ねんりん

 

 

 

ごろごろする祝日。冷凍ご飯という観念を消費するために朝は豆腐と生ハム丼、昼は豆腐とツナ缶丼と、どんとズボラ。1人暮らしだと1日一合も食べられない気がするのだがどうなのだろう。そもそも自炊という習慣が時間の浪費という思想もあるかもしれない。調理に時間を使うのは生活習慣上の消費ではなく、贅沢に時間を遣うという浪費とするとどうだろう。美味しい物ができ上がるとは無関係。自分でご飯を作っている人が健康になれるとは限らないし。

 

ちなみに夜ご飯は、残っていた春菊の鰹節和えと、ベビーリーフの上に目玉焼きの半分、豚肉とほうれん草のコンソメクレイジーソルト炒め(隠し味にマヨネーズを少し)、そのまま使えるぶなしめじとえのきをバターでレンチンして醤油と磨り胡麻で和えたもの。美味しいのだが、肉好きとか濃い味が好きな人にとっては老いしい(造語)だけかもしれない。

 

「暇と退屈の倫理学」の「浪費」という概念はとても好き。明記されていない誤解の可能性もあるが、対価がない関連みたいな感じ。これってイマドキ文章を書いている人もそうよなって。情報を伝えるのであればもっと手っ取り早いものはいっぱいありそう。まぁ文章が情報として消費されている現代社会はあるけど、ほんとうに情報だけが問題だったら動画と音声の方に移行しているような。

 

文学理論で、文章が意味を誤解なく読み取られることだけを存在意義としているのであれば、誰かにそれが読み取られた時点で存在意義が消失するだろうという話があった。言葉は意味と誤解がセットに含まれているものであって、その間に解釈の余地がある。厳密にはそんなに切り分けられるものではないだろうけど。

 

とういう感じで、文章で表現することは贅沢な浪費に含まれる。色々意義とか大義名分もあるかもしれないけども、理由がないと書かないというのは消費の観念。自分の時間を消費することで文章が生産されるみたいな。どちらも結果的には同じことだが過程が随分と違う。どちらが退屈でないか。

 

こんなことをアプリでパチンコやスロットを回しながら想う辺りだいぶやべぇ。

ここも浪費の領域だが、これが何故悪いのかっておそらく社会の埒外に人が流出されることが社会にとって都合悪いという思惑があることよな。バンドマンとか絵描きとか詩人とか作家とか芸術界隈はきっと歴史上ずっとそんなな捉えられ方をしてきた。

 

それでも芸術が残ってきた辺り、人間には安全な生活では足りないということなのか。アルピニストとか。これって科学の発展にも言えるよな。より可動範囲を拡げるために発電所とか自動車とか飛行機とかを発明したくて発明した。

 

僕の最初の生活圏には芸術家は居なくて、こういう思想は生来のものではない。

最初にそういうガイド的な人が存在していれば随分違ったのかもしれないが、別にどうでも良い。ガイドがなくてももともとそういう思想だったみたいだし。

 

 

そういえば、こういう僕と奇特にも家族になりそうな満月さんの実家ではパグを飼っているとのこと。YouTubeでパグ動画が捗る。歴史上雑種犬、猫、インコと実家に居た。動物が居る生活をもう1回したいとは思わないが、気になるパグ氏。動物が心地良いという人は、言葉遊びをしなくて良いからなのかも。誤解があまりないだろうし。知らんけど。

 

思想が経年で練磨されて削られていくというのは前世代の人、なんなら同年代の人でも観測される。こういう自己存在の固定というのは古典的由緒正しき人間的な気もするが、僕としては、固まるのではなく解けていくのが人の経年なのではという感じがある。

 

昨日父親の最期の描写を満月さんに語った。文字化すればもっと詳細に描写できるのはともかく。そのとき、父親のことが好きだったんだねって言われてかつての天邪鬼的な自分だったらまず否定するだろうなという言葉に対して、素直にそうなかもなと想える。そう、僕の中には好きな人を自分が子供だからという理不尽な理由でみすみす退場させてしまったという刻印がある。別に父親という像の欠如ではなくて、親子関係を度外視してもこの人の人格が好きだった。

 

痕跡を探したことがあって、一言日記みたいなのがあった。なんの呪詛もなく、擬音語が頻発しているという。DNAよ(笑)。もうおそらく風化しているから、この記録は僕の頭の中にしかない。

 

もっと話してみたかったな。

となると、存在として認識している故人の小説家やら哲学者やらと同じ標準。直に関係しているかとは無関係にそういう風に思わせてくれる人って浪費的な存在でしょう。

 

経年の醍醐味って、知っていることが多くなって重要なこと以外は省ける(忘れられる)みたいなイメージだが、僕の中では過去の自分も含めて和解できるというか、忘れていない自分でも大丈夫になれるし、あとはもっと楽しむだけという感じ。忘れていない自分でも大丈というのは、過去の自分を正統化するために相手を悪者にしなくても良いという意味。

 

そういう意味で、満月さんは満点。満天か。元カレを下げて僕を上げることをしない。たぶんそこを肯定してくれる人が今まで居なかったのだろうけど、僕は今しか大事に想えない人はきっと無理。だって、自分のいまを構成してきた人を悪く言わなきゃならないって、自分の過程が否定されている。自分と居てくれる相手だってそれぞれ経験してきていま一緒に居るのに、嫉妬する対象がおかしくないか。

 

仮初の関係をパートナーとするのが当たり前だから、生理現象(例えば放屁)を自分の前でしないのが礼儀だとされる。

 

このおかしさを肯定する思想って、人と人が物として取引関係にあるのではないかと思い付いたのだが、特に補強する言説もいまは想い浮かばないから省略。

 

 

やれやれ。

 

1Q84の話もやや書きたいところ。でも、本日は「悲劇の解読」。

 

昨日太宰さんの小説を理解していないと書いたが、そうでもないかもしれない。

人間失格」を最初に読んだとき、あまりに当たり前のことを書いているなという肌感がああったのだった。

 

キーワードは「暗黙の約束」。社会的儀礼と言い換えても良いけども、挨拶によって親しさが認証されるというのは僕も良く分からない不安があった気がする。年賀状もそう。まぁこの暗黙の約束によって人間不信になるまでのことはない。だって、普通の関係では人はそこまで相手に開示しない。開示するような無防備なことはできないような社会になっていると言っても良いかもしれないけども。放屁しない生活は不健康だから辞めた方が良い。

 

太宰さんだって、ほんとに開示すれば誰かは受け入れてくれたかもしれない。

特に反社会的な思想を持っていた訳でもなさそうだし、モテ男みたいだし。

 

 

社会が人を閉じる傾向にあるのは、拓かれると制御できないからなのだろうなという諸々を予告して、また明日も暇ならどうぞという感じでおしまい。僕の文章を読む時間は浪費でしかないはず。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。