自分は誰のもの

 

 

 

22:04から。

 

昨日の日記、何か変なこと書いたかな。引っかかる人が多かった模様。ちょっとびっくりしたけれど、まぁ、楽しく読んだ方がたくさんいたのであれば重畳(ちょうじょう)。

 

本日はなかなか時間が長かった休日。

充実しているということ。いや、時間が短くても充実なのだが、無為(むい)に過ごしてもう夕方になるのとは微妙に違う。

 

満月さんが日中お母様と電話をしていて、硯の文章は難しい漢字が多いから振り仮名を入れてくれという要望(ようぼう)があった。お母様も貴重な読者さん。どの漢字が読めないのかは読めないから、適当に振ることにする。

 

もっと自分を登場させてくれとの要望もあったが、血は争えない(笑)。

 

昔は生活圏の人に読まれるのはなんともなぁと思っていた。文章は排泄物(はいせつぶつ)だったり、王様の耳はロバの耳だったりの暗がりの領域だとしていた。今は、別に生活圏の人に見られても恥ずかしくないというか、大丈夫だなということしか書いていない。

 

なんなら仕事場の人が読んでも特に問題ない。

明るみに出た文章というよりは、あんまり暗いことを文章化していないというか。他責にした世界だと誰が善いとか誰が悪いとかになるけれど、そういう認知の世界ではもう生きられない。全部に感謝とまでは言えないけれど、世界は鏡だし、認識は主観だよなという世界観にはなっている。

 

あと、お母様になんでそんなに難しく考えるのかみたいなことも言われた。

 

個人的には物事を考えること自体が難しいというか、単純にこうだと一言で表現できるほど世界は単純ではないというだけであって、実生活上の僕が小難しく物事を考えて行動を抑制しているという訳でもない。

 

理由を問われると答えに窮(きゅう)してしまうのだが、そういう風に世界を捉えているだけ。

 

本日まだまだ書くことがあるのだが、全部書ききれるかしら。

 

日中は朝ごはんに吉野家の牛丼を食べ、昼前に精文館でスケジュール帳を購入して昼ご飯はラーメンを食べ、そこから1時間ほどお散歩しつつケーキを買った。歩数は7000歩強らしい。

 

雑い日記を終えて、ここからが本題。

 

満月さんはお仕事の何某(なにがし)でダメージを受けていたもんで、夜ご飯の7割くらいを担当することになった。カプリチョーザのトマトとニンニクのパスタの再現レシピと、ローストビーフとレタスのサラダ(自家製ドレッシング)。

 

お仕事の話だから細かくは書けないけれど、話を聞いていると民法上の瑕疵担保責任(かしたんぽせきにん)の話と企業の独自倫理のコラボレーションだよなと思う。

 

民法上のルールって最低限。今はもう瑕疵担保責任ではなく契約不適合(けいやくふてきごう)責任という呼び名になっているかもしれないが、要は、契約で合意された物が何なのかという話。目的に適う(かなう)どういう機能とか性質を持っているかということで、例えば食べ物だったら口に入れることができるまでは保証されなくてはならないとも言える。

 

ただ、この辺りも微妙なところ。何かが混入されて食べることができないのであればそりゃあ提供側の問題だが、無農薬栽培(むのうやくさいばい)のレタスに虫が入っていたとしても、そのリスクは買主が負担するのが当然な気がする。

 

この気がするというのが共同して構成してきた社会認知であって、これが常識と呼ばれたり、正しさと呼ばれたりする。

 

変な認知の人って、こういう社会的視界が無いのだよな。

あくまで世界を自己都合で捉えていて、自分(側)の否が無かったことになって、あくまで自分が悲劇の主人公になるというか。悪いのは自分ではなくて世界だという人生劇場。こういう人ってどこかで罰が当たるというか躓く(つまづく)だろうから、衝突(しょうとつ)したとしても、不可抗力だと思った方が良い。交通事故みたいなもの

 

 

で、認知の話の応用編。

 

僕はX民ではないから進行形で読んではいないのだが、大学で鍋をして賛否両論(さんぴりょうろん)の論争が起こったというお話。

 

満月さんは鍋自体について別に何とも思わなくて、教授の考え方が面白いと。お母様はいやいやでもおかしいよねと。大学教授の趣旨としては、自由とは0とか100ではなく塩梅(あんばい)を測っていくものだとの言でたしかに面白い。ほんとになんでもできたらそれは自由ではなくて秩序がないだけ。ホッブスさんのいう闘争(とうそう)状態。

 

僕はというと、この状況を作った教授ってどんな人だろうと論文を漁る(あさる)変人である。文学とか美学とか法学にかかっているポピュラー音楽が研究分野で、修士論文が出て来てうほうほしている。音楽と著作権の関連って法学分野からはあまり出てこない視点だから面白くて仕方ない。

 

著作権を物体に対する権利として捉えるのはなんとなく無理筋だと思っていたところの考察が読めそう。活版印刷と音声データがコピーされる現状の中で、作者の何が保護されるかというお話。

 

ここは考察中なので置いて。

 

自由の話。

 

大学の講義室で鍋をするって普通に考えたらアウト。ただ、当の教授がそれをしても良いと言っている以上、やっても良い範囲になっている。大学という場ってちょっとした治外法権(ちがいほうけん)だし、大学の規則と教授の裁量がとんとん(だと思っている)。

 

賛の方の意見はどうでも良いとして、否の方の意見としては、大学とはそういう場ではないとか、他人に迷惑だろうという見解がでてきたと想像する。お母様はブレンディな感じの反対意見だった。

 

たしかに細かく考えれば、鍋の肉の匂いで気持ち悪くなっちゃう学生が居たとして、この講義はここでしか聴講(ちょうこう)できないとなれば、迷惑が具体化される。不謹慎な漫画をあえて見て不謹慎(ふきんしん)だという空間とは次元の具体性が全然違う。

 

でも、迷惑だっていう論陣(ろんじん)を張る人って、ほとんどが誰かが具体的に迷惑がかかっているという想像ではなく、自分が嫌だから公共が迷惑するという認知だと思われる。だいたいは正しいと思うけども、別に他人を慮った話ではないよなとしか。

 

あと、大学はこうあるべきだという見解も、別に鍋をしても研究してればええじゃんと思うだけ。研究者とか大学で勉強している人達は真面目であるべきという世界観も外からの視界だよなと。

 

満月さんとお母様は学費の負担の話で盛り上がっていたけども、そういうことではないのではと思いながら聞いていた。そんな外から見た舞台の話ではなく、大学の内側の世界がどうあるべきかというちょっと一般的なところから外れた舞台のこと。

 

大学は受動的に採り入れたところで研究者になれるところではないし、新卒としての就活資格を得る場だという認知だとすれば、そりゃあ波風を立てずに卒業だけすれば良い。

 

僕は一般人の立場で色々考えているだけであんまり何かに特化した研究者にはなれないから、てきとーに漂流(ひょうりゅう)させるだけ。

 

認知と認識はだいたい一緒の意味で書いているけども、無意識で書き分けがあるのかも。

 

独立した自分が存在していないという認識があるのが社会的な立ち位置として最低限なのかもな。時代が変わっていたら今の自分は在り得ない、みたいな。これでアイデンティティが揺らぐこともないのが不思議なところ。

 

どうだろう。適当にふりがなを振ったつもりだが、お母様には読めただろうか。

これでまだ読めないということであれば、試行錯誤が更新されるだけ。

 

はい、ここで終わり。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。