徒然草

 

 

1日中ごろごろ。ぼーっとリフレッシュ。

 

朝ごはんはネギ蕎麦と納豆かけご飯を食べ、昼はシーチキン炒飯。溶き卵はフライパンの中に直接落としてかき回した。夜は牛肉を導入。お金より血の精製の方が大事。いや、薄切りだからワンコインくらいでそんなに高くない。火の通しは最低限にしたいから最初にピーマンと新玉ねぎを炒めて取り分けた後に肉を炒める。ひと手間で随分と肉が柔らかく仕上がる。副菜は大根の浅漬け。味付けは塩とゆかりと昆布顆粒出汁。浅漬けにはかつおより昆布の方が合う気がする。

 

Googles Scalarだったか機関レポジトリだったかで時間栄養学の記事を発見。時機によって効果が違うのは体感上当たり前だが、細かく学問しているのが面白い。今度大型書店に行く時期が来たら専門書探してみよう。

 

アプリでパチンコを回して自分の運のバイオリズムを検証しつつ、レトロなゲーム実況動画を見つつ、カフェオレ飲みつつ、小六法を眺めていた。法制度がどうなっているかという細かな運用も大事だが、なんでそういう法制度ができているのかを一頻り思索。制度の成り立ちには制度の運用も含まれている。

 

そういえばゲーム実況動画。自分がやったことがあるのも見るが、やったことがないのも問題なく観られる。後者は特に自分でしたいとも思わないという。なんだろうな。レベル上げとかの作業の省エネなのか、というか、自分でしているとあんまり移入できなかったとも言える。だってクリアという目的が明確にあるし、全体として作業になってしまうというか。大学時代は時間が余っていたように思えていたから、無茶苦茶やったような気がする。寝なさいという言って来る人も居ないし。ペルソナ3はうん百時間やりこんだが、ゲーマー界隈では普通の事とも思う。

 

僕の読書が読書界隈で普通なのかは分からない。

 

 

1Q84ではないけど、世界の位相って現実として観測できるほど明確ではないにしろ日々、というか時間と無関係に線路が都度切り替わっているような感じ。あんまりこういうことを書いていると、僕が非現実のところをメインに棲息していると思われそう。現実に関係がある人は僕の文章を読み続けられないというのがある。これを読んだところで現実的に僕が何を考えているのかが読み取れないし、何を考えているか分からない、自分のことが実存として存在しているのかと不安になりうるのだろうなって。

 

満月さんは大丈夫だろうなという稀有な存在。一応他にも何人か書いていることを教えた人が居たのだが、読んでどうなるかの視線が気になって仕方なく、ここは留めておこうかという無意識の制御が働いていた。満月さんに対してはそんな感じがほとんどない。伸び伸び書いても問題ないという安心。別に僕を読み取って欲しいという目的で書かれている文章体ではないし、単なる僕の人生劇場の描写だし。

 

満月さんの中には小さな女の子が居る気がする。基本的に誰にでも原型はあるのだろうけど、原型を指摘すると怒られることもある。勘違いでも問題ない、あくまで独創的な読み取りだから、通常は書かれない。

 

やれやれ。

 

本日の思索の中身。そのテーマに追いついてくる叙述がお風呂読書の無知の塔の中にあったから、より示唆的な世界線路に切り替わっているのだろうなという感じ。どうでも良い話。お風呂読書に持って行く重量、おそらく10キロ弱はありそうなのだが、僕の経年の中でいつまで運べるのだろうというのがふと気になった。あと、退場って意識と肉体の切り離されで、そうなると意識自体も無くなるのだろうが、その時には何も持って行けないよなぁて。

 

言葉としての発想は、「正しさ」ってなんだろうということ。いや、僕もいっぱい生きているから、正しさのことは実感として分かっている。問題は概念としての正しさの話。ぺらぺらと法律の資格試験のマーク試験の過去問をめくっていて、通貨偽造罪の問題に目が当たる。

 

偽札を作ろうとしたけども、印刷機器の不備でできあがったお札は一般人にから見て真正なお札には見えない代物だった。通貨偽造罪が成立するか否か。直感的思考だと、通貨偽造罪が保護している利益は通貨の流通への信用だから、最終的にこの信用を害するようなお札ができなかったのであれば、少なくとも既遂にはならないよなという感じ。ただ、これは答え合わせしていないから正解か分からないし、法律問題の正解って条文とか裁判所の判断が変われば変更されるものであって、暫定的なものでしかないよなぁって。

 

もちろん暫定という現在の正解によって世の中は成り立っている訳で、そんな細々分けなくても良いというのが健全な思考。ただ、僕の素朴な思想上、正しさを普遍的に一般化するようなざっくりした世界観は馴染まなかったらしい。外からは見えない部分だから内部で観測して振る舞っているだけのところだが、そこを認めてしまうと楽になる。

 

「正しさ」ってあくまで度とからやってくるものなのかとなると、色々しっくりきてしまう。フーコーさんの本は読んだことないのだが、実存=仮象みたいな話があるらしい。いずれ読むのか。実存という自己存在の確証が外(社会)からの正しさを根拠にするしかないのは、それがもともと外から既定されたものだからなのだろうなって。

 

個人という概念は人類の歴史からすればかなり最近に社会が個人とはそう在るべきたという目的で創り出したものであって、別に正しい訳でもない。いや、正しさって正しいという意識すらないところにあるのか、ともかく。

 

僕が考えていたのは、個人そのものではなく、社会における内と外の分断。これって別に個人主義とか資本主義が盛り上げたとしても、もともとはもっと前にできているのだろうなと。素朴な解釈だと、所有権の概念とセットだったという説。自分の物として外界を支配領域におけるということは、その外には異界があって、異界は闘いの対象になるから、取引をするのであればルールが必要になる、というのが法律の成り立ちなのでは。

 

そうやって自己と他者が分断された世界になると、第三者が外から権威をもってどちらが正しいか判断する必要に迫られる。そこで裁判機関が創造される。ここにおいては人の内心は問題にされず、現実として共通認識できることしか証拠にならない。もちろん言語も発話される限りは証拠になる。

 

異界から内界になる為に時間が必要だという感覚も分かる。個人的にはあんまり時間は問題ではないのではという感じだが。だって、時間も外からやってくるものでしかない。カントさん曰く、空間と時間は先験的に直感として外界を認識する為に備わっているという言だが、これも割とあてにならない。

 

もちろん最初にはあったことだけど、最終的な人はそんなところで生きていないような。

 

要は、個人の実存って、権利として把握されている。人権という仮象だが、ある国家においては自分が生きていることは権利なのだから、外に義務を負わすことができるし、その権利義務関係を、国家が正しいと認証してくれるという実存観。

 

僕は無政府主義者ではないから、こういう外向きの人権観念については特に否定しない。ただ、ほんとうに固有な個人の実存が何かって言ったら、当人が見えている世界そのものだと思う次第。

 

だから僕は自分のことを自己紹介できない。いや、ある限定された場においては紹介できるが、全然実存とは関係ないという。社会生活上の自分は描写できるけども。

 

この辺りは個人的にこういう捉え方の方が素朴だなというだけの考え方であって、同じような考え方をしている人が好きとかそういうのでもない。こんな考え方、基本的にアイデンティティが崩壊しうる。僕がたまたまアイデンティティみたいな核が空白だったという感じ。核が空白でも普通に生身で生きております。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。