だれのせいでもない

 

 

四六時中考え事。思考はとらわれるものではなく放任するもの。放任していれば足が鈍ることはない。道すがら、土筆を見つける。春探しも捗る。しかし、今日はよろしくない日。ただ、よろしくなさで僕の存在が揺らぐわけでもない。

 

台に「絶対おかしい」と文句をつぶやく人を頭がおかしいとすれば、誰しもおかしいかもしれない。現実的生活圏での言いにくさで言えば、僕は書くようには人に話させない。後ろめたい訳ではないが、そんな話は求めていないというは察せられる。なんというか、現実的な他者の出来事なら聞く余地はあるだろうけども、出来事から離れた思考を聞くのはよほどの関係がないと無理かもしれない。いや、僕はそういう話こそ聞きたい感じはある。

 

そういえば、どうでも良い話だが、日本語の主語と補語を結ぶ助詞って、イコールではなく限定っぽい。たとえば貴方「は」可愛いと言ったにしろ貴方「が」可愛いと言ったにしろ、他を取り去ってあえて取り上げたニュアンスがある。そういう言語なのかなとふと想った。難しいよな。ふと見えた美点を褒めたら、他のことは劣っていると捉えられそうなニュアンスが否めない。貴方「も」綺麗とか言い出すと、他にも対象が居るんかとなるし。

 

日本語むつかしい。日本語っておそらく読み手に投げっぱなしするところが起源っぽい。歌読みとか、日本の詩は他言語と違う発展を遂げているようなという想像。

 

僕の日本語が拙いのは満月さんに証言して貰えば分かるが、基本的にずっと拙い気がする。高校から大学時代に助詞を省くフレーズを多用していた。例えば、「野菜大事」とか、「○○大事」という語用。熟語ではないし限定しない、単なる野菜を大事だとする表現。

 

昔(今も)よく誰かと話している時に主語がないって指摘された。これってたしかに日本語力不足なのだが、そもそも自分が生きている時に主語はないような。まぁ割とよい大人なので、ちゃんと主語的世界を擬態している。でも、世界って別に主語で成り立っている訳でもないのに、不自由だ。主格を獲得するのは他人の口からだという誰かの説は、まさにそう。言葉としての自我を自己とする。

 

僕が他人から得た自己は、不器用で拙くて無遠慮で頭でっかちでどうしようもなく駄目な奴。駄目さのポイントカードをずっとためるような。誰か言う評価の言葉に特に意味はないというのに気付いた昨今。評価の言葉より動き大事。

 

動きといえば、本日満月さんが焼きそばを所望したから、東海地区限定のこいくちソースで作ることにする。ついでにきゅうりのナムルも。これは別にその分何かが返ってくる打算がある訳でもないし、僕が動くことが好意の証左である。特に動機もないのに。

 

やれやれ。

 

ずっと出口を求めていた。

というのは、本日散財しながら1Q84を読んでいたとき。動揺する。

二回目なのに、読み流していた一回目より鮮明。美しいという描写も必然だったのだろうなと思われる。ジェンダー的な意味でもなく。

 

ルッキズムという観念って、どうも嘘っぽい。

ルックスの前に自分で居ることが大事だし、中学時代ルックスで否定されていた女の子も普通に結婚しているみたいだし、つがいに条件は関係ない。

 

承認が拡張されないといけないという感覚がやばいだけで、人は誰かと比べられるものではないというのがジェンダー学だったらちょっと興味を持てたかもしれない。女性がルッキズムだったら、男性は社会的地位キズムかとか。

 

誰かを選ぶときに安心が必要というのも分かりみだが、僕はそういう標準で人を選んだことがない。選ばれたことはあっても。

 

男女を分断する為の学問なんて要らんと思う。

そういう意味で言えば、「ミステリと言う勿れ」の人もだいぶやばい。男は危険だって前提がある。まぁ別になんでもいいけども。

 

僕も男性に組み敷かれたことはあるし(?)、なんなら中学時代に自分より力が強い人になんやかんやされたし、力の自由性は分からんでもない。でも、僕はここの自由さをちっとも求めてない。服従させることになんの意味も無いし。

 

 

誰かが自分にとって都合が良いことを求めてないかい?

そんな相手要らんよな。とか言っていると世の中のパートナー(恋愛)市場をごった返しそうだが、どうでも良い。

 

惚気を都合良さで語るのは辞めた方が良い思うが、どうでも良い(重ね)。

 

自由って、不都合とセットの概念。これはこれで良い。その中で自由だと思えることが自由って、幸福と同じでとても人間的。ただ、ほんとに自由で幸福な人は自分にそんな言葉を当てない。

 

べつに自由でも幸福でもなく自分だし。あえて表現しないといけなくなったらそうするが、これを受け取った人は無根拠で何を言っているのだってなると思う。これってある意味しめしめだが、そこまで誰かに刺激を与えてまで自分で居るつもりもないからしない。というか、できない。

 

自分に根拠とか理由があった方が説明しやすいし、読まれるのは分かるが、それを辞めているのがここの文章。

 

イデオロギーも思想背景も気にしないから、てきとーに読まれれば良き。

社会の既定的なところに疑問はなくもないが、これはこれで世界を成り立たせている秩序だし、システムとして生存競争を越えてきたものだから別にこのままでも良いと思う。変に人に好かれたくもないし。

 

僕の好きの定義は、気持ちとか内心ではなく、挙動とか体付きとかの変化だから、他人事で好きと言えるみたいな距離感ではない。要は、理由を気にする必要がない問答無用。

 

そんな人だったら喧嘩する必要が無い。

いや、概念とか観念も同じで、特に何とも喧嘩することがないのが、まともな人生劇場なような。

 

とりあえずここまでかな。

 

焼きそば美味かった。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。