言葉の軽重

 

 

ウルトラライトダウンを装備した。もう少し外でお弁当食べられそう。

 

夜ご飯の箸休めが美味い。卵を買い忘れた昨日、冷蔵庫に入っていた大根の切れ端を塩もみ時間を省略して、塩、ゆかり、お酢で漬けたら鮮やかな赤に染まる。漬物コーナーに置いてありそう。

 

メインは鶏胸肉のひき肉と残り物の野菜をあんかけ風にとろみをつけてケチャップ炒め。だまにならない手法を獲得したから、お弁当よりかなりきつめなとろみ。美味しいが量が多かった。お腹いっぱい。

 

仕事はやんわり調子が悪そう。失敗というより単なる気分の問題。

内側と外側の調和が取れていないような感じ。不調和だと、外界の情報量の洪水に流されがち。とはいえ、罪悪感は抱かなくなった。

 

生きているだけで罪みたいなものだから、細々したことに気を取られても仕方ない。

ここで言う罪は、現代刑法で言うところの犯罪みたいな意味ではなく、道徳も含めた社会ルールとしてのここを外れたら罪だと思うべきみたいな設定された概念。

 

神様のことを考える。もちろん自己を救ってくれる対象ではないし、信仰対象でもない、想像された概念としての神様。神様は悪の要素があってはいけないから人間より不自由というか不完全だなとふと思いつくお弁当タイム。神話の世界って悪墜ちみたいな話が多いし、善と悪の二元論。

 

個人的には神様のような存在が在るとしても、人間の価値観で把握できるような実在だとはどうも想えないから、この二元論的神様はあくまで想像した物語としてみたいところ。もともとの原始宗教群にはそういうのはなさそうな気がするが、それほど分析したこともない。

 

という感じで人間味を加えて読んでみたとき、そういう世界観を設定した方が合理的に統治できるという演出家が居たのだろうなと想像できる。もちろんキリストとかブッダとかではない、その先の人達。

 

日本の神話は自然の動きを神格化したものが多そうだが、古事記とか日本書紀辺りで国家として統一的な神話観になったような気がしないでもない。柱を回って子供(国)ができるというのはなんとも意識的存在っぽい。

 

善というよりは自然であって、その対義は悪とか恥とか罪とかではなく、不自然とか人工とかになりそう。なのに、僕は失敗めいたことが起こると自分を恥じるし、自分の価値がマイナスになったのではないかと錯覚する。

 

この錯視がどこから来ているのかと考えると、相対的な価値で人の序列を付けた方がコントロールできるよなとヒエラルキーを創出した誰かが居るのだろうなとなる。親は子供より偉いとか単純なところ(儒教由来か?)から、頭が良い人が偉い(学歴社会)、ルックスが良い人の方が自在だとか、諸々。

 

この意味で偉いってなんだろうとなると、問答無用で強制できることなのだろうな。

僕はきちんと当人が動けたことを同じ言葉で遣う。満月さんはとても偉いとか。別に上から目線でもない。

 

偉いの対義語ってなんだろうな。ぱっと思い付かないのは、概念が一義ではないからか。

まぁ一義な言葉なんてないような気もする。目線で言えば、最近の若者は、も最近の政治家はというのも変わらないから、案外対義語は自分なのかもしれない。偉くなれない自分への卑下を対照として出てくる言葉。

 

言葉の概念を整理していくのは現実的には無為だが、人の現実は当人が言葉で構築している世界の反映と言っても良いような感じだから、無意味ではなさげ。努力してなくても努力に見えるようなことは続けられるし、一般的な語彙の概念に自分が当てはまるかどうかをいちいち考えながら動くのはかくかくする。学芸会で衆人監視されながら演技をしているみたい。まぁまなざしがあることで世界が動くのは当然だけど。

 

 

何を書いているのか分からなくなってきていると想うが、このまま進む。

 

言葉って、言葉そのままという風に発することも読むこともできない。

言葉そのままではなく、言葉に外在した印象とか非言語とかの付属情報を捉えられる。

 

例示。中学生時に、勉強していないって言ったら、自分は勉強しているのに僕より成績が悪いって、当人の世界の言葉として翻訳されるとか。知らんがなと言えたら良かったのだが、そこまで語彙(世界観)が洗練されて居なかった。

 

言葉と態度がなにやら一致しているのが現実世界。

こういった世界において、素朴な言葉を発する余地はない。素朴に発したらだいぶやべー奴になる。もともと酔っぱらっている時はこんな奴だった。

 

いまや素面の時でも酔っぱらいの時の世界観で生きて良いという感じになっているが、あんまり突き詰めると人格的にやばいから調和は大事。相手の世界観と違う発言したら一挙に敵認定されるという危惧。余裕ない人なのだろうなと思うだけだが、今までなんとも注意深くしていたものだという観。自然と注意深いが、結構漏れてきた気がする。簡単に懐柔できる人物にはなってなさげ。

 

 

最後。

 

満月さんが昨日、僕の過去の記述に対して嫉妬していると吐露していた。ここで可愛いのは、昔の僕と出逢えて居たら僕を淋しくさせることは無かったという下り。こういう人と出逢えたのは果報者ですわ。

 

ここの嫉妬の概念って、過去として残しているのは当人にとって価値があるからということだと思われる。過去が可変されない遺跡だとしたら、忘れない限り崩れない最強の価値がある。

 

個人的には過去の不変性の壁を崩しているから、過去が不変な事実だとはしない。

解釈によって変質するし組み替えられるような積み木みたいなイメージ。積み木の一片を手に取っているだけ。

 

まぁ、過去の僕が満月さんに逢えたとしても、その時点で僕が満月さんにとって魅力的な人物で在れたのかというと、かなり微妙なところ。有象無象として流れていく可能性の方が高い。なにせまだ自分固有の価値観を構築中だし、昔だったらもっとばらばらだった。

 

人は生まれてから死ぬまで変わらないとしても、対人においては変化がある。どれだけ自分で居られるかという意味。昔だったらきちんと掃除して出迎えていただろうな。

 

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。