ばいおりずむ

 

 

 

 

雨が降ると紫陽花は元気そうだが満月さんが物憂げ。雨に忌避感というか嫌悪感があるのは、服が汚れるとか手荷物が増えるという社会レベルではなく本能レベルなのかもしれない。ゴリラが雨を嫌がる動画を見かけた。体毛が減った恒温動物にとって体温を下げる外界の条件は避けられるならなるべく避けないと体温維持に無駄にエネルギーを使ってしまう。あと気圧と血圧の相関関係もありそう。

 

ここにも特に教訓めいたものはない。本能レベルだろうが社会レベルだろうが、影響を受けるのは仕方ないというだけ。そういえば社会レベルだと一昔前、僕は飲み会を断れないというのがあった。良い人戦略というか、特に他に優先することがないのに断るのはよろしくないという義務感。もっと昔だと告白してくれた人に悪いから断らないというのもあった(恋人さんが居ないとき限定)。

 

 

そんなこんな2人して遊びに行って凱旋。夜ご飯は出前でステーキとハンバーグ。ベビーリーフとビールはスーパーで買ってきて、ついでにおつとめ品のラディッシュを簡単に甘酢漬けにした。2人して汗だくになりながら(含意はない)、お風呂で読書。満月さんは村上さんの街と壁の新刊を読んでいた。洗いっこして出てきていまに至る。

 

 

さておき。

 

岡田さんが、2023年現在、20代の男性で彼女が居ないのは普通であって、居るのが変だから居ないことは全く問題ないということを語っていた。なるほどたしかに前の職場で鬱っぽくなってやめてしまった20代の男性も恋人は居ないらしかったし、それでも趣味を楽しんでいる感があった。

 

別にここは優越感めいて書く訳でもないし、別にパートナーを自慢する訳でもない。たしかに僕の20代の時代って、俺の恋人の方がお前の恋人より可愛いとか、硯の彼女は可愛くてずるいみたいな言説があったような。こういうのには付き合えないなと素朴に感じて居たのだが、社会がそうである以上、そうじゃないよねとは言えない。僕は別にお金は持っていなかったが大学院に行っていて司法試験を経て法曹になる可能性だけはあったから、女性側としてもステータスにはなりえたから、需要はあったと思われる。それ以前の高校とか大学においては、外面という需要という可能性。知らんけど。

 

で、もはやこういう考え方が通じなくなくっているという話。自我と社会的立場は割と直結していたけども、現代はネット世界が発達したから、自我がどうも薄くなっている。何処かの場所だけで存在できていたとしてもそれだけでは安心できないからパートナー関係は安住の地ではなくて、コストの方が上回っている。

 

いや、岡田さん曰く、2023年現在でも誰かの恋人になる為には、その人の知り合いに自慢できるような人物にならないといけないという感じだったから、僕の論はここからはズレている。僕だったらこういう風に選ばれるのは願い下げ。付加価値なく選ばれた方が面白い。岡田さんもなんだかんだこの社会の成功者だから、視点が微妙に違うのだろうな。

 

独自の視点だと、若者の恋愛離れは恋愛の概念が社会的にほとんど一意になっている窮屈さがあると思う。読書離れと近くて、なんだか良いことだとされているというか、人格的に発展になるという風潮。たしかに人と物理的に近いところで関係することは色々起こるけども、これによって他人と接するのが上手くなるなんてことはないと思っている。どちらかというと、ここで分かるのは他人ではなく自分の存在だから、恋愛経験が豊富だからといって、他人のことを慮れるようにはならないという解釈。

 

豊富な人ほど自分にとっての相手しか語らないのが証左だと思われる。1人目はこうで、8人目はこうみたいな。

 

で、社会自体が一義ではなく存在の拠り所があんまりない現在だと、誰かと関係する前に自分の存在の薄さを自覚しているから、特に自分を分かる必要がない。

 

そうして、人のことを識るという人生劇場の醍醐味においては、自分が登場せずに勝手に他人のことを読めるSNS世界がその欲求をカバーしている。社会という生の肉体が動く劇場だと人は自己保存の防衛本能もあるし、人の振る舞いの中に当人の本質はほとんど出てこない。人の中身という意味では、他人の日記とか表現の方が剥き出しだし、憲法上の表現の自由も人が肉体から離れた内心(思想・価値観)を吐露することで法的な不利益がないことを保障しているし、直に接するよりもナカには近そう。

 

ナカでも集合しないといけないというのはなかなかだが、中にはそういう人も居るのは分かる。僕は別に居場所としてここを遣っているのではなくて、遊び場として動いているだけのこと。

 

 

文学理論の話って書いたっけ。

 

フロイトさんの精神分析と文学解釈が繋がるのは何か違和感があったのだが、なんとなく分かってきたという話。何か当人の理屈に合わない文章を読んだ時、その言葉には当人の精神構造にその理由があるのではないかという解釈をする。これがカウンセリングであれば当人の発話とか行動をその根に向けて解釈しながら当人を回復させようとする。文学であれば太宰治精神疾患があったみたいに他人事にする。

 

ここからシュールレアリスムのあるがままを見出した一群の人達は慧眼。

 

 

ともあれ。

 

こういうのって他人を読むときには普通に行われている気がする。この人は普通だとかあの人は異常だとか。この解釈のとき、自分がそもそもズレているかもしれないということは考えない。

 

 

読み進めている本の中に、村上さんのアンダーグラウンドがある。面白い。あんまりおおっぴらに言うと不謹慎だと言われそうだが、個人的には不謹慎という概念は近いだけという感じがあって、なんとも言えない。だって、突き詰めるとご飯を毎日十全に食べられる時点で全世界的には不謹慎だし、結婚式をやっている場所から離れたらどこかで告別式がされている訳で。

 

村上さんが追求しようとしているのは世界の位相みたいなことで、善悪の次元ではない。実際刑法上の犯罪については激しい怒りがあると書いている。2023年という遠くなった僕からだともはやあまり怒りはない。当時もニュースでやっていたが、ニュースに憤るってあんまり意味が分からなかった。今もニュースは見ないし、ニュースって感情を一義的にこうあるべきだって煽ってくる閉じたところが嫌だった。食卓でこれを語るとしてもまずは怒りとか同情が前提になる。

 

僕が大人になってまず分かったのは、大人は物知りではなく、知っている領域にだけ詳しいということ。僕だって未だにほとんど分かっていないし、一生全部は分からない。

 

し、別に分かりたいがために世界に生きている訳でもない。本を読むのも満月さんと一緒に居るのも単に楽しめるからであって、知識とか頭が生き生きしているのも副次作用。

 

楽しいは存在に対して全く寄与しないのが良い。

この次元で僕もそろそろ他の軌道があるかもしれない。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。