一生不明

 

 

4時過ぎに目が覚めた。外気は寒いが布団の中は温かい。カルピスを1杯飲んで二度寝。いくつかの夢を見る。

 

10年振りの再会なのに僕が特に感動していなかったため、「左脳的な人間やな」と言われる夢。オリジナルキャラも居たが、この発言をした人は幼稚園から中学校までの1つ上の男性で、中学以来逢った覚えが無いから10年どころではない。その学年のヒエラルキーからの外れ者だったのだが、割と仲良くしてもらった。当たりが柔らかい。ヒエラルキー上位の人達は粗暴で怖かった。現実的に女子にも男子にも馬鹿にされたり大人だったら暴行罪になりそうだったりすることをされた。幼稚園から小学年の手前当たりでどういう経緯か知らないが、女子に追いかけられてう〇こを付けられたような。

 

ヒエラルキー上位には粗暴さが付着している印象と、外れ者フェチというのはこの当たりから始まっていたのかも。1人思い出すと芋ずる式にその人達の名前も出てくる。覚えているというより、その当時から世界を観測していたのだなという感じ。名前を憶えていること自体に何の価値も無い。何しているのだろうなぁとは想う。総体としての人間集団はそんなに好きではなかったが、個人は個別の存在。

 

 

さておき。

 

しかし、まぁ色々と早くこなせるようになってきている。今日帰って来たのが19時過ぎで今は21時40分。あと40分くらいでこの日記も終わりそう。その分、その後の時間が増えるし、内部時間を増やすためには、外的な時間のペースに合わさずにマイペースを鍛えることが肝要。帰ってから座っても有意な時間は得られない。(あくまで僕の話)

 

茂木さんの本であった、やる気は要らなくて習慣付けの方が大事という話。個人的には継続より飛躍に本質があるではないかと思っているのだが、飛躍の為には継続は基礎として必須かもしれない。

 

朝活。ニュースは見ない。ぼーっとしながら漫画と記事を眺めつつ、煙草を2本吸ってカフェオレと水を1杯飲む毎日。習慣って座りみたいなその時間がないと落ち着かないというニュアンスがあってあまり好きな言葉ではない。無意識下で行われるというニュアンスでもその時間は意識できないし。

 

本日流れてきたのが、大学生男性と社会人女性の恋愛事情。流れてきたと行ってもテレビみたいに受動的に見せつけられる訳でない。ここにはぽちっとする無意識下の行為がある。

 

大学生の方はこのご時世リモート授業でキャンパス内での交友が難しいのだなぁと眺めた。個々のインスタを共有したりLINEを交換して関わっていくみたいな感じらしい。僕の時代にLINEが無くて良かった。いや、卒業後に顕われてグループLINEとかもやっていた時期があるが、楽しさがさっぱり分からない。

 

ちょっと脱線したが、僕も特にキャンパス内で交友はなかった。基礎ゼミでは話すくらいはしたし、ゼミ旅行で天橋立を愉しんだとかのエピソードはあるが、恋人さんを同じ大学で作ることはなかったなと。別の大学で中学の同級生から紹介されて付き合ったのが大学以降の最初の恋人さん。炒飯を作ってもらい、お花見もして、することもしたが1ヶ月で終わった。あとはなんかどろどろとか、SNS勃興期の文字だけの関わりからとか。こっち界隈の方が長続きしがち。

 

社会人の話。僕はまともな社会人生活をしていないが、職場恋愛も無かった。別れてしまった後の空気感とかメンドクサイし、という推論を越える人物が現れなかったとも言える。

 

これっておそらく高校までに、その集団の枠内の人達から交際事情を観察されるというのが嫌だったからだと思われる。たしかに、ある枠内の集団の構成員って出自がはっきりしているし、やたらめったら変なことにはならないという安全が確保されるから、具体的な相手の人となりの観測をある程度省略できるというのが安心だし、これはこれで良かろうという気はする。僕は周りの目というか風聞のノイズみたいなのが駄面だった模様。でも、こんなのどうでも良かったのも分かる。いまの感じで立ち返ったらもっと変人認定されながらどこ吹く風で教室内でも生きられそうだが、あえて遡る必要もない。

 

僕も通って来たし、なんなら今からでも入れるような世界観だが、たしかにこの価値観の中で生きていくのはとてもしんどいと思う。なにせ自己存在の拠り所が他律的だから。この人間的弱肉強食の世界で生き抜くにはタフさと修練と、何より自分に価値があると自己感が必須。

 

どうでも良い日常譚を挟む。

ふと気づくとマスクの下で口が半開きになっている自分。半開きしていると神妙なシーンなのに笑わっていると捉えられて怒られた大昔。マスク社会が終わった後に閉じ続けることができるだろうか。まぁ、だらしないと捉えられることもどうでも良いか。

 

 

やれやれ。

 

「何もかも憂鬱な夜に」、終わってしまった。

ページ数換算で、お風呂読書の最後尾に置いたら3日で終わることは予測できていたのだが、なかなか濃厚な小説。解説は又吉さんだったが、さらっと眺めた。

 

たしかに、人間とはなんぞやの暗部寄りのところが書かれていて、貴方はどうなのですかと問われている気もする。人間の命は奇跡が続いて成り立っているという世界観も良いし、世界を知るために、残っている芸術作品を読めという指導も良い。

 

僕の暫定観だと、「何者かにならなきゃいけない」という思春期の衝動の問いに対する回答は、別に何者になる必要もなく、ただ人生劇場を愉しめば良いし、なんなら何者になったとしてもそこに囚われなくて良いという感じ。

 

この何者かにならなきゃいけないって、結局居場所ということで、そもそも物理的に人の身体は場所を占めているのに、何か精神的な居場所ないし社会的な居場所を求めるらしい。僕はこの想念に常々疑問を感じていた。

 

あと、何故人を殺してはいけないのかとか、他人を傷つけてはならないのかというある意味刑法ちっくなものさしは、今の平時の世の中だとそういう風に決まっているからということになる。戦争中だったら人間を殺さないといけないし、殺すことが仕事だし、死刑の執行だって人を殺すのは仕事だからという話。自分の命をなんとも思わない人に自分がされたくないことをしないようになんて説いたところで意味はないし、自分で退場しようとしている人に命に価値があるなんて一般論を説いても無意味。そんなこと聞かされて生きても良いかってなるはずがない。

 

もうちょっと説明するとしたら、人の物体的な肉体的な命の価値が重いとしているから、そこを害することはしてはいけないし、したら罰せられるよという感じか。体罰とか精神的命を否定しながらそんなことが論理的にまかり通るはずはないけども。

 

 

命の価値は割と恣意的に操作されている感じがある。

誰の恣意かというと、集合的無意識だから誰のせいでもないけれど。

 

そういえば、茂木さんの無意識の話に村上さんの「ねじまき鳥クロニクル」の井戸がイドだという話が出てきたな。必然的で面白い。井戸に引きこもると満月さんが淋しがるからやめておこうと想う。

 

 

もっと面白いのが、kindleで読んでいる人のメカニズムの話。

なるほどーってなりながらある意味感動して読んでいる。

 

人の意識的意志はかりそめなのは知っているから良い。

感情は内臓状態からの推論というのもなんとなく分かっていた。状態として観測できやすいのは毎月しんどくなる女性の方が優位だと思うのだが、僕が収集したサンプルでは分からない。

 

もっと面白いのが、ホメオスタシスとアロスタシスの関係。

ホメオスタシスが恒常性を保つ性質で、アロスタシスがざっくり言うと調整役。体の状態が予測値からサプライズから離れないようにするという調整で、突然スピーチを頼まれたら実際話す前にどきどきするのは、どきどきするのが分かっているから、先にそうなっているという話。

 

なるほど、悲観的な思想になりがちなのはそれが常態だから、恒常性が働くように内臓状態が自律神経で調整されるからなのか。ふと状態が一致したらしく、僕が嫌だった職場で自分ができなかったことが想起されて、なるほどとなる。

 

スピリチュアルが流行っているのもこういう文脈で、良い状態が恒常化されれば中身も良くなってくるという話なのだろうな。当たり前をどこに置くのかという内臓状態の事前確率分布。

 

個人的に気になっているのが、たしかに何かを掴む運動野においては掴むことが目的だし、その目的と誤差があるのは困る。サプライズは無い方が良い。ただ、精神領域においてはサプライズを欲する方向性もありそうだし、サプライズ方向に可動できるから変化があるとういう気もしていて。いわゆる迷子。この傾向はどう解釈されているのだろう。

 

はい。

 

ここまで。

 

暖かく寝られますように。

おやすみなさい。

 

良い夢を。