21:33から。
金欠なので晩酌がハイボール。うまし。筆がなかなか進まない。
アルコールの成分が体に回るリズムが違うのはたしかにある。ビールの方がギアを落としやすいというか。
言葉にするときはギアが落ちている。
これは言葉が回る人が頭の回転が遅いとかそういう話ではなく、次元の話なのだと思う。
言葉が何次元なのかと聞いて答えられる人が居るのかな。
少なくとも僕には分からない。ただ、言葉になる前の感じから言葉に収束するのは要素数が落ちていると思う。ある感じを言葉にあてがうとき、その言葉の意味範囲から外れた感じははみ落ちてしまうし。
これが対話での言葉になるとさらにお互いが分かるように調律しないといけないし、さらに要素数は減っていく。
まぁ、要素が少ないから悪いということでもない。
少なくとも伝達できるようになるという意味では言葉の本懐だろうし。
さておき。
お仕事。
事務所がなかなか温まらなくで、震えながらパソコンを触る。
初繁忙期の目を回る感じにもやや馴れてきて、事務作業が割とうまく回っている。
言葉の意味とかいちいち気にする人(僕のような)は、営業仕事をして言葉の奔流にまみれた方が変な偏見が落ちていくかもしれない。人ってそこまで他人の発言の全部を覚えきれる訳もなく検証もしないから、印象に残ったり大事だったりする部分だけ気にすればなんとなく疎通はできる。
言葉に対する印象ってそのまんま世界とか社会に対する印象になる。
僕の場合はここについて深刻に考えることがなくなって、思索できる余地が増えて楽しくなった。
現実的な言葉ってSNSの名言集みたいに言葉だけで存在しているものではなく、言葉の選択よりも、どういうタイミングで使われたかの背景の方が遥かに重い。
正確な回答でも誠実な謝罪でも、時機に遅れてしまえば不信感が付着するし、てきとーな言葉でもタイミングがバッチリ合っていればそれだけで好印象になるし。
要は、言葉は言葉だけでは存在していないということ。
あ、SNSの名言集も、誰が言ったかの背景が問題だったりすることもあるし、独立して存在しきれてはいない気もする。
独立して存在しているのは宗教上の神様くらいのもの。
お仕事はまだまだこれから探究していくところが無限にある。
店長に倣ってちょっとおふざけをスパイスに入れても良いのだろうなと思う。
完全な仕事を求めるのであれば、相手は誰でも良いし、なんなら発達したAIの方が完璧だろうし。
個人的にはお仕事関係にAIがもっと進出して良いのではないかという立場。
その分個人的な生活領域が増えたところの個人的関係は人間同士で楽しめば良い。
仕事に機械的なものを求める人って結構多い気がする。
ウイスキーをおかずにした文章は結構観念的になる模様。
言葉についてもう少し。
言葉で名前が付くことによって感じが明らかになるというのはたしかにある。
例えば最初の感情もそうだろうし、最近流行りの精神傾向とかも名前が付いて救われた人も少なからずいるだろうし。
あと、専門的な概念は言葉が無いと何もない。弁論主義とか止揚とか構造主義とかシュールレアリスムとか。知識として言葉を積み上げていくことはできるけれど、概念の理解は言葉以上の拡がりの把握だと思うが。
で、問題は、言葉が無いところには何も無いのかということ。
人って言葉を一定数以上習得してそれで世界を捉えられるようになった物心がついた以降の記憶しかないから、なんとなく自分の認識に名前が付いているような気がしながら生きている。これが嫉妬なのかとか、これが季節なのかとか。
あと、自分が考えているとき、言葉でやっている人が多いと思う。
思考は言葉がないとできないという立場。これが論理的思考なのかというと、論理的思考って前提の真偽みたいなことは問題になっていないから、誰もがやっていると言えそう。
もちろん、語彙によって世界に名前を付けていく段階がないと全てが形の無い世界になるからそんなところでは生きていないと思う。
ただ、個人的なイメージとしては、この前クッキーを作ったという記事を見た流用で、まっさらな生地を型で区切る「型」が言葉で、焼き上がったクッキーは当人がその言葉に含めた当人の感じ。ただ、型にはまり切らなかった余りがある。ここは誰にも伝えられない当人の感じであって、むしろどれだけ型を増やしたところで追いつかないくらい無限の余りのではなかろうかという説。
ここを把握する手段は言葉ではない気がするなぁって。
時間の流れを逆にすれば、その人のクッキーから余りを想像することもできそう。
どうやってその言葉(クッキー)が完成されたのか、みたいな。
全貌は自他共に把握しきれないけども、型を増やしたり組み合わせたりしてくことは無為とはならない。
と、考えると楽しいかなというだけでした。
おやすみなさい。
良い夢を。