ぽえぽえ

 

 

特に代わり映えのない1日。それでもふわふわしている。

いや、ぽえぽえか。

 

出発時間の遅れがどんどんひどくなっている。もう汗が酷くなる寸前まで小走り区間が常態。小走り中に浮かんでくる思索は、徒歩とも車窓とも趣が違う。中学校・高校と長距離走が特に苦にならなかったことを思い出した。ランキングが付くのは苦手にしろ。景色が安定しないからか、どうでもことばかりが浮かんでくる。ランナーズハイになればしんどさもなくなるし。いや、そんな境地まで突き抜けたのは1回か2回くらい。

 

 

ウォーミングアップを終えてお仕事タイム。

 

結構苦手だなと思う、鋭い系のお客さんが連続する。やっぱり人と話すのは苦手だと自覚しつつ、うまくいくことはいった。鋭い人は、ちゃんと説明できれば分かってくれる。プライド高くて重箱の隅をつついてくる人とは違う。こちらはあんまり言い訳をせずに、そうですねと阿るのが吉。あくまで仕事の話。

 

お昼休憩時には、しんどいのも楽しいことだなと感じてマスクの下でにこにこしていた。内心にはたかだかこんなことでの希死念慮がぐつぐつしている。もちろん赦して、なおかつ流されない。

 

昨日、日光浴の先客で、丁度入れ替わりになった2人組のビジネスマンと本日も良いタイミングで交代。あの公園で日が照っているベンチは1つしかなくて都合が良い。さっさと食べてせっせと明け渡したが、後続が居たのかは知らない。はとぽっぽがぽっぽぽっぽしていた。

 

仕事場のバランスがそろそろ崩れそうな感じがあるが、人員が崩れても金融が破綻しない限り生き続けるのが法人だし、まぁ良かろう。仕事はこなしつつ、退職時にどうするかなということを考える。愛媛の名産品の一六タルトを配りながら挨拶して回っても良いし、ポエム(お菓子)を置き去りにして語らずに去っても良い。まぁ中学校・高校くらいの期間は一緒の空間で過ごした人達だし、何も言わずに消えるのもどうなのだろうな。ドライなのかウェットなのか。

 

そういえば、毎月通っている理容院にも同じ問題がある。普通に考えれば、生活圏が離れて通わなくなることを言う義務はないし、どっちでも良いから、要は僕がどうしたいかという話でしかない。Switch仲間になるのかどうか(まだ買えてないが)。プライベートで飲んでみたい人ではある。

 

仕事の終わり間際、猛烈な空腹がやってきた。これは体が求めていて帰宅後まで待てない感じだなとなり、いつものスーパーでピザパンを買って食べる。うめぇ。カロリーが足りてないはずはないのに欲しいというなら食べさせる。

 

ご飯って、自己意識からすれば食べるだが、肉体と完全に連動していないことを加味すると食べさせるというニュアンスが微妙に重なっている。主体と客体の分裂。ここからすれば、文字は読んでいると読まれているが同時だし、書くことだって、書いていると書かれいてるが重なる。

 

何かを読んで起こる解釈は、自分がそれをどう読んでいるかを(自己)に読まれること。

 

万華鏡みたいな世界だ。

いや、このフレーズが出てきた理由は、ナルトの忍界対戦編が無料期間で読んでいるからなだけ。面白い。

 

 

やれやれ。

 

帰って来る。帰宅後はお風呂を溜める時間をなるべく確保するということになる。なにせ溜まらない。明日の帰宅後は新幹線だからその時間のために洗い物を無くすということもありえたが、食材は消費しておく必要がある。おつとめ品の椎茸が土日を過ぎれば土に還るし。

 

白菜と豚肉とすき焼き風でぐつぐつしつつ、コインランドリーに行って洗濯物も片付ける。

 

満月さんの新居にはホットサンドが合いそうだなって、彼女が持って来て置いていったほっどサンドメーカーを荷造りした。あとは出発前に冷凍庫に保存してある実家からのお餅も入れれば良い。忘れないようにしなきゃみたいな不安はない。なんだろうな、この感じ。

 

 

 

本の話。

 

noteとかブログとかの文字でしか感得できない存在としての人だとしても表現物としか感得されていないよな。もちろん、なんだか良いこと書いている存在として感得されるために表現物としての存在を自己と一致させる価値観も問題ない。

 

読まれることは認められることという、現実界では在り得ない関係が在るし。

 

少し憲法談義の思索がある。

 

表現の自由を謳う人が憲法21条1項の文言を意識しているとは想えない。ここでいう表現の自由は、国家が国民の言論、出版、結社、その他一切の表現の自由を保障という話であって、世の中に流通する表現を国が規制しないということ。おそらく流通の媒体が制限されていた時代だとどういう情報が流れるかを国家が統制できたから、思想の誘導がたやすかった。この時代だと国家の良し悪しよりもっと情報が流通されているから、統制する必要がなくなって、私人が発することができるSNSのガイドラインが統制の基準になっている。

 

表現の自由は確保されているということになるが、ガイドラインより外を求める人も居るかも知らん。

 

個人的には、摂取する情報を統制するのは無理だから、その情報を鵜呑みにしないようにするという感覚を醸成するようにする方向になるような気がするが、これをすると国家的には都合が悪いというような気もする。そうやって世論を誘導してきたのが国家なり強大な資本体だろうし。

 

別に陰謀論みたいなことではなく、単なる素朴。

 

家電やらスマホが革新もないのにモデルチェンジを強いられているのは、世の中がそういう更新でないと退屈をしのげないとなっているからという説は分かりみ。いまや通信契約番号なくても通話はできるのに、何か公的な証明の時はそれがないと認証されないとか。

 

社会的に認証されるアイコンがないと社会で可動できないというはある。

僕はそこにあんまり不自由を感じたことがないからなんとも言えないとこはあるが、社会でこそ生きるべきという人で競争に耐えられない人には厳しいのか。

 

(結婚してジェンダー云々の人は結婚しているという社会的アイコンがあるという意味ではマイノリティではなく社会的強者だし)

 

個人的には、人が生きる劇場として社会も大事だが、本来は個人でいまをぽえぽえできれば良いと思っている。自分の為の前の自分で在るで良い。

 

小説枠で読んでいる美人裁判官が、自己を確認するために事務情報を唱えるシーンがある。そういう証拠がないと自分で居られないものなのかな。

 

どうでも良い話が最後。

 

村上春樹さんが翻訳したレイモンドカーヴァーの短編集。読む前は全然覚えて居ないわーという感じだったが、読んでいると、記憶になっていない手触りが残っていて読み返しなのだなという感じになった。この手触りは言語化できないけど、自分に含まれているというところで、自分の得体が分からなくなる。この得体の知れなさこそが存在証明とも。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。