基準値

 

 

師走だと言うのに時間が遅々としている。まだ木曜日。

 

「もう」は圧倒的過去と見通しが付く未来を天秤にかけて悲観寄りに傾くが、「まだ」は天秤はフラットで解釈次第という感じ。まだここまでしか来ていないのか(過去寄り)、まだこんなに先があるのか(未来寄り)。

 

夢の前半は何人かで野球部(なのか知らない)の引率めいたことをしていて、バス停の導線を妨げたということが起こったあとにそれに対してそれ見たことかと怒った人が居た。後からなんて誰でも言えるし、むしろそれを未然に防がなかったことについて引率者に問題があるのではという冷めた眼差し。

 

次のシーンでは、対岸の崖に巨大な蜜柑がごろごろ埋まっている。これで最後の蜜柑ジュースを絞るらしい。どちらのシーンも懐かしい顔が出てきて面白い。

 

前半の出自は定かではないが、何で出てきた分からない後半のシーンは思い当たるところがある。職場の駅ビルに生のみかんを絞ってジュースを作るという自販機が設置されたからに違いない。買ったことないからどういう風に動作するのか知らないけど、たしかに硝子越しの中はみかんがごろごろしている。

 

 

仕事は滞りなく。なんというか、平日において仕事時間がもっとも意識を緩めているような気がする。寝る間際は微妙なところだが、意識は開いている。相変わらずお昼時の世界が綺麗だ。

 

意識を緩めているといえば、割に皆そうなのかもなと思う。

することが決まっている時間は何かをしている気にはなるけど、何をしようかという意識にはならないから、自分のことが意識されなくて済む。運動は選ぶとも違うが、人が思考を費用として考えるのは、ほとんど考えなくて済む世界だから、逆の意味で希少価値なのだろうな。普段使わなくても良い部位を動かすのは億劫だという意味で。

 

 

朝活。

 

起きてから出発の30分で、炊飯器で予約したご飯をお弁当の上段に詰めて冷蔵庫に入っている下段と合体させつつ、ホットはちみつラテを精製。歯磨き髭剃り寝ぐせ直しをするので10分くらい。その後の15分くらいで満月さんと朝の挨拶をしながら漫画を読みながらよく読んでいる個人HPの記事を眺める。

 

内容は性描写より今やタブーのところだから詳しく描写はできない。免疫が後退したのは結果を見れば明らかだと思うが、何に依るかは人それぞれ。僕はどちらかというと自然派でだいたい笑って過ごしているだけで、消毒もやって下さいというところでしかしない。毒は薬にもなるというより、そんなことで見えないものを全部排除することはできない。

 

なんとなく文体が宗教的で面白いから読んで居るだけで、実践的に参考にしていることはほとんどない。しないということも、僕が生きている世界線によっては選択できなかったことだから、あまり相関はなさげ。

 

 

昼活。

 

お弁当と二服タイム。ソーシャルディスタンスの距離感は僕にとっての物理的パーソナルスペースと近いから良いのだが、ここに馴れるとスペースに侵襲されることがより気になる。保菌しているのではないかという危機感ではない、単なる他人との距離における違和。なんであえて隣に座ってくるのだろうって。この時代の前でも僕はスキンシップが何か嫌だった。恋人さんとのスキンシップは例外として。

 

今後友人ができるとすればパーソナルスペースが広めな人だな。

 

残りの30分で、次に読む本の狩猟。

西尾維新さんの次の本はまだ無かった。箱みたいな2冊だったがペロッと食べてしまった模様。西尾さんのこのハイペースって、森博嗣さんリスペクトなような感じがあるのだが、関係あるのだっけ。

 

スマホで漫画を読みながら物色。

夢野久作さんのドグラマグラの新装版が出ていて、読み返しても良いかな。ちゃかぽこちゃかぽこ。下巻の途中で止まっているし。でもそんな気分ではないらしく、結局のところ知っているけど読んだことがない夢獏良獏に収まった。タイトルにお月様が入っていたし、表紙のビジュアルで決めた。面白いのだが、本日はここは書けない。

 

 

夜活。

 

帰り際に満月さんから同棲する新居の報告と、初期費用の高さに対して母親から否定されたという感情の話を聞く。たしかに人がほんとに喜んでいるときに水を差す人は居る。僕は信用的資金大丈夫かと思って割と上の空だったことは認める。口を出せるのが資金的な意味しかないのであれば、その関係は他人同士と変わらない。

 

我が家の母親は僕に投資した分を返してくれとは言わない。でもこれって愛でなく、たぶん愛とはそういうものだとしているだけで、当人の素朴はそうとう反発しているはず。資金提供しないと死にそうという心配も僕に心を配っているのではなくて、当人がそこに配分すべきとしているだけ。

 

ちょっと遡って、仕事が終わった後に、時は金なりという言葉って嘘。時は金銭換算できるものではない。時は時でしかないし、お金なんかより人生劇場の時間の方が大事という価値観。

 

まぁ、過去を鑑みれば、僕がここまで生きて来られているのはお金の効用であるのは確か。ただ、それ言ったら、太陽とか自然に感謝しながら生きるべしという宗教観に至らない不思議。近接した金銭関係より、そもそも地球という存在が在るから生きていけているということが自明なのだろうか。

 

なんだか煙に巻いているような論法だが、金銭換算する世界はつまらないというだけ。

交換できる領分の世界ならなんとでもなる。パートナーだって。

 

 

やれやれ。

 

どうでも良い話。最近の日記、1時間くらいで書いている。時間制限をかけると人間が稼働するというのは誰にしても既知の観念だろう。ただ、別に僕は何も制限していない。勝手に区切ってその中で書いているだけ。

 

人の中にある全部を1つの記事で言語化するのは不可能だし、記録したところで自分になっているかは記憶ベースで生きていれば不可知。

 

記憶は時なりではなく価値なりなのかな。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。