変型

 

 

 

無職なのに寝不足とは如何。

 

 

早めに目が覚めてカルピスを飲んでごそごそしていたら、満月さんがお弁当を作って欲しそうにしているものだから、米を洗って吸水しつつ漫画を読み、吸水が終わったら鍋で炊きながらもう1つのコンロで卵焼きを作った。メインと副菜は昨日の生姜焼きとブロッコリーの小エビ和えが残っていたからこいつらを使う。感想は梅干しうめぇだった。スーパーで買った安いのだが、かつお梅に間違いはない。

 

まったりダイエットをするとのこと。できるだけ協力というか、日常食に関してはローカロリーでいける。僕が毎日作っていた名も無き料理群は和食が主の居酒屋の箸休めメニューみたいなのだらけだし。

 

あとは心臓疾患の人が手術に備える野菜スープは常備しようかなという次第。基本レシピはセロリ、ピーマン、キャベツ、玉ねぎ、ホールトマト缶、スープの素なのだが、本質はキャベツ、玉ねぎ、トマト缶、スープの素であってあとの苦みは自由な気がする。ピーマンはともかくセロリは高いこともあるし、香味野菜であればなんとでもなりそう。本日は悪くなりそうなやや黄色くなっているセロリがあったからそれを使った。余った野菜をアレンジで使えるというのが良い。ブロッコリーの芯の部分を使い途にもなるし。

 

ご飯にかければ健康雑炊になるし、ちょっと味を加えてトマトパスタにもできる。

米が補充されたから、ご飯を毎日鍋で炊くのも良い。最初はぐずぐずになったが感覚を掴めてきたから、料理に合わせて炊きあがりの固さを変化させるのは鍋の方が自由度ありそう。炊飯器だとセットすれば終わりだから楽だがつまらない。このつまらなさが分かるためには鍋で炊くという新生活がないといけないという。

 

色んなことをやってみたら良いという話はよく聞くけれど、独立して新しいことをすることは場面展開でしかなくて、戻った後でも新しいことが導入されるというのがあるべき姿なような。

 

いや、リフレッシュするために新しいことをしているのだから人格には導入しないという固持的人格は分かるのだが、それだと共同生活ままならん、もしくは人間関係もか。

 

満月さんの話。こんなこと問答するまでもないし、特にイラついていることもないのだが、随分と素直になっているのだろうなという感じがある。実際はどうでもいいのだが、おそらくずっと食べた食器をシンクに片付けろみたいなことをお母様に言われていた気がする。そうして反発して置きっぱなしにしてもお母様がなんだかんだ片付けてくれていた、みたいな。

 

本日お弁当の容器をシンクに置いておいてねと言うと素直に片してくれた。良いことしたという次元ではなく、僕と居ることで変化したっぽさが素晴らしいなと。実際洗い物をし易いようにシンクで水洗いしておくかとか、シンクに洗い物を溜めておくかとか、合理性で言うと、きっとほとんど変わらない。日常的に料理をしていれば洗い物はしないと次の料理ができないし、細々片付けても一気に片付けてもトータルで言えばとんとん。

 

細々片付けておきたいのは単なる僕の気分であって、別に正解でもないから特にどうとかはない。合わせて欲しいというのもない。毎日していくのであれば昨日が残っていると面倒なというだけ。面倒さはどうあっても取り除けないのは確かだから日常ではなるべく減らした方が精神エネルギーを遣わない。

 

 

ふと思った。大昔の高校から大学1回生辺りの1ヶ月でフラれてきたきた何人かの彼女さん達って、彼女達と過ごした時間の中で僕の変化がなかったところにあるのかもなって。それが合わないとか、考えていることが分からないという評価になる。もう少し考えると、他人に存在として屹立するほどの自分が無かったということになりそう。女性であればむしろここはある意味美点になるかもしれない。僕個人の話ではなく一般論。僕に合わせるだけの女性性は個人的に好みではない。

 

 

なんだか本日の文章はいま流れている食戟のソーマのアニメに寄っているような。経験を自分に集約するとか。影響受けやすい。笑

 

 

やれやれ。

 

幸せは定義ではなく状態であるという回答と一致するのが岡田さんというのが面白い。条件で幸せになれるのであれば世の中幸せ者だらけだと思っていたから、やっぱりそういう風に考える人は居るものだ。

 

これを進めていくと、自己という概念もトータルで時間を引き延ばしていけば定義付けられるように想える。普通はここを他人とは切り離された自己とする。僕は常態として接する友達もいないし、これこそが自己だと定義したくなりそうなものだが、いやいやそうではないとしている。だからもともと在った自己の定義外に動けているし。

 

こんなこと誰も言わないはず。自己は幸せと同じように定義ではなく状態でしかない。細かく言えば、体調悪い時にはとげとげになるし、他から来た虫の居所の悪さを他の弱い人に発散したり、気分が良くなったらどうでも良い人に慈悲深くなったりする。

 

これを言わないのは、人格は個人として確立して独立だというふぃくしょんというか理念があるから。自分を顧みたらそんなの創作でしかないというのは分かりそうだが、自他は分けないといけないという理念もあるし。

 

満月さんは僕の反応が薄いと不安になる感じ。

これも状態なのかなと想う。余裕があれば、本日しれっとトイレ掃除と床と階段に掃除機かけたことも気付きそうだもの。やったことを認めて欲しいみたいな子供じみた感覚はないのだが、見える視界って状態によるよなぁという感じ。

 

翻せば、僕が見えないところでいろいろやってくれている人が居るのが見えなくなるのが状態の悪さ。世界が狭くなるのは視野が狭いのではなく状態が悪いのではという仮説。

 

いま状態が悪いのかというと、肌が微妙に荒れているし隈も出ているから、寝不足ではある。

でも、寝不足でも満月さんにお弁当作れるし、お風呂読書もできるし、ここで文章も書けることからすると、日常に影響はなさげ。これだけできていれば就職しても問題はなかろう。

 

(ほんまかいな)

 

なんだろうな、この感覚は個人的に大事。

他人に自分の状態をしん酌して欲しいというほどの起伏はないのだが、他人の状態の起伏をあんまり気にせずに本質を読めばよかろうなというある意味の安心。

 

こんなこと言いながら、定義していこうとする試みも大事とは思うのだが。

 

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。