日常

 

 

 

案の定、出がけの満月さんに「働かざる者食うべからず」と弄られながらお見送り。この辺のユーモアがあるのは面白い。現代社会最低限食うくらいは保障できそうだけども、食うことが生存以上の産業になっているからどこが最低限かというのが分からなくなっている。

 

個人的には大人に3食+おやつはカロリー過多だと思っているが、食が物理的な身体を保持することを越えて人生の楽しみに越境しているのだからそれで構わない。食べたい人はいくらでも食べたら良い。問題はカロリー云々より、おそらく罪悪感。罪悪感を抱くとき脳からドーパミン出ているのかもな。だから止められない。

 

ちなみに僕はお酒を飲んでいることに対して罪悪感は皆無。飲酒運転もしないし、仕事中から飲みたいとも思わないし、次の仕事が決まったら調整が入るし。煙草も吸うのだが、歩き煙草みたいなみっともないことはしない。みっともないとは何ぞやとなるがともかく。

 

本日の晩餐はリクエストされた台湾風焼きそば。あとは麺を入れてタレを吸わせてニラともやしをシャキシャキに炒めて完成。その前にリクエストされていたのが豚肉の大葉揚げで、台湾風焼きそばに豚ひき肉を使うから止めたが、そういう舌になっているのだろうなというのと、自分が食べたいのを組み合わせて、鶏ささみの大葉チーズ揚げ焼きにした。給食のささみのチーズ焼き好きだった。あと副菜として茄子の浅漬けを作ったのだが、やたらと塩味が強い。今日暑かったしお風呂読書でいっぱい汗かいたし、ちょうど良いのは確か。

 

飯生活。僕が仕事を再開したあとどうなるのだろうなというのを想定している。仕事さえしていれば肉体を維持するための食糧はなんでも良いのも分かるのだが、個人的な価値観として、物理的な肉体に近いものほど厳選していくものだと思っている。シャンプーを高価にするとかは普通にあっていい生活観だし、口に入る物を単に美味しさを感じるもので占めさせるのは生活とは言えないようなって。舌ざわりの美味しさだけを追求している外食産業は娯楽としてのものであって、生活ではないって。

 

お米が潤沢だったら普通に弁当作るのだけどなと思いつつ、満月さんも特にお米もお弁当も欲していない。まぁ昼ご飯を食べながら職場の別店舗の人とコミュニケーション取っている節もあるから食費というよりは交際費でもある。いや、満月さんが日常的にお昼を食べてるお店、すげぇ美味しいのはたしか。岩牡蠣とかタコの踊り食いとか、そりゃあ高価で当たり前だわという感じ。おそらくほとんど利益ないだろうなって。

 

しかしながら、満月さんは来月異動になるとのこと。職場は近くなるが、他店舗の人との関係は1からで遠くなるから、食べることとコミュニケーションが一致しなくなる。せっかく買ったお弁当箱が稼働する世界線に移動してきた模様。卵焼きとか副菜の箸休めくらいなら日常生活の中で作れる。生活軸によってはなんならお弁当を歩いて届けることも可能。

 

 

働く場所って条件よりどれだけ生活圏と近いかと思っているのだが、サイコパスの岡田さんも同じようなことを言っていた。ニュアンスは若干違う。岡田さんは生活圏に近い仕事場で働いていれば自己存在の肯定的評価が高まるよねという感じ。僕は通勤時間という賃金が発生しないところは無駄だからなるべく少ない方が良いよねという感じ。生活の定義って、1日とは言わずともプライベートがある程度の期間で循環することであって、8時間労働+出勤諸々では生活がままならない。おそらくこの制度が専業主婦なる概念を創り出したのだろう。いや、働くよりも職場の人のとの賃金が発生しない関わり時間の方が多かった可能性もある。

 

個人的には徒歩圏内かつフルタイムの8時間労働であればお風呂読書もできるし自炊もできるという前職の3年間だった。休日には遠征して迷子になることもできる。

 

仕事と言えば、ちょっと台湾風焼きそばを仕上げてくる。

 

蒸してきた。

 

 

これも岡田さんの言なのだが、仕事って自分を生かせるみたいな自己主体ではなく、自分の資質を必要としているのがどの分野かという視点をずらした方が楽に決められるとかなんとか。まぁ何にせよ人と関わらないといけないから、関わらなくても良い仕事なんてないというのがコミュ障としては絶望的な世界。僕もコミュ障ではある。

 

というか、特に人との疎通で暖を取っていない人物。

これで小中高大と恙なく過ごせたのは素晴らしい。いま具体的に接している満月さんも僕の事を小躍りするやべぇ奴だと言う認識だし、自分を解放すればこんな感じになる。満月さんがぷりぷり怒っていても特に気にしない。だって怒りって相手と自分の波長が合って欲しいというぐずりだし、それをピンポイントで改善したところで次の怒りがまた出てくる。

 

もちろん他人とは調律はする。価値観が流されるという節もあった。

制限しないと関われないというのはずっとあった。色々分かっているという天才ではなく、迷子的な意味。神妙なシーンの神妙さが良く分からないなりに感動したり悲しくなったりしていたが、これって結局、場における感情の礼儀でしかない。これがサイコパスなのかというと微妙なところ。告別式に行ったらその対象を忘れるということもないし、距離が近いとか遠いとかで他人の価値を判断しない。

 

どうでも良いが、個人的な読み味として、まぐわい描写を少しでも書いているアカウントの人は誠実に世界を描写している感じがする。性的タブーって難しい。僕みたいなおっさんが特定の誰かを性的に好いているという文章は気持ち悪くて仕方ないだろうし。個人的にはなんらかの価値だけでそういうことをつらつら書くのも男女問わずだいぶやばいと想っているけども。

 

 

なんだっけ。

 

もう眠い。

 

お勉強の話で、岡田さんが、マルチタスクをすると作業効率が下がるというのがあった。何かに集中してしまうと捕食者にやられるから外界の色んなことに注意を散漫させるように脳ができている。これの結論で、スマホを触らない、寧ろ教室には持ち込ませないことによって効率が上がるという話になったのだが、個人的には集中できるってそんなに良いこととは思わない。なんというか、現実的ではないから。何かの成果を出すために集中をしてなんとかなるのは一握りの天才であって、凡人はむしろマルチタスクでの効率性を追求したようが良いような。日常では洗い物しながら洗濯して干してというのが常態だし、机に腰を据えて本を読むような集中時間を確保する余裕はないから、読み物は集中できる時間を確保してやるべきではなく、日常に組み込むべきよなって。

 

マルチタスクの中で読んだ上で消化するのが普通の人がやるべき生活。

 

その方が色々持ってこられて楽しいような。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。