⇒行動みたいなのは当たり前の因果っぽいが、別に言語化しないといけない意志を介在しなくても人は動いている。一般語用としてはこれを習慣と呼ぶみたいだが、習慣って意識すらされないことだから、別ルートな気がする。

 

世界線と併せて考えると、移動の関門でやってくる意識と現実の境界を意志と呼ぶことにしたという説もある。この人間性によって世界が変わると信じたいみたいな。

 

人間は生まれてから死ぬまで一切不変なのではという発想が起こっているのだが、考察をする時間はない。満月さんがみょーんと待っているから。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。