過渡

 

 

 

 

国産豚肉の生姜焼きをほおばる満月さん。副菜はブロッコリーの小エビ和え。味付けはごま油と塩のみ。おつとめ品のベビーリーフはなかなか苦い。

 

 

さておき。

 

日中は時のオカリナをやっていたのだが、早々に詰んだ。ボスに勝てないのではなく、どうやって進めたら良いか分からない。まだ序盤も序盤のゴロン族の所のところ。実況動画は見たことあるのに覚えていない。おそらくあっさり進めるところだから。グーグル先生に聞けば一発に違いない。ただ、攻略情報を見てしまうと途端に作業と化して萎えるのが経験則なので調べてはいけない。

 

啓発本とかSNSのお得情報もある意味人生の攻略情報っぽい。萎えないのは人生をどうやっても作業に単純化できないところか。

 

吉井由吉さんの「杳子」という小説を読んだ。生活の手順がズレてしまうと混乱してしまうということを病質みたいに描いているが、結構普通のことな気がしないでもない。顕微鏡くらいのレンズで微視してしまうとそんなところ省略とかすっ飛ばしても問題ないのに、となるが、これだけ極端ではなくても全くマイルールがない人なんて居ないだろうし。

 

いや、たぶん「杳子」の読むところは習慣に固執しているところではなくて、もっと文芸的なところだと思う。官能性とか。本日はたまたま繋げて書いただけ。

 

岡田さんが文芸とエンタメの違いを書いていた。エンタメは表現されているものに伝えたいものが内包されていて、文芸は読み手が自分として考えるように開かれている外包みたいなニュアンス。内向的と外向的と同じように特に優劣はない。あるのは好みだけ。

 

 

さておき。

 

というか、ここ2、3日の文章って読めるようになっているのだろうか。いつも気にしていることではある。とはいえ、合わせて書くなんて今更できないから、気にしたところで仕方ない。

 

という感じで進めていく。

 

 

昨日の何故という問いに対して答えにくいなということについて更に思索迷子していた。何故の問いに回答が難しいのは、何故の起点からは時間的距離が離れすぎているから。普通の人間の感覚において時間と距離はほとんど量的に同等だと思う。何故を大事する人は起点からずっとここまで続いているみたいなことが人の成り立ちであるという経験則があるのだと思う。別にそれはそれで良い。

 

これってどれくらい好きなのかという量を聞かれることとも近い。量的な感覚は比較的、相対的なものであって、質的な比較対象がないところでは意味をなさない。2次元的な距離は量で測れるけど、質は高さになって別次元。

 

ここで考えたのが、何故ではなく、どのように好きなのかと問われたら紫陽花についても答えられるよなということ。咲き始めると顔が綻ぶし、咲いてない植物形態であってもそれが紫陽花と分かるくらいには好きですみたいな。あと種類の名称もだいたい分かりますわとか。ついでに2日前に名前を追加できるくらい。

 

どのようにと言う問答形式は、距離で言えば0の話。いまどうなのかということになる。0距離のところにこそ人が剥きだされるという解釈。何故は過去が重視されて、どれくらいは相対が重視されるけども、そういうことを言っている当人は果たして0距離でどのように生きているのかという話。

 

いや、僕はいま失業中でちゃらんぽらんしているから特に誰かに誇るような生き様でもないからなんとも言えない。別に仕事しているときでも劣等感も優越感も無かったから、あんまり関係ない。

 

本日はここまでかな。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。