仮面の作成元

 

 

 

カシワバアジサイの名前を知ると、今まで気づかなかったところに咲いていたことに気付く。家のドアを開けたすぐ近くにも咲いていた。

 

 

さておき。

 

類型としての血液型論はあまり好きではない。人間は4類型に分けられるはずがないという当たり前の論理。ただ、そうやって言い聞かされることによって、性格がそういう方向に矯正されていくということはありうるから、結果的には血液型によって性格が決定されると思っている人ほど、言われている性格に寄っているということが起こる。

 

という言葉を前に置いて。

満月さんの周りにはAB型が多いという会話。ちなみに僕もAB型。AB型って二重人格とか奔放とか言った印象がある。話題に挙がって来た2人の人物も良い時と悪い時で別人のようになるとのこと。前置き踏まえると、その人格の乖離を周りがAB型だからしょうがないよねという雰囲気を醸したのではという説が出てくるところ。たしかに、僕も10年くらい前は、バイオリズムで上がっているときと、落ち込んだときの人格がほんと別の人なのではないかというくらいで生きていた。直近の元恋人さんには落ち込んでそうだから自然公園に行こうと言われたくらい。

 

ただ、この時期は、暗黒期からの夜明けみたいなところでどんな気分もそのままにしておこうという感じだったから、厳密には乖離ではない。乖離していたのはこの時期も含めたもっと前で、お酒呑むとスイッチが入るということだった。ここで保身してもしょうがない。その時期のスイッチには、割と悪いものもあった。悲痛の為に飲む酒は傷口に塩。いまは楽しく飲んでいるしかない。

 

原状は一回そのままにして統合した。ある意味自己カウンセリングみたいなことを経ている。外に対して気分によって人格が変わるみたいなことがない。変わるとしたら状況によって見せ方が変わるだけで、こんな仮面は誰でも使い分けているだろうし。もちろん内心の浮き沈みみたいな気分の機微はあるが、気分によって誰かをないがしろにするのは違う。

 

 

人格は状態であるという話を書いたが、ペルソナとしての人格は、セーブポイントみたいに固定された人格なのかもしれない。こういう場ではこういう人格(性格)の自分を演じれば問題ないみたいな。これって主軸としている人格があればそこが抑圧されているという不具合を感じることになるはず。僕はあんまりそういう不具合はないのだが、頭が空っぽになって文章脳とか読書脳を無意識が閉じているという感じあるからどっちもどっち。

 

 

あんまり意味が分からなくなってきている(いつものこと)が、ペルソナをどう扱うかという意味で、もう少し穿つと面白くなりそうだなと。人格を発見するのは誰かと具体的に関係した時で、その人格を自己するのかどうかは他責にできない自己判断になる。共通に名前が貼られた症状とか症例とか単なる普通の人みたいなことは自己の主軸とはなりえないが、そこを主軸にして居る人もいるのは分かる。あんまり劇場が面白そうではない。

 

僕の主軸は読書脳とか文章脳とかその辺り。思考は勝手に起きるから、思考している自分が固有のペルソナみたいなことはない。思考を主軸とするのって、考えていない人を見下げるようになりそう。ならない人も居るかもしれない。僕が見下げるのは人生劇場に他人が居ない人なので、人が居るという時点で考えている人。

 

想像が欠如している人はだいぶやばい。

想像力って、自分の外の話だが、ゼロベースでは想像しようもないから、大人になればなるほど他人に寛容になれるというのは我が身だとありきだと思う。ここのところ毎日アルカイックに笑って過ごしているし。

 

 

やれやれ。

 

人のことは分からないし、自分のこともあんまり分かっていないのだが、今日の文章を書いた感じだと、気分の統合はほぼできているから、次は読書脳とか文章脳を日常とする意味だと思われる。これが対話脳になるのか。

 

読書は一方的に自分が読める訳ではなく、自分がどう読めるのかが読みながら読まれているし、文章を読み返さないのは、書いているときに読んでいるし。

 

この水準で誰かと対話できるという感覚が全くなかったのだが、満月さんならありうるのかなという感じが起こって来た。読者でありながら、僕の実生活の言葉についてのちゃらんぽらん性も受け入れてくれているし。

 

 

仮面が全くない自分でどう生きられるかが次の次の世代くらいなのかも。何を成したとか成してないとかとは無関係な自己の人格を標準とできるのかどうか。

 

これは楽して生きられるという理想郷とは反対方向だから、自分で居られない人にとってはしんどいことなのか。バーチャルに世界の主軸が移行すれば、イケメンでも美女でもアバターはやりたい放題で、美の価値は薄まる。匿名的な美の世界で問題になるのは、そのアバターで生きている当人の中身になる。

 

あれ、これって、結局もともとの人類の歴史と変わっていないような。

 

世の中が地獄に見える人にとってはずっと地獄だし、ユートピアに見える人にとってはじずっとそう。遊び場だって言うと不謹慎と言われそうだが、遊びってルールがないと成り立たないし、ルールの不自由性は不可欠。

 

 

なんだか本日全くまとまった意味を書けている気がしないが、ここまで。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。