いみふ

 

 

 

テニス部に入るために大学に入り直す夢。舞台は当時全く選択肢に上がらなかった地元の国立大学。どうしても地元圏内からは離れたかった。外れさえすれば何処でも良かった。私立はいくつか受かったのだっけ。その中で最も偏差値が高い大学を選んだはず。

 

このランダム世界線において、もしかしたら満月さんに早めにあうという世界もあったかもしれない。最終的には法学部に絞ったが、文系という以外縛りがなく、模試の時は文学部とか経済学部とか手当たり次第書いていた。目的が無いでもあり、自発的迷子でもある。文学部に行っていたら、研究者ルートもあったのかも。

 

もちろん、今が最適なルートであるという自負はあるから、脇道も楽しそうだったなというくらいの感覚。

 

テニスがしたいのは、もっと合理的に体を動かしたかったというのがありそう。「フットボールネーション」を一気読みしたとき、たしかに学校教育で本質的というか根本的な体の動かし方って教えてもらわなかったよなって。勝ち負けはもともとの骨格とか体格によるかもしれないが、自分の体をうまく動かす原理みたいなところ。上履きとか行進の習慣がサッカー後進国であるのではという考察もなかなか面白い。歩き方とか習った覚えがない。行進を乱すなみたいな精神論はあったかもしれないが。近所の公園でも幼児が時々そういう怒声を飛ばされている。

 

ここも悔やんでいる感じはなく、今からやろうと思っているだけ。歩き方とか、脚の指と腰痛の関係とか普通に実践できるし、別に誰かと闘うことを目的としていない。単に自分の体を合理的に動かすというだけ。腰痛に悩まされている満月さんに読まそうか、「フットボールネーション」。バレエが積み上げてきた体の動かし方の体系と比べたらプロのアスリートでも体に対して雑過ぎるとか、なかなか面白い話。

 

パフォーマンスが高い選手の筋肉はぷにぷにしているし、なんならお腹もちょっと出ているとのこと。お腹はともかく、僕の筋肉はあるのはあるのだが全然固くならなくなった。触り心地は満月さんが証明してくれる(はず)。どういう原理なのかはいまいちわかっていない。とりあえず、息を吐いてもお腹が膨らむ複式呼吸と、足指でぐーぱーをするように意識しよう。

 

 

夢の続き。無茶苦茶でかい馬達が出てきた。大型トラックより遥かにでかい。1頭荒ぶっていて、その上に乗っている人の感覚になって下半身がガクガクした。絶叫マシンが駄目なのはこういうところ。起き抜けに、例えば飛行機から投げ出されたとして、地面に激突するまでどれくらいの猶予があるのだろうって。

 

これって突き詰めれば、どれだけ長くても200年にはいかないところに落ちていく人生劇場とも似ている。まさに自由落下。

 

 

起きた後はお仕事。

 

なかなかちゃらんぽらん性が出てきて、もっとやれやれーとなっている。主観的には結構な負荷だったが、どれだけ負荷がかかったところで、その負荷を自分のものとして捉える謂れは皆無。

 

僕はもともと世界に遠慮する質で、過度に自分に影響させている節があって、なんて人生ってしんどいのだろうと想っていた。僕がしんどいというより、他の人のしんどさを自分のしんどさに反響してそりゃあ皆しんどいなという感じ。でも、人が表現する言葉としての人生劇場って言葉通りではないし、僕が拙いことに怒りが出てきた人は別に僕の存在そのものを怒っていないし、なんなら自分の拙さの反映として人にそういうことを言うというだけなのかもなとなってきた。

 

多感ではない人ってこんなに楽な世界で生きているのだなー快適快適とか書くと、しんどいことが正しいみたいな人が出て来そうだが、自分だけがしんどいと体感できる人はきっと気楽で、自分の体感が人と共鳴されてしまう方がしんどい。自分だけと思い込まれているそれは当人だけではない。

 

本日の失敗も別に会社に損害をもたらした訳ではないという意味では失敗ではない認定で良い。範疇の中でトライしてエラーしただけ。完璧な正しさが求められたからてんぱってしまった。

 

1つのエラーが社会的な信用を無くしてしまうような区画だと、エラーの前に正しさを求めたいのは分かる。自分で世界を咀嚼する余裕なぞないし、試行錯誤できる余地もない。ただしことをしているというのが自己存在に対する確証になる。

 

「キャッチャーインザライ」の終盤、スピーチをするという科目で、発言者が主題からズレたら「脇道、脇道!」と罵倒するシーンがあって、こんな授業は地獄でしかないと想う。おそらく誰も主題すら聞いてないのに話さないといけない。結婚式のスピーチも実はそんな感じなのかも。使ってはいけない言葉があるとか。たしか色々とか駄目なのだよな。

 

こういう感じで捉えると、僕がすぐ社会的に使えるものを求めていたとしたら、本を読むより、ニュースを見たり、つぶやき場で情報収集して、時世に対して合理的な正しさで動いている。でも、これでは動きが鈍かった。場に合わせるのは意識無意識でもできるが、自分がそれではよろしくない。

 

ということに気付いたのが最近。

世界は使うものではなく、その中でどれだけ動けるか。

 

なんなら、どれだけ見えるかでもいい。

 

あんまり具体的に人とセッションしたことはないが、どう在っても主観的に世界を選り分けざるを得ない人生劇場の世界で、なんで世界の在り様が客観的だと想えるのかの不思議。なんで具体的に関係している人に怒れるのかの意味も分からない。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。