不破

 

 

 

昨日作った唐揚げの完成度が高すぎてお弁当タイムが盛り上がる。公園でなければ小躍りしていた。衣は薄くても良いのだな。食べ物は消費物かもしれないが、美味しさは価値がない。日本語で書くとなんか粘土みたい。プライスレスと書くとそれっぽい。

 

場として誰かと食べることに楽しさを感じるというのもこういう向きなのだろうか。僕は割と苦手。職場の黙食の窮屈さとは別で、賑やかだと情報量が多くて処理落ちしていた。いまは捌ける可能性はある。

 

 

なんだか調子は相変わらず。まぁ人間味が戻ってきたとも言える。体が微妙に仕事に行きたくなさそう。布団から出るのが6分も遅い。別に鞭を入れたり叱咤したりはしない。最終的には間に合うようにする奴だから静観している。

 

やんわり罪悪感とか不安的思考に囚われがちなのも、とりあえず、全部吐き出すまで放っておく。放置しつつ日常生活をするのだが、別にもっとこの部分を見てくれよってかまってちゃんが発動しない。何か変な行動で解消することにはならない。だって、肯定も否定もせずに見ているし、意識の眼を向けさせるようにする必要がない。

 

別に和解する必要も変える必要もなく、ナカにはそういう性質もあるなという自覚だけで充分。ここまで生きて来られたのだから、何かあったとしても生存衝動が発動するはずだから不安的展望を心配する必要もない。もちろん心配するのもアリで良い。

 

この流れで、昼休憩の時にそういえば、書物を読むことって一種の「罪悪感」が付着していないかという発想に至る。目的に適った情報としての書物は仕事の効率化ないし何かのステップアップみたいなところで生活上のタスクだからむしろ読まねばならないとなる。

 

最初に思い付いたのが、旧約聖書由来の「知恵の実」由来なのかなというところ。あんまり読み込んではいないのだが、知恵が付いて「心」を得てしまったために楽園を追放された人間の話だったような。ここでいう心って、その空間(世界)のありようがこのままでほんとに大丈夫かという疑いみたいなこと。神様がきのままに着せた葉っぱ隊のような装いでは恥ずかしいのではないかと気付いてしまう。

 

もちろん僕はキリスト教の信者ではない。聖書だって作者のテクストがある。人を操縦する最も簡単な方法は罪悪感を抱かせて締め付けること。解放も、それをしたことを敬うべきとなると相手にとっては罪悪感になる。

 

聖書由来のインストールがどこまで浸透しているかは微妙だから、日本人には特有の植え付けがあるはず。もっと近代的な信仰対象は資本主義だし、日本はもともと封建社会で身分社会だったから、お勉強が仕事の義務教育時代はせっせとお仕事として本を読んで、社会に出たら書物を読んで心を抱くよりも、実地で身体を動かしてその身分に定着すべきという感覚だったのでは。書物を読みふけって許されるのは、文筆家とか思想家とか学者という分業社会だったのかなって。

 

法律上の制度としての身分はポツダム宣言からの日本国憲法で排されたが、制度が排されたからといって、浸透した思想が無くなることはない。文字狩りで差別的表現が使われなくなったとしても実態が無くならないのと同じように。無くすべきところは言葉ではないような気がする。

 

昨日書いた、現実感の話とも通じる。本読むより実地のほうが生産的だという感覚は世界の空間がそこだけであれば良い。どんどん実地で洗練されていく職人の世界だから。でも、洗練されずに場で生きているだけだとすると、書物を読んで越境した方が良いかもしらん。

 

知識を得てしまえば疑うようになってしまうから、知らない方が良いという観念も分からなくもない。でも、パートナーの交換やら職業やらどこに住むかが自由になって越境し放題の時代に、実地だけが全てというのはなんともナンセンスなような。

 

「心」って手に取れないし、見ることもできない、実地であれば存在しないような人の在りようだが、選択肢とか疑いとか不安が無限にあったとしても、どこに居るのかという存在位置なのでは。そもそもここに至るために知恵の実を食べる必要があるという説。

 

知恵の実は別に書物である必要もないから、単に本を読めばいいともならない。

 

僕は月に100万円分くらい本代に使える生活が完成型なのではとなった(不安は何処にいった)。この為には、世界から貰うばかりではなくもっと何か自分を世界に循環しないとなとなる。ここは意味不明なので読み流し推奨。

 

 

で、なんだか顔が険しくなっていることに気付き、顔に刻んでいくのは笑い皺の方がいいなと思ってにっこりする。ちょうど「激昂条例」という漫画を読んでいて、良い話だなーということを顔に刻む。生き延びれば良い貌をしたお爺さんになれそうだ。

 

 

そういえば、僕が面食いだと満月さんに言われた話の考察。

 

検証しようにも歴代の恋人さんの画像が残っていないからなんとも言えない。なんで残っていないかというと、携帯端末が僕の精神を察してくれているのか、定期的に壊れてくれてデータが無くなるから。無くなったところでなんとも思わない。物より思い出。思い出は思い出せなくても人の中に不文として残る。

 

たしかに、大学時代の恋人さんは顔の造形が良かったと思う。これは当時仲良くしていた知人の主観で、硯の彼女は毎回可愛いみたいな表現をされていた。この毎回は厳密には2回でしかない。どちらも会う前のやり取りで好きになったから、たまたま造形が良かったということ。どちらの人にもフラれてそれはそれは泣いた。居なくなったことではなく、これからもっと何かできたのにという感じ。

 

その後は、なかなか錯綜するのだが、特に造形がどうということはない気がする。

パートナーの造形がどうかって、辛辣な話、外からステータスとしてどう見られるかくらいな意味合いでしかない。僕は相手の交友関係圏はどうでもよく、あくまで当人の人間性しか見ていない。まぁだいたいは僕をここに含めようとする。

 

性的な煽情という意味で言えば、好きなフォルムはあるが、なんというか、だからといってこの条件を満たす人とパートナーになれるとなったとしても、それだけで選ぶことはない。僕は他者が自分の人生劇場に含まれているという世界観の無理だから、自分の人生劇場に美女が居るみたいな世界が良いとも思わない。あくまで現実には越境しない煽情的な空想でしかない。それが現実になっても良いことはない。

 

テレビ見ていないから、芸能人で誰が綺麗と思うかと聞かれてもよく分からない。

その知人に、俳優でカッコイイと思う人は誰かと聞かれた時も上手く答えられなかった。松山ケンイチ氏の演技は好きだが、カッコイイかというとそうでもないし。

 

ちなみに、満月さんはとてもちょうど良いから、もっと良い人が現れることはなかろう。

条件ではない人間の在りようという意味。

 

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。