自分は誰のもの
22:04から。
昨日の日記、何か変なこと書いたかな。引っかかる人が多かった模様。ちょっとびっくりしたけれど、まぁ、楽しく読んだ方がたくさんいたのであれば重畳(ちょうじょう)。
本日はなかなか時間が長かった休日。
充実しているということ。いや、時間が短くても充実なのだが、無為(むい)に過ごしてもう夕方になるのとは微妙に違う。
満月さんが日中お母様と電話をしていて、硯の文章は難しい漢字が多いから振り仮名を入れてくれという要望(ようぼう)があった。お母様も貴重な読者さん。どの漢字が読めないのかは読めないから、適当に振ることにする。
もっと自分を登場させてくれとの要望もあったが、血は争えない(笑)。
昔は生活圏の人に読まれるのはなんともなぁと思っていた。文章は排泄物(はいせつぶつ)だったり、王様の耳はロバの耳だったりの暗がりの領域だとしていた。今は、別に生活圏の人に見られても恥ずかしくないというか、大丈夫だなということしか書いていない。
なんなら仕事場の人が読んでも特に問題ない。
明るみに出た文章というよりは、あんまり暗いことを文章化していないというか。他責にした世界だと誰が善いとか誰が悪いとかになるけれど、そういう認知の世界ではもう生きられない。全部に感謝とまでは言えないけれど、世界は鏡だし、認識は主観だよなという世界観にはなっている。
あと、お母様になんでそんなに難しく考えるのかみたいなことも言われた。
個人的には物事を考えること自体が難しいというか、単純にこうだと一言で表現できるほど世界は単純ではないというだけであって、実生活上の僕が小難しく物事を考えて行動を抑制しているという訳でもない。
理由を問われると答えに窮(きゅう)してしまうのだが、そういう風に世界を捉えているだけ。
本日まだまだ書くことがあるのだが、全部書ききれるかしら。
日中は朝ごはんに吉野家の牛丼を食べ、昼前に精文館でスケジュール帳を購入して昼ご飯はラーメンを食べ、そこから1時間ほどお散歩しつつケーキを買った。歩数は7000歩強らしい。
雑い日記を終えて、ここからが本題。
満月さんはお仕事の何某(なにがし)でダメージを受けていたもんで、夜ご飯の7割くらいを担当することになった。カプリチョーザのトマトとニンニクのパスタの再現レシピと、ローストビーフとレタスのサラダ(自家製ドレッシング)。
お仕事の話だから細かくは書けないけれど、話を聞いていると民法上の瑕疵担保責任(かしたんぽせきにん)の話と企業の独自倫理のコラボレーションだよなと思う。
民法上のルールって最低限。今はもう瑕疵担保責任ではなく契約不適合(けいやくふてきごう)責任という呼び名になっているかもしれないが、要は、契約で合意された物が何なのかという話。目的に適う(かなう)どういう機能とか性質を持っているかということで、例えば食べ物だったら口に入れることができるまでは保証されなくてはならないとも言える。
ただ、この辺りも微妙なところ。何かが混入されて食べることができないのであればそりゃあ提供側の問題だが、無農薬栽培(むのうやくさいばい)のレタスに虫が入っていたとしても、そのリスクは買主が負担するのが当然な気がする。
この気がするというのが共同して構成してきた社会認知であって、これが常識と呼ばれたり、正しさと呼ばれたりする。
変な認知の人って、こういう社会的視界が無いのだよな。
あくまで世界を自己都合で捉えていて、自分(側)の否が無かったことになって、あくまで自分が悲劇の主人公になるというか。悪いのは自分ではなくて世界だという人生劇場。こういう人ってどこかで罰が当たるというか躓く(つまづく)だろうから、衝突(しょうとつ)したとしても、不可抗力だと思った方が良い。交通事故みたいなもの
で、認知の話の応用編。
僕はX民ではないから進行形で読んではいないのだが、大学で鍋をして賛否両論(さんぴりょうろん)の論争が起こったというお話。
満月さんは鍋自体について別に何とも思わなくて、教授の考え方が面白いと。お母様はいやいやでもおかしいよねと。大学教授の趣旨としては、自由とは0とか100ではなく塩梅(あんばい)を測っていくものだとの言でたしかに面白い。ほんとになんでもできたらそれは自由ではなくて秩序がないだけ。ホッブスさんのいう闘争(とうそう)状態。
僕はというと、この状況を作った教授ってどんな人だろうと論文を漁る(あさる)変人である。文学とか美学とか法学にかかっているポピュラー音楽が研究分野で、修士論文が出て来てうほうほしている。音楽と著作権の関連って法学分野からはあまり出てこない視点だから面白くて仕方ない。
著作権を物体に対する権利として捉えるのはなんとなく無理筋だと思っていたところの考察が読めそう。活版印刷と音声データがコピーされる現状の中で、作者の何が保護されるかというお話。
ここは考察中なので置いて。
自由の話。
大学の講義室で鍋をするって普通に考えたらアウト。ただ、当の教授がそれをしても良いと言っている以上、やっても良い範囲になっている。大学という場ってちょっとした治外法権(ちがいほうけん)だし、大学の規則と教授の裁量がとんとん(だと思っている)。
賛の方の意見はどうでも良いとして、否の方の意見としては、大学とはそういう場ではないとか、他人に迷惑だろうという見解がでてきたと想像する。お母様はブレンディな感じの反対意見だった。
たしかに細かく考えれば、鍋の肉の匂いで気持ち悪くなっちゃう学生が居たとして、この講義はここでしか聴講(ちょうこう)できないとなれば、迷惑が具体化される。不謹慎な漫画をあえて見て不謹慎(ふきんしん)だという空間とは次元の具体性が全然違う。
でも、迷惑だっていう論陣(ろんじん)を張る人って、ほとんどが誰かが具体的に迷惑がかかっているという想像ではなく、自分が嫌だから公共が迷惑するという認知だと思われる。だいたいは正しいと思うけども、別に他人を慮った話ではないよなとしか。
あと、大学はこうあるべきだという見解も、別に鍋をしても研究してればええじゃんと思うだけ。研究者とか大学で勉強している人達は真面目であるべきという世界観も外からの視界だよなと。
満月さんとお母様は学費の負担の話で盛り上がっていたけども、そういうことではないのではと思いながら聞いていた。そんな外から見た舞台の話ではなく、大学の内側の世界がどうあるべきかというちょっと一般的なところから外れた舞台のこと。
大学は受動的に採り入れたところで研究者になれるところではないし、新卒としての就活資格を得る場だという認知だとすれば、そりゃあ波風を立てずに卒業だけすれば良い。
僕は一般人の立場で色々考えているだけであんまり何かに特化した研究者にはなれないから、てきとーに漂流(ひょうりゅう)させるだけ。
認知と認識はだいたい一緒の意味で書いているけども、無意識で書き分けがあるのかも。
独立した自分が存在していないという認識があるのが社会的な立ち位置として最低限なのかもな。時代が変わっていたら今の自分は在り得ない、みたいな。これでアイデンティティが揺らぐこともないのが不思議なところ。
どうだろう。適当にふりがなを振ったつもりだが、お母様には読めただろうか。
これでまだ読めないということであれば、試行錯誤が更新されるだけ。
はい、ここで終わり。
おやすみなさい。
良い夢を。
キャンペーン
22:21から。
早上がりの満月さんがメンタル的にノックダウンしたため、お料理当番が急遽交代。サムゲタンとチョレギサラダをこさえた。仕事が早くて我ながらうまい。参鶏湯は生姜が利いている。
交代したからどうという気持ちも無い。帰ってきたらご飯ができているというのはとてもありがたいことだが、作っているのは人間だから調子の浮き沈みは当然ある。僕が自炊できるようになっているのはこういうところでカバーしたいなと思ってきた結晶という節もなくはない。
お仕事。
頭で試行錯誤している訳でもないが、スーパー事務の人に成長しているねと褒められた。もうあんまり詰めることが無いみたいな。たしかに、この人に言われそうなことを潰すというのは自然とやっていた。もちろん言われた嫌からやっとくかという意味では無い。これをやっとくのがこの仕事の正道だよなという意味合い。気分とか状況でブレないアドバイスをしてくれる人ってありがたい。
たしかに圧はあるのだが、これは仕事でやるべきことをやれていないよねという圧であって、重圧ではない。これを当人は「愛」と表現していたが、かなり精確な表現だと思われる。
大人同士だし、言ったら育つ人にしか言葉を尽くす甲斐が無い。甲斐が無いと認識したらやんわりおだてるくらいになる。冷静に叱ったり詰めたりしてくれる人は愛がある人。
先輩女子はスーパー事務の人から圧を感じないと言っていたが、世代の関係で圧を抑えているのだと思われる。愛の鞭では響かないから、褒めて伸ばすようにしているのだという想像。
僕は店長からの圧もスーパー事務からの圧も特に怒気がないから吸収して可動域拡げようと思うだけ。
Z世代のことはあんまり分からないが、あんまり正解のルートが無いのだと思う。
多様性は良いことだとしても、なんというか本線が無い世界になりつつあるのだろうなと。
結婚とか正社員に就職とか、一昔前はなんとなく到達点みたいになっていたことがあまり意味を持たなくなってきて、冷静にそのルートを眺めたらデメリットもあるのではない? みたいな。
これに対して旧世代の人は答えを持たない。
自分が辿って来たルートだけが全てだと思っていたら話がズレてくる。
この前浜松で飲んだ知人は子育てにおいて冷静で、これからの時代は自分で決められるようにならないといけないけども、我が子はその点が上手くないと言っていた。学校の先生に対しても結構ぼろくそ言っていたが、先生が従うべきルールである学習指導要領って時代遅れとまでは言わないまでも、学校で教えることが全知みたいな権威的なところで育った人が伝統的に作っているから、学校が教えていることが最新ではないなんて言えないし、不信感を持っている先生も従うしかないから、なんとも言えない。
今の時代の学校の先生って凄く微妙な立場だと思うのだが、どうなのだろう。
今度満月さんの幼馴染の先生をしている人に会った時にもっと掘り下げてみたいところ。
個人的には多様性という言葉自体が、本質的に人それぞれを認めていない気がしているので、僕の中の辞書にはこの言葉は入っていない。
あんまり自分の言葉として使ってはいけない言葉だろうなという認識。個人のバリエーションなんて個人個人で異なるし、特に高尚な言葉を使う必要も無いような。
こんなことが書けるのも、あんまりここに刺激を受ける読者さんが居ないだろうなという前提があるからこそ。別に正しさを信奉することは構わないけれど、正しい世界観って、そこから外れた人に怒って良いとか攻撃して良いということに転化されそうだからあんまりよろしくない。というか好きではない。
いや、何か質問とか気になることとかあればコメントはウェルカムだけども、正解警察みたいな人は遠慮したい。語用とか誤字とか。僕の文章はWebライター系のお小遣い稼ぎのところに載せると指摘満載でNGになる。実際やったことがあるのだが、当時は窮屈で仕方なかった。
どうでも良いけれど、読んでくれている人が書いた文章にコメントするキャンペーンしようかなとふと思った。思うところがない文章を書く人をフォローしていないし、これも縁だからご挨拶みたいな。自己開示キャンペーン。迷惑かもしれないし、特に返信も求めていないから、コメント付いていてもスルーして問題ないです。
岡田斗司夫さんの発言の流用だけど、ちゃんとした文章を読書することは体験になるとのこと。この文脈は編集者が入って市販されている文章だけど、別に市販されてなくても体験として食べられる文章はある。
僕の文章もそれくらい人の栄養源になれればと思うが、そこまで読み手を気にして書いてはいない。気にしているのは日本語的に読めるような文章を書くくらい。口語的なのか文体的なのかは微妙。
ただ情報として読める文章を眺めるのであれば、SNSは見なくていいし、自分が調べたいことをグーグル先生に聞けば、回答は出てくる。料理とか、仕事場で知らない単語が出て来たときに僕も良く使っているツール。「名古屋巻き」とか。
最終的には、他人は情報ではないということに至る。
情報だと体験にならないし、あくまで自分の世界観の中での登場人物。
他人を情報にしている人って、なんとなく分かるような。分からない?
満月さんの世界観はだいぶ変わっているような読み味なのだが、きっと当人分かっておらない。情報じゃない人として認識されているかは定かではないが、この人と一緒の人生劇場はもっと楽しくなりそうという楽しみがある。
愛だけでは共同生活できないけども、この人なら一緒に人生劇場楽しめる感。
僕は人との縁は情報じゃなくて体験だから、いちいち覚えてしまう。
体験と情報の違いは考察すべきだけども、ここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。
エネルギー効率
22:03から。
満月さんがお仕事なので僕が家事当番。
リクエストのソース焼きそばをこさえ、サラダはおつとめ品のロメインレタスをオリーブオイルとチューブニンニクで炒めてしんなりさせて、塩コショウと粉チーズで味付けした。ついでに副菜はこれもおつとめ品の小松菜で麺つゆ胡麻和え。
どれもうめぇ。本日の食材の原価、合計で500円くらいだと思う。
金欠生活もまた楽しい。
生活水準が向上しないのは、どんな状況も楽しんでしまうからだろうな。
まぁ、結構好転の兆しもある。
また本を買えるようになったら楽しみが増えるし、余裕があることを当たり前に楽しむこともできると思われる。
満月さんには若干苦しい思いをさせているのかもしれないが、お弁当スキルが向上しているというか、朝活の行動力がすこぶる向上していて素晴らしい。最近お腹が空くようになったのは、彼女の美味しいご飯を食べる機会が増えて胃が元気になっている説。仕事終わりにはエネルギーが枯渇している感じがある。お仕事でカロリー消費が増えている説もあるけれど。
お仕事。
成果が1つおじゃんになったのだが、あの感じでおじゃんになるのであればあまり関わらないで良い人だったのかもなと解釈する。ごりごりの営業マンだったら酸いも甘いも全部囲い込むくらいの感じにならなきゃだが、僕にはまだ早い。
これも1つの経験値。
ゲームではないのだから、経験でレベルアップなんてしないけれど、可動域というか予測範囲が拡がるよねというお話。
駄目かなぁと思っていたお客様がまたやってきてくれるという事象も起こる。ここはなんでかよく分からない。ちょっと悲観的に接し過ぎてしまったという後悔案件だったのだが。
まぁアポ無しで来てくれて1ヶ月ちょい越しの2回め来店でも名前が出てきたから、気にかけているという印象が伝播した可能性はある。
人間って全然よく分からんなぁ。
情報がどんどん更新される。
という世界観はやっぱり内側からの鏡。
21歳の頃、就職活動がしたくなくて大学院受験を選んだという主観からすると、今営業の仕事をしている意味が分からないが、情報が更新されてくると必然だったと思うことができる。社会から乖離したところで溜め込む期間が必要だったのだろうなと。なにせ、今から転職ってなったとしてもおそらく特に問題なくこなせそうな気がするし。
情報の更新と言えば、読書感想文で箸にも棒にも掛からぬ人材だった僕の文章が、ネット世界で変人(良い意味)の目に留まるようなところに至っているのも、当時の僕からはありえない。文章って何を書けば良いのだと思ってあとがきをコピペしまくっていた僕と、一筆書きで原稿用紙5枚分くらい書く僕は、個人的な感覚だとレベルアップした訳でもなく同一人格であって、単に情報が更新したという解釈。
(今、読書感想文を読み返したとしても同じ文体だと思うに違いない)
ただ、移動しているのは確か。
移動と言えば、読書は移動に最適のコンテンツ。
岡田斗司夫さんの言だと読書はトレーニングであって、ネットの情報収集は散歩みたいなものだとのことだが、散歩をしない人の見解だと思う。眺めるだけの情報は糖質過多のお菓子みたいなものだという話は分かりみだが、散歩は眺めながら自分の身体も動かしているからニュアンスが異なる。
ともあれ。
お風呂読書で読んでいる本の中の詩のジャンルで、宮沢賢治さんの「春と修羅」が引用されていた。最初に読んだのが6年前くらいで、さっぱり意味が分からなかったのだが、本日時点だと結構読めてしまう。解説の文章が上手いというのももちろんあるけれど、生でも十分。
心象スケッチとか四次元とか分かりみ。
見た景色を描写しているのではなく、景色は心象化されるものだし、時間とともに移り変わっていくものだし。
読み返し枠に宮沢賢治さん全集を加えよう。
こういう視界で読めば「銀河鉄道の夜」も印象が変わるかもしれない。
僕の文章も日記的日記を書いているようで心象スケッチだよな。
日記と心象スケッチの違いは、記録として共有して欲しくて書いているのか、単なる車窓からの景色であって特に共有を気にしていないのか。
凄いどうでも良い話だが、神秘系の本で、経験はたしかに大事だが、経験とは別に体験を捉えられるようにならないといけないというのは、割と分かる。経験は今の体感を解釈するものさしであって、経験の延長に体験がある訳でもない。
なんだか意味が分からないことになっておりますが、今日も僕は元気です。
おやすみなさい。
良い夢を。
装飾無し
21:43から。
目が回るような忙しさ。
ここを越えたら随分と経験値が付くだろうなと思いつつ、きちんと成果も上がっている。
自己分析すると、今回のお客さんは波長が合ったと思われる。
1人はオンラインだったのだが、画面越しに生活の臨場感が伝わるように努めた。
特に変なことを言ったつもりはないのだが、お客様が良く笑ってくれたのでたぶん変なことを言っていたのだと思う。お客様も何か変なことを言っていた気もする。
他人の車に乗ってうとうとしてくれるとか素晴らしい。車は今のところ持っていないけども、運転中に自分だけがしんどい思いをしているとかはない。カロリー消費は激しい気がするけども、気を遣われても嫌。寝たければ寝れば良いし、景色を楽しみたければそうしてくれれば。
このうとうとしてくれたお客様は、読書もしていて良いこっちゃと思っていた。
何を読んでいるか聞いたら、重松清さんの「青い鳥」とのこと。重松さんは「流星ワゴン」が好きだと言ったら、この作品が初めだとか。好きな作家を聞いたら、「なぎらゆう」さんらしい。ヒューマンドラマしか読まないって。
このジャンルって、どういう話だっけと「?」が浮かび、話を盛り上げるには至らなかった。
今ちらっと調べると一昔前に読み漁っていた気がする。たぶん、既読が結構重なる部分もありそう。読み過ぎてタイトルも作家さんも出てこないジレンマ。ジャンルとしても読んでいないから、ジャンルで問われても、この小説がこのジャンルになるという括りがない。
僕が好きな作家は村上春樹さんって言ったら、「ミステリー」ですか? と聞かれて、たしかにミステリーと言えばミステリーだしファンタジーでもあるともごもごした。たしかにヒューマンドラマは起こらない。
ちょっと脱線したから戻して。
スムーズな運転に神経使うって結構楽しいかも。
どうせ信号は続いているのだから、1つ頑張って越えたとしても一般道では次の信号があるわけで、急いでも到着時間は誤差にしかならない。
昨日書いたちょっとふざけた方が良いというのは、本日店長に「もうちょっと羞恥心を無くして相手に踏み込むようにした方が良い」というアドバイスに現実化された。
羞恥心かぁ。たしかにそういう風に観測されるのは分かる。「人見知り」と評されるのも同じ枠だと思う。ここも自己分析してみると、僕はそんなに恥ずかしがる質ではないのだが、なんとなく空気感に合わす節があるから、基本的には場を動かさないように振る舞う。これが恥ずかしがったり、人見知りだったりでもじもじしているという風に見受けられることになる。
結果的には同じだが、過程が違うと分析できれば、結果は如何様にも変えられそう。
空気は大事だが、1番大事なものでもないということ。何を最上に置くかというのは人それぞれだけども、結局は自分軸なのかなという感じ。
僕の自分軸で場を回したらめちゃくちゃちゃらんぽらんになるし、論理も社会も実感ではなく舞台設定に落ちる(ここの文章みたいに)。だから、羞恥心とは別に空気を読んで大人しくするという傾向が強いのだろうな。
いや、最終的には羞恥心と空気を読むことはほとんど同じなのか。
その空気感に合わないことを抑える感情に名前を付けたら羞恥になる。これは旧約聖書からの習わし。
個人的に、今の段階でこの仕事をしていることは必要なことであって、人生劇場の可動域が拡がるのだろうなと観測している。とても楽しい。芸人の様に笑いを取る振る舞いも身に着ける時。満月さんが推しである「かまいたち」さんの動画を垂れ流しているのだが、振る舞いに採り入れることも画策して良いのかもしれない。満月さんは勢いではなく知性が伴った笑いがお好みっぽい。
そういえば、昨日日記を書く前に、妹と通話をした。
兄の立場とかはどうでも良く、単に年賀状届いたことに今気づいたという感じのお話をしただけ。母親が親戚筋に僕の現状の情報を伝えていないのも面白かったけども、妹と通話が久々過ぎてこんなに落ち着いた声だったっけと混乱したのが面白かった。お互い特に地元言葉に戻る訳でもなく、妹の子供の声が背景に流れつつ、にこやかに話した。
ここで空気を読むなら、家督というか家長というかそういう家族観を前提としたお話になるはずだが、そんなことは全くなかった。そのうち愛知に来る予定があるから、その時にタイミングが合えば、で終わる。
特に恥ずかしさは無い。
これって別に勝手知ったる家族だからではないのだが、なんとなく共通項があるという意味は家族なのかもなと。
たぶん、妹は僕が一番ちゃらんぽらんだった何の知識も無い時代の僕を見ているし、取り繕う余地が無い。別に妹だから兄より下だみたいなマウントを取ったこともない。いや、1回だけあるか。ドラクエ5のセーブを本体につまづいて消した妹に随分怒ったような。
姉との交信が再開するかというと微妙なところ。
姉は僕に対して明確にお前は下だと僕に言い聞かせるようなマウントを取っていたし、それほど僕が好きではない気がする。と言いながら、自分の子供に僕の名の漢字を使う感じがツンデレなのかもしれない。
おそらく長女って昔ながらの家族観だと微妙だから、長男を落として自分の存在場所を確保したかったのだろうなぁと。
今自分の場所が確保できているのだとすれば、おそらく僕に対する敵対心はないはず。
知らんけど。
家族って、一番近い他人だという捉え方。
配偶者はもちろん別だが。唯一他人から身内になれるのがここ。
ここで法律談義をしたくなる。
民法における家族、子供の扱いってDNAの血族ではないというところが面白い。
そりゃあ鑑定ができない時代の家族の繋がりって、なんというかそれが家族だという時代。血だけで繋がる家族観だったら養子はないし。個人的には嫡出子と非嫡出子の相続割合が違ったのは、家督を相続して諸々家を保つという報酬という面があったのだろうなって。
これを専門的には「外観説」というらしい。
この家族観だと、DNA鑑定だけで親子関係を特定するとか、否定するとかができないのだが、これは不合理であり合理でもあって、良いことだと思う。
お母さんは自分が分娩するから子供との繋がりがあるのが普通だが、代理母はどう扱うのかとなると、もはや自然な家族ではない。でも民法はもともとそういう家族の繋がりに許容性があるという。
当たり前の世界観だと許容外になるけども、だから民法って改正しなくて済んだのだろうなという感じ。
ちなみに、妹に姉ちゃんとも通話したいと言っておいてとLINEで送ってみたから、縁があれば交信可能性があるのかもしれない。
無かったとしても、幸せであれば良い。
締めの言葉。
ちょっと羞恥心がある。
僕の言葉に足を止める人なんて居ないと思っているのに、すげぇ緻密に文章を書いている人が読んだ印を押してくれる世界って凄く面白い。単なるスケッチと、きちんと整えたクッキーの時間は随分と違うのに。
ちゃらんぽらんだから、きちんと伝達しようとする意図がない。
にもかかわらず読み続けてくれる人は、まぁまぁ変態(良い意味)。
物理的な物体としても良い男らしいが、この部分は満月さんの独占領域。
僕は面白い文章を書く人には直に逢って話してみたいと思っている。
でも、ここが現実化するってほとんど在り得ない。利益なき人に会う時間ってほとんどないと思う。
はい、ここまで。
ちゃらんぽらんばかり。
おやすみなさい。
良い夢を。
どうせならいい型で
21:33から。
金欠なので晩酌がハイボール。うまし。筆がなかなか進まない。
アルコールの成分が体に回るリズムが違うのはたしかにある。ビールの方がギアを落としやすいというか。
言葉にするときはギアが落ちている。
これは言葉が回る人が頭の回転が遅いとかそういう話ではなく、次元の話なのだと思う。
言葉が何次元なのかと聞いて答えられる人が居るのかな。
少なくとも僕には分からない。ただ、言葉になる前の感じから言葉に収束するのは要素数が落ちていると思う。ある感じを言葉にあてがうとき、その言葉の意味範囲から外れた感じははみ落ちてしまうし。
これが対話での言葉になるとさらにお互いが分かるように調律しないといけないし、さらに要素数は減っていく。
まぁ、要素が少ないから悪いということでもない。
少なくとも伝達できるようになるという意味では言葉の本懐だろうし。
さておき。
お仕事。
事務所がなかなか温まらなくで、震えながらパソコンを触る。
初繁忙期の目を回る感じにもやや馴れてきて、事務作業が割とうまく回っている。
言葉の意味とかいちいち気にする人(僕のような)は、営業仕事をして言葉の奔流にまみれた方が変な偏見が落ちていくかもしれない。人ってそこまで他人の発言の全部を覚えきれる訳もなく検証もしないから、印象に残ったり大事だったりする部分だけ気にすればなんとなく疎通はできる。
言葉に対する印象ってそのまんま世界とか社会に対する印象になる。
僕の場合はここについて深刻に考えることがなくなって、思索できる余地が増えて楽しくなった。
現実的な言葉ってSNSの名言集みたいに言葉だけで存在しているものではなく、言葉の選択よりも、どういうタイミングで使われたかの背景の方が遥かに重い。
正確な回答でも誠実な謝罪でも、時機に遅れてしまえば不信感が付着するし、てきとーな言葉でもタイミングがバッチリ合っていればそれだけで好印象になるし。
要は、言葉は言葉だけでは存在していないということ。
あ、SNSの名言集も、誰が言ったかの背景が問題だったりすることもあるし、独立して存在しきれてはいない気もする。
独立して存在しているのは宗教上の神様くらいのもの。
お仕事はまだまだこれから探究していくところが無限にある。
店長に倣ってちょっとおふざけをスパイスに入れても良いのだろうなと思う。
完全な仕事を求めるのであれば、相手は誰でも良いし、なんなら発達したAIの方が完璧だろうし。
個人的にはお仕事関係にAIがもっと進出して良いのではないかという立場。
その分個人的な生活領域が増えたところの個人的関係は人間同士で楽しめば良い。
仕事に機械的なものを求める人って結構多い気がする。
ウイスキーをおかずにした文章は結構観念的になる模様。
言葉についてもう少し。
言葉で名前が付くことによって感じが明らかになるというのはたしかにある。
例えば最初の感情もそうだろうし、最近流行りの精神傾向とかも名前が付いて救われた人も少なからずいるだろうし。
あと、専門的な概念は言葉が無いと何もない。弁論主義とか止揚とか構造主義とかシュールレアリスムとか。知識として言葉を積み上げていくことはできるけれど、概念の理解は言葉以上の拡がりの把握だと思うが。
で、問題は、言葉が無いところには何も無いのかということ。
人って言葉を一定数以上習得してそれで世界を捉えられるようになった物心がついた以降の記憶しかないから、なんとなく自分の認識に名前が付いているような気がしながら生きている。これが嫉妬なのかとか、これが季節なのかとか。
あと、自分が考えているとき、言葉でやっている人が多いと思う。
思考は言葉がないとできないという立場。これが論理的思考なのかというと、論理的思考って前提の真偽みたいなことは問題になっていないから、誰もがやっていると言えそう。
もちろん、語彙によって世界に名前を付けていく段階がないと全てが形の無い世界になるからそんなところでは生きていないと思う。
ただ、個人的なイメージとしては、この前クッキーを作ったという記事を見た流用で、まっさらな生地を型で区切る「型」が言葉で、焼き上がったクッキーは当人がその言葉に含めた当人の感じ。ただ、型にはまり切らなかった余りがある。ここは誰にも伝えられない当人の感じであって、むしろどれだけ型を増やしたところで追いつかないくらい無限の余りのではなかろうかという説。
ここを把握する手段は言葉ではない気がするなぁって。
時間の流れを逆にすれば、その人のクッキーから余りを想像することもできそう。
どうやってその言葉(クッキー)が完成されたのか、みたいな。
全貌は自他共に把握しきれないけども、型を増やしたり組み合わせたりしてくことは無為とはならない。
と、考えると楽しいかなというだけでした。
おやすみなさい。
良い夢を。
こうぞう
21:47から。
雪がちらつく白い雲間に膨らんだお月様がちらつく夜。
夜ご飯はのメインはお鍋にした。
お鍋って基本的には自分で味を付けるのも込みなのだが、所望された豚骨スープは流石に作れないから買うことにした。母親が送ってくれた白菜と満月さんが買ってきた長ネギが良く合う。締めは雑炊より中華麺が合うのだが、あいにく買い忘れた。
副菜はほうれん草のなんだっけ。
鰹節と醤油で和えるのはお浸しで良いのだっけ。
固有名詞がだいたい飛んでいる。
あと、大根と白菜のサラダ。
美味い。
前置きはこの辺で。
お仕事。
なんとなく自分のペースでこなしたのだが、店長に言わせるとまだ足りないとのこと。
まぁこれはなんとなく分かる。一応想うところもあるのだが、足りないなら足していくしかないし、時短できる部分をいくらでも足していけば良い。
今は確かに時間が作れていないのは自覚している。自覚があればなんとでも動けるのが人生劇場。
電話については特に苦にならなくなったのだが、プライベートの事務処理で電話をしているとき、満月さんに「電話が苦手な人がお仕事で話している」と評されたのがまず1つ。電話が嫌な人って基本的に何か後ろめたいところがあるのだと思う。偏見かもしれないが、僕がそうだったし。あと、電話ってながら作業できない項目でもある。電話しながら文章を書くことはできないし、なんなら洗い物もできない。歯磨きはできる。
もう1つ。
先輩女子が、スラムダンクの話をしだしたタイミングがあった。面白いですかって。ハイキュー!!は読んでいますかと言うと読んだというものだから、この2つの「構造」は同じですと言ってみたら、「凄い言葉を使いますね」と言われた。
僕は構造主義には詳しくないけれど、構造って少なくとも固有名詞で一言で表現できない言葉だと思われる。
構造が同じだというのは満月さんがオリジナルで、僕もたしかになと思ったところで、それがどういう意味なのかというのは言語化できるのだが、別に日向と桜木が全く同じキャラではないから、固有名詞で物事を考える人にはこの一致はできない。
構造って具体的な一致でもないし。
まぁ、抽象的に考えることがそれほど高尚だとも思っていない。単に世の中に遊び所が増えるというくらい。
どうでも良いけども、世の中に出ている考察動画って、全然考察パートが無いような気がする。証拠から離れていなくて、全然当人の解釈が出てこない。そういう需要があるということで抑制しているようにも見受けられない。
柄谷行人さんが、「文学表現における自分とは『冗談』みたいなもの」と書いていて、こういうのが面白い。自己を固有名詞とか形容詞で表現するって冗談でしかない。別に冗談を下劣だとかしている訳ではなく、確固とした現実的な事実として言語化できるものではないというだけの話。凄く洒落た表現で美味しかった。
この「冗談」には、社会的に証拠がないというニュアンスも含意されているような。
誰かに見られない自分でも自分で在るという変態は、他人からの視点という鏡を度外視していて、言葉で表現できない自分で良い。
証拠と言えば、民法上の家族観って血族でも無いという話が面白いのだが、本筋から逸れるので機会があればまた書く。
本筋は、頭の回転と言葉の相関のお話。
僕は満月さんしか結婚する人居ないのだろうなと思うのだが、別に言葉では表現していない。歴代の恋人さんの中で母親に挨拶しようとする人は皆無だったし、家族になるならややこしい親族が居るのですわというのはやんわり表現していた。
我が母はまともな社会的感覚を持っているもんで、僕に寄って来る社会的感覚を持っていない人とは合わないだろうなと。
考察パート。
言葉にできるとき、脳は遅くなっているよなぁという感想。
個人的には早いから良いとか遅いから悪いということは無いのだが、言葉にできない領域が個人の本質な気がしている。
ここが個人の脳の最高速。
ほんとはもっと言語化しないといけないのだが、眠いのでここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。
むいみ
22:13から。
本日はお風呂読書をした。読書ができる日もできない日も楽しいで良い。
昨日のお父様と話したことを満月さんに語っていて、「賢い」のフレーズに対して「上から目線」と言われた。この言葉には「自分には劣るけどまぁまぁ」みたいなニュアンスが含まれているというのは分からんでもない。ただ、そうなると、ほんとに自分とは無関係で頭が良い人を表する言葉として「賢い」は使ってはダメなのだろうか。
僕がこの言葉を使うのは、知識があるとか頭の回転が速いとかではなく、単に自分の経験外のことに対して畏まれるくらいの脳の余裕があるというニュアンスであって、僕と比べてどうかみたいなことは関係ない。賢いなんて言葉は畏れ多くて自分には使えないし。
前職の先生も賢いと使う時は、自分の発想外のことに対してだったような気がする。
別に語用がどうでも良くて要は本質だという表層的な一般論よりも、言葉って本質の表現だから、変な語用は改めた方が良いのだろうと今のところはなっている。
満月さんには意味不明な語用率が高いのは、割と本質に近づいている。笑
昨日は寝る間際、「ぽんぽこびー」と「ぐーすかぴー」を連呼していた。まじでやべー奴だ。我ながら。ただ、特にこの言葉によって自他を操作するという意味はないから、単に迷惑なだけで終わる。
いや、それで終わっているのかどうかは満月さんに聞いてみないと分からないけども。
お仕事の話と脳の回転の話。
切り返しが遅いとこの営業マン大丈夫かと思われるという話が店長からあって、たしかになぁと思い、回転数を上げることを意識している。
同じ感じの立場の人に対してはこの回転数で問題なさげ。回転数が一致しているというよよりは、規定の回転数に調律できる。
ただ、お客様への応対にこの回転数だと不味いらしい。
相槌を話途中に被せてしまう傾向になるのは改めなさいと言われた。
この辺文章脳なのか。別に相手の話を遮ってまで話したいことがある訳でもないのに、ギアが噛み合わない感じがある。
これは自覚があるから、もっと遅くせねばと思うのだが、遅くし過ぎると相手の世界観のギアに完全に付き合うことになって、それって関係なのかという感じになる。
要は、手番をはっきりさせてきちんと対話しましょうというお話。
ただ、対話って別に卓球とかスカッシュみたいに交代でやるものなのかという観念は個人的には微妙なところ。別に割り込んでやらかされる方が個人的にはお好みだし、そういう一般論を越えたところにあるのが個人的な関係な気がする。
いや、仕事でそんなことはやってはいけないのも分かる。
結構なジレンマ。
ここでバランスを取るのは大変だなぁ。
本日集中できていないから、この辺りでおしまい。
最後に凄くどうでも良い話。
神様が縁を切るべき相手との関係の警鐘のところで、何か雨が降るというのがあった。
いや、これって、人が決めているだけだよな。
変な悪寒があるとか気分が乗らなくなるというのは結構ありそうだと思うけども、天気を人の価値観で決めるのは悪手。
神様が居るとしたら、天気に価値の優劣を付けるはずがない。晴れだったら何も不具合が無いという意味で人間にとっては都合が良いけれど、雨が無いと全体的に水不足になる。
そんなに個人にご都合主義に神様は運用されていないような。
まぁ、それで人生劇場の行く先を決めるという価値観は当然あって良い。
僕がそれを選ばないからと言って、選んでいる人が愚かだという価値観は僕には無い。
ここまで。
ボリュームが少なくて食べ応え無くて申し訳ない。
おやすみなさい。
良い夢を。