キャンペーン

 

 

 

22:21から。

 

早上がりの満月さんがメンタル的にノックダウンしたため、お料理当番が急遽交代。サムゲタンチョレギサラダをこさえた。仕事が早くて我ながらうまい。参鶏湯は生姜が利いている。

 

交代したからどうという気持ちも無い。帰ってきたらご飯ができているというのはとてもありがたいことだが、作っているのは人間だから調子の浮き沈みは当然ある。僕が自炊できるようになっているのはこういうところでカバーしたいなと思ってきた結晶という節もなくはない。

 

 

 

お仕事。

 

頭で試行錯誤している訳でもないが、スーパー事務の人に成長しているねと褒められた。もうあんまり詰めることが無いみたいな。たしかに、この人に言われそうなことを潰すというのは自然とやっていた。もちろん言われた嫌からやっとくかという意味では無い。これをやっとくのがこの仕事の正道だよなという意味合い。気分とか状況でブレないアドバイスをしてくれる人ってありがたい。

 

たしかに圧はあるのだが、これは仕事でやるべきことをやれていないよねという圧であって、重圧ではない。これを当人は「愛」と表現していたが、かなり精確な表現だと思われる。

 

大人同士だし、言ったら育つ人にしか言葉を尽くす甲斐が無い。甲斐が無いと認識したらやんわりおだてるくらいになる。冷静に叱ったり詰めたりしてくれる人は愛がある人。

 

先輩女子はスーパー事務の人から圧を感じないと言っていたが、世代の関係で圧を抑えているのだと思われる。愛の鞭では響かないから、褒めて伸ばすようにしているのだという想像。

 

僕は店長からの圧もスーパー事務からの圧も特に怒気がないから吸収して可動域拡げようと思うだけ。

 

Z世代のことはあんまり分からないが、あんまり正解のルートが無いのだと思う。

多様性は良いことだとしても、なんというか本線が無い世界になりつつあるのだろうなと。

 

結婚とか正社員に就職とか、一昔前はなんとなく到達点みたいになっていたことがあまり意味を持たなくなってきて、冷静にそのルートを眺めたらデメリットもあるのではない? みたいな。

 

これに対して旧世代の人は答えを持たない。

自分が辿って来たルートだけが全てだと思っていたら話がズレてくる。

 

この前浜松で飲んだ知人は子育てにおいて冷静で、これからの時代は自分で決められるようにならないといけないけども、我が子はその点が上手くないと言っていた。学校の先生に対しても結構ぼろくそ言っていたが、先生が従うべきルールである学習指導要領って時代遅れとまでは言わないまでも、学校で教えることが全知みたいな権威的なところで育った人が伝統的に作っているから、学校が教えていることが最新ではないなんて言えないし、不信感を持っている先生も従うしかないから、なんとも言えない。

 

今の時代の学校の先生って凄く微妙な立場だと思うのだが、どうなのだろう。

今度満月さんの幼馴染の先生をしている人に会った時にもっと掘り下げてみたいところ。

 

個人的には多様性という言葉自体が、本質的に人それぞれを認めていない気がしているので、僕の中の辞書にはこの言葉は入っていない。

 

あんまり自分の言葉として使ってはいけない言葉だろうなという認識。個人のバリエーションなんて個人個人で異なるし、特に高尚な言葉を使う必要も無いような。

 

こんなことが書けるのも、あんまりここに刺激を受ける読者さんが居ないだろうなという前提があるからこそ。別に正しさを信奉することは構わないけれど、正しい世界観って、そこから外れた人に怒って良いとか攻撃して良いということに転化されそうだからあんまりよろしくない。というか好きではない。

 

いや、何か質問とか気になることとかあればコメントはウェルカムだけども、正解警察みたいな人は遠慮したい。語用とか誤字とか。僕の文章はWebライター系のお小遣い稼ぎのところに載せると指摘満載でNGになる。実際やったことがあるのだが、当時は窮屈で仕方なかった。

 

どうでも良いけれど、読んでくれている人が書いた文章にコメントするキャンペーンしようかなとふと思った。思うところがない文章を書く人をフォローしていないし、これも縁だからご挨拶みたいな。自己開示キャンペーン。迷惑かもしれないし、特に返信も求めていないから、コメント付いていてもスルーして問題ないです。

 

岡田斗司夫さんの発言の流用だけど、ちゃんとした文章を読書することは体験になるとのこと。この文脈は編集者が入って市販されている文章だけど、別に市販されてなくても体験として食べられる文章はある。

 

僕の文章もそれくらい人の栄養源になれればと思うが、そこまで読み手を気にして書いてはいない。気にしているのは日本語的に読めるような文章を書くくらい。口語的なのか文体的なのかは微妙。

 

ただ情報として読める文章を眺めるのであれば、SNSは見なくていいし、自分が調べたいことをグーグル先生に聞けば、回答は出てくる。料理とか、仕事場で知らない単語が出て来たときに僕も良く使っているツール。「名古屋巻き」とか。

 

最終的には、他人は情報ではないということに至る。

情報だと体験にならないし、あくまで自分の世界観の中での登場人物。

 

他人を情報にしている人って、なんとなく分かるような。分からない?

 

 

満月さんの世界観はだいぶ変わっているような読み味なのだが、きっと当人分かっておらない。情報じゃない人として認識されているかは定かではないが、この人と一緒の人生劇場はもっと楽しくなりそうという楽しみがある。

 

愛だけでは共同生活できないけども、この人なら一緒に人生劇場楽しめる感。

 

僕は人との縁は情報じゃなくて体験だから、いちいち覚えてしまう。

 

体験と情報の違いは考察すべきだけども、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。