生身

 

 

本日は早めに上がる予定の満月さんがボロネーゼパスタを作ってくれるとのこと。セロリと玉ねぎとトマト缶を買って食材を準備した。ついでにおつとめ品に茄子があったため、副菜として茄子の揚げ浸しを作っておいた。薄味でうまい。ボロネーゼに使うかもしれないから少し余らせて、

 

もともと生活料理のスタンスって、何かを作りたいという料理(動機)を決めて行くと食材が高騰していると高くついてしまうから、実際に行ってその日安い食材を見て、そこから作る料理を決めるという感じで作っていた。時々非日常として料理を決めてから行く。近所のスーパーはポイントカードが無さげだが、おつとめ品が無茶苦茶優秀で、おつとめ品から逆算(順算か?)して作るのにとても合う。昨日は胃腸具合で生のベビーリーフを消化できそうにないから何かないかと思ったら60円でブロッコリーが売っていたから、塩ゆでしてハーブソルトをかけただけの野菜メニュー。本日は茄子1.7本が100円だった。

 

こんな感じだから、何が食べたいのかと聞かれても唐突に答えられない。食べたいものがないのではなく、できる物を作る日常を過ごしていると、選択肢は動機としての起点ではなく材料ありきだから、迷子以外は勝手にできないようになっている。

 

もともと何を食べたいって聞かれると色々気にして答えにくかった。別に肉が好きな男子高校生ではなかったし、なんなら夜食の袋麺で美味しいくらいの感じだったし。いまはそういう気遣いは無くなったが、特に食べたい料理が浮かぶことがほとんどない。昨日はたまたまお好み焼きの舌になって美味しくいただいた。

 

変な話、僕は同棲生活は2人目で、1人目のときに料理の領域にまったく手を出せなかったから、次には自分も協力できるようにという無意識が働いた説。3年越し再会した時にベクトルが完全にズレていたのがある意味面白かった。オイスターバーに勤めているのに部屋には冷蔵庫すらなくて、レンチンご飯で過ごしているという。僕は共同料理できるように鍛えてきていたのに、料理することがしんどかったのだろうなと。あと、自分が何を相手にできるのかではなく、相手が自分に何をしてくれるのかという方向性にシフトしていて、なんかすまんやでと想いながら泣きながらお別れした。

 

一回目のお別れの時に何を学習したかで世界線が随分変わってしまった。もちろん未だに嫌っていないし、通り過ぎた人生劇場の人とも想ってない。もう一回くっつこうかと提案されたら、一夜くらいはあるかもしれないが、きっと生活はできない。たぶんこの人にとっても僕は人生劇場において通り過ぎた人だからとっくに忘れていると想う。僕の存在はこの人に存在を忘れられていても別に問題はない。

 

 

料理って、たしかにイマドキ男女共に必須スキルではない。倹約ないし趣味のカテゴリーになると思う。冷食で栄養バランスを気にしてくれるパッケージもあるし、主婦というカテゴリーも、料理を作ってくれるパートナーの価値も下落しているから、パートナー関係における条件に家事のバランスが置かれなくなっているような。

 

でも、自分の生活パートの労力を減らしてくれる人という価値は未だにきっとあって、僕はそういう風に選ばれたくはない。できるのだがこの可能をもって当たり前とされるとなかなかアンバランスになってくる。

 

減らすという観念でパートナーを探すと碌なことにならない。満月さんは僕が誰かと共同生活をする世界線を想定して鍛え上げてきた上澄みを攫っているから、硯が他の人と共同生活できない訳がないとなっているが、やっとここまできているというだけ。

 

家のことをほとんどさせてもらわなかったから、食べた食器を水に付けないと後で洗うのが大変とか分からなかった。むかーし実家に帰ってそれをやったら母親に〇が家事をするようになったと感動されたのだが、学習する場所が無いところでできるようになる訳がないのだよな、ということが分かられていない。

 

可能性が閉じられているところでは僕は動けない。

上限が想定されているところでもまぁまぁ動けない。

 

これで動けるようになるのが生活の醍醐味だと思うが、生活をそういう風に捉えている人はほとんど居ない。

 

いまのところ、早朝の時間で日記を書いてしまえば良いのではと想定してみたりしているのだが、朝の文章は夜の文章より保守的になる気がする。

 

やれやれ。

 

本の話というか、表現の話。本日はサイコパスの岡田さんの動画を流し見していた。この人の説を信用できるのは、自分の言説を正解としていないところと、なにより少年漫画の最高峰に「うしおととら」が挙がっているところ。あと、ネガティブなことを言わないのも良い。もちろんポジティブなこともあんまり言わない。凄いってポジティブではない中立的な表現。

 

うしおととらの作者さんが書いた漫画家論が紹介されていて、どういう映画が好きか嫌いかを理由を付けて語るようにしなさいというのがあった。自分の表現が存在と癒着しているのを引っぺがすためにこういうトレーニングが必要だとか。たしかに対話の為には理由が必要だと思うが、ある作品が好きな理由ってきっと統括できなくて、細部に好きなところがあるという感じだと思われる。

 

対話がパッケージとしての好き嫌いしか語れないのであれば、理由を表現する意味もない。

 

僕の文章を読んでいただいている人が、ここの表現を好きなのかは知らない。ただ、読み続けることに違和がない継続が好きということであって、特に論理的に説明はできないと思われる。

 

それで良いし、僕の文章を読めるということはまぁまぁ元気なのだろうなと勝手に捉えている。

 

非論理的に読まれるのがここだとすると、もともと理由があって書かれているという訳でもないという、言語の存在価値からすると矛盾だが、それでもいいやという感じ。でなければ、認証が全くないのに継続なんてできない。

 

このスタンスは良い加減表明しておきたいところだった。

 

本日いちゃいちゃするかは不明。

咳込んでふぇっふぇっふぇしているし。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。