赤月

 

 

4時くらいに目が覚めて二度寝できなくなったからリビングに移動してソファで漫画を読みながらうとうと。満月に近い月はさすがに2つにはなっていなかったが、なぜか真っ赤に近い色。向かいの病院の窓も赤みを湛えていて、窓に不審なカゲでもうつってきたら怖いなと思った。

 

そういえば、1人で眠るのが怖かったのはいつまでだったか。今考えたら子供部屋の二段ベットで姉とか妹とかと寝るのは物音で無理な気がするが、昔は誰かが近くに寝ているとむしろ安心だったのだろうな。この恐怖を分析すると、根源的には死への恐怖な気がする。意識が途切れた延長に死があると素朴に感じてしまうのだろうな。小さい頃の金縛りはなかなか半端ない。零感人間だから霊感的な意味ではなく意識は覚醒しているのに肉体は寝ているというだけと解釈しているが、寝るのが怖くなるのも仕方ない。

 

ここを延長していくと、最終的には最初の恐怖に戻るのかもな。

 

 

ということを考えていた朝方を終えて。

 

本日もなんだかんだ2、3時間は歩いた。またマッピングが拡がる。

 

まずは散髪。美容院で2回切ってもらった人が異動になってどこかと思ったら、全く遠くなかった。少し迷って行って雑談しながら切ってもらう。日焼けはバレる。ここで散歩焼けと言える自分はなかなか僕になっている。どれだけ歩いたかはいちいち説明はしなかった。引かれるからというより、そこまで説明する必要性を感じないだけ。あくまで切って切られている間の時間繋ぎの対話。かといって、おろそかに話しているということもない。これはこれで面白いし。

 

人が感じる距離って物理的な誰にでも説明できる距離ではなく、時間と意志と目的の相関なのだな。この後家電量販店に行きたいと言ったら理容師さんが道順を教えてくれたのだが、言い添えて「車じゃなかったら遠いですよ」って。たしかに、一般的な歩行距離としてはちょっと遠い。たぶん30分くらいはかかる。ただ、ここ数日歩きまっくている僕の足はむしろ近場だろうという感じでずんずん歩いてくれる。見た目とか触ったところでこの細身の足がこれだけ歩けるのかは分からない。

 

僕の健脚はともかく、遠いかどうかは目的と意志にかかるのだろうなという思索。要は、目的地まで徒歩で行くという時間をかけられないということ。車があれば時間は短縮できるし、移動そのものを目的にしていない。厳密に言えば時間が無いというより、時間の優先順位上身体を動かすことより目的地に早く着くことの方が大事。こういう考え方は分かるのだが、だったらその空いた時間で人は何をしているのだろうとはなる。別に全てを生産的な過ごし方をする必要はないが、無意志的な時間が増えるのはあんまりよろしくない気がする。好きにすれば良いけども。

 

しかし、ここの生活圏内、道が平らで歩き易い。前の生活圏は登り坂が多くて、自転車もほとんど電動だった。ここだったらママチャリでたやすく活圏内が5㎞拡がるなぁとか想いながら、昨日の日記でやらかしたのではないかという想いがふと浮かぶ。

 

浮かんだということはやらかしていた。十二国記の作者さんは文化人類学者ではない。文化人類学者なのは、同じく好きな作家さんである守り人シリーズの人だった。世界の作り込みが同じくらい好きだから存在が混同していたというやらかし。

 

家電量販店に向かう道中凄く恥ずかしくなる。一刻も早く訂正せねばという衝動が起こってくる。でも、これを訂正するのは何かおかしくないかという逆張りも起こってきて。

 

この恥ずかしさって僕の歴史上にいた正しい情報警察なのだろうなと思うと、むしろこのまま残すのが自然体。正しい情報警察の原初が母親というのがなかなかの人生劇場。親戚一同でオーストラリアに旅行に行った小学生高学年時、空港のファミレスの「レディース」という言葉が分からなくて単に美味しそうだと想って「レディースセット」を所望したら、親戚一同の大笑いされるという歴史。トラウマというほどでもないが、外れると恥ずかしい目を見るのだなという経験則を得てしまった、小6くらいの時分。

 

たしかに正しい情報を前提とすることって大事だし、文章を書く人がまず気にしているところかと想う。変に書くと正しい文法警察がやってくるだろうし。僕は変に言葉を覚えていたとしても伝われば良いという立場だし、そもそも正しさって情報が更新されていくものだし、どうでも良いところ。

 

そうして訂正しないことにしたのは、そもそも僕の文章を読んでいる人が正しい情報を求めていることなんてあり得ないだろうなというところから。情報として採り入れて自慢したら、相手の親切さが測れることになる。違うよって優しく訂正してくれるか、馬鹿にするか。正しい情報警察の人達は人を馬鹿にすることを目的として正しさを取集しているのではないかという気がするし。いや、厳密に言えば、自分の置き所が正しさにしかないから、せっせと自分を正しさで守っているという感じ。

 

僕はいまのところてきとーにしか書けない。劇評として雀の涙ほどの収入を対価として頂いたときだって同じこと(引用する時は文章が間違っていないかと何回も確認したが)。

 

書かれている情報より書かれている内容が大事だとすると、そこの情景は主観的な創作であって、客観的な情報ではないということになる。それが良いかどうかはともかくとして、文章で現実を厳密に描写することは不可能、という意味でてきとーにしかならない。

 

この不完全性が大好きだから書を読めるという感覚を共有できる人はどれくらいだろう。

 

 

やれやれ。

 

とはいえ、頭が腐っているのではないかというとなって、最寄の本屋さんで小六法を買ってきた。シーフードカレーを作るとか洗濯をするとか時間が押していたからあんまり読めていない。侮辱罪が重罰化するって、社会が人格を大事にしているのが変わってきている感じ。もちろん、ここでいう人格は社会的なところだけど。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。