だれか

 

 

 

作り過ぎたチキン南蛮。タルタルソースを追加した方がいいだろうか。満月さんが帰ってきたらレンチンして中にも火を通す。揚げないチキン南蛮のレシピを参照したが、小麦粉がなくて片栗粉で代用しようにもこちらもほとんどない。徒歩3分のコンビニで片栗粉を追加。正味、最寄りのコンビニは、店長さん以外水準がそんなに高くないような気がする。あんまり強く言えずに1人でやっちゃう人なのだろうなという解釈。良い店長が良い職場を創り出すとは限らない。

 

コンビニ仕事論。僕は大学時代コンビニで3年程働いたからコンビニの仕事の暇さ忙しさは経験済み。コンビニ店員の水準の高さって、正確性は最低限だが、なんというか、自分が品出しのタスクをしていても店内に居るお客さんがそろそろレジにやってくるという空気を読むことだし、自分でさばききれない量のお客さんが来たらバックヤードで飲み物を補充の仕事をしているパートナーを呼び出してお客さんをさばく判断ができること。いや、こんなのどんな仕事でも同じような気がする。僕が無能だと判断された仕事はいくつかあるのだが、できないことをできるようになる暇もないし、マニュアルがないのに不文律があるとかそういうところ。

 

 

 

さて。

 

チキン南蛮はあんまり作らないからなかなか時間がかかった。これは果たしてチキン南蛮なのかというと定義的にはなんとも言えない。状態的にはおそらくそういう味になっているはず。酸っぱさに黒酢を使えるってなかなか上品に仕上がっていると想像。

 

そういえば、昨日の人格は状態であるという話。もう少し細かく言語化しないと誤解を受けそうだなと考えていた。文字文化って誤解しか起こらないから別に問題はないのだが、僕の中での定義の区分けみたいなところは書いておいた方が面白いだろうなというだけ。

 

人格は性格とも近いところで、どれだけ長く過ごしたところで状態でしかない。かといって、僕が人をこんな風にころころ移り変わる(もしくは習慣化された現実)として見ている訳でもない。例えば前の職場の同期はお花を摘みに席を離れる際、自席の椅子を下げたまま仕舞わない。僕が観測した限り例外は無かった。女性上司がしれっと締まったのは見た。これが人格であって、たぶんまぁまぁ甘やかされてというか、自分の世界だけで生きてきた人なのだろうなというのが読み取れる。もしくは集団生活をしたことがないのか。別に違法でもないし、倫理的にアウトでもないというところにこそ人格が出る。

 

送別会で、先生に「親切だけど冷たい」という人格評価をしたのが、先生は特にこれを悪口とも捉えなかった。こういうのが人格の話。

 

おそらく通常の人間関係ってこういった人格同士の状態の交流だから、そこで不具合とか齟齬が生じる。満月さんも、昨日の食器を片さないところの下りを「どこかで見て来たのか」と、僕が愛想を尽かせることを心配になっていた。たしかに、僕が人との関係を人格という状態の交流で捉えたら、減点が積み重なってでは離れるかとなるかもしれない。

 

ここは、要は量的な関係。量的に自他を捉えることは個人主義に適っているような気がするけれど、こういうのってパートナーがいつ自分より良い人に移るかもしれないという不安と、もっと自分にとって良い人が居るという野望が相俟って、ホッブズさんではないけれど自然状態っぽい。あんまり人間的ではない。

 

人間の醍醐味は外界を時点の瞬間で捉えなくても良いということ。減点方式でも加点方式もよろしくない。もっと時間も空間も引き延ばしたのが人だろうという概念が「存在」。

 

人格が更新されない人はこの水準だと退場した人だが、ここだけで人を捉えることからは進化している。元恋人だってそう。これは人格が相手の世界で更新されているという中間領域だけど、ほんとうに更新しようがない人だって存在としていっぱい残っているのが人の存在。

 

僕の世界から退場した人でもっとも人格交流したいのは父親。これは別にフロイトさん流の精神分析の父性とかではなく、単純に子供として遠慮していない自分と当人で飲み明かしてみたかったなというだけ。ここを語ると、早くに父親が亡くなってお気の毒みたいな一般的な解釈がされるからあんまり言わないのだが、単に存在的な興味だから父子としての関係の話ではない。

 

こういう意味で、どこかに生きている僕と関係してくれた存在の人々の動向はまぁまぁ気になる。存在としていまどういう風に生きているのだろうって。

 

まとめると、人格は関係している他人から見える現象で、存在は見えないところも含めたその人。時間の流れでいうと、人格はいまとか進行形で、存在は時間とは無関係に普遍的。人格は僕にとってどうかで、存在は僕にとってとは無関係という感じ。だからこその人。

 

これ、意味分かる人どれくらい居るのだろう。

 

 

どうでも良いいちゃいちゃ。

昨日日記を書いたあと、熟睡でぐーすか寝ている満月さん。頭を撫でてもぐーすかの音量が変わらなかったので、接吻をしてみた。「うへ」という声と伴に少しだけ音量が収まった。音量を収めるためにしたかった訳でもない。

 

こういうのって。昨今の「性的同意論」からすればもってのほか。どういった関係だろうと同意がない性的接触は赦されない。他人に接吻したら強制わいせつ罪だし、寝ていて意志が消失している人は他人扱い。

 

もちろんこれはこれで問題ない。社会(刑法)の問題を俎上に上げないといけないような関係は構築していないので、たぶん元恋人さん達は僕のことを存在としても忘れていると思う。

 

存在は無意識の領域でもあり、酔っぱらいの領域でもある。

ここには特に論理が無い。最初に満月さんに逢ったとき、寝ながら抱きしめていたとのこと。大丈夫だと捉えたのだろうなと解釈するしかない。まぐわいはなく。

 

性的同意論って、社会的に拒否できる立ち位置を確保したいというのが滲んでいてなんとも言えない。ほんとに極致の犯罪めいた領域であれば同意が問題になるはずもなく、なんとなく雰囲気でそういうことになってしまったという中間で、私(もしくは僕)は同意して無かったという保険を確保したいみたいな。

 

まぁ、あんまりここに居る感じもないから、ここを大事にするのもよく分かっていない。

生理に他人を使うとかそれがないと自分の存在が軽んじられているとか。何それ。

 

 

 

 

最後。

 

お母様印の梅酒が濃くてうまい。

 

 

社会性の話で、おそらく少し前の動画で岡田さんがマスクはパンツみたいなものだと言っていて、僕もそんなこと書いていたなぁって思いつつ。自分の為に装着するものではない。相手にとりなんとなく安心させるためのパンツ。

 

あと、良い人戦略の話が面白い。

良い人にならなくても良いけども、良い人に見えるようにするのが合理的。嫌な人であるという合理性もかつてはあったというのが面白い。

 

マスクはパンツだが、悪口は放屁みたいなものだというのはやや分かりつつ、悪口がほんとに生理現象と一致するのかというは無いと思う。僕も満月さんもぷっぷーしているが、それは生理現象だからなんもない。生理現象を我慢しなくて良いのが我が家。

 

でも、満月さんが一方的に誰かに悪口を言ったら、それは放屁よりはしたないことと窘めるような。正しさに固執している人はきっと僕と生活できない。

 

悪口は放屁より良くないこと。報酬ホルモンが発生するらしいが、対価は何もない。報酬に集まってくる人とだけ関係が広まるだけ。だから集まりって基本的に嫌だ(経験則)。

 

誰かの汚点しか言わない人より、美点を語る人の方が読める

この誰かは当人も含んだり。

 

 

梅酒が濃厚に響いているため、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。