時空

 

 

 

 

21:45から。

 

本日はお風呂読書なし。お風呂時間の枠で面白いことがあったので問題ない。

 

 

まずはお仕事。

 

せっかく作っていただいたおにぎりとコンソメスープを食べるタイミングが無くて、18時くらいにやっとかきこんだ。

 

店舗全体が忙しい中、久々の1成果。

店舗でもやったことがある人が居なさそうなフローになるから、なかなか不安だが、過ぎ去る不安はなんてことない。僕のはなかなか残像が残るのだが、それでも結局残像でしかない。

 

自分が入ったおかげとしておこう、何故か成長率がエリアで1位になっているらしい。

満月さんが別事を話したとき、硯が福の神みたいになっているのではないかと言っていたから、そういうことにしておく。

 

特に何か形があることをしている訳ではないので、何の自信にもならない。

ただ、そういうものなのか、だったらこのままで良いなとなるだけ。

 

先輩女子の調子が良くて野心が出てきているもの、今まで眠っていたのが開花されてきたのかもしれない。僕はちっとも羨ましさは感じないのだが、あれくらい仕事できるようになったら面白いだろうなぁとは思う。

 

ばたばたしている中、お母様から連絡が入っていた。

満月さんのコートができあがったから持って行くとのことで、どれくらいで家に帰るのかと。

 

本人居ないけどなぁとか、満月さんには遠くて行けないと言っていたような気がして、どういう心の風向きだろうと思いつつ、20時半くらいには着くと思いますと帰す。

 

仕事の帰り際に、満月さんのご両親が来ているのですぐ帰りますと言うと、店長が「そろそろかー(意味深)」みたいなことを言っていた。なんのプレッシャーも感じない。

 

責任はたしかに付与されるけども、それがメインで一緒になるって詰まらない。

一緒に居て楽しいから社会的に一緒になるために関係に名前が付くようにするというのがメインであって、ついでの残りに責任が付いてくるくらいだという認識。

 

責任がないと深く関係できないと考えている人が居るとすれば、それは嘘だとしたい。

責任があれば関係が続くという継続に対する保証はある程度あるけれど、それが深いとか近いとかの内容までは担保できない。

 

てな感じで、急いで自転車を漕いでジョリーパスタに合流。

満月さんと良く行くお店に、満月さん以外の満月さん一家がと居るという不思議な光景。

 

何のプレッシャーもない。「彼女の家族と彼女抜きでご飯を食べるシーン」って端から見るとなかなか大変な局面だと思われるが、良い彼氏を演じるつもりもないし、僕のキャラはバレているからそのままで良い。適度にビールで弄られつつ、お父様と少し仕事の話をして、お母様と米騒動(我が母親もお母様もお米をここに送りたがり)の調整をしつつ、弟勇者氏とお母様の衝突をお父様と生暖かい微笑で眺めつつ。

 

コートとお米とカートンと満月さんの夜ご飯用のお持ち帰りをいただいて、玄関先でバイバイしてさよならをした。お母様が「またおいで」と言ってくれたからまた遊びに行こう。

 

お持ち帰りのラインナップは弟勇者氏と選んだのだが、もし満月さんがこれじゃないって言ってきたら、勇者が選んだって言えば良いよって気遣ってくれた。まぁ大丈夫なメニューしかないのがジョリーパスタだし、満月さんは別にこれじゃないとか言わない人という認識なのだが、なんか優しい人だなとは思った。

 

この家族って端の僕から見ると、まぁまぁかみ合っていない気がする。頻繁にぴりぴりした感じが起こるし。ただ、我が家族だって別に噛み合ってないとは思う。無理に噛み合わせて装っていたことによって結局離散的になってしまったし。

 

ということは、このご家族、家族全体で個々の噛み合わせの悪さが許容されていて、それによって離散的にならないようになっているということなのかもしれない。各々気に入らない部分はあるとしても、全体として家族。

 

ある意味理想的な繋がりなのかもしれない。

これを例えばお母様に言ったら、何か悪い部分が羅列されそうだが、でもなんだかんだ繋がっているということは、結果的にそういうことですよねとなる。

 

別に、この家族が羨ましいのかというと、全然そんなことはない。

もうやや足を踏み入れているということとは別に、我が家族がそうならなくても仕方ない。楔になれたのはきっと僕だけで、拙さなのかどうでも良かったのかともかく、あんまり気にならない。

 

案外3年後とかには我が家族も集合できているかもしれない。

僕次第で。

 

個人的には、また姉と妹と3人で飲めたら楽しいだろうなと思っている。お互いこれまでどうしていて、これからどうなっていくかみたいことを家族とはどうあるべきから外でのほほんと話す感じ。

 

そろそろ最後か。

 

呟きの範疇と本人は言っていたが、満月さんが独りでメールに下書きした詩を読ませてもらった。そうやって言葉が漏れだすということは何かつっかえが取れたということで良いこと。

 

しかし、ぶっちゃけ僕は詩の読み味が未だに分からないから、美味しいかどうかすら判別できるところまで至っていない。

 

本日のお客様がエンジニアで、一意にならないことが気になると仰っていて、こちらの方がちょっと分かる。法律学も言葉の定義を解釈でなるべく一意にしていくものだし、拡がりがあると人の行動を指示できない(刑法)し、どういう契約になっているのかが把握できない(民法)。

 

社会的な語用において色んな解釈が取れる言葉を扱うと、曖昧になって芯が読めなくなる。

 

 

ただ、言葉の可能性として絞るより拡げる方が機能として適っている。

拡げたところで限界がある訳で、限界に挑戦するのが詩人なのかという想像。

 

下手したら自分の世界の叙述にしかならないような世界に誰かが入って来られるような詩的世界を構築するってなかなか職人芸というか、ある意味学問の一種なのかもしれない。

 

まぁ、数字とか記号ならともかく、言葉を扱う以上、一意な解釈なんて絶対無いとも言える訳で、当たり前も無い。

 

言葉が一意になるのは、言葉以外の諸々の背景込みの時だけ。

 

なんやよく分からない締めだがここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

時分

 

 

 

21:26から。

 

明日の仕事が少し早いので、この時間から。

 

満月さんは名古屋に会議に行ってもうじき帰って来る。

 

朝の時点で会議が終わったらすぐ帰ると思うから車で送って行こうかと聞かれたのだが、なんとなく断って自転車で出勤した。おそらく歩きで帰ることになるだろうなということではなく、満月さんが気を遣って会議後のなんやかんやを断って帰って来るのだろうなという想像。

 

全体の集まりでの飲み会は断ったみたいだが、ちかしい人達とディナーに行った模様。これは僕が車で送ってもらったとしても在り得る世界線だと思うが、自転車で出勤した方がこのルートになる割合は大きい。

 

まぁ、楽しんで帰ってくればそれで良い。

 

 

そんな感じでご飯は1人用。豚肉ともやしとネギの青い部分の塩コショウ醤油炒めと、納豆に野沢菜の漬物とオリーブオイルをかけたやつと、おつとめ品のフリルレタスとトマトのサラダ。ついでに南蛮漬けの残り。

 

 

スープジャーのお土産があるとのこと。

有難い限り。僕ももう少し睡眠時間をずらして朝ごはん活動に参加しようかと思う。たぶん、日記時間をジャスト1時間くらいに収めることができるようになれば可能な世界線。物理的には不可能ではなさそう。

 

どうせ1時間で切るのであれば3000文字くらいにしたいところ。

これは1文字を1から2秒の間に継続的に1時間集中すればおそらくできる。

 

パソコンで文字を打つ時に、1秒に1文字しか書けないということはないのだが、継続的にとなると結構難しい。誤字というより何を書こうとするかという検閲のせい。検閲を無くすともっと滅裂になりそうだが、それはそれで良い気もする。煙草休憩とかご飯とビールをつまむ時間を含めていくと1時間ずっと書いている訳でもないから、1文字に書ける時間は1秒よりもっと減って来る。

 

時間で切らないと人生劇場が間延びすることを意識できるタイミングってほとんどない。だいたい細々と切られているから、自分で切るということをしなくても良いけどもその時間の中でも自分で切らないと間延びしてしまう。

 

 

お仕事。

 

店長に仕事が遅いみたいなことを言われるのだが、何をどうしたら良いか惑うパートが挿入してこないパートにおける作業スピードはそんなに遅くない気がする。集中の切り替えを上手くできれば問題ない。

 

そんなにきちんと集中できる時間が世の中にないのも分かっているけども、こういう性分の人はそうやって生きていくしかない。

 

マルチタスクができるかどうかとは別の話。

 

店長に本日3つくらいの項目をこれだけの量こなすように言われて、これをやって居ないのかと聞かれて、これからするところですと言ったら、「何をやっていたのだ」と言われたのは流石に理不尽だと感じる。量を設定された以上、順番は自由にしたらいいじゃん。まだ期限まで1時間くらいあったのに。

 

ただ、これはあくまで新人の視界であって、優先順位の設定がおかしかった可能性もあるし、もっと穿てば、この仕事、そういう理不尽がありますよという経験値を付けてくれている可能性もある。

 

新人で歩合給付かないのに営業パートが多かったこととか。笑

 

そう解釈できれば、特に理不尽さにへこたれることはない。

順調に歩めていると自己解釈しながらやっていくだけ。

 

このお仕事結構自由だが、時間を切っての作業はかなりシビアで面白い。

追いつけると思うし、もっと効率化はありうる。作業パートは人のことを気にしなくて良いし。

 

 

やれやれ。

 

現実的には1時間で2000文字くらいなのかな。

検閲が入らなくても集中が途切れることはあるし。別に集中し続けてハイになるところに恍惚を感じている訳でもないから、これはこれで問題無い。

 

先輩女子はハリーポッターの原作を最新刊以外全部読んでいるらしい。

僕も読んでいる。店長は物語に対して「だから何なのだ」と思って面白みを感じなかったとか。例えば何故いきなり魔法が使えるのだ、みたいな。

 

たしかに、これが気になる人はファンタジーを読めないと思う。

個人的には、世の中の現実も含めて原因を追究していくと「だから何なのだ」に還元されそうな気がするのだが、それはともかく。

 

だからの感覚って一般的には通用すると思うけども、僕はあんまりよく分かっていない。

自分の行動が○○だからで全部行われているなんてことはないと認識しているから、人の行動も特に原因ありきで捉えずに、行動のみで見る。原因がないと行動できない、現実が起こらないということが真理だったら、直観で良きことが起こることが説明できない。

 

本日の直感は、お風呂読書の最後の1冊の小説。

 

多崎つくるさんのお話が終わった。自分が求めている誰かが世界線から失われることで、ある意味「自分が退場する」という観念はとても分かる。その部分がそこだけでしか生きられないということであって、特に不思議な事でも無い。

 

そうして、次も村上さんの読み返し枠にしようかと思ったのだが、満月さんと僕との混合書庫を眺めていると、ふと目に入った「神の微笑(ほほえみ)」という小説。これにしてみるかと気分になった。

 

読んでみるとなんだか普通な感じだが、書いている人がかなり年配な感じがない。若さを感じるというより、時間の感覚が一般的でないというか。経年していても最新の時流に生きている感じ。

 

僕の中では生活も生も特に切り分ける必要がないから、読書界と現実界も等価にある。

 

 

あんまり意味分からない締めで申し訳ないが、この辺りでおしまい。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

 

ばんさん

 

 

 

22:08から。

 

お腹いっぱい。

マメアジの唐揚げと南蛮漬け、加えてにんにく炒め。ついでにベビーリーフサラダ。

満月さん料理が美味くてたまらん。

 

お弁当を作っていただくのが常態化していて有難い。

保温できるスープ入れを回してもらって大根スープを食べていると、漂った香りに先輩女子やらスーパー事務の人が「おでんか」とかざわついていた。僕も同じものを買ってスープも毎日持って行くと食生活がさらに贅沢になる。

 

 

仕事はなんとなく停滞しているように見える。

成果が出ていない。ただ、個人的には楽しいんでいる。いや、苦しんでいるのだが、苦しいのが人生劇場の醍醐味だろうし、ふつふつ静かに学習中。

 

内側でふつふつしていると外から見ると元気がないように見受けられるらしい。

心配されると申し訳ないが、あんまり元気で居すぎると人間味が無い。

 

具体的には書類整理できゅうきゅうしているのだが、やっとこさちょっとずつその意味が分かってきて、何をチェックすれば良いかが読めてきている。その中で新人の雑用みたいなものとか店長の申しつけみたいなものが飛んできて、今のところあんまり営業に傾注できていない感じ。

 

マルチタスクが人間の脳的に苦手なのは意識の容量の話であって脳の容量ではないと思っている。要は、どれかのタスクが意識せずにできるように自動化できれば、他のタスクも並行的にこなせるのではないかという説。脳と意識の容量がズレてないと、歯磨きしながらテレビを見るとか、スマホを弄りながら音楽を聞くとかできないだろうし。

 

あんまり書くと言い訳に聞こえるかもしれない。

本日、母親にこの前の試験が落ちたことに対して、「準備時間が足りなかった」と言ったら、「そんな言い訳なんてせずに、やると決めたらやらないと」と言われた。

 

新人だから定時で帰れて充分時間取れるだろうなと思っていたらそんなことはなかったという目論見の失敗でもあるから、何を言われても気にしないが、なんというか、やっていない人って、凄い人に高尚を強いるよねという気分。

 

失敗の分析ができなければその後の改善なんてありえないし、人生で一発勝負の局面は努力でなんとなる方面ではなく運とかだろうし。

 

やらない理由を言い訳するというのはやめた方が良いと思うけども、やった後の失敗の結果についての言い訳はいくらでもやったら良いような。原因が分からないと対策しようがない。

 

ここをいっしょくたにして、母親は僕がやらなかったこと言い訳をしていると解釈した。

やるためにはやる時間とか環境(やる気ではない)が必要であって、そこを確保できなかったというのはたしかにある。だから、別に外には何も話す必要がない項目だった気がする。口がすべった。

 

やっていない人は、やっている人に高尚さを求めるという話はどこにでもある。

 

 

今回の震災で、ボランティアに行くのは邪魔だからやめろみたいな見解があったという話が流れてきた。あんまりコメントをするつもりもないのだが、そんな警鐘は政府がするものであって、外から静観している人がするものではないだろうなというだけ。実際のインフラがどうなっているかなんて個人の視界では統一的な全体像が把握できる訳が無いし、どれだけその視点を集めても局所のつなぎ合わせでしかないような。

 

まぁ、法令を犯さない限りは捕まることはないから、その範囲内で好きに行動して発言すれば問題ない。それより下なのか上なのか外なのか分からないけども、こういうのはその社会観の問題だから、論理ではなく感情のお話。

 

個人的な感情では居てもたってもいられない人の感情は分からなくもないけども、あんまり凄いとは思わない。非日常に発揮される善意より日常のどうでも良いシーンで出てくる、する必要がない気遣いみたいな振る舞いが好き。

 

こんなの個人の好き嫌い。

 

 

やれやれ。

 

昨日の続きを書こうと思うのだが、もうなかなか眠い。

 

前の日記を書いてから思ったのが、社会って法律が形成したのか、もともと形があってそれを法律がルール付けたのかは分からないけども、とても大枠のものがある。ここを外れると社会の優遇制度に乗れないとか、社会によって自己が一般の人と比べて制限されるとか。

 

感情が社会に規定されるのかというのは微妙な話だが、大枠な喜怒哀楽は設定されているような気がしないでもない。これは法律の外にあるのだが。だって法律は誰にでも知覚したり感知したりできるようなものしか対象にできないし。

 

で、その内側にも細々と社会があって、ここがややこしい。

人それぞれの延長みたいなもので、場によって具体的な社会が微妙に違う。大枠の一般社会では当たり前ではない価値観もそこでは通じることもあるし、むしろそれが当たり前だから一般社会の価値観を持っている人がマイノリティになるとか。

 

細々考えていくと頭が沸騰しそうだが、最終的には、そんな複層的な網にかかっている上で、「本来の自分」みたいなものが保てる訳はないよなということになる。人格は社会がないと設定されないし、そんな自分の価値観も社会という環境からフィードバックが全くないということはないし、どうあっても完全に自由な人格はできえない。そんなものがあるとすれば、おそらくその人格は言葉を扱えないと思われる。

 

いや、だからどうのみたいに人に諭すつもりはなく、だったらもっと楽しいように人格を設定できそうだということになるなというだけ。

 

僕の中には人と関わりたくない部分がどうしようもなくあるのだが、これは別に環境ではなくもともとの性質。変化するのは好きだが、自分のペースでやりたい感じがあって、だから電話とか苦手だったのだろうなと。もっと苦手なのは自分によって相手を変化させてしまうところ。仕事でのそういう関わりに苦しさを感じる。

 

ただ、これって人格というより、単に社会と折り合いをつけた解釈みたいなものでしかない。

外のことって暴論だけど、知ったことではないとすれば良いのだろうなと。知ったことではないとすることで、ブレーキをかけずに他人と関われるのでは、みたいな。

 

他人を傷つけない唯一の手段は関わらないこと。

ただ、相手の傷なんて見えないし分からない。多く見積もったところで関わりが良好になる訳でもなく、単に遠くから関わるだけになる。

 

 

どうでも良いけども、僕の最終地点は縁側でお茶を飲みながらぼーっと思索にふけりつつ、時々世の中に言葉を放流するくらいな感じなのだろうなと。

 

もちろん、暫定的だが。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

 

ぴろーとーく

 

 

 

22:54から。

 

眠くてあまり時間が無いのだが、少し書いておこうかなという気分。

まとめ切る自信は全くない。

 

本日は6連勤後の1日休み。

髪を切りに行って、「肉と米」というチェーン店でご飯を食べて遊んできた。

 

美容師さんは3月いっぱいで実家の理容院に戻るらしい。

僕はこの人のセンスが気に入っていたから通っていたので、この人が居なくなったお店には特に興味がない。お試しで1回は行こうかなとは思っている。

 

 

満月さんから、昔好きだった人の話を聞く。

割と共感が重なる部分が多い。老後で会いたいと思えるとか。嫉妬はしない。僕もそういう人は居るし。向こうはもう忘れていると思うけども。

 

その昔好きだった人にもやや重なる部分はある。

僕はパートナーが居る時は、他の異性とどうこうみたいなことは皆無なのだが、独り身の時は結構好き放題だった。複数人に思わせぶりな振る舞いをしたり。生生しいことは特に求めて居なかったから、あくまで精神的なところで。

 

浮気はしないのだが、これって別に浮気が悪いことだと思っているからでもない。悪いことだと思うと余計そそるタイプも居るだろうけども、もともと善悪の話ではないと思う。個人的には心が面倒臭くなるからしないとしているだけ。

 

ここが善悪の話だと思うのって、ここの社会が単に1対1を是としているというだけ。もちろん、不貞行為は不法行為だから、証拠を整えられれば損害賠償問題になる。何かこれを性犯罪と同列に捉えているような風潮がある気がするのだが、全然違う。性犯罪の方は性的自己決定の侵害であって犯罪だが、不貞行為は夫婦が1対であることへの侵害であって犯罪ではない。訴えられるのは、1対であることを侵害されたもう一方の配偶者だけであって夫婦観を害された世間ではない。

 

まぁここの共通項って、社会は肉体を介してしか人の中身を把握できないというところ。どちらも中身はどうか知らないけれど、そういう行為があることが社会的に赦されないとしている。

 

行為は現実として把握されるから、社会に適った動きをするしかない。外れると疎外されたり犯罪者になったりする。ただ、中身の精神については、別にどうでも良いと思う。

 

そんなこと自分にも把握できないし、矛盾というか混沌なのが本来の人の中身だと思われる。そこを社会と整合性を取ろうとしても、型からはみ出る部分は絶対に出てくるだろうし多少はあれど。

 

もう眠いので、終わって置こう。

 

明日続きを書くかは不明だが、前置きみたいな文章。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

 

 

 

 

無重圧

 

 

 

22:02から。

 

やっとこさ明日は休み。

 

6連勤が体に来ているのかというと、そんなことはない。隈に来ているのは薬局で見つかった30パー引きの本麒麟6缶パックだと思う。どちらにせよそこまで調子が悪いという訳でもないから幸運ではある。

 

クレームの人は去年関わった人で、今年逢った人はなかなかまともな人ばかり。

僕も変わっているから、プロセスによって出逢う人が変わって来るのだろうなと解釈している。

 

波長で縁が合うのは、そんなにたまたまではないと言うとスピリチュアルっぽい。お仕事とかだとベルトコンベアみたいなところだから、縁がない人もやってきてたまたま感はあるが、それでも引っかかるのが縁だろうなと。この引っかかりは後付けで理由があると思われることもあるのだろうが、時系列上きっと理由はない。

 

あんまり変な話は抑えて、お仕事の話。

 

店長も先輩女子も気が向いたときにしか僕を気にしていないことに気付いた。

これは別に手放しして問題無いという意味ではなく、それぞれ他人のことをいちいち気にかける性質ではないというだけ。店長は合理的に気にかける対象を選んでいるし、先輩女子は自分の世界観が大事で、結果的には同じだけども、方向性が違う。

 

先輩女子、雑談の様に振った質問で結構ヒヤッとする答えを返す。

前もって教えてくれよと思わなくもないが、ここはその質問に至らなかった自分の落ち度だから特に気にならない。付き合い方をちょっと変えて、思いついた質問を前振りしていくだけ。聞けば答えてくれるから上手く質問を想像すれば良い。

 

店長は合理的に他人を切り分けているにしては、かなり僕のことを気にかけてくれている。

のだが、なかなか無茶振りが多い。その無茶をこなせるようになれよという鼓舞と解釈しても問題ない。何か落ち度があっても別に怒ってないし。ちょっと、何かを聞いたら「そんなことも分かって居ないのか」みたいな鼻で笑うようなニュアンスを出すことがあって、同じく聞けるなら先輩女子とかスーパー事務の人に聞きたくなる。

 

でも、これを踏まえても店長って僕に対して無駄にいっぱい教えてくれているという認識。

こんな有難い上司が居て良いのかという感じ。

 

出逢う人は鏡だというまことしやかな理論があって、この考え方は正しいと思っている。

これって下手すれば運命論みたいなことになるのだが、個人的にはそうじゃなくて世界のことを認識できるのは、自己認識の範囲であって、それが他人の認識になっているというだけ。

 

他人の否を感じたら自分にそういった意識がないかを確認しなさいみたいな話ではなく、それが見える時点で、自己の中にそういう認識なり意識が含まれているということ。

 

僕も店長だったら致命的な問題以外は自由に遊ばせて危険かどうかを肌感で分かるように見守るだろうし、先輩だとしても手取足取り教えることはしない。まぁマニュアル的なところはまずはひと通り教えるかもしれないが、ここは体系的に知識を継承できるかという問題。

 

満月さんが活動フィーバーになっているのも、ある意味鏡理論かもしれないが、ここは合わせ鏡の無限反射だから、一般的な関係とは違う話。

 

またややこしくなってきた。

要は、世界は自分次第というだけ。

 

本日のリクエストは「醤油ラーメンとそれに合う副菜」。

ビストロなんとかみたい(古い)。

 

もちろん麺からは作れないが、スープは用意した。チャーシューとメンマも買ってきて、ネねぎの小口切りを加えて振る舞うつもり。副菜はおつとめ品だった春菊を買って、ツナ缶を加えて、洋風の和え物にした。広告の品になっていた手羽元のガーリックバター炒めにレタスとトマトを添えて。

 

美味しいと思うが、ラーメンに合っているかというと分からない。

 

駄目だったら、次はもっと合うようなものを作れば良いというだけだから、満月さんと過ごすことにプレッシャーはみじんもない。

 

たぶん、満月さんもそう。

という鏡。

 

やれやれ。

 

HSPの分類動画を流していると、どうやらHSS型HSPっぽい。アクセル踏みながらブレーキを踏んでいるタイプだとか。

 

分からんでもないが、今の僕は特に外からHSPに見られる感じでもないし、人を分類化するのもどうでも良い。これで盛り上がれるのは血液型とあんまり変わらないような気がする。

 

いや、盛り上がること自体は否定するべくもない。

ただ、その仲間うち以外が異界みたいな考え方になるともったいない気もするなというだけ。

 

詩の雑誌で三木卓さんという方が、「詩と生活」というタイトルで文章を書いていて、なかなか面白い。

 

詩人は「生」を追求するけども、「生活」に追われて詩人ではなくなる人がいるみたいな。

ここでいう生活は僕が言うところの「社会」と同じような感じ。「生」は精神の内奥に言葉で迫って行くという感じなのかな。僕は詩人ではないから分からないけども、この違いは確かにあると思う。

 

なんなら縁側でずっと思索なりぼーっとに耽りたいのだが、思索の為には活動パートも必要であって。この活動が仕事である必要はどこにも無いと思うのだが、なんだかそういう風潮があるから活動パートもやっている。仕事が無くなったら活動パートが運動とか読書に移るだけであって、動かなくなるということはない。

 

利益を得続けないと存在できないという法人の存在意義もそろそろ破綻するのではないかと勝手に思っている。むしろもっと省エネで最低限で回すくらいの世界になるべきって層の方が多いのではという感覚。

 

便利が犠牲になるけれど、便利って無くなっても慣れれば普通のことになって時間調整するだけだと思う。

 

この話はまた今度。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

雑味

 

 

 

 

22:23から。

 

 

本日はちょっと早く帰れる日だったが、PCを使わない仕事が残っていて残業になった。全然気にならないのは当たり前になっているからではなく、気にすることでもないから。とはいえ、もっと効率化すれば早く帰られる訳で、ここは意識していく。

 

本日のリクエストはお刺身ととろろご飯と新玉ねぎとひじきとツナ缶のマヨサラダ。とろろご飯の味付けが分からないから、すりおろしただけで放置。マヨサラダは美味い。お互いひじきも新玉ねぎも好きだから、好きなように作れば美味しくなる。ついでに、木綿豆腐をレンチンして、もやしと卵のあんかけを作った。薄味で美味い。

 

あ、帰ってきた。

 

さておき。

 

お仕事に戻る。

 

懸念事項がなんだか気にならなくなった。別に能力が上がっている訳でもないし、ちょこちょこ抜け漏れもあるのだが、知識と経験的にいまは無理だなとある意味自分に諦めがついている感じ。いつまで経ってもできないという絶望までは至らないし、そのうちできるようになれば良いだけ。

 

だって、知らんものは注意しようがない。

社会的に知っておかないといけないでしょうと言われればそれまでだが、社会だって細分化され過ぎていてまともな頭を持っていても把握するのは不可能。どれだけどこかの社会で研ぎすませていたとしても、他の社会に行ったら新参者というか、お客様みたいなことになる。

 

自分を許容する範囲が増えているのだろうな。そのままの自分で良いという現時点の自分を赦すことはなく、過程というか未來も加味している。もちろん、進歩しなければ自分では居られないみたいな強迫観念もなく、放っておけば勝手にやるのだろうなというくらいの他人事観。

 

執着無く単に歩いている。

人の怒気に対して悪気を感じなくなったのが相当な歩み。怒った理由が僕の落ち度だったとしても、その過去は変えられない以上、改善すれば良いだけであって、怒気自体を気にする必要が無い。

 

自分によって他人が怒ったのだというのは、真面目な考え方だけども、それで世界観は楽しくならない。

 

この仕事になって良かった。

人との関係にひやひやしなくて良くなっている。やっぱ全ては慣れ(馴れ)なのか。

馴れ合いは嫌だけど。

 

世界が苦しくて良いなんて、楽しくない。

 

 

 

やれやれ。

 

このニュアンスがポジティブな世界観で捉えられるのもちと違う。

良いことは勝手に起こるのではなく、起こるべくして起こるとか言い出すとスピリチュアルになるのか。

 

悟った人は執着しないという動画を見たのだが、僕はもともと執着しなかったから、悟りに至った訳でもないという。人間味が薄いとか、考え過ぎとか良く言われて来たから、自衛のために埃を被った10代から20代まで。埃は常識に言い換えてもあんまり変わらない。

 

 

そんなことより、村上さんの多崎つくるさんの小説、なんだかうるうる来る。

 

この話をすると絶対無いと思われそうだが、僕はずっと実際的な意味でアカがシロを退場させたのだろうなと解釈していた。別に推理小説ではないから登場人物の中に犯人が要る訳でもないのに。観念的な意味で退場させたという意味なら登場人物は全員シロを退場させただろうし、シロも全員を退場させたとも言える。

 

うるうるするのは、関わりがなくても関係が繋がっているという感じとか、主人公に対してこうするべきというガイドの言葉が優しいところ。人生劇場における主人公ってこういう主観で生きるよなって。

 

前読んだときとは全然違う読み方になっている。

もちろん、過去の読み方が拙かったとは思わない。

 

自分の過去を否定したら未來から今の自分が否定されることになる。

みたいな警句ではなく、特に自分を区切る必要もないなというだけ。

 

ここでまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

 

 

 

はばつ

 

 

 

 

22:15から。

 

本日のご飯担当は僕。貧乏生活で進化している満月さんと言えど、22時のラストからご飯を作るのは不可能。お弁当のおにぎりが常態化してくれると嬉しいのだが、強制することはできない。コンビニのお弁当より遥かに美味しいおにぎり。

 

マーボー豆腐丼以外は自由でということで、大根サラダとえのきのナムルを作った。土日の残業後だとご飯タイム30分も無いから、まぁまぁの出来だと思われる。

 

マーボー豆腐は、僕1人では作らないくらい辛い。豆板醤入れ過ぎた分、本格的な痛みを伴う旨味があるようなできあがりになった。アレンジとしては冷蔵庫に残っていた悪くなりそうなピーマンをみじん切りにして一瞬茹でて加えたくらい。辛味の中に苦みのアクセント。大人のお味。

 

(明日のお尻にダメージを与えそう)

 

 

 

さておき。

 

お仕事。

 

クレームをいただいた。

満月さんに説明したらそれはいちゃもんだと言われたが。

 

理屈が全く理解できなかったからかもしれないが、なんというか何のダメージも無かった。僕は人の怒気ってめちゃくちゃ苦手だという認識。怒気が過ぎ去るまで待つしかなく、 何も考えられなくなる。

 

今回は、怒気に当てられずに俯瞰していた。

何かを主張するために怒るという選択肢を使うって、結構子供じみているというか、言葉という世界の場外戦術なのだろうなと。

 

なんだかすごく勉強になる。

その人にとって何か蟠りを怒気として解放することが必要だったのだろうなと。

 

ある意味他人事だが、怒ってくれる人ってお仕事上ありがたい存在だよなと。

その人の怒りは発動する前に収められなかったけども、今後のお仕事で怒りが出る前に火消しするという意味で勉強になる。

 

1回体感で通れば同じ轍は踏まない気がするから、大丈夫なのだろうな。

 

 

お仕事が安泰なのかというとそうでもなく、毎日暗中模索している。

前後不覚な状況ばかりなのだが、店長は半年越えたらもう新人ではないという感じだからもっと自由演技すれば良いのだろうなと。

 

自由演技できる場の方が自分を発揮できる感じがするから、この人生劇場で退場するのは忍びない。

 

自由を求めている人って、ほんとにそうなったらどうするかって聞いたら、だいたいは社会条件における自由だと思う。それが悪いとは思わないけども、そこで過ごすのを決めているのは成人したら当人だし、自己責任というか自己人生劇場。

 

もちろん、僕も社会で生きているから、社会的にこれで大丈夫なのかという不安感は拭えない。自由の概念は不安とセット。

 

ふと、言葉は社会を越えることはできるのかということを考える。

言葉って基本的に社会条件の中で扱われる方言みたいなものであって、万人に通じるようなものではない。ただ、そういった社会条件を超越しても残る言葉(表現)がある訳で、整合性があんまりないよなと。

 

社会を越える言葉は何かしら普遍性を持っているという説。

社会に淘汰されない言葉を扱えるって天才の所業。

 

誰かが扱う言葉も、社会性だけだと面白くない。

具体的な関係性においても、そこでしか使われない言葉があって良い。

 

満月さんのあだ名は「もっちー」だったのだが、あんまりもちもちしなくなっているから、呼称を更新しないと。なんだか知らんけど絶賛痩せていっている。

 

僕の世界は順次更新されている。

この世界観について来れる人って満月さんしかいないという意味で、とても相性が良い。

 

 

惚気ではないつもり。僕も満月さんの創作意欲に付いてく為に更新しないとけない。

 

こういうヒリヒリした安心感の方が楽しい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。