人酔い

 

 

 

朝ごはんを食べたのが14時になる満月さんの休日。2人してお腹を空かせながら、ポケモンのレベル上げ。ソウルシルバーはやったことないのだが、銀のリメイクだったらしく、銀は途中まではやったことあるから、なんとなく雰囲気が分かる。もう1つプラチナのソフトがあって、しかも357匹捕まえている状態だから、初めからするにしても通信でソウルシルバーに強いポケモンを移してからの方が良いのではという強欲。

 

ゲームボーイの方の緑のセーブデータが消えるのはソフトの劣化ではなく内臓のボタン電池が切れている可能性。入れ替えにははんだごてが要るらしい。できないことはなさそうだが、再起不能になる可能性もある。

 

 

そうして、昼ご飯は近所のイオンモールインドカレー。カレーの量が少ない気がしないでもないが、食べ終わってみるとむしろ満腹。凝縮されているからお腹に残るのだろうな。その後は満月さんの服巡り(一瞬)と父の日のプレゼント探し。母の日もプレゼントを送って居たし、よくできた娘だこと。

 

買い物をしていったん帰って、ハードオフにDSの充電用のアダプタを買いにお散歩し、そのまま遊びにいって少し負けて21時に帰宅。お風呂読書の時間は確保していただき、その間にコロッケとマーボー春雨を作っていただいた。

 

 

日記時間も確保させてもらっている。後ろのソファーで寝転びながらレベル上げをしている満月さん。

 

 

やれやれ。

 

楽すると衰える、楽しむと生きる。

 

 

ここのところお風呂読書で気になっているのが、世の中の価値観の転換がいつ起こったのかというところ。満月さんはシュールレアリスムの視点から「眼」のことを修士論文で書いていたが、この「眼」ってまさに価値観とニアリーイコールなのだろうなと。

 

立場とか役割とか色々言い方はあるけれど、これだって誰か(もしくは自分)からまなざされている訳で、目線やら視線という位置を設定する座標があって初めて生まれる。本日本屋さんで詩の棚に行ったとき、最果さんの詩を読んだのだが、この意味で眼が1つしかない感じ。満月さんは怒りを含むほどに苦手らしい。僕も開かれていない眼の文体は好きではないから読む気にならない。自分の眼と一致していれば好きだという需要は分かりみだし、現代に流行るのも肯ける。

 

詩のことは分からなくても、読む言葉についてはほぼここ10年くらい皆勤賞だから、どういった眼で見た描写なのかはなんとなく分かってくる。

 

松尾芭蕉の有名な「古池や蛙飛び込む池の音」という俳句が生まれたのと、ニュートンのプリンピキアが生まれたのは1年違いらしい。これは日本文化の本。物理的世界と精神的世界の対比みたいなニュアンスで書かれていたのだが、個人的には説明の仕方の違いくらいなのではという感じ。たしかに数式だと分かろうとすれば凡人でもなぞれるし、行間がないという違いはありそうだが、数学の天才がどうやって世界を見ているかどうかがそれで終える訳でもない。

 

古池やという俳句の方も、一般的な解釈としては寂寞みたいなところだが、これには前後があって、悟りを開いたときの心持ちの言語化という説があるそうな。個人的にはこちらの方がなんとなく分かる。何にもないところから、何かが起きて初めてそれに気付くみたいな。これは見ようとして発見できるものではなく、ニュートラルで見えるもの。

 

 

境界例というカウンセリングの実例の本を読んでいても、役割の視点が目に付く。ある家族で子供が親に暴力を振るうという症例で、実は家族全体が要治療対象だったみたいな事例が紹介されたあと、専門家が話し合うパートで、貴方ならどうしますかというなり、私なら母親を治療者と設定しますとか。たしかに病んでいるとされている人は役の分担が上手くいってないような気がしないでもない。

 

文学が人の眼を顕在化しているというのは一種ありそう。だから文学理論にフロイトさんやらラカンさんやらメルロポンティさんが出てくる。個人的に新鮮に気になっているのがラカンさん。結構「眼」を問題にした精神分析をしているのではないかと紹介されている文章を読んで妄想している。フロイトさん流だと人の文は当人の精神構造に寄っていくのだが、ラカンさん流だとテクストの精神構造を見ようとしていて誰が書いたかは問題とならないのではないかって。

 

文学入門界隈のフェミニズム理論は不公平感を前面に出してくるから苦手だったのだが、この本だと読めそう。言葉によって規定された場所が現実であるという印象を動かしたかったのだろうな。言葉狩りをする意味を僕はあんまり感じないのだが、言葉は言霊だから多少の影響はあるかもしれない。動かすべくは印象より現実であるのが効率的な気はする。例えば教育で言えば悪影響がある番組を見せないようにするのではなく、親である当人が子供の悪影響にならないこととか。

 

この「眼」と価値構造の話は、一般社会に通底しているような。法律もそういう風に読むようにすると、なかなか面白い。法律上の人って抽象化されていてほとんど事情が問題にならない。外に出てくる現実的なものであればしん酌されるけれど、いちいちしん酌していると国家の三権がパンクするから、対象となる事象を抽象化しないといけない。人がやっている以上恣意的な判断は0にはならないけども、人ではなく法が国家を規律している建前である以上、判断基準と結果は法律で決めないといけない。

 

法律という眼は、凄く解像度が低くてぼやけている。ぼやけているからこそ広く薄く網にかかるということであって、誰でも一律にそうなる訳でもないという。ここの眼のことはもうちょっと探ってみたい。刑事系はともかく、民法系の方。そういう法にしていることでメリットがあるから続いている訳で、既得権益だけの問題ではなさそう。

 

という感じで、世界がどう見ているのかというのは当人のあるがままなのだろうなという説。

 

満月さんがジム戦をしているのが気になるのでここまで。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。