切断

 

 

 

2人で遊び惚けた1日。

 

 

夢。ポケモンGO(やったことない)みたいな感じで海に巨大なポケモンが泳ぐCG映像が出てくる。壮大だが海と巨大生物のセットは怖い。その後は論文試験の添削をされるシーン。60km以上が及第点で、全部53kmで微妙だと駄目出しされる。点数の単位が独特だったが、文章が走っている速度みたいな意味合いなのだろう。知らんけど。

 

朝ごはんは食べずに午前中はぐだぐだしつつ洗い物など。昼過ぎに浜名湖付近にげんこつハンバーグを食べにいく。道中満月さんのお母様とハンズフリーで少し通話。働かざる者食うべからずから失業手当が出ると言っても早く仕事を探しましょうと諭される。この格言とベーシックインカムの関連を少し考えたので後で。

 

ハンバーグ屋さんは凄く混んでいた。美味しいし接客スキル高いし人気なのも分かる。50分待ちだったからグーグル先生に教えて貰った古書店ぽいところに行ってみたのだが、辿り着いたのは何も無い住宅街だった。たぶん情報が更新されていないのだと思われる。

 

あと、別に文句とかではなく単なる観察で、色んな人が居る。6組しか店内で待てませんと張り紙があって、何組待ちかも分かるのに、席がたまたま空いていたから順番待ちの紙を取ってそのまま座る夫婦。たしかに本日暑くて車の中で待つもの大変だが、読んだら分かる注意書きを読み取れないというか読もうとしないのって活字離れなのだろうか。いや、寧ろ活字離れを嘆く世代に見受けられる。もう1組は建設業なのか作業着っぽい男性グループで、自分達が待っている番号が飛ばされたと言っていた。普通に考えれば飛ばすことなんてほとんどありえないし、呼ばれたタイミングで店内に居なかったか、もしくは雑談に没頭して呼ばれたことに気付かなかったくらいしかないよねとあとで満月さんと話していた。要は、ここでこの人は飛ばされたとニュアンスではなく、申し訳ないけど今呼ばれているより前の番号を取っていますと下手からのニュアンスで話すよな普通という感じ。

 

目に付いたというより目に留まっただけだから、ここに人間はどうあるべきという倫理観はない。知識とか能力の話でもないし、評価なき風景として眺めていた。自分とは違うことを良い悪いで判断していたら精神消費にキリがなくなる。

 

 

そうして、帰りにケーキ屋さんに寄って、近頃ずっと溜まったままだった満月さんのケーキ欲を解消。僕もプレミアムチーズケーキをいただいた。うまし。食べたあとケーキ欲は解消されたかと聞いてみると、解消していないとのこと。迷いに迷っていたし、ショートケーキも捨てがたかったみたいなことを呟いていたから、当て勘で「ショートケーキ欲ですか」と聞いてみたら当たりだった。この質問をしなければ今度の誕生日にショートケーキを勝手に買っておいて、この前ショートケーキも食べたそうにしていましたねと独断的サプライズをするつもりだったのだが、当たってしまったしハローワークの近くのお店だったもので、前倒しして今度行ったときに買っておきますということにした。

 

別に僕が人に対して気遣いができるというニュアンスでここを書いた訳でもない。僕はそんなに良い男でもないと自負している。ではなくて、この一連の内心は論理的判断でもないし、経験的判断でもなくなんなら満月さんを喜ばしたいという動機から来るものでもない。観測からやってきた当て勘の感じなのに、動機ありきだと満月さんが喜んでくれなかったらせっかく買ってきたのにって不具合の感情が生じる。結果的に喜んでくれれば嬉しいが、それは副産物。

 

論理的判断ではないというのは、ショートケーキも捨てがたいと発した言葉の解釈って色々あって一義にならないから。ショートケーキも良かったけど今回選んだアールグレイショコラが美味しかったから問題ないとか、ケーキ欲が解消されていないという発言と併せても、発言外で目移りした他のケーキが本命として残っているかもしれないし。あえて僕に向けたショートケーキ発言だったら信ぴょう性は高くなるが、単なるひとりごとだし。

 

経験的判断でもないというのは、僕は基本的に人生上(性質上)そんなに裕福になったことがないから、プレゼントで喜ぶような女性とあんまり接していないというところ。ここはあくまで副次であってメインではない。プレゼントってお金があれば誰でもできるし、物が欲しかったら誰から貰っても同じ(いや贈与における貰い手の義務感ないし罪悪感みたいなのは変わってくるかもだが)。僕が誰かに送ったもので最も喜ばれたのは、手書きのお手紙だったような。お金をかけてもこれは作れない。まぁこれで喜ぶような価値観を持っている人でないと僕のような奴は選ばないと思われる。

 

個人的に、自身は好き嫌いの対象にはならないし、自分が誰かにとって他の誰かより価値があるみたいなことを考えることは不毛だと思っているもので、巷で言われている自己肯定感もなさげ。気ままに楽しく生きること自体が肯定だから、あえて自分という概念を実体とは別に創出する必要もないのではという感じ。自分という概念に固執しないといけないのは、自他の境界が曖昧な故のような。

 

 

運試ししてフィニッシュ。よく分からないがフリーズというものを引いたが、その後が不運で、最終獲得は満月さんの方が多かった模様。いいこっちゃ。

 

満月さんと出逢ってからの僕はどんどんと気ままになっているらしい。満月さんのお母様が通話で8000歩犬の散歩をしていると仰っていたが、5月3日の僕の歩数は2万歩を越えていた。距離にして20キロほど。僕以外の人がそれをやっていたら逆に大丈夫かと思ってしまいそうな狂乱歩き。

 

 

やれやれ。

 

まだまだ書くことはある。頭が腐らないようにという動機でもなく単に文字成分がnoteの記事を追うだけだと物足りなくなってきて、Google ScalarのPDF論文をスマホでも日常的に読むようにしようかなと。お風呂読書ももちろん。

 

僕が書評とか1つの概念で1つの記事みたいなことを書けないのは、本とか文章との境界はあっても自分が読んだ内容にとって境界線がないからだろうな。感想文とか考察を1つの領域に絞ると窮屈になる。

 

朝小六法で刑法をぱらぱらしていると、懲役でも禁固でもない拘禁という言葉に塗り替えられていて、なんぞやとなって少し調べた。懲役は作業という労務があって、禁固は作業なく牢屋に入っているイメージ。では拘禁はというと、懲役と禁固のブレンドのような概念で、何か作業をさせることもできるという柔軟なニュアンス。専門的なところでの特別予防(犯罪を犯した人が世の中に馴染むように矯正する)が従来の制度では成果が芳しくなかったという背景があるらしい。気になるのは拘禁刑の期間を決めるのは裁判所だとしても、その先の判断って誰がするのだろうというところ。おそらく精神科医とかの領分になるのだろうが、特別予防的に向上するのかな。

 

 

あと、シュールレアリスムとか瑕疵担保責任とか錯誤論(刑法)もあるのだが省略。

 

 

ベーシックインカムと働かざる者食うべからずの話で最後。

 

働かざる者食うべからずの格言って、おそらく現代的な社会福祉制度が未発達のかなり古来由来。細かな共同体が食いつないでいく最低限の生存において生産活動に従事しない人は食べてはいけないではなく、食べさせてはいけないくらいのニュアンスなのでは。そんな人に生産を消費させていたら、その共同体全体が共倒れになるみたいな。

 

お母様が言っているのはもう少し現代的なニュアンスで、働いていないと頭(精神)が腐るという価値観。締めるところと緩むところみたいな代謝が個人にないといけないし、共同体(社会)的に、働いていない人は日中何をしているか分からないという得体の知れなさがあって、仲間にできないみたいな。

 

ここで、本日読んでいたPDF論文のベーシックインカムの話と絡ませる。財源をどうするかの話も面白かった。制度が被る生活保護は削って良いよねとか。それよりもベーシックインカムが国家制度として正当性をどのように設定するか。人間個人には目的がなくても良いが、国家の仕組みは目的がないと存在できない。

 

働かざる者食うべからずの格言を古来の概念で持ってくると、そもそも個人の物理的生存を確保するためには働かないといけないという話で、国家がどうこう以前の話。この意味で働かないといけないのであれば国家との社会契約ってなんの意味も無い。

 

まぁ、日本の国家はオリジナルの社会契約とは別物だけども。島国だから国境で国が分かれていないし。

 

ともかく。

 

日本の憲法には25条で生存権が保障されているから国家には健康で文化的な生活を国民に付与する義務がある。27条には勤労は国民の権利であって義務であると書かれているが、これって普通に考えれば労働契約を締結する権利と、締結した以上契約に則って働く義務はあるよねという話なだけで、日本国民だから働く義務があるとそこだけ切り取るには無理がある。

 

ここだけもベーシックインカムで全国民に最低限の生存を守るための基礎的な給付を行う正当性はありそう。現実的にできないだろうという話ではなく、理念的にはそうであるべきという話。

 

で、22条に職業選択の自由が書かれている。移動の自由もセットだから、もともとは職業って場所と近い(今もか?)概念だったのかなという感じ。これを勤労の権利義務を合わせると、働くのは前提でどの職業を選ぶかが任意みたいなニュアンスになってベーシックインカムに相反しそうだが、自由の概念ってそれを選ばないことも含まれるのが他の既定。例えば信教の自由には無神論者で居ることも許容されるし、表現の自由には当然表現しない自由もセット。職業「選択」の自由とあえて書いているからもともとは働くのが当たり前という観念はあったと思われる。

 

なんだろうな。個人的に働くことってそんなに嫌いではないのだが、生存の為ではなく、他人の為に動くことだとした方が稼働しやすいと思うだけ。ベーシックインカム制度は生存と労働が切り離されるからもっと人間的に動けそうだなという感じ。別に単純に収入が増えるみたいな話でもない。

 

なかなか書いたのでここまで。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。