視界の変更

 

 

満月さんが帰って来る前に書き終わるという試み。これから遊びに行く予定。ご飯はあんまり作らなくて良さげだから、洗い物をしてなばなの柚子胡椒とめんつゆと鰹節和えを作った。ほんとはポピュラーな辛子和えの予定だったが、ここの冷蔵庫には辛子がなかったため、レシピを再構築。案外生姜和えでもバランス取れば大丈夫かもしれない。

 

昨日2時過ぎに寝たが、眠いだけで疲れを感じない。外は雨。25分かけて2回目の美容院。道中満月さんが言っていた川沿いの桜道を見かけて、こりゃ帰り道は一択。

 

荷物のリュックの持ち手が濡れていて、持って行ってくれたお姉さんに申し訳ないと思う一瞬。まぁ外が快晴なのに濡れているよりは理由に筋が通っているから不快感はあまりないかもしれない。

 

1回目に切ってくれた人と同じ人。あんまり話が上手い人ではない(どの口が言う)が、害が無い素朴さが良い。どうやら担当のお兄さんが4月から異動で、良ければ次回は別の店舗に来てくれないかとのこと。徒歩圏内(僕の徒歩圏内は1時間程度まで)らしいから問題ない。1回目の美容院は距離と値段でしか測れないが、2回目以降は腕と雰囲気次第。あんまり注文しなくてもちょうど良くしてくれる感じが良き。満月さんにも評判良いし。

 

シャンプーは交代して、自分のことを「自分」と呼ぶやんちゃ上がりっぽい青髪のお姉さん。フランクで話し易かった。イマドキの若い人って相手に対してというか人に対して固定観念があんまりなさそうだから話しやすい。雨のなか25分かけて歩いて来たことを言っても特にあんまり引いてなかった。そういう人も居るのだろうなという感じ。桜を見ながら散歩して帰る予定を話すと、自分も16時で上がって旦那と子供と花見をする予定だったが雨だから断念したとのこと。たしかに家族連れだと雨の中での花見は難しいかもしれない。荷物が増えるし子供への危険も増えるし。

 

このお姉さんとの会話を天秤にかけても、お兄さんに切ってもらうことを選んだから次の5月の散髪は別ルート。

 

あぁ別に古い固定観念自体が悪いとも、認識のアップデートが善いことだとも思っていない。念のため。今の社会は旧来の感覚の延長だし、旧来の感覚にはそれなりの合理性があった訳で、その合理性がいまの社会とはズレるということがありうるだけ。社会の判断の最終である裁判所の見解だって社会の状況が変われば合理性が変わって変更される訳で。この流れで言えば当然、いまの新しい感覚を完全な善と捉えていると将来の子供から古いと言われてしまう訳だが。それが社会の流れであるという世界観で生きることも当然悪くない。

 

流行はループするから、思想もループするようになるのかもな。

 

 

そうして雨のなかの散歩。

 

控え目に言って最高だった。照明は快晴時より落ちるから明度は低いけど、その分素の色が見える。雨粒と一緒にときどき落ちている花びらも乙だし、鮮度ほやほやの淡いピンクの絨毯ができつつある道。川に目を向けると雨によってほのかに水量と速度を増した流れの上に、誰かが落としてしまったのか、サンダルが片方僕の歩きと並行してついて来ていた。川縁には菜の花、スイレン、他は緑。彩とりどり。

 

桜の伸び方も良くこんなにうまく調整したよなという感じでトンネル状になっている。絨毯と合わせて贅沢過ぎる。雨でも何人かは居たが、これが晴れならこんなに貸し切り紛いにまったり歩けない。

 

雨だって良い天気としての面はある訳。ただ、満月さんがお母様に雨が降っても良い天気だと宣っていると告げ口すると、天邪鬼、変な人だと評価された模様。これを聞いて、特にやばいなとは思わない。口はそんなに物を言わないし、合理性の善し悪しの基準は状況なり時と場合によりけり。

 

満月さんは、桜は遠目で見るものだというスタイル。なんだかもっていかれるみたいなニュアンスだったが、たしかに解像度高い桜はちょっと現実離れしているから気持ちも分かる。まぁ、美ってそもそももっていかれるようなものだと思われるが。

 

そうして、本日美容院で人と話した自分を観測したところ、あれ、自分こんなに言葉がすんなり出る人だったっけ? となる。特に発話にエネルギーも使わないし、自分から話しを振るということもできていた。変な話、言葉と自分を固着しないといけないみたいなところから離脱できているのかなんなのか分からないが、より自己になった感覚。

 

何をこの歳でと思われそうだが、個人的な感覚だと、時代的な自分を越えてほんとうの当人まで辿り着けるような人格の人はほとんど居ないと考えている。それほど社会に属する自分の感覚は強いし、そもそも個人に成ったところで良いこともない。心理的安全が得られるという意味では人の最上値の可能性もあるが。

 

スーパーに寄った後にふと考えて居たのが、この心理的安全の概念。人間は人間の固有を認識できるようになったのが最近で、もともとの種の存続はDNAに従っているだけで成り立っていたから思考しなくて良い。で、思考能力という種の存続からすれば余計なことを考えることができだしたから、個の消滅(退場)という心配事とセットに生きることになって、その心配事を回避するために、もろもろの娯楽を開発した。社会という受け皿もその1つだと思われる。

 

宗教もそうだし、そもそも自分が固有で固定だという概念もそうかもしれない。

退場がより後になる可能性の獲得は安全ではなく安心の話で、安心は消費されるものっぽいな。

 

ちょっと変な話だが、僕は満月さん一家との邂逅についてもしかしたら僕の人生劇場をより良くするための必須のルートだったのではないかという解釈がある。なんだか他人との接し方が楽になった模様。満月さんがお母様が僕との関係を心配していることを心配していることを解消しておきたいという動きもあったという自己解釈もあるが、そんなご都合主義だけでは僕は動かない。いや、動いたとしてもその後に多大な消費があって体に返って来るから分かる。

 

やっと人馴れしてきたか?笑

 

通りうる世界線は無限だし選ぶことができないことも多い。でも、僕のいまはすげぇ選び放題だなって思う。そもそもどういう体験をするかより、その体験をどう解釈するかが人生劇場の醍醐味だから、これで言えば、過去も未来も改変し放題。

 

そろそろ帰ってくる時間なので最後。

 

noteで完全に開放しない為に、有料という鍵を付けるというのは公平な感じがある。

属人的な鍵だとほんとは通したくない人も通って来てしまうし。

 

僕もやってみてもいいなと想いながら、特にフリーに読まれて困る領域がないから感覚としては違うのかなと思う。別に剥き出しの自分の全裸的なところを公開したところで、損なわれる自分が居ない。

 

小躍りしているとか放屁しているとか変な鼻歌歌っているとかは、一般的に印象悪いと思われるから公然とできないだけで、相手に話せることも悪口ではなく変に印象良くなったらどうなるだろうなという、別に隠したいというとも違う。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。には、まだ早いですな。

愉しんでいますように。

 

よい本日を。