調子はまだまだ悪いような感じ。世界が粘着質。動きも頭も精神も鈍い感じ。
ただ、無難に走ってはいないから実は良い感じなのかもしれない。
身体の調子が悪ければ保守に走るのは特に問題ない。体が求める物を与えれば復調するから。精神の不調から身体に不要な物を摂取するとどちらも復調しない。新ごぼうと人参のレンチンきんぴら美味い。
内面世界を語るのも日記調の範疇か。
世界は主観であるという説は僕の中で最近提唱された思想の転換。これは同じことが起こったときに、精神の状態によって世界の解釈が変わるという話。なにも感じなくスルーできる、気に障る、むしろ感謝するとか、世界は自分の状態との相関でしかない。これを当たり前だとできる人は不安定だったとしても仲良くなれそう。
僕がここ数日を不調だとしているのは、なんだかやたらめったら世界が負の方向に解釈されて見えるなというところ。極致ではタイムアタックは自分が勝手にやっていることなのに、制限時間に迫られている感じがする。感じは論理的な説明でどうにかなるところではないので、そう見てはいけないって自分を抑圧するのではなく、何でそうなるのだろうなと一緒に眺める。
そうやって負の方向に解釈される世界で過ごしていると、狙ったように負の事が起こる。世界はよくできている。仕事で女性上司から叱られ案件が起きて、未だにもやもやしている。
ただ、このもやもやの中身が以前と随分変わっているところに焦点を当てると、このもやもや的しんどさは通っておくべき領域なのかもなとなった。もともとだと怒の気だけでしんどくなって、機嫌が過ぎ去るまで籠れば良いとなっていた。まぁ反論は特にしないというのは変わらない。
気付いたのが、この怒気に対して全然当てられてはいない。色々配慮して仕事の不文のマニュアル外の所作をしたのだが、これは別に忘れていた訳でも遠慮した訳でもなく、単にそれが一番天秤上効率的だろうなという判断をしただけ。それが気に障った理由も分かるし、無難から離れすぎたことは反省した。
昼の当時の思考としては、考慮要素が多いということは天秤に乗る重りが多すぎて結果的に正しい判断に見えないことが多くなるから、一生こういう時はこういう風にすればいいというマニュアル的無難はないな、絶望、となった。ある程度盲目的な所作も覚えないといけない。
たしかに盲目的な仕事観は大事だと思ったが、それよりも相手によって仕事のやり方を変えるという所作が抜けていたなと思う。女性上司は仕事が溜まって来ても別にストレスを感じる感じではないのを捉えていたのに、先生用の仕事の仕方をしたなって。
これが失敗だったとは認識していない。結果的に叱られ案件にはなったが、考慮が多すぎたのではなく、まだ少なかったというだけだったとむしろ前向きなもやもやだったという。そもそも結果オーライは運任せでこれはこれで良いのだが、内部では過程がきちんとオーライであれば、何も恥じることはない。反省文の制度があれば、僕が何故この判断をしたかということを詳細に論理的に書けると思う。読む人が読めば言い訳だが、言い訳されないと、どの部分がズレているのかが分からないよな。
先生は言い訳を言えない日本文化に憤慨している。
僕はあんまり気にならないが、認識の均しという意味では大事かも。
あと、調子が悪いと無意識的なオートパイロットが増える。
こんなことを意識している人がいれば友達申請したいところ。無意識は保守。歯磨きは特に意識しなくてもできるし、歩くコースとか運転も注意力は必要だが無意識の所作の領域。
いつもと同じように動いていることに気付けて、別の方向に意識的に動けるのは調子が良い。本日、昨日と同じように公園を順周りで歩こうとした身体を逆周りさせることができたから、なんだか大丈夫そう。
目的を持って行動している自分が大丈夫なのは可動可能性みたいな話で、そこに適う自分が好きなのだろうが、僕はあんまりこういう方向性において自分を捉えていない。
刹那の細々した目標で人参をぶら下げて行動していくのが自分という認識も分かりみ。
そうやって積み上げていく自分はいつか無くなるから、いつかの自分が後悔しそうとは思うが、スキに生きられるのが人間だし。
ありゃ。
言葉が出て来なくなったのでまたあした。
おやすみなさい。
良い夢を。