揺蕩う

 

 

本日もたくさん寝た。何か夢も見たはずだが、ぎりぎりまで寝て炊飯器を見たら予約スイッチを押すのを忘れていたことに気付いた衝撃で吹っ飛んだ。早炊きにして出発時間を5分オーバーで問題なく間に合った。気温が低いと小走りが捗る。

 

良く寝ることもスイッチの押し忘れもなんのネガティブ要因にならない。決断の本質は破棄しても存在が揺るがないところにあるような。自分に緩く在れることは他人にも緩くなれることだろうし。

 

 

お仕事。

 

同期がデスクに足の上の方をしたたかに打つシーンを見てしまい、思わず「お疲れ?」と聞いてしまう。歩き方がどんどん悪くなっているような。腰が悪いらしいがデスクワーク大丈夫なのだろうか。あと、微妙にベテラン勢に疲れが漂っているような気がする。新人さんはそんなに判断の余地がないから作業量をこなせば良くてそれに対する疲れはあるかもしれない。ただ、方向性が少し違う。すぐに聞けないストレス。

 

いや、僕は元気ですが。聞かなくて済む問題に当たることは特に求めてなくて、聞かなくて済むようにできたら良い仕事としたなという感じ。暇な時間に魚編の春夏秋冬を調べていた。鰆はメジャーだが、鰍、鮗は知らなかった。夏に至っては普通に漢字変換できないし。

 

漢字と言えば、今やったら小学校の漢字テストでどれくらい書けるのだろうな。昔掃除が書けなかったような気がする。まぁ、実際その漢字を手書きできるかどうかより、適切な漢字に変換できるか、読めるかの方が遥かに大事だと思う。手書きが手慰みみたいな観念になったことによってより書きたくなっているだけ。

 

 

お弁当(ご飯)。

 

このシフトの休憩室は貸切状態だから、寒気でも問題ない。最近、名前がきちんとついている料理を定期的に作るようになった。本日のお弁当は揚げない酢鶏。ちょっと前にはミニトマトソースのムニエル。本日の夜は鮭のホイル焼き味噌だれの舌だったが、スーパーに生鮭が置いてなかった。豚肉とキャベツの人参とピーマンとえのきの味噌炒め蒸しにする。

 

「今日何作ろうか?」

これってタスクにすると苦行になりうる。個人的には選択肢というか決断の領域であって、身体と相談しながら楽しんでいる。だいたいリクエストには応えられるし、レシピを増やそうとして仮に失敗しても自分を怒ったり後悔したりはしないし。家に着いて30分くらいで収まるという制限はあるから、じっくりコトコト煮込んだりはできないが。いや、本日ブリ大根という冒険的選択肢もあったが。

 

料理の話は雑談に組み込みにくい気がする。主婦層の会話なら日常的かもしれないが、ビジネスマン(ウーマン)の日常会話ではなさげ。そんなことより仕事上あるあるのほうがきっと捗る。

 

 

立ち読み。

 

一昨日くらいに表題を読んで気になっていた、小学生が19×19までの暗算ができるようになるという本。大人はスマホアプリの電卓を使えば良いし、子供でも計算はひっ算でやって間に合わないほどテスト時間はシビアだった気がしないのはともかく。

 

表題だけ読んだ段階の想像では、暗算をするために分かりやすいように分解するのだろうなと考えた。19×19なら、(20-1)×(20-1)に分解したら、それぞれ分配法則で計算して400-20-20+1=361みたいな。読んでみると確かに分解だったが、分解の仕方が難解。知らんけどインド式かなって。19×19までなら覚えた方が早そうな気もしつつ、こういう単純な計算は脳に良いとどこかで読んだ気もする。計算法則のアルゴリズムを把握して抽象的に動かせるというのは脳の運動にはなるのか。

 

足し算引き算すら別に要らないのが大人の世界だが、単純な計算力がもっとも活発だったのはコンビニバイト時代だったな。お釣りは店員が出すだけのシステムだったし、きちんと打てばきちんと出すべきお釣りが表示されるが、打ち間違えると途端に暗算しないといけなくなるし、先に計算できた方が単純にお客さんをさばく時間が減る。

 

数学とは関係ない技能だが、抽象化された数の世界に馴れる入口ではあるかもしれない。

僕の現役時代の数学は符号を間違えたり、単純な計算をケアレスミスしたりして、爪が甘かった。当時高校の数学の先生が、ケアレスミスをするような人は一生そのままだと言っていた。人は機械ではないのだからミスをするのは当たり前。テストでミスっても、人生の大事なところできちんと意識的選択ができれば問題ないという説。

 

計算だって今のコンビニみたいに電子決済とか自動でお釣りが出る方がどれだけ習熟した人寄り正解率は高い。人には体調不良も定期的にありうるし、仕事に集中できなくなるようなプライベートの事情も起こりうる。そんな人の不具合は観測できないし操作もできないが、機械のバグであれば修正できる訳で。

 

機械的な機構が信用できなさそうで発達できていない領域の1つが、自動運転にあると思っている。これって、運転において高度な認識が必要だということが前提にあるのでは。ただ、この高度さは運転している他者(自分も含めてなのかも)が、イレギュラーな動きをしてくることに対する反応なような。人同士は運転中の視界とか操作を同期できない。

 

AI操作なら信号無視したり、追い越し禁止区間で無理に追い越したりしないし道路情報もリアルタイムで同期できるだろうし、もっと安全な運行になるような。いや、それだと細かい電車みたいになって嫌なのかな。

 

 

やれやれ。

 

満月さんの調子が悪いみたい。

自分の主観と客観がブレている模様。

 

そもそも自分の存在とはという話になってくる、自分とはなんぞやの本質の領域。

 

僕としては自分とは無定義で良いとなったから、いちいちアイデンティティを空間的に捉えないのだが、時空で過ごしてきた今までの自分が自分で在るという認識は普通に在りうるし、ある意味当たり前。

 

ただ、この文脈だと他人が規定した自分と自分が既定とした自分のラグは一生ものになる。ここで既定となっている自分っておそらく上向き寄りないし下向き寄りの居心地が恒常的な存在としての像であって、その像自体を既定としたところで、自己の人生劇場で過ごせることにはならない。

 

自分って、自分で在る前提は度外視した生きている感じというあやふやでふわふわしたところにしか無さげ。他人と関係することによって固まったり萎んだり拡張したりする、規定できない存在という意識で良いような。

 

おやすみ。

良い夢を。