しゃかい

 

 

胃腸が焼き鳥を消化するのにエネルギーを使っているのか、午前4時前に目が覚める。タオルをアイマスクにしてそこからうとうとする。夢が多い。

 

起き抜けは胃もたれなし。腸には若干の重み。焼き鳥(塩)は低脂質だから胃にはあんまり刺激がないらしい。

 

お弁当作り時間も文章を書くことに充てたから、お昼は何を食べても良くなった。かなりレアなラーメンの舌。きっと昨日カップラーメンのことを書いたから。気になっていた食券制のお洒落なラーメン屋さんに言ってみる。昼休みが14時前に始まってお店が15時閉店で、ちょうど良く空いていた。白しょうゆラーメン。鶏チャーシューもあっさりで美味しい。

 

値段が日常の4食分くらいなのは良いが、満腹になるのはいけない。

満腹が幸福だとすると、お腹が空いたら不幸で、肉体も別に満腹を求めてない。いや、あくまで自説だから、食べることを重視する生活観は当然あり。肉体負荷のリスクはあると思うが、飲酒喫煙ぱかぱかやっている僕が言えることでもない。

 

夜ご飯はメンテナンスと食材消化。鯖の水煮缶と大根とミニトマトとおつとめ品しいたけで味噌煮。わざわざ水煮缶にするのはあんまり味噌味が濃い水煮の気分ではなく自分で味を付けるため。

 

仕事中は誰にも何も言われない。噂が拡がらない職場。僕はあえて自分から語る気はないが、聞かれて困ることは無いから問題ない。他人に対してゴシップ的な関心がない人が集まっているのかもしれない。そもそも他人に興味がない可能性もあるが、外から見れば同じこと。

 

両義性って面白い。認識によって世界が逆転する可能性を孕む。

 

 

目覚めて2度目前にすること。誰か記事更新していないかと眺める。寝起きから文章を食べても胃もたれはないが、本日は流れて来た記事で若干精神もたれしてもやもやした。だから2度寝がうとうとなったのか。

 

ジェンダー界隈の記事はだいたいもたれる。noteのAIが推してきたのはおそらくパートナーとか婚約とかの語句からなのだろう。結婚するとジェンダーの波にさらされるという愚痴めいた記事だった。書き進めると怒られ案件になりそうだが、遠慮して書くことを止めることを辞めたから、このまま書く。

 

そもそもジェンダーの定義が論者によって錯綜して多義的過ぎる。気に食わない世の中の規範みたいな主観的定義なのではないかと読めるのだが、こんなこと言ったら「勉強が足りない」と言われそう。すみません、論者としての貴方のことは全く勉強してないし勉強できませんと返すしかない。

 

もう少し真面目に書くと、多数派、少数派という括りは社会的にあるのかというと、過渡期の僕は多数派の感覚に合わないが、場には合わすしかないと振る舞っていた時期がある。でも、これって、多数派っぽい、少数派っぽいという感じでしかなく、いまは、性にしろ思想にしろ、個人が固有だから多数派も少数派もないという立場。ここからすれば、ある程度集まれるだけで多数派にはなる。

 

という感じ。もっともマジョリティなのは法律上の見解だが、差別的取り扱いは禁止されているし、結婚してどちらの姓を選んでも問題ない(記事の筆者も書いていた)。

 

ただ、肌感として、生活圏内における多数派少数派の切り分けのようなものは確かにある。当人が感じる圏内のことが社会と定義されているのではとふと思う。全世界の社会で言えば日本人はほとんどの生活環境において上位寄り。少なくとも明日何も食べられないかもしれないということはないし、何か嫌なことを言われたことにくよくよできるのは生活環境としては文化圏としても醸成されている。

 

この感じる世界圏が社会になっているとすれば、その中の多数派、少数派であくせくするのも分かる。だって、おおげさでなくその人にとっては宇宙そのものだから。別にこれが悪いとか遅いとか拙いという話ではない。他人の人生劇場は当人のものであって、向上させたり進行させるような対象ではない。

 

要は、自分が含まれている、もしくは同じ次元のところが社会になるという仮説。

 

 

これを踏まえて、結婚するとジェンダーの波にさらされる記事の感想。

そもそも結婚自体が性的結合のユニットとされているのはともかく、姓、家事(料理)、指輪(シンボル)について、職場の人達の「普通はこうだろう」というところに反発的な叙述がある。

 

いや、価値観が遅れているって僕も書いたことがある気がするな。

人の振り見てだが、僕のは今の僕もまだ遅れているなという感じ。

 

ほんとにパートナー観がユニット単位ではなく個人単位になったら、自由恋愛主義が最も進んでいることになるし、夫婦の姓も女性の姓を選ぶより別姓も選べる方が制度的には進んでいる。

 

ここでのもやもやは結局、当人が進んでいると思っている価値観は風潮の後押しがあるからであって、ほんとに選んだのかということでもないというところ。ほんとに選んだのだったら、他人の目とか発言が気になるはずがない、というのも言い過ぎだけど、じんわり優越感が滲んでいる。人の認識は変化するだけでアップデートとかはないし、アップデートしたからと言って良くなるとは限らない。

 

この辺りから難しくなってくるというか、ここで想ったのは、マジョリティとされている人達の中でも、やむを得ずレールに乗るしかなかった人とか、マジョリティに居るところに劣等感を抱いている人も居るかもしれないし、最終結果としてマジョリティとされるところになったけど、考え無しではなくきちんと取り決めをしたのかもしれない。

 

こんなの外からは見えない。

 

料理を作っているのが夫だと言ったら、旦那さん凄いなって男性同僚が言ったことに対して筆者は、「女性が料理を作るのが当たり前だとしているからそういう発言が出てくる」と解釈したみたいだが、ほんとは料理したかったけども男性だから厨房に入れて貰えなかったというコンプレックスからの発言だという解釈もできるのに、そういう解釈を選んでいる。

 

いや、もちろん普通は在りえないかもしれないけど、その普通は在り得ないという可能性を加味していくのが多様性の本来では。多様性はホッブスさんが言うところの万民の万民に対する闘争が暴力ではなくて想像力に成り変わって脳内がとても大変になっても良いですかという話だと思っている。

 

ジェンダー観に付き合えない人はそもそも結婚しないことも選べるのに、由緒正しい婚姻制度を利用しておいて、放っておいてみたいな良いとこ取りは在り得ないと読める。もちろん、それも自由だから疑義はないのだが、なんだかあべこべなのがもやもやするところ。まぁ賛同する人は居るだろうからそれが当人の社会劇場で然るべく。

 

そうして僕はすっきり。

この文章に怒ってくれる人が居れば話してみたい。(マゾ気質)

 

 

やれやれ。

 

法律書は相変わらず面白いのだが、資本主義界隈の方が現代の人の精神性を観測できている気がする。自分が何を買いたいか(需要)はコマーシャルによって操作されているということを認めることは自分の意志を否定することだからたぶんできない。

 

僕も自分が書いたカップ麺の記述によってラーメン舌が活発化したし。

 

この世界観は個人が選んだ線ではないからなんかもっと良い方向があるのではという感じだが、まだ早そう。

 

仕事で充実する層が新しい層だと提唱した人が居たらしい。

充実は外に在るものではないのに。

 

ここまで。

 

満月さんが登場する流れにならなかったから、登場させろってクレーム案件に違いない。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。