愛とは

 

 

 

2日分。昨日も充実していて書くことはできたのだが、それより眠気が勝る。無理はしない質。無理矢理何かを続けようとしたところで僕の場合は碌なことが無い。

 

 

 

1日目まとめ。

月さんの実家にお邪魔してまったりしてパグのお散歩に行き、大量の夕ご飯をいだいて満腹して帰った。気を遣わなくて良いとはいえ、他人と過ごすのはそれ自体でエネルギーを消費する。消費しないとしたらその相手はきっと人ではない。

 

 

 

細かな話。

 

お母様と書き続けるのもアレなのでそろそろあだ名を考えないといけないが、相性はきっと悪くない。特に自分を出しても引かれないだろうから、特に無駄に発言をしないでも良いという感。家族制度が離れていっているのを自覚しながら、今後をどう考えたら良いかというのは、今までの誰より参考になる意見だった。旧来の家制度の繋がりと、そこは要らんよねという感覚を埋める筋みたいなところ。

 

実際、家制度の親戚の集まりは幼少期に経験していた。祖父が退場する前は毎年親戚筋が集まっていて、男の兄弟がいない僕は1つ下の従弟がやってきて遊ぶのを楽しみにしていたし、別の家だが無条件に繋がっている人達という感じで楽しかった。どれだけ父母がギスギスしたとしても、その場ではうやむやになるという意味ではイベントでありオアシスであったとも言える。

 

だからと言って、血縁が良いとはならなかったのは、大きくなるにつれ大人の本音(特に母親)の本音が見えてきたから。祖父が退場したら、集まりというのはとんとなくなったし、父親も退場して、父方の親類と母親の対立に母親の親類が助勢するみたいな構図ができていて、そうはいっても一番近くて仲間なのが親族よなという感覚が学習されなかった。むしろ、結び付きがたまたま血族ないし親族であるという人間関係は、社会的に離れにくいだけでなんとも脆弱な関係なのだろうと解釈している。

 

この意味で、婚姻もそういうこと。もう離れないという意志の確認という意味で喜ばしいこという視点が一般だが、普通の恋人関係とか同棲関係より社会的に別れたときのダメージが強いとされているという意味で離れにくいということが含意されている。意志さえあれば離れられるのだが、離れにくさで持続を保っているというのは結構ありうるはず。

 

こういうことまでは語らないが、お母様に籍を入れる意志はあるのかということを聞かれた(2回目)。これに対してどっちでも良いですと答える僕はなかなかと思うが、満月さんが補足してくれる。ずっと一緒に居る気があるのかという問いだったらはいと答えますよって。その通り。これに対して、私はその答えで問題ないが、一般的な社会ではそうは見られんよって。このバランス感覚はとても良い。たしかにそうだなって想うし。

 

社会的なフィールドって、社会的なポイント制みたいなところがある。学歴が東大より結婚の方がポイント高い視点は当然ありうる。結婚していないとか、もっと進んで子供が居ないと参加できないフィールドもあるし。

 

これくらい止揚的な考え方を持っている人が親であればうちの家族もまとまって居たかもしれない。我が家の母親、誰かの立場を慮る考察を述べたことがない。あくまで自分の視点が主人公の人。いや、周りが遠回しに見て来た結果かもしれないから、僕がもう少し世界をぶっ壊さないとなというのはあるのだが、なにせ接するのが疲れる。

 

 

なんか凄いのが夕食の中華屋さんの食卓。

傍目から見ると無茶苦茶ギスギスしている。

 

僕はこの家族一様に好ましいというのは前置きしておいて、大食いの弟さん(あだ名は勇者とするのでここからはこれで)が、お母様とやり合っている。

 

勇者の理屈として面白いのが、お母様が勇者の頼んだ炒飯を1口頂戴って言ったとき、「貴方が頼んだかた焼きそばをお父様の方に回しているのに、それでも人が頼んだ料理を食べようとするのは違うよね」みたいな理論。これって屁理屈だという言う人も居るだろうし、当然だと思う人も居るかもしれないが、僕としてはそんなのどっちでも良いじゃんという感じ。お母様には僕の食べかけの炒飯をよそってあげた。僕としてはほぼ満腹だったからむしろありがたい。

 

自分が頼んだものに食べる権利があるという理屈と解釈してみたところで、お金を実際払ったのはお父様だから、法的な意味での所有権の話ではない。食い意地が張っているのか、潔癖なのかという解釈はともかくとして、お母様もそれを通常営業としているし、家族全体がそこに頓着していないことになんとく愛を感じる。それぞれ相手に気を遣わない自分の人生劇場で生きて居ながら、根っこは相手の欠点をともかくとして尊重しているという感じ。

 

何か良いものを見たなーとまだ残っている炒飯をもしゃもしゃしていると、友人語りをしていた勇者が、硯の友人話はないのかーと振って来る。友達を断捨離した話を聞いている満月さんとお母様が、この人話題にできるような友人関係ないからと返してくれる。

 

友達とのエピソードを語っていることは話題にはなるし、あの友人がどうこうみたいな話は場を繋ぐ話にはなるけれど、ほんとうに当人の話になるのかというのはとても微妙。僕が話そうとすれば本の話とか花の話とか森の話とかなるのだが、前提が共有されない話題で会話のネタにはできない。

 

僕に現在友人が居ないのもてきとーに流されるのがこの場の面白いところ。仮に僕に友人が居たとして、その友人の話を話をしたところで前提がないからきっと聞き流される。親の話がお母様に聞き流されないのは、記号として近似しているからであって、友人は記号として近似されないから固有名詞が優先される。満月さん一家は記憶力がたくましい。

 

 

勇者はおそらく僕に若干興味がありそう。それは僕も同じくらい興味があるからであって、2人きりになる場があればもっと話すことはあるかもしれないと思っているから。そこであった個人的やり取りは満月さんにさえ伝播させないはず。

 

満月さん一家は傍から見ればなかなか喧嘩している感じだが、一本筋が通った愛があるのだろうなという感じで心地良いという話。この愛は我が家で言えば父方と母方双方のお祖母ちゃんの感じと通底する。孫だからという眼鏡があるにしろ、微妙な色合いがあって、母方の祖母が僕を優遇する意味は特にないから、ほんとは母親より先にこっちのお祖母ちゃんに紹介したいのだが、あとあとその事実が発覚したら母親がぐずるのは分かり切っている。何事も自分を通せよという感じなのに関門が狭いんだよなぁ。

 

感謝の色眼鏡がないのは、僕の感謝は物理的な生存ではなく変化に寄っているから。僕に対して何を発言したのかというは子供だったら誰でも親の発言を覚えているだろうが、あんまり無いのだよな。個人的には、ちゃんと姉も妹も褒める発言を僕の耳に入れてくれていたらとは思う。この人にとって愛ってなんだろうって。自分を犠牲にして対象に費やすことが

愛だとすれば、他人はきっと褒める対象ではないというのも分かる。愛の範囲内だから。

 

 

 

やれやれ。

 

1日目の話に比重を置き過ぎたから、2つ目が少なくなってしまう。

 

本日は満月さんがかなり早く終わりつつ、勇者に64とゲームキューブを借りてきてゲームパーリー。人生ゲームで最後のギャンブルに勝って1人勝ちになった。楽しかったが勝ったところ別に面白くはない。

 

いちばんしたかった64スマブラのケースには何故か時のオカリナが入っていて、進めてみたがかなり難しい。指と脳にラグがあるのがゲーム下手。僕はそこまで反射神経がないのに64スマブラを今更やろうとしているという。ちなみに、肉体的全盛期と反応速度は変わっていないというのはどういうことなのか。肉体的全盛期にドンキーコングとかスーパーマリオワールドのスターロードのふーせんステージにあくせくしていたし。

 

それでもあんまり不器用ではない領域もあったり(どこかはここでは書けない)。

 

 

本題というか、考察ステージ。

 

 

岡田さんがベーシックインカム奴隷制度だと解釈していた。なかなか現実として理に適っている。能力がない人は最低限の収入を得て遊んで暮らせよという世界になるとか。でも、別にバイトとかはできるだろうしその場は能力問わずだからあんまり関係ないようなという気もする。誇張して語るのがエンタメだからそれはそれで良かろう。

 

で、岡田さんはベーシックインカム制度ができて1人で生きられるようになったとて、1人で居ることが不安で安心できないから、職場は無くならないだろうなという話をしていた。1人で文章を書いたり絵を描いたりして一生孤独に生きられる人はそうそう居ないって。

 

人と繋がっているから安泰であるという感覚はいまでもであるだろうし、これが勇者がはなしている近場の友人の話題でもある。

 

あぁ奴隷だっていうのは、この制度で遊んで暮らせると思っているけども、俯瞰的に見ればそれは安心ではなくて、それしかできないという不安の裏返しの不自由でしかないという話。

 

岡田さんすら語って居ないからほんとにタブーなんだろうなと思うが、不安を解消する為の不自由としての奴隷みたいなことは全世界的に喫緊に経験してきたことだから、ベーシックインカムで人が不自由になると語られたところで、今までもあったことだよなとしかならない。

 

能力がない人は自分を労働させて更なる収入を得られない世界が推進されるという理屈は分かるけど、その欲求はメタバースが吸収できそうな気がしないでもない。バーチャル世界においては肉体的社会的ハンデは問題にならないし。ここは参与意志至上主義だろうし。

 

それよりも、生活が忙しいということに燻って居る自由になりたりたいクリエイターが世界に顕われてきた方が、観測世界においては面白そう。それでしか生きられない人はどうあれ表現するだろうが、それをしなくても生きられるけども、時間があればもっとできるという準備がある人が稼働できる。

 

 

実際どうなるかというのが分からないのが社会制度だから、ベーシックインカムやってみれば良いと思う。それで社会がどうなるかは運次第。

 

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。