仕事の休憩中にお花見をすることは不謹慎なのか乙なのか。春の昼間は公園に人がわんさか。本日の一服のお供はセブンイレブンのビターエスプレッソ。これくらい濃いカフェインなら効く気がする。
朝起きて準備の合間、満月さんがイケメンの営業担当の飲み会で話せなかったとのことで通話。安心しているから何の心配もない。お付き合いは契約でもないしどんな権利義務も発生しない。個人的には婚姻にも社会的な権利義務の設定はあるが、個人間では無いと思っている。
最近よく話題になっている満月さんの職場のお騒がせ夫婦。別に誰が誰と番になろうがどうでも良いというか否定すべくもないが、なんだか聞いていると良く似ているのではという感じ。嘘というか状況を誇張して飲み会に参加しようとする一方も大概だし、参加させないようにした旦那さんの理由付けもだし。こういうの書いていると僕がこの夫婦に憤っているように読まれるかもしれないが、そんなことは全くない。ただの単なる感想で、特に感情はない。
何やらお嫁さんの車を出さなければ自分の車が出せないから、飲み会って寝坊されると困るから行かせたくなかったみたいな話。たしかに頓珍漢だし(起こせば良いだけ)、満月さんの評価だとお嫁さんを道具として扱っている言説だとのこと。寝起きの頭だと聞いていただけだが、これって、旦那さんの中で飲み会に行ってほしくないという嫌な感じの非言語が先にあって、その出口としての言語上の理由を捻り出しているから後付け臭いのだよな。なんで嫌な感じが起こるのかというと、他者を所有しているという実感を保っておきたいからなのかな。
この後付け臭さって、昔の我が家の母親にもあった。たしかに機嫌によって判断が変わるのは仕方ないとしても、母親は我が家の領域に子供を留めておきたい感じがあったらしく、機嫌が良いときは特に友人宅に遊びに行くのは問題なかったが、虫の居所によってはあれこれ理由を付けて許してくれないという。過保護だったわけでもなく、良い時なら別に友人宅に泊っても大丈夫だった。高校時代の受験勉強期は家の居心地が半端なく悪かったから友人宅に原付で避難しに行って、悪いことも教わったりしておった。女遊びは教わっていないけども。
人の物体的な存在は物ではなくなって所有権の対象ではなくなったのが、うん百年前。でも、所有欲の対象にはなりうる。欲の対象は物質には限らない。
出勤。
ピンク地が少しずつ増えていく絨毯。しばらくは最短距離ではなくて少し遠回り。最短ルートも一軒家多くて、庭の花のバリエーションの豊富さが楽しい。どこかの家では明らかに狙っているだろう、カーテンの隙間から毎日縫いぐるみが覗いている。
仕事。
調子はあいかわらず良い。かなりリラックスしながらしているから、あんまり仕事しているようには見えないかもしれないが、結構仕事量は多い。自分より仕事量が少ない人とかもどうでも良くて、比較しなくて良い世界は随分と長閑。誰だって別に万能ではないし、僕だって強迫的な心配に囚われる必要もない。
退職までの余生だから、あんまり仕事を取り過ぎてもいけないなという無駄な調整感覚はあるが、サボったところで体感的な仕事時間が長くなるだけだから、自分の仕事時間を減らすことを重視すべきかもしれない。まぁ、それができないからこの僕なのだが。
自分を形作っている環境とか、自分の傾向とかは否めない。ただ、別にこれが全てでもないし、意識が心配したところで大筋は変えられないのだろうなというのは運命論みたい。どちらかというと、意識が未来のレールを敷いていく方が運面論っぽい。ホメオスタシスも大事。
やれやれ。
1Q84はbook1の前編の途中まで読んでから後編を読んでまた前編に戻って読み終わってから後編も読み終えた。その後に読んでいるbook2の後編。この本は時空が一直線に進んでいる話ではないから、読み方としては正当の範疇(順番通りに見つからなかっただけ)。
僕もこの世界に紛れ込んで居ないかという感じ。
去年のこの時期は海辺のカフカだった。もちろん、スピリチュアルでもないし、虚構に墜ちていたら栄養学のことなぞ考えられない。単なる体感。
愛が無ければ虚構も事実もハリボテだという感じのフレーズが出てくるのだが、たしかにその通りだと思った。巷の愛の定義って所有欲を前提としているみたいでどうも馴染めないのだが、個人的には愛ってもっと軽やかな感じ。自分がどう在るかではなく、人生劇場で起こることを味わえるみたいな。
1Q84はともすれば満月さんへのネタバレになるのでここまでで留める。別に怒りが僕と一緒に過ごしていくかの判断には係わらないようだから問題はないし、ぷりぷりした満月さんも可愛いから問題ないのだが、小説の続きは未知であるのが楽しいのも確か。
では、何を話そうかということになる。
あくまで体感。世界が鮮明になるとはどういうことか。需要は無いと思うが、僕は需要がある世界では上手く生きられなかった。関係は需要と供給とは違うのだよと言われたことはあったが、僕は供給されるとそれに対応する供給をしなければと思ってしまうし、需要だけで良いという世界が見あたらなかった。
とういう感じで時には需要に影響されつつ、なんだかんだ類型3000本くらいはいっているのではないかというこの日記紛いの文章群。ここに書かれている自分ではなく、ここを書いている自分がなんだかんだ自分の本質に近いのだなという感じ。文章を書くことで他人に承認される余地が拡がるとか、自分が整理されるとか色々な効用はあるが、僕にとっては単に自分の存在の可動域が拡がるでしかない。だからスキが付くと嬉しいの前にぎょっと驚いてしまう。どう読んでいるのですかと聞きたい感じ。
文章って概念とか情報みたいなところでは長文で書けるが、取捨選択はありつつも、結局のところ、見えているものしか言語化できない。何が書かれているかには個性はなくて、何を書いているかが根っこ。
なんだか、何かメッセージ性がないと読まれないという風潮もだいぶやばいような。
いや、刺激物としての娯楽として読む分には良いけど、自分の言葉も刺激物のように語らないとけないという縛りだと、現実生活において日常の平穏な変化が見えなくなるような。
これはこれで別に問題ないが、そんな人の文章に僕は登場したくないなと想う。
話題として語られたくないというか、この感じなんなのだろうな。
人はニュースではない?
ここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。