ひと

 

 

情景描写が上手くなったらしい。個人的にはあんまり分からないがそうだとしたら、文章が発達したのではなくて見える世界が鮮明になったのだと思われる。見えるものしか描写(文章化)できないし。

 

出勤道。在来線は春休みだから空いていたが、新幹線は満杯だった。漫画を読みながら車窓の外から桜探し。この季節以外だと存在感が全くないが、なんでこんなところに固まっているのかとか、山に転々とピンクがあるとか、不思議な感じ。ホタルと近いのかも。

 

大阪に着いたら、こちらでも満開。公園で色んな人が見上げるのを眺める。魂を奪われているのかもしれない。まぁ、持っていかれることも大事だと思う。ときには、あるいはいつも。

 

本日、日記的記録は省略しようかな。

 

生活に含まれる諸々が面白いのだが、あんまり現実味がないような。洗い物とかトイレ掃除とかにしんどさを全く感じなくなっている。これは、生活がしんどいというちまたの世界観のまま生きていたらこうはなれなかった。ちなみに別に気分が晴れるとか達成感があるとか満月さんが喜んでくれるみたいな対価もない。いや、満月さんに関して言えば、何も言わなくとも気付いて勝手に喜んだり感謝してくれたりするといいう面はある。

 

 

満月さんのお母様とこの前真面目に話したとき、満月さんは僕が人と真面目に話すのを初めて観たと言っていたが、僕にとっても結構初めてだったかもしれない。真剣に話すって別に自分が伝えようと思っていることが自分の意図通りに伝わることではなく、真剣に相手の言い分も聞くということも含まれる。前もって娘から聞いた話だと勝手にいっぱい喋る人だとのことだったが全然そんなことはなかった。ちゃんと聞いてくれる人だと察したから僕も話したのではという感じ。

 

娘が5、6年(だっけ?)同棲していたパートナーと別れたと思ったらぽっとで出自不明な奴がやってきたものだから、どういう人なのだという心配があったとしても。ちなみに僕は満月さんの前のパートナーさんとは関わりがないが、書いた文章は読んだことがある。坂口安吾さんみたいな感じで美味しかった。

 

人は独占できる存在ではないし、その道すがらを辿って来たから当人の存在になっているのに、相手の過去を否定するのはどうも違うよな。せっかく辿ってきた人との思い出を忘れるなんて、なんてもったいないことを強いるのか。悲しさだったとしても他の誰とも共有できない一生大事にしていく存在の一部だろうに。

 

ちょっと脱線した。

 

 

人柄論。

お母様に「貴方趣味はなんなの、何に興味があるの?」と聞かれた。僕は反射的に答えられなくて、満月さんが代弁してくれた。やべぇほど無分別に本を読むとか鼻歌を歌っているとか、小躍りしているとか。

 

後半はどうでも良いのだが、そもそも「何に興味を持っているか」によって人柄が把握できるという風潮ってどこから来ているのだろうなという思索。

 

たしかに、全く知らない人からちょっと知った気がする人になるという階層の移行という面では分かる。面接でも聞かれることだし、その項目によってそういう人なのだなというイメージができるし、共通の話題も増えるとか、人柄の傾向が見えるという話。

 

個人的にはこの傾向論って、全くあてにならないと思っている。

共通の話題でしか場が繋げない話したがり同士なんて論外だし、事務情報はあくまで探る段階でしかなく、継続する段階のことではない。

 

僕に移る人は、共通項的なところはどうでも良いし、僕のことをどう評価しているかみたいな言葉も知ったことではない。何を知っているかとか何を話せるかとか何をしているかみたいなところより、もっと無意識的な所作とか反応の方が人の本質を示している。

 

満月さん一家との会食の時に、満月さん(一家の中のお姫様)が、皿が遠いのだって言ったら、お父様が対角の席から手を伸ばして皿を寄せるのを見る。会食でなければ僕がやっていたのだが、言葉ではない愛を観測した。なぜか弟さんもいつもはしないあくせく行動していたとのことだし、心地良さとはこういうこと。

 

自分にとってどうかだけを人の柄として見れば、どれだけ他人に辛辣でも自分に対して甘かったらそれで良いということになりそうだけど、それっていずれ自分が他者になる世界もありうる訳で、なんとも危うい。

 

結局のところ他者に対してどう振る舞うかというのが人の本質なのではないかという話。社会的には真っ当なまったくの異類をどう評するか。これは後輩とか高齢者とかでも同じ。社会的レッテルなんて貼った者勝ちで貼られた者負けだが、その中で自分がどうなのかを追求していたら、自分が相対的に正しいとかまともだという感覚からそもそも離れられるような。

 

具体的個人としての僕。褒められても伸びない。文章も素朴な世界で上手いと言われたことなかったし、料理も不器用だから(いや、男だからか?)無理だと言われてきて、現実世界ではだいたいぽんこつ扱いだし、勉強も褒められたらやる気を無くす。これが天邪鬼だと評されるのも分かりみ。ただ、当人は自分の世界観を否定してこなかったら、誰になんと言われようと、流されつつも本質は崩さなかった模様。

 

自分の社会的位置を確保するために結婚するとかいう世界線には交わらなかったから未だに独身だし。子供を産むのであれば早く結婚した方が良いのは生物学的に分かるけど、それを乗り遅れとか言い出すと全然違う。パートナーを子種という側面で見るのは由緒正しき家父長制の系譜。全然更新されていない。これはこれで良いことだし問題はないが、このレールが全てでもない。

 

変な話、興味を収束することで人格が固着化するみたいなことに対しても無頓着。本を読んでいるのはどちらかと言えば興味を固定化しないで良いからだし、人格の反映とは別物。1Q84やべーなと想った今日のポイントは、マルクハーンさんが出て来たところ。当時は全く知らない人として読み流していたのに、メディア論の簡略版を知らぬ間に読んでいたという。

 

こうやって、過去と現在と未來を人格的に行ったり来たりするのが個人の醍醐味。

 

はいおやすみ。

 

良い夢を。