むずむず

 

 

 

 

 

また良く寝た。眠りが浅いような感じ。春眠暁を覚えずというのは季節の変わり目で眠りが上手く取れないという理由もあるのではという考察を満月さんがしていたが、たしかにそれもあるのかも。空調とか防虫もない時代だし。蚊帳の中で月明りを眺めながら寝るのも乙だけど(幼少期)。

 

調子が悪い、いや、良いとも言える両義だが、あるバイオリズムの時って、言葉がとても近いというか、手触りを持った物的な存在感がある。これはある意味言葉が離人感があるといっても良さそうだが、物的であることが、現実であり非現実でもありうる、みたいな。

 

調子が良いとよく喋る人と、調子が悪い時の方が良く喋る人というのは、良し悪しの視点が違うだけで、同じことを言っているのかもしれない。

 

 

さておき。

 

起き抜けは空腹なのに胃もたれ。ささみをもも肉で代用したからか、もしくは早く食べようとしたからか。でも、体の調子関係なく定期的にご飯を食べていた大昔の方がずっと胃もたれだった気もする。まぁご飯をいっぱい食べられるという指標は内外からとても分かりやい。細かく見ようとすればもっと指標はあると思われる。ただ、こうなってくると元気とはなんぞや。元気だと思われたら元気と評されるが、主観的な元気か不元気か別物だろうし。

 

精神的ご飯(本)はどれだけ食べてももられない。

noteで流れてくる記事が何故か恋愛系で彩られていて(春だからか?)、あんまり読めなくて、有斐閣と弘文堂の新刊情報を検索してみる。気になったのは2冊。自由バージョン2.0みたいな、憲法学者が書いた本と、社会史において市井の人々の言葉はどれだけ証拠になりうるのかという本。

 

自由という言葉も基本的には無定義用語で、何か義務から解放されたところをそう呼ぶ人も居るし、自分で任意に選択できることだったり、社会の暗黙の約束からアウトローになれることだったり、一言で定義できるような概念でもなさげだが、自由と発すれば、自分の認識として読まれるという思い込みがありそう。

 

 

憲法学で言うところの自由はあくまで国家に対する関係みたいなもの。積極的自由は国家に行為を求めることができる自由だし、消極的自由は国家に制限されないで何かができるということ。国家と社会はまぁまぁ混同されているイメージ。国が赦しても世間が赦さないことをするのは自由だろうか。例えば不倫とか。国は別にこれを禁止している訳ではない。ただ、個人同士でそういうことが起こったら不法行為として慰謝料問題にはなるよねというだけ。これを赦していないとするかどうかは個人の尺度の話。禁止が問答無用でそれがアウトだと考えれば、そんなにこの領域は広くないような。

 

 

市井の言葉の信ぴょう性の本は、立ち読みが解放されていなかったから全然読んでいない。ただ、相手の言葉をどこまで行動の前提にするかという一般論に引き直すと結構面白いような。

 

太宰さんが落ち込んだ「暗黙の約束」としての言葉と行動の乖離もそうなのだろうな。

 

僕の話だが、一昔前前まで、人は言葉通りに存在なのだろうなと思っていた。だから言葉に対しては注意深くあるべきで、言えないことは言わない方が良くて、相手と一致する言葉だけを発するべきみたいな。

 

いまはそんなことがなくなった。人が発する言葉はあくまでテクストであって、なんというか、あんまり存在自体と一致していないし、なんなら存在自体は不可得というか、描写はできても定義はできないという立場。文字情報は自他共にあんまりあてにならない。

 

お仕事で、自分の曖昧な漠然としたイメージが完成型で結果として現われるという感じの世界観のお客さんの相手をしていて残業した。別に残業もどうでも良いし、この個人に対して想うこともないのだが、世の中のコミュニケーションの齟齬って、文学理論が言うところの誤解ではなくて、単に自分の言葉が独自の解釈で、それで疎通できると思い込んでいるからだけなのではと思った。

 

漠然が共有できる人が仲間であって、かつて仲間であっても外れば他者であり敵になったりする。

 

僕はあんまり説明して納得させるために言葉を尽くすという観念がないのだが、自分の語彙の言葉を尽くして相手に通じないときに、相手の責任にする人は結構独善的な世界、というかそれが当たり前なのだろうなと想う。

個人的には喫緊の事態の際に言葉は無力だし、言葉で定義される人格も、実際はそうでもないのではという感じがある。

 

文章の解釈を丸投げするのは責任ではなく自由の範疇。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。