紙一重

 

 

 

中学校時代の部活(軟式野球)からの変な水辺。川なら良いけど池、湖、海まで拡がるとなかなか怖くなってくる。満月さん(とお母様)風に言うともっていかれる感。

 

軟式野球部の時もそういえば何かまとわりついていた感じがあるなという共通項。まぁ一言、才能がなかったでも良いのだが、その次の高校硬式テニス部ではかなり伸び伸び動けていたから、集団競技におけるイップス的なものはあったのかもしれないなという感じ。守備だろうがバッティングだろうがボールが向かっている人に注目が集まる訳で、他人の注視がとても苦手だったからきのままのパフォーマンスが出せなかったのかもな、と。

 

これは精神的な領域についても言えるのではと思いつく。僕はあまり自己像を眺めないようにしているというか、自己を客観視するのをやめてしまった。要は、この視点が自分を常に抑圧していたのではないかという話。文字で表現できる自己像って伝聞由来だし、そのものでもない。大リーグ養成ギブス(リアルタイムでは知らない)みたい、自己否定観でがんじがらめにするのもよろしくないし、ポジティブに自己を鼓舞することも餌で釣っているようで、動かない。自分に対して言葉も規律も特に必要ない。信じるってもっと色が付いていない。

 

もともとの生活環境で被ってきたイップスが解放されてきたなという感じ。

外には見えない部分で、自分ってこんなにできるじゃんとか、こんなに鮮明に世界を見ていたのかという観測がある。

 

そうして、社員証を家に忘れて出勤する。仕事用のバッグに直行用のバッグから入れ替え漏れただけだし、なんというか、全然焦らない。この仕事に入って4年間くらい働いた中で初体験。辞める前に一回体験しておいて良かったかとすら思う。旧来の自分だったら、こういう外から見た明らかな汚点って、自分の存在が自己否定されるくらいの罪悪感があった。罪悪感があるからこそ、次もできなくなる。これだけ埃を被っているところの注意なんてたかが知れているから、意識してどうにかなるような領域ではない。地獄の悪循環が巻き起こる。

 

いつの間にか基準が入れ替わっている。社員証を忘れたくらいで僕が仕事に対するモチベーションが下がっていると見られる訳がないし、もう辞めるから気が抜けているなんて思われない。これが主観的な思い込みでもないのはちゃんと目を開いて職場の人を見れば読める。(何かあったのかと心が動いて心配している可能性はなきにしもあらず)

 

社員証を忘れた僕より、本日パンクしそうに仕事が集まっている先生が通常の休憩時間より大幅に遅れてご飯を食べに行こうとしたときに、急ぎの仕事でもないのに引き止めた新人さんの方がだいぶやべぇ。このやばさは別に社会に適合した振る舞いができないとかではなく、ちゃんと他人が自分の世界に存在しているのかという次元。世の中ではやんわりKYと呼ばれるだけだが、先生の凄さを敬ってないのかいなと想うし、世界の配色が1つしかないのかもしれない。別にディスっている訳でもなく、不思議だなぁと観測されるだけ。

 

この2人、相対的な階層の次元ではないから比べることもできない。別に僕が優れている訳でもない。

 

 

そういえば、満月さんに出逢った頃より顔立ちがはっきりしたと言われた。これもぼやけた世界で生きる世界線から鮮明に移った効用かもしれない。1Q84と被っているのも面白い。

 

帰り道。健康診断で唯一B判定だった血の成分を良好にするような食材を食卓に取り入れようという試み。肥満度の指標が-19とかなのはどうしようもないからともかくとして、ヘム鉄とかなんやら赤身の肉が良いとのこと。マグロステーキ缶を発見。もやしと長ネギとミニトマトでざっくり炒め蒸しをしつつ、洗濯機も回す。水が流れているときはお風呂を溜められないから時間つぶしに明日のシャツのアイロンがけも終わらせる。

 

いまや、なぜ日常生活のもろもろの動作がしんどかったのかも分からない。おそらく成果が無い所作はしんどい、成果がある所作(例えば仕事)もしんどいという世界観に毒されていた。すなわち現世が地獄みたいな。息抜きの余暇にしか自分が解放されないという設定は良く創り込まれていると思う。

 

人生劇場を構成するほとんどの物事は成果とはまったく関係ないから、成果を来世に求めるとか他人に求めるみたいなアクロバティックな思想を持ってこないといけない。ト書き(意志)で場面を動かせるし、登場人物は筋書とは別に固有に存在しているとも言える。

 

 

 

やれやれ。

 

満月さん一家からの僕に対する評価がちろっと返ってきた。

 

お母様曰く「捉えどころがない」とのこと。たしかにその人の世界における人物像の類型に当てはめようとすれば捉まえられないとは想う。だって、ナチュラルな僕は別に誰かに無駄に媚びないし、良く見せるような無理をしない。これをありのままの自分と言うのはおかしくて、ありのままの自分って本来存在しない。存在していると思えているのは人間関係があるからってあって、他者を蔑ろにするのはありのままでもない。ほんとのありのままは誰とも関係していないところにありそうだが、それを見つけるためには修験者になる必要がある。そうでない限り、自己存在はあくまで相対的な位置情報でしかなく。

 

僕はもともと誰にも媚びないが、なんとなく流されて同調してしまうところがあった。これを曖昧な世界と認定しているのだが、別に裏表はほとんどない。

 

お母様としては、満月さんの前のパートナーさんの方が良かったのかもしれないなというのは風聞で読める。機嫌よくさせるために色々話していたとか。ただ、裏では結構ぼろくそに言っていたという。僕はこういうのはほんと嫌。人を値踏みする人って駄目なんだよな、たぶん。母親がそうやって自分を抑圧した分の反動を家族に巻き散らかしていた。

 

自分の中の勘定の損失部分を他人にぶん投げるのはやめろ。

その損失は思い込みでしかない。

 

お父様は、前のパートナーさんよりはマシという評価らしい。このくらいの塩梅の言葉はとても好ましい。この人で良いぞなんて強い言葉を遣うような不用意なことはしないというか、家族の中の損部分を引き受けて調整しているという意味で、僕の亡父と近い。

 

 

僕も家族の食卓で、ほとんど自分の話をした記憶がない。何か会話が起こっていた気もしないでもないが、結構皆テレビに注視して無言で食べていたような。この家庭で1人でも完全な聞き役としての発話者みたいな存在が居れば随分違ったような気もする。完全な聞き役というのは、自分の範疇から外れていることでもそういうこともあるのかと受け入れる余白がある人。

 

そんな感じで、僕はずっと自分に言葉が少ないという世界観で生きてきた。口下手の話せない人なのだと。ただ、今になって思えば、話せないのではなく、単に話さないだけだったのだろうとなる。別に話したい人ではないから話さないだけで、もしかしたら書くように話せるという可能性もあるし、きっとできそう。

 

 

自分の存在を定義してくださいみたいな問いに対する回答はむちゃくちゃ言語化しにくい。カントさんが言うところで言えば、誰にでも直感できる現象に限定して語らないといけないし。

 

ただ、現象的な他人に直感できる当人が単なる来歴情報みたいなことだとすれば、ほとんど言葉には意味が無い。言葉にしか意味がないと同じようになるのも然り。

 

だとすると、人の存在は言語と非言語の間にしか居ないというと雑過ぎるか。

言葉でも行動でもなく、単に存在として残るのが人のそのもの。

 

滅裂としてそうだが、特に破綻もしていない。

表裏が無さそうな世界で生きていると他人にも無駄に良くも悪くも評価されなくなった。

 

本の話も色々ある。

鮮明な世界って変な話、いや変な話過ぎるから辞めとこうと思いつつ、最後の1フレーズ。

世界のことを全然忘れなくなった。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。