ポケモンマスターになれなかった。

 

今朝満月さんが何かを探しているときにゲームボーイカラーポケモン初代緑が発掘された。僕の初ポケモンも緑だったためやってみることに。たしか最初はゼニガメを選んだ気がする。序盤楽なのがフシギダネだと知るとそれを選ぶようになったのだっけ。ハードモードにしようとヒトカゲを選ぶ。トキワの森での初エンカウントでピカチュウLv5が出てきて瞬殺される。その後、トキワの森までで捕獲できるポケモンがちょうど5匹(ピカチュウコラッタ、ポッポ、ビートル、キャタピー)だから、全部捕まえてレベルを上げてタケシ戦の準備をしようとした途端に勝手にリセットされ、さいしょからはじめるになった時点で心が萎えた。本気でやろうとしたら電池を新品に入れ替えてノーセーブRTAくらいの心意気になる。

 

小学生のときに山道を帰宅しながらやっていたなーと懐かしかった。当時はごり押ししか知らなくて、序盤は最初に選んだポケモンだけでやっていた。レベルさえ上げれば弱点でもなんとでもなる。

 

大人でもゲームにハマるってなんとなく分かる。単純で難しいから。アクションは操作がむずいし、RPGはレトロなほどマニアックだし。単純というのは現実ほど変数がないという意味。現実だと目に見えるように成果が出てこないことがゲームであれば自分の操作精度とかレベルとかで可視化される。

 

アプリゲームにハマる現代人は、閉じたゲーム世界でやっているというより、現実的にやっているのかもなといまふと思った。課金で色々省略できるのはなんともリアリティ。お金と交換するものは価値がないといけないというがそういう現実設定だとは思うのだが、世の中の設定自体は所与のものとするというのが、人生劇場として楽なのかもしれない。

 

課金せずにこつこつできるのは好きなのだが、課金したら強くなるみたいな広告が出ると萎えてしまう。ちなみにぴよ将棋というアプリは気が向いたらAIと将棋できて課金でスキルとかないからアンインストールはしないと思われる。ゲームって自分でやるものだし。やっとこさ64スマブラがやってきそうでやや楽しみ。

 

人生も自分でやるもの。

 

 

さておき。

 

昨日日記を書かなかったのは、この地域の大雨の影響。徒歩数分のコンビニに行くために足首やや上まで来る川を渡らないといけないとは。ただ、たとえ晴天の夜だったとしても、あんまり変わらない気もする。日記を書く条件の最優先の前に、たらふく呑んでも良いが、あまり遅く寝てはいけないというのがあるらしい。たらふく呑んでも遅くならなければ次の日は問題ない。

 

凄くどうでも良い大昔の話だが、荒れていた頃、他人のことがどうでも良い知人と付き合っていて、初仕事の前の日に朝まで飲んでいったことがあった。やべぇ人だがこのお店が閉店するまでは働けたから乗り切ったらしい。

 

このやばさは、別に相手が悪かった訳ではなく、僕が自己防衛しないように社会的に自傷気味だったところ。暗黒期な感じ。色々事象としては覚えているし、遅刻も結構していた。時間の感覚がなかなかやばい。ぎりぎり社会時間で生き延びている感じ。

 

その後、次の職場で夜勤なぞも経験したが、夜勤ができるのは自分時間がきちんとしていないとズレていく。その時期にたまたま行政書士が取れたから、その職場を離脱する理由にできた。理由がないと辞めることを説明できないというはなんとくやばい感はあるがともかく。

 

暗黒期は思春期の延長なのかと考えていて、いずれ収まるのかと思ったがそんなことはなかった。別に自分が社会的にどういう立ち位置にあるのかというのは分かっているし、ただ、自分がどう在るのかが問題になるところだから、自分がどこかに居場所があるとか欲しいとかではない。

 

考えていくと、案外暗黒期のままで一生を過ごす人は多いような気がする。他人が自分の枠内に居ないとその人は関係ではないとか、自分にとって心地いい他人が有用だみたいな。

 

具体的にはもうちょっと母親に傍若無人というか、小躍り的に関係しても良いかもなって。あの人やたらと問題を深刻化してくるので話すだけでげんなりするのだが、僕の陽気でなんとかなるかもしれない。

 

深刻に見るかどうかって結局客観ではなく主観だし、客観は何かと深刻化したがり。だって対象を不安にさせた方がコントロールしやすいから。私が居なくなるかもしれないって不安を煽るような言い方は当人がほんとうに必要なのではなく、自分にとって確保したいという心理な気がする。僕はそこでは煽られないらしい。もっとも長く過ごした恋人さんが最後に、もう私と会えなくなるんだよと言われたがそこには響かなかった。その人が僕とまだ会いたいというニュアンスだったら分からなかったが、なるほど、舞台がそこなのかとなって、もう良いかと。2回目のお別れできちんとさよならになったのか。

 

満月さんは本気の文学脳になったら生活がおろそかになると心配しているようだが、最低限仕事は行けるはずだし、どの程度で言っているのかが分からない。さらに先の作品ができ上がるのであれば、別に仕事しながら生活の最低限くらいはカバーできそう。もちろん、僕も日記を書きながら。

 

 

やれやれ。

 

時間は何なのかというのは哲学。哲学って答えが無いからそれらしくするというか、一応誰かが使っているという意味で横文字を遣うと岡田さんが言っていたが、そもそも引用が全くない言葉なんて公的には遣えない。満月さんには独自創作の単語を使っておるが、伝わるかどうかの話でもない。意味をいちいち聞いてくるのが可愛い(のろけ)。

 

意味が他の人にも共有できるという実存感は社会としては分かるのだが、個人としては分からない。時間の意味は枠内でどう過ごすかという話であって、時間を遣ったら何かが対価として返って来るみたいなことではないし。

 

時間と対価の一般的関係を定義する言葉は努力とか、年上年下とか。

 

別にここはなんでもいいのだが、この時間を越えられる人とは接してみたいよなという話。僕が経年によって自分の価値を見出していないから、良い意味でも悪い意味でもそれだけで価値を感じない。片手間で文章を書いているような人もどうかと思うがそこは人情。

 

人情は存在というより愛着なんだよな。

いや、僕と相互であることに愛着があるような人は居ないだろうから、そろそろ整理すべきか。更新に出てくるのではなく、AIが選んだたまたま出てくる記事くらいな。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。