ダブル満月

 

 

スーパーに3回通う1日。明日は仕事だが早朝で愛知から大阪に帰ることにした。居残りたかったし、居残って欲しそうだったし。もちろん、前者の方が重い。

 

三回目のスーパーは満月を見ながら、もも肉とコンビーフを買いに行った。僕が作った唐揚げでは足りなくて唐揚げの舌になったらしい。美味しく食べていただいて嬉しいことだ。いまは満月さんの味付けで揚がっている音がBGM。

 

運試しに行った話はさておき。

 

満月さんのバイブルである少女漫画の「彼氏彼女の事情」を1周した。

昔書いていたときに知り合った人から別のSNSを紹介されたのだったか、自己紹介がてらゲーム談義を書いたらもっといつものように哲学的に高尚なことを書いて欲しいと言われたのを想い出す。僕にとっては漫画だろうが、哲学だろうが、法律だろうが同等だから、ジャンルで判断するような読み方しかできない人とは合わない。

 

たしかにその頃は哲学的なことを書いていたか。この分野は一生書く領域だけども、おのろけも同列で書きまする。

 

 

そうして「彼氏彼女の事情」の話。

なかなか当てられる物語。作中にも当てられる人が出てくる。共感覚の芸儒家気質。僕はそこまででもないが、HSPの本質はこの辺りなのでは。他人が出てこない敏感さの話はなんか違うようなとずっと思っているのだが、同じ界隈でもなさげそうだから仲間に入れない。

 

 

中学校から大学にかけた、人間とは何ぞやみたいなストーリー、と思わせて、それ以降もその悩み(闇)は尽きることがないというと読める。生まれの環境の怨嗟的因果がテーマみたいで、読みながら登場人物に対して生まれと自分は切り離そうと思えばできるよって想っていた。ただ、これをするにはアイデンティティが崩壊しうるから用法容量にご注意。

 

人の性質には陽光と月光の型があるというのは分け方としてとても面白い。

僕は自家発電の縁側だが、自家発電って、自分の捉え方で何がエネルギーになるかが変わるから、吹っ切れたらなんとでもなるし、捉え方がネガティブになれば底が無いくらいの暗がりに落ち込む。

主人公の相手のヒーローは完璧だが闇があった。満月さんの理想の人らしいが、僕はそこまで完璧ではない。でも、なんとなく気持ちが想像できてしまう。僕もむかーしというか最近まで、遠巻きで人から見られている感覚があった。これは、僕がそういう風に人を見ていただけ。

 

ヒーローの感覚はほとんど想像の範疇だが、唯一分かりそうなのが「自分は人を愛したかった」というフレーズ。たしかになぁって。割と不遇なキャラがいっぱい出てくるのだが、不幸を自分の範疇としてしまう。好きな存在が自分と居ることによって不幸になるのであれあれば、自分が相手から離れてしまった方が良いという愛。あと、離さないためにまぐわうという感覚もやったことがあるような。無為だったけども。

 

僕の中身は基本的にぽえんとしているが、人が居るから自分が成り立って居ることくらいは前提としている。だから、僕と関わっていることをステータスとしている人は無理になった。対等な人なのだから、関わりも対等で良いし、相手が会合に数回外れたぐらいで付き合いが悪いといなる場なぞ要らない。

 

そういえば、フェミニズムに文句を言った気がして林業女子の人に嫌われたのではないかと勝手に想っていたが、まだ読んでくれているらしい。昨日のおのろけの何処が触れたのかは不明だが、変な人は好ましいから問題ない。話聞いたらおもしろそう。

 

ここから繋がる僕の読書界隈の不思議。

「暇と退屈」の話で、ハイデガーさんは、退屈を感じられるということ自体が人間の自由さだと論証したらしい。たしかに、生物学的な動きから離れられる自由と、社会的な自由には退屈が伴う。

 

そこから、環境世界という全生物固有の世界観がやってくる。生物学者が提唱したらしいが、ハイデガーさんは否定した模様。

 

この世界、世界とは「瞬間の連なり」という説。細かいところだと、人間の知覚的瞬間は1秒の18分の1だとか。それ以上の細かい瞬間は人間には知覚できない。この話って、精神界でも同じだとなったのが連なり。もちろん人生上の成功においても、幸せにおいても、こまやかに他人を認識する必要はないが、僕はそうやって世界を認識していたことを許して良いという自由になった。

 

ダニの世界認識は温度と嗅覚と血を飲むくらいしかなく、最終的に血を飲めても味覚がないらしい。これを不幸な劇場だと想えるのは、自分の体感でしか対象を捉えて居ないから。

 

僕が人間の自由論を語るなら、体感外のことを想像したり当たったりできること。読書感想文とか、漫画のレビューって、あくまで自分がどうかみたいな話になる。

 

というか、世界なり創作界に触れて当たったり障ったりできないような生劇場は、人間の醍醐味を逃しているような気がする。体感の外で過ごせるから退屈になれるし、想像できて、自分から離れられる。

 

 

この醍醐味に気付いた僕は一生凝り固まることができないだろうな。

ふへへい。

 

次は誰かに当たる(触る)文章を書くところか。

情報なんて提供できる気はないが、障るということはその分自己が相対化されるということで当人の情報量が増えることになる。

 

肉体的には満月さん専用の縁側だが、文章界であればもっと動けるかも。

 

早起きするのでここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。