なんでもできるとしたら

 

 

 

頭を使う人には水まくらが良いと教えてもらった。ちょこちょこ探しているのだが、なかなか見つからない。通販で探そうにも相場感がないためさっぱり(ブルー軍曹ってこれかと思ったものはあったが)。東急ハンズにも見当たらない。

 

見つからないのは、もしかしたら僕が頭を使う人であるという命題を疑っているからかもな。頭を使うとはそもそもどういうことだろう、という感じで考えていたのは20代の頃で、当時の方が遥かに考え込んでいたが何も発見はできなかった。今はもっと緩い。心に移りゆくよしなし事を言葉という道具もってスケッチを描いているだけのような感じ。

 

人並みに欲求も当然あるし興味もあるが、欲求は充たそうと行動するかは任意だし興味も世間とは無関係。職場の雑談を聞いていると、何人感染したかが今日何を食べるかと同じ重さで盛り上がっていて、ほんとにそんなことに興味あるのかと思う。僕は宇宙の起こりの方が気になる。クォーツとは。あと、英語がちょっと読めるようになってきた。参考書の英文の中身が面白いのだ。

 

流れてきた断片的な情報だけで組み立てると、障がい者が云々っていじめの話なのかな。当人は倫理より興味の方が重い人だから、変な事になったという記事があった。あんまり情報を追う気はないが、なんか色々アレな感じ。僕は好奇心も持ち合わせているが、これを十全に当てる対象は書物とか学問にすべきだという弁えはある。好きな人には、、ごめんなさいをしたいところではある。興味が尽きない。

 

ともあれ。

 

スポーツが盛り上がっているみたいだが、僕は本日汗をかきながら料理を作って、「料理もスポーツだな」と勝手に盛り上がっていた。ちなみに本日の弁当画像に親指を入れたのはわざと。指も色彩の一部として撮った。

 

本日は洗濯もあったため、ゆったり踊りながらつくる訳にもいかず集中して動いた。メインはオリーブオイルにチューブニンニクを少しだけ入れて温め(若干爆発した)、鶏もも肉塩コショウを加えて炒める。レンチンで柔らかくした人参、ほんとは玉ねぎだったのだが、時間がかかるためざく切りキャベツを入れて良い感じになったらウスターソースで味を調え完成。副菜は茄子のポン酢わさび浅漬け。茄子は神秘の食材だよな。煮たらとろとろ浸けたらしゃっきり。きっちり作ったからか、どれも完成度高い。

 

昨日の思考実験の続きで、仮に好きな人に1つだけなんでもして良いとしてみたとき、最初に思い付いたのが、「僕が作り得る最高のオムライスを食べてもらう」だった。しかし、ここ何年も作っていないし、そもそも見てくれよく作れたことがないから、3回くらいは試行しないといけないな。バターは良い物を使って、上に卵が乗っていて切ったらとろとろ卵が流れ出すようにしてみたい。

 

なんじゃそら。

 

次に思い付いたのは「接吻」でまぁ真面な欲求だ。

 

さておき。

 

平熱が2分下がった。何故だろう。その分発汗量が増えた気がする。ふつうに考えると平熱という恒常性を保つために発汗で熱を発散するということで、ウイルスを撲滅するために震えて体温上げる原理の逆。ただ、平熱低い人が必ずしも発汗量が多い訳でもない。エアコンは体温調節のメディア化なのだろうか。メディア化というのは、人間の機能の外化ということ。活字は人間の発話(発話)の機能を外化するもの。

 

もしかしたらずっとぎりぎり微熱状態だっただけかもしれないが。

 

頭を使っていないのだろうなという発想はたまたまではなく、AIの本に「合理性」の定義が載っていて、あぁ、全然合理的に生きてないなと思ったから。曰く、合理性には「認識的合理性」と「手段的合理性」があるとのこと。細かい定義はともかく、どちらも理想とする像が頭の中に在って、それと現実を一致させる作用を言っている。要は意識が現実より先にあって、現実を合わせていくということ。

 

分かり易いのは手段的の方で、自分の理想的な像の為にどういった選択をすることが正しいのか判断して実際にそれをすること。仏教とも繋がることで、理法(願い像)にたどり着く選択を間違えないのが合理性。行動経済学的に言うなら、人間は不完全な合理性しか持たないと言う。ここから、ベイズ確率論というまだ解読できてない手法が出てくるのだが、これは統計学でも出てくる。まぁ機械学習の本だからAIとも繋がっている。

 

どうだろう。自分は合理的な選択をしているという自覚はあるのだろうか。選択の時に情報が十全であることなぞ絶対にないから、その不十分な中でなるべく良き選択をしたいというのはふつうか。

 

僕が合理的ではないという論拠は、どの時系列においても良き選択があるとはしてなかった。選択しなかったことに対して後悔がとんとない。あっちはあっちで面白かったかなというのはあるが、今が楽しいから可能性で遊べる。

 

ほんとに深刻な選択なんてほんとはそんなにないのではと思う。深刻さを演出するのは外の事情でしかない。別に選択するときはどちらの方が楽しそうかで選べば良いなんて手放しで言えたりはしないが、何を選択してもなんとかなるのが人生な気はする。

 

僕の欠陥は、理想像とか願い像が漠然とし過ぎていて、目的にはなりえないところなんだよな。例えば冒頭の水まくらの話でも、より良さげな水まくらを選びたいみたいな理はなく、選んだものが縁だろうという感じだから、口コミとか人気とかでは判断できない。いっぱいの人が選んで正しかったとしても、それが僕にとって正しい訳ではない。

 

人生上の選択でも、自分にとってこれが正しいとかではない。

対人だったら、僕の選択より相手の選択の方が重いし、対現象だと僕の意識が現実と一致するようにという選択はそもそもない。そんなことしていたら巨木とか池には逢えなかったし。好きな人も見つけられなかったかもな。

 

漠然とした願い像としては、賢く在りたいというはあるが、賢くなる為には知識を収集すれば良い訳でもないし、本を読んでいるのはある意味完全な非合理の動きでしかない。

 

自分の中の正しさを思考するという行為は希少価値があるのはたしか。そもそもここをきちんと考えている人はほとんどいないと思う。一般的なところの中での正しさならあるかもしれないが、一般的には思考もエネルギーを消費する資源だし。

 

個人的には思考は資源ではなく挙動であり波でしかない。

僕の思考を開示してもそれは僕そのものではない。

 

そういえば、あんまり関係ないが、著作権の話が流れてきたから、著作権法ももう1回読まないとなと思ったのだった。

 

知的財産法は歴史的には新しい分野で、知的な創作、発明、方法論みたいなものを土地のように確立した物質への権利になぞらえようという試み。特許とか意匠はなんとなく分かるのだが、著作権法って毛色が違うなぁと思っていた。定義とか細かいところはすぐ出てこないが、著作物であるという認定も細かい。法的ルールからではなく芸術学的な方面の視点で読み返したいところ。

 

権利と承認されたことによる弊害というか、倫理化されるのもどうもなとふと思う。

著作権って、著作物を創作したその人にあるから、その権利者だけが侵害者に対して文句が言える。権利ってもともとそういうものであるのだが、有名人の不倫が犯罪であるみたいにまくしたてるような人にとっては、ここの区別はあんまりないよな。あえて教えてくれる人もいないし。

 

犯罪だって、現代の国家において私刑は許されていない。

まぁ、悪いことだって一方的に認定することは、とてもとても簡単だ。自分には現実的に関係ないし。いや、自分に関係があると思っているから憤っているのかもしれないが。

 

なんとなくこの辺りに善良っぽい一般的感覚の闇深さを感じるのだが、こんなこと誰にも言ったことはない。

 

ちょっとハリーポッターを持ってくる。

ハリーの叔父さんのダドリー夫妻は、当人達が思う「まとも」な世界で生きている訳だが、子供が誰かをいじめていたとしてもまともの範疇である。ハリーをネグレクトしていても意に介さなかった。

 

これって現実世界と無関係なのかな。

自分の中の善に反することに対しては徹底攻撃して炎上させる現代世界ととても近いような。

 

ほんとに自分に生きているのだろうか。

何万の敵に打ち勝つより、自己に打ち勝つ方に価値があるというのが原始仏典。

 

「モモ」は孤独の話になり、過去が出てこない。

誰かと分かち合わないと、という話だったがほんまかとは思う。

 

分かち合えるという現象が貴重であるということなら分かる。

あれ、僕は僕をお裾分けしたことはあるが、分かち合ったこと、記憶にないような気がする。

 

あくまで誰かの人生世界の中での登場人物でしかない。

 

そもそも自分を分かち合うってなんだ。もうこれを食べないと餓死する食物をあえて分けるみたいなイメージなのだが、現代的にはどうなるのだろう。

 

いやはや、どんな時代で生きているのだろう。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

 

 

心頭滅却

 

 

身体はほぼ元通りなのだが、外気への反応である発汗までのラグがかなり短くなった。ただ、これが病み明けの影響なのか単に暑いだけなのかの判断がつかない。

 

全国暑いらしい。皆さんバテていないでしょうか。僕は元気です。

 

なんとなく対策として本日の副菜は涼し気なものにする。ムチンもといオクラとワカメのゴマポン酢和え。粘度と夏バテ対策は連動している気がする。ちなみに本日のおかずの副菜は、きゅうりとズッキーニのゆかり浅漬けで、これも夏っぽい。なんにせよ、オクラも好きだ。新鮮なのは生で食べたい。

 

さて、何日かぶりの出勤の道のり。田んぼはひび割れていて成長も芳しくない。と思ったがもしかしたらもともとがそういう品種なのかもしれない。そういう品種があるのかも知らないし、排気ガスの影響なのかもしれない。よく見ると葉の端が枯れているように見える稲もあるし。

 

昼休みに寝ているホームレス女性を見かけたとき、原始仏教の「眠れない人の1日は長い。疲れている人には1里は長い。真理を知らない愚か者にとって人生は長い」というフレーズを思い出した。悟りの境地だ。凄い(し若干眩しい)。

 

久々の仕事は、声を出すのがなかなか大変だった。発話用の言葉は頭にあるから問題ないのだが、誰とも会話しないほぼ1週間によって喉がさび付いている。特に発熱にも触れられなかったが、それは、全体的に2回目の反作用で発熱があった人に紛れていたためらしい。

 

まぁでも僕の言葉に信用が置かれているのは、なんとなく「お」だった。僕は道理がインストールされていないから、自分の言葉の価値というのも良く分かっていない。まぁ理屈で考えれば、2年間無遅刻無欠勤だし、ほぼ大人しく働いている人物がそれを言ったのであれば、まぁそうだろうとなったのだろうという解釈が1つ。もう1つとして、自己申告はとりあえず疑えないもんなという解釈。こちらだと、誰が言おうが同じことになる。どちらかというとこちらの方が大人の対応なのかもしれない。そういえば、有給のことは何も言われなかったな。

 

ちらっと、「男の人は偉そうだ」という命題を見かけた。別に遡上に上げることに他意はないのだが、ふと、今の僕の生活圏で偉そうな男の人って居ないなと思った。上司も言葉遣い丁寧だし、静かな人ばかり。ちなみに父親も偉そうな人ではなかった。お祖父ちゃんは、やはり2世代前だから、お祖母ちゃんのこと「おい」とか呼んでいたが、お祖父ちゃんが亡くなったあとのお祖母ちゃんはちょっと元気がなくなっていた。まぁ僕は孫で家督を継ぐ立場だったので偉そうの被害はなかった。

 

お父さんがもう少し偉そうにしていたらちょっとは変わったのかなぁと想わなくもない。この世代の家族の型としてという話。親族で言ったら、最上級に偉そうだったのは父親の妹の社長である叔父さんだった。まさに社長という感じ。これは役割分担の話。偉そうなのは偉ぶるだけの実績があるみたいな。僕はこういうのはちゃんちゃらおかしいと思っているが、この型というのが上手く家族を回す1つの模範ではあったのだとは思う。

 

偉そうである人っておそらく何か怖いんだろうなという気もする。よく喋る人と同じような意味で。偉そうにしてないと権威を保てないみたいな。あと、当然ながら偉そうな女の人もいっぱい居る訳で、偉そうという属性は今も昔も性別には依存していないと思っている。権威、というか尊敬はそんなものでは得られないのが現代という気もする。

 

ちなみに僕は、無礼で失礼な自覚はあるが、偉そうになれる気はしない。

そういうものだとしてやってみようとしたこともあったがうまくいったためしがない。

 

粗っぽい職場だとそういう人は結構いる。

でも、別に偉ぶらなくても尊重は保てるよな、たぶん。

有能さ、もしくは、全部見られている感。

 

あと、これは見た気がするというレベルなのだが、「死んだ人には思い出しか残らない」みたいなやつ。これのどこが悪いのかという感じ。確かに生きている人には更新可能性はあるが、これがニュースみたいな情報の更新だとしたらどういった意味があるのか。

 

僕にとって父親の価値は僕だけのもので非売品でありもう一生消えない。

具体から絶対になるのが思い出の価値では。まぁ、好きな人について、いつ過ぎ去ってくれるのかな、わくわくという価値観は基本的に誰にも分からないはず。

 

要は接することができる存在であることが重いのではなく、存在自体が重いのであれば接することがなくなっても価値が変わらないということ。もう誰か分からないが、19、20歳の頃に接していた、モバゲーの何人かはずっと残っている。ハンネ付きで。

 

 

ところで、ふと、これだけのほほんと生きていられているのは、きちんと生きてないからではないかという想念が起こった。他の人がどうかは知ったことではないが、僕にとってのきちんとは、承継、もしくは生産。子を成すのが典型だが、次世代に承継していく仕事か、価値を生産して世の中を豊かにする仕事。僕はどちらもしてへんなぁ(えせ関西弁)と。まぁこの価値の生産は誰かにとってでも良いが、僕の日記がそれを担っているとも思えず。

 

のほほん野郎ですわ。

ただ、だからと言ってそれをしようがしまいが、ないようなもので在ることは変動しない。

この価値は別に対価とは関係ないから、そう考えると、まだまだ迷子道はいっぱいある気もする。

 

芸術とは、普遍性が表現されているもの、か。

 

 

ともあれ。

 

そうそう、やっと「アズカバンの囚人」終わった。僕は今回スネイプ先生を主人公にして読んでいるから、守護霊がハリーのお父さんが動物になった姿だったっていうのが感動的ファンタジーみたいには読めない。

 

スネイプ氏はハリーだけにではなく偏見まみれで根暗な感じに語られているが、ハリーのお父さんにいじめられていたことがこの当たり前に寄与しているとしたら、とても悪役にはできない人物よな。ハリーの父親からの承継でハリーの物語が光だとすれば、完全に闇だが、私情満載の割に、締めるところはきちんとしている。たしか「謎のプリンス」だし。

 

まぁほんとうにいじめだったのかはぼんやりしているが、この辺りが現実世界と符号あるよなぁよくできるなぁって思う。劣等感の塊だけど有能ではあるし。

 

物語の再読の醍醐味の1つ。再解釈できるし、誰を主人公にするかも物語の設定に囚われない。まぁそういう物語はなかなかないのも確かだが。

 

あと、「モモ」の凄さは、僕だけの効用かもしれないが、物語を追いながらそれとは別に自分にとって過ぎ去ったものが鮮明に再生されるところ。いやほんと凄い。

 

今日思い出したのは、かつての派遣時代、10年くらい前かな、ある工場に行っていた時のこと。高級お菓子を冷蔵庫みたいな気温の中詰める作業をする。その統括していた(偉そうな)女性に好かれたというか、ちょこちょこ話をしていたのだが、唐突に自己開示をされた。息子さんを亡くしていて、当時の僕がその息子さんの年齢と同じくらいだったとか。僕も自分がおべんきょしていることを話している。なんだかそこで正社員にならないかみたいな話もあったようななかったようなはともかく、「もう来シーズンは来るなよ」って言われたこと。もちろん名前も思い出している。

 

心が熱を持つ。また会いたいが、実際に会う可能性とも関係ない。

なんで思い出(とされるもの)に重きがおけないかというと、それよりもいま(厳密には「いまみたいなもの」)の方が大事としないと自分が保持できないと思い込んでいるから。

 

人の存在って固形物ではなく揺れ動く天秤みたいなもの。

厳密には天秤よりもっと流動的なものだが、適当な比喩を当てられる物質がない。

 

思考実験。仮に、自分がいま大事だと思っている人と関係が断たれたとして10年後に自分を覚えてくれている人って居ると思うかどうか。これは逆でも然り。関係が断ったあと、10年後でも覚えているという自信がある人は居るかどうか。

 

僕は当然皆さんのことが残っているに違いない。

これは重さ云々より無意識から掘り返す術を持っているからみたいなものだが。

 

逆だと、ほとんど人はきっと忘れてくれていると思う。

それでというかそれが良いんです。一般的にはそういうものだし。

 

この思考実験で考えたとき、もしかしたら好きな人は残してくれているかもしれないとふと想えた。置き土産の量がここの日記どころではないところと、忘れっぽいと自負している癖にものさしがやや違うところ。

 

まぁ僕のは異常だと思う。

これは、内側の人(現実性)だけを大事に置くという道理を知らないからだろう。大学時代の最初のバイトの焼き肉屋とかも思い出すのはまぁ良いとして、ついでに当時の一回しか行ってない美容院の人とかスーパーの可愛らしい店員さんとかも出てくる。

 

うへー。

でも、記憶は記憶であり、どれだけ再現されても今とはあんまり関係ない。

 

これは、僕の道理なのかもな。

外付けだと、過去の記憶には輝きがあるとか、辛さとセットであるとかの価値観があるが、別にいま辛い訳でもないし。

 

不穏というか、僕の道理に近いと思った原始仏教のフレーズで、清らかになった人は家に固執しない、飛び立つ鳥のようにその人の行く先は分からないみたいなのがあった。

 

僕が書いているのは依存ではないから、容易く飛び立てる。という自分を知ったのは直近のSNSであるGREE。接していた人は忘れないが、別にその人に読んでもらわなくても良い。

 

エックハルトさんも、意識的に生きている人は次に何するか予測できないと言っていたし、今後どうなるのだろうな。

 

ここまで。

 

夏バテしていませんように。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

 

静かに清らかに

 

 

 

昨日はタイトル詐欺にならないようにわざとダサいタイトルを付けた。目論見は成功したが、あまりやると澱がたまりそう。人に単純なレベルアップなんてない。異常事態において、自分の普段見えない部分に気付くだけのこと。「盲点の見方」とかのほうが良かったか。あるいは「視覚の可視化」だが、このタイトルどこかで使ったことがある気がする。

 

日中は完全にぼーっと過ごした。思考も実用的なレシピ検索とかしてない。無駄でも貴重でもないただの1日。キングダムを一気に読み返したくらい。法治国家における法とは人の願いだというのはなかなか面白い。神様でも人でもなく願いを言語化してそれに支配権を委譲する。人の根本は「欲=貨幣」対「光=善」だという対話も面白かった。僕はちなみに後者寄りなのだが、別に性善説とも違う。もっと人間的な善性のところであって、善と呼ばれるものでも無さげ。もう1つちなみに、読みながら考えていた訳ではなく書きながら考えているだけ。

 

素朴な自分がはばかられてしまうというのは、人は何事も自分の立場を前提として考えるから、そうではない存在に対しては忌避するか拒絶するかなのだろうなという学習があるから。自分がしんどいのに誰かが楽しているのは憎らしいし、自分が楽だからという前提がないと慈愛が起こらない。これは人間がもともとそうであるというより、そういうものであるべきと教え込まれている部分もあるように思うんだよな。

 

道徳の授業とかの自分とは違う(劣った)人の立場になって考えましょうって、相手も個人だということを度外視している。別に綺麗事ではなくなんとも雑な捉え方だなと。僕が集団を遠慮してしまうのは、個人の人格が捨象されるところにあるのだが、立場で括るのはそういうところなんよな。立場さえあれば自分がどう自分であるのか突き詰めなくて良いことにされている。

 

人間関係の機能性もこういうところから来ている。別に必要でも固有でもないから、ロミオとジュリエットとか、肝臓を食べたいとか、セカチュウとかに同情する。いや、これは具体的になることで必要になるというはありうるところだし、別に良いけど。

 

いちおうこういう俯瞰的な仙人みたいな視点を修行によって得たみたいに書いているが、本当は、僕がもともと物を知らないからなのだろうなと思う。道理を知らないでも良い。ほんとうの意味で無知なんだよな。発達心理学的に言えば最初の自我の形成に失敗している。

 

失敗はしているのだが、擬態はできるからとても真面(このまともの漢字、実況動画の字幕で初めて知った)に見せることはできる。たぶん物心ついてからずっとうごうご考えていた。

 

気付いただけでは無意味で実践を伴わないといけない。僕が社会的パートナー至上主義みたいなところから逃げてきたのは、自我の形成過程の家族関係がやばかったからとしてきたが、やばいのは家族ではなく僕だったのかもしれないと歴史の再解釈。

 

家族ってなんなんだというのは、18歳の時の父親の葬儀の時に母親と姉と妹が泣いていたときに感じたのはたしか。僕は寝ぐせでぼーっとしていた。なんでかというと、自分たちがストレスの原因になって殺した(刑法的な意味ではなく)のに、よく外に向いては泣けるなぁというところ。僕はものを知らなかったといえ、加担してしまった部分もありほんと闇の領域ではある。そういう空気に流されてしまったところ。もっと僕が素朴で居られたらあるいは。

 

重松さんの「流星ワゴン」で泣いてしまったのは、大学時代だったかな。

 

ただ、昨日だったかな、お父さんに対して、息子は自由に生きますね、みたいなことを祈れるようにはなった。血とかどうでも良く僕は個人として父親のことをもっと知りたかった。

 

まぁしんみりした話はともかく。

 

道理を知らないというのは、こういう時はこういうものであるという、感情のルールというか、思想のルールとか行動のルールとかそういうやつ。未だによく分かっていないが、空気読みスキルでなんとか対応している。有給の価値とか貨幣の価値も実感としては分かっていない。

 

こういう当たり前を疑わざるを得なかったのは、もともとの自己観が形成されていないものだから、しっくり来るものを見出さないといけなかった。今考えるともともとが無だった感もあるが、他人に自分が決められるという感覚がどうも駄目だった。別に自分で決めている訳でもないのに。

 

んで、恋愛関係も全人格で接するものだという建前を真に受けている割には実践経験ないから何もできず、1か月で振られた後でも自棄酒していた。そこからやや荒れたりして恋愛遍歴は割と外から読んでも面白いと思うのだが、長くなるので止めておく。ファーストキスの相手は、恋人ではなかったとか、相手を傷つけないことを優先して離れるとか。

 

そうして、二十代はやたらとまどろんでいた。

本は読んでいたし、おべんきょもしていたし、働いてもいたし、思い出せるようになったこともたくさんあるが、それでも自分がぼんやりしている。

 

人の言葉をまずは信じるというのも、当たり前の建前から学習。ちゃんと自分の言葉として言葉を扱っている人はとても少ない。当たり前の領域ではなくってきているが。人の言葉を信じるという観念は、その人が言ったことを事実とするのではなく、言質とする感覚なのだろうな。言ったからには本当なのだろうという他責。

 

最近やっと鮮明になってきたのは読んできたことと、無意識が考えてきたことと、出逢った人の啓示が一致してきたから。誰にも言わないところで考えてきて良かった。思考が言語であるという説を受け入れらないのは、そうだとしたら僕はとっくに潰れているからで、言語される思考はあくまで意識の部分でしかない。

 

僕の素朴な人格は、もともとないようなものであって良いのだというのが、読んできたものの中に確立した人間観を確定できている見解がないところ。学問的知見は、あくまで限定された領域における人間観であって人間そのものではないし、効用を求める経済学に重きをおくこともないし。

 

(もっと僕に辿り着いていれば一番長く過ごした恋人さんとの生活はありだったのかもしれないとふと。一番近かった人だし。ただ、もう遅い。)

 

仏教を今読めているのは、何かの巡り合わせなのだろうな。

僕の信仰対象は唯我独尊教だから参考にするだけだが、僕は一時期「賢い人」になりたいと思っていた。曰く賢人は清らかであるとのこと。そうそう、そんなやつ。

 

ここで言う、理法って、自分はこうあるべきというという外付けの観念かなと考えていたのだが、たまたま読んだキングダムからすると、自分に対する願い像なのだろうなとなる。これなら分かる。願いを実践するための規範。あくまで自分ルールな。

 

愚か者の章に、「自分には子がある、財産があると不安になる。自分すら自分のものではないのにいわんや」というのがあった。世の中の不安感をほとんど表現しているのでは。

 

この自分すら自分のものではないというところが面白い。

たしかにたまたま生まれて、たまたま生き延びたくらいのもので、自分で完全に生きてきた訳ではない存在を自分固有として固執する。

 

僕はもともとないようなものだが、何かを積むことで自分が確立しているとはしない。

 

自分の存在は自分しか知らなくてこれが絶対ということ。

だから、何か外の事によって自分が毀損されたりすることはない。

 

どこに生きているのかと問われたら、自分の人生を生きていますとなる。

 

あとは、どう遊ぶか。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

幸せでありますように。

 

 

レベルアップ

 

 

 

身体はほぼ完調。昨日は腹筋に力入れる気にもならなかったが、本日はできる。職場に連絡したら今日だけでなくあと1日待機して大丈夫だったら出勤してOKとのことだった。有給を不意に使わせることになるかもしれないが、と申し訳なさそうに言われた。

 

このご時世でなかったら、というか、であっても債務不履行になりうることだもの。良識ある上司ばかりの良き職場。債務不履行になりうるという論点は、民法ごひゃく何条かの話。

労務提供が現実的にも可能でその意思もあるものを職場の都合で拒否したときに、賃金を払う義務は発生するのかどうかという話。プレップ労働法とかにも載っている。

 

僕としては有給はいつも余らせるし、別に使い道も使い処もないから消化できて良きかもしれない。仕事は仕事日で楽しいし。

 

頭はまだややパヤパヤ。若干バランス悪いかもしれない。どうでも良いコメントを素面でしてしまってすぐさま消した。

 

メタ的な話だが、昨日のもタイトル詐欺みたいになっているのではという感じ。完全に思い付きだから効用があるのではと思って読んだ人には時間の無駄だったかもしれない。ただ、僕にとってはこの発熱は確実に効用があったのです。世界がまた広がる。

 

前置き終わり。

 

身体と精神を突き抜けた存在そのものを抱き枕しながら覆った右手の親指で、大丈夫、大丈夫と撫でながら寝る。もはや抱き枕をどっちの腕でしていたのかも定かではない。今なら相手のしっくりくる位置に合わせるが、おそらく左手側だった。心理学的にはなんだったか。どちらかが警戒とかあったが心臓が真ん中だからどっちでも同じよな。

 

不定期でやってくる頭痛も面白い。他人の頭痛は分からないから楽しんではいけないが、自分の頭痛はあまり起こらないから、痛いなぁと観測する。表現するなら、右のこめかみに小型爆弾があって不定期にぼんぼん破裂する感じ。あまり奥までは来ないが、触ると爆弾がありそうな痛みがある。

 

そんなに痛くないから観測できるのだろうと思う人は、人の痛みを自分の痛みで測ることができる人。僕に対してはそれで良い。この痛みが珍しいから観測していただけだし。腹痛はもっと日常的だがこれも観測している。逆算すると、義務教育時代お腹痛いのが多かったのって、明らかに食べ過ぎと牛乳の飲み過ぎがほとんどだったと思う。という感じで観測することと痛みが和らぐことは無関係だが、痛みの経験則と照らし合わせができるという面はある。あくまで自分の中でしかできないことだが。

 

時計時間で1日(厳密には2日)暇になったから、動画鑑賞と思索が捗る。

 

おべんきょとしては、賃貸借契約における賃貸人の地位の移転についてのバランスについて。法律ってほんとによくできている。この「よくできている」は、どうせが枕詞だと何の身にもならない。ちょっと凝縮して書いてみようと思ったが、別に書かなくても僕の中ではまとまっているし、書いても面白くないだろうといういつものこと。

 

法律って一般的に賛成か反対かを決断することであって考える対象ではないよな。いや、一般的には賛成か反対を決めることを考えるとされているが、それは思考ではなく判断ではと思う。判断に必要なのは、思考ではなく正確な情報と情報の評価であり、いや、これも広い意味では思考か。こんなのどれだけ考えたって決まらないから必要なのは自責にできる勇気。

 

なんだか中学校の同級生に夜の仕事のスカウトをしているときに恋愛相談をされたのを思い出した。何を決めたいのか良く分からなかったから、後悔ないのを選んだら良いよって一般論で返したのだが、どっちを選んでも後悔するに決まっていると返された。控え目に言って僕はこの友人好きではないし別に一生会いたくないのだが、いまなら、どっちの選択に責任を負えるかで決断せぇって言うだろうな。

 

選択におけるデメリットをも受容できるかというのは、ほんとは責任ではなく遊びの領域だと思っているが、語彙が通じる気がしない。

 

そろそろ本題へ。

 

素朴な僕の見解って、とてもはばかられるのだよな。

絶対に言わない素朴があった訳ではなく単なる発見なのだが、具体的な会話でこれを言うと、絶対相手がイライラするか、自己嫌悪に陥るか、ものさしの齟齬を感じるに違いない。

 

そういう意味ではここに書いていることは現実的な関係では断片的にしか語れないのだよな。凄く具体的に言えば、仕事を楽しんでいる僕が仕事に苦しんでいる人と共生できるはずがない、とか。しんどさに共感はできるが、あー。

 

ところで、原始仏教ブッダさんが宗教をして語らなくてはいけなかったのも分かる。これでもとてもマイルドにしていると思う。普通に雑談みたいに読めてしまうのだが、全ては「空」を前提とすれば、その後の賢いとか愚かとかは蛇足な感じ。まぁ空にたどり着くためには自分を突き詰めていかないといけないのだが、これも修行でたどり着くところではないし。マイルドなのは、善いことしたらいいんじゃないみたいなところ。善きに励んで「いま」に辿りつける訳はないぜ旦那。

 

いや、実際のブッダさん知らないが、仏教の本質はどうあっても属性に囚われないところから来ている訳で、善悪というその時代の価値観とは別物だろうという解釈。

 

あぁそうそう。

文章だから書けるというのはたしか。会話とか関係だったら無理だが文章だからマイルドに他人事して読まれることができる。ちゃんと他人事として読んだ方が良い。

 

昨日に戻る。

 

存在を抱きしめつつ、自分の体への感謝もしていた。よく生きてくれたとか丈夫でありがというとか。この体への感謝って絶対的なものであるという結論からの思考。

 

絶対的とは何ぞや、相対的とは違うが他に説明方法はないのか。

哲学とか神学は絶対的存在として神様を創らないといけなかったのだから、形而上学への挑戦的思索。

 

思い付いたのが具体との違い。

 

どれだけ具体的に自分の体を捉えても絶対にはならないのは何故かというと、具体的というは、あくまで或るカテゴリーの中においてという前提の中での1つだから。人間(日本人、某世代の男性・女性、某地域諸々のカテゴリー)で、捉えられたら自分の肉体も反逆し

てくるわな。抽象的ならもっと広いのかというと、これも或るカテゴリーで区切った共通の要素を取り出すだけだから、絶対とは違う。

 

絶対は確かに言語化しにくい。

なにせ人が絶対で生きていないし。

 

 

続きの前に、もう1つこの体調不良時に考えていたこと。

 

人って、どういう時に他人と一緒に居たいのだろうという思索。

例えば、不安な時に安心するためにとか、人肌恋しい時に温もりを感じるためにとか、生活を継続するためにとか、ためになること発見させてくれる人とか、「或る個人」の前に状況があるよなという発想だった。別に悪いことでもないが、雑いとは思う。この雑さなんなんだろうと思ったら、結局人を自分の物語の登場人物にしているからなんだよな。状況が先なのに、しれっとその状況が当てはまるのはその人だけになっている。

 

こういう風に生きられたらもっと楽だったと思うが、僕には無理だったんだよなぁ。

ここでいう楽は、苦と同義。

 

いや、別にこれを親しき交友関係だとするのも良いし、ちゃんと人を見ているとしても良い。

ただ、この建前上の世界って楽しいのかとは思う。建前じゃないですという見解に対して、では仮に、まぁ良いや。

 

僕はこうやって仮想してみたとき、いまだとどういうシチュエーションにおいても別に誰も関係でなくても良いなとなった。熱が出て不安で動けなくなったらなったで朽ちれば良いし、この不安感って最初の生命維持の残滓だし。こういう意味での退場の可能性って日常生活でも普通にあるからな。顕在化したから不安になるのってとても安心な世界に生きている。

 

素朴な僕は安定剤的な存在も必要としてないし、時間を潰す存在も要らないし、新たな知見を得る為に書物で賄えない存在ってなかなかおらん。あんまり辛辣なことを書いている気はしないが、まず自分の時間をきちんと見ないと、人生もまともに見えない。

 

あくまで僕の物語だが、本の師匠が仏教をあんまり見ない方が良いと言っていたのを思い出す。どういう意図だったかは定かではないが、たしかに共感してしまうことになった。心理学も読むなということだったが、その当時の僕はあんまり自分ではないから分からなかった。

 

僕の人生論だと人ってふつーに啓示的な人物と過去に出会っているという感じなのだが、違うのかな。こういうのが無いのに人生を経験則だけで見ているってなんなのだろう。否定する訳ではないが、何をもって自分としているかの論拠は気になる。もともと自分を全部言語化するなんて無理だし、世界はしんどいものだという固定観念はなに由来だろう。(いうまでもなく前世代から)

 

僕が啓示的な人物になってしまった人の人生はなんだか申し訳ない気もするが、しょうがない。目を凝らさないとただの通り過ぎる人物だし。

 

「モモ」からのなぞなぞ。

 

ある三兄弟が家に住んでいました。

長男は、いまはいない。次男はもう出ていってしまった。三男だけ家に居る。三男を見ようとすると長男とか次男になり変わる。果たしてこの人物たちは存在するのか。

 

メタ的読者としては、途中でわらけてしまう。

そりゃあ時間だろうよって。時間をファンタジー的にしないといけなかったのはどの時代も一緒かもな。現代でもファンタジーとかSFにタイムリープとか異世界とかあるし。

 

でも、エンデさんの言い回し読んでいると、何か原始宗教由来感がある。原始仏教なのかキリスト教なのかは知らないが、時間の本質はどちらにも書かれているし。

 

人に時間を分け与えることはできるが人は時間の扱い方を分かっていない。

自分だけが決められることだって言っているのに誰も聞いてくれない。などなど。

 

人生の醍醐味はこの満を持して啓示がやってくることだよなぁ(悦)。

 

そういえば、頭のパヤパヤ感がなくなっている。

どうでも良いが。

 

あと、芸術の本で、人は舞踊において分裂し、融合しているというフレーズ。

本当は生のあらゆる局面でそういうことがあり、これは小さな死と再生だ、感動とはそういうものだ。

 

感動とはもっとも手っ取り早い合法的な自殺。感動した後にはもう従来の自分ではない。

というところまでの感動をしたことがある人がどれくらい居るのかは知らない。僕は結構定期的に死んで生まれ変わっている。

 

なんで、死ねなくなったのだろう。僕はこういう意味ではもっともっと死にたいのだが、きっと皆死ねない理由があるのだろうな。

 

あー、だいぶすっきりした。

もっと、突き抜けないといけないのだった。

 

命を絶対化したら自分の生命すらめぐるものであってなんでペットとか家畜とか、目に見えるものだけ気にするのだってなるしな。

 

はいおしまい。

 

もうそろそろ書けなくなってきそうですが、縁がある限りよろしくです。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

熱の効用

 

 

 

書かずに安静にしてこのまま寝てしまうことも考えたのだが、こういう時にしか書けないこともあるかもしれないなとなった。どんな修行道だという感じだが、さすがに今日のお供はお酒ではない。水とハーゲンダッツ(ストロベリー味)。めっちゃ美味しい。

 

さて。昨日で随分とすっきりしてしまった後、朝方体の震えで目が覚める。寒い寒い。Tシャツとボクサーパンツだったため、ズボンを履いて布団を被り全然汗が出ないなぁとと思いながら寝る。起きて検温すると、38.4度。頭はがんがんするし、ついに来たかと思ったが、頭と熱と倦怠感というか、神経が裏返しになっている感以外の味覚障害とか喉の痛みとかはない。

 

おかゆを作り(作れるくらいの余裕がある)、食べてまた寝る。常備している常温のミネラルウォーターがとても沁みる。そうして昼頃にさらに少し楽になったため、コンビニに買い出しに行く。なべ焼きうどん、プリン、スムージー、水、ポカリ。財布を忘れたが、スマホがあった。楽天Edyを導入して事足りた。あとは動画を見つつ寝つつごろごろし、夜には平熱より少し上くらいまで戻ったが、スーパーまでは遠いため、またコンビニへ。

 

豚汁とご飯とマグロのから揚げとレンコンとかの黒酢和え、納豆。どれも味が濃いが一番濃いと感じたのは納豆だった。付属のタレと辛子をかけただけなのだが、やたらと塩辛い。ヨーグルトを良いとのことで、オイコスを買ってみたが、これもなかなかの濃味。

 

こうして書き出してみると、普通の日より余計に食っているな。笑

いま計ったら36.9度(平熱)。明日には完全に戻ってそうだが、一応上司に報告はしないといけないだろうな。安静にしとけ言われるかもしれない。

 

 

経験則上似たような症状があったなと思う。あれは直近の元恋人さんとこの部屋を大掃除したあと、ピザを取ってビールを飲んだ次の日だった。体ががたがた震えるのだが、夕方くらいには戻る。東洋思想で言う、気のバランスが崩れたとかそういう感じのやつ。今回も心当たりはある。

 

そういえば、なんというか、全然寂しくはならなかった。熱が出たりしなくても体が在ることは実感しているから発熱くらいでは特に影響はないのだなとか、修行が効いているというか、どこに向かっているんだというか。頭痛も終わってないが、頭痛は頭痛でしかなく(当たり前)、それと精神状態を連動させる必要もない。

 

あと、少し考え事。

 

本当の自分が誰にも話せない思想と見解に基づいているから誰にも話せないのだというフレーズを読んだ。悲しいとか辛いとかいうより、やっぱりそうだよな(納得)という感じ。もともと持ち合わせている部分というも初めのインプットに過ぎないと思うが、ただこの初めのインプットはすなわち自己観の根っこになるからこれを前提に生きている。と、考えていくと、これって別になにか変なことでもない。自己観を覆すほどのインプットなんてそうそうないし、影響を受けながら生きるのはかなり無防備で心もとないだろう。

 

僕は事情によりインプットしないといけなかっただけという感じがした。むしろ、こちらの方がマイノリティなような。

 

見解がまとまらない。

 

ブルーライトの刺激が強いためもう少しだけ。

 

日々の出来事が残っているかどうかで、俯瞰すると残っているが、のめり込むと残っていないというのも、なんだか多数派な感じがした。覚えているというよりは覚えているように言語化できるというだけでは。いや、この言語化が大事なのだとなれば、まぁそうだよなとなった。

 

でも、やはり、言語化されない部分に想いがあるのだよな。

だから、交換がないのが常態というか。しかし、これでは世界線は交わらず別に交わらない方が良いのだろうなという感じもする。

 

なんだか朦朧としている?

としておこう。

 

温かくして寝ます。

おやすみなさい。

 

みなさん、体調崩しませんように。

 

良い夢を。

理屈としての理屈

 

 

なんだか下半身に脱力感がある。なんじゃろこれ。他には特に害されている感はないが、味覚が過敏な気がしないでもない。味覚が鋭くなっているというよりはなんだか味が不快。味覚障害でもないし、体温は風呂上りとしては平熱の範疇。単なる飲みすぎか。

 

その割に、頭は回る。

 

本日は理屈について考えたり実践したりしていた。

 

感情が理不尽で傲慢だとしても理屈は付けられるんだよなということ。

昨日の日記読み返して怒っている感じもしたが、特に怒っている訳でもないです。たぶん。

 

本日買い物に行ったとき、レジが終わった後に袋に入れるスペースで、机には何も置いていないカートに袋を載せてある状態で、何故かお札を整えだした男性。別に服装とか所作に異常があるわけでもないから余計に目立つ。そのスペースで1人か2人かが袋に入れられなくなるなぁと自分がレジの最中から、袋詰め終わって出ていく3分くらいずっと居た。

 

なんぞこの人というのは感情で言えば怒りだよな。こういう人が居るから社会が非効率になるという思考。本日は確実に気が抜けていて無意識で生きているからこういう感情が出てくる。この前、電車に乗っている女性が電話をしていて、男性に注意されてたいたのだが、この光景見たときは特に怒りではなかった。そういうものさしだろうなというだけ。端から聞く電話が不快なのは、内容が把握できないからとのことだが本当だろうか。

 

ともあれ、この怒りは、まともな社会性があるような人物なのだからもっと真面目にしようか、みたいなところ。まぁスーパーでの買い物が社会生活かというと、社会的な名誉に関わらない(仕事中の買い物だったら絶対やらんだろうな、同僚の目が何処にあるか分からない)。僕は当然そんなに場所取りたくないから、コンビニ時代のスキルを駆使してなるべく早く詰めてはけるし、実際この人のおかげで待たされることもなかった。実際人が多くて待たされたとしてもここまでの怒りはない。

 

だから、自分が不利益を被った(これはイライラですぐ流れていく)ではないし、世界が清く正しく真面目であるべきみたいな規範意識でもない。ただ、できる(はず)のになぜ手を抜くということが気になる。できないとかやむを得ないという特殊事情はなんとも思わんが、真面目にせーやとはなる。いや人生で遊んでいる僕が真面目とはなんぞやだが、真面目に僕を見てくれる人には真面目だと思われる。真面目には建前上の概念があって、そう見せたら良いみたいな演技性があるからそこも余計に。

 

要は、人生上の時間は当人にしかないのに、手を抜いてどうするだという余計なお世話みたいな怒りである。そういう現象は見たくない。手を抜くと決めて手を抜けば良いが、その場合は内側だけに影響があるところでするべき。

 

そいえば、当然のことだが、「理屈」は「いま」の範疇には起こらないもの。過去の説明か未来への目的概念だから、ほんとうに内部においてはあまり問題とすることではないのだが、過去に対する共通説明が法律上の理屈だし、感情の理屈も開示して自他が納得するためには必須だろう。

 

ただ、この理由を言葉で理屈付けるというのは、人間の自然の性質として理屈をつけて納得したいというところにあるから、法律の方が多数の納得を得るという意味では必須だが、個人の感情としては、理屈があるのか感情が生まれたのではなく、感情が生まれたから後付けで理屈が在るのどちらだろう。鶏と卵で、これすら納得するための理屈がいる。

 

個人的には理屈の手法をもっと習得してみる。

感情的に納得できない理屈を屁理屈だと評価する人が居るが、それはもともと結論が受け入れられないものだったのか、過程を聞く気がない人が言っているだけな感じ。理屈はもともとも詭弁でしかないから、読む気がない人がふんぞり返って読んでも粗を探すだけだろうな。説明において最上級は理屈ではなく、「この人が言っていることは正しい、もしくは読むに値する」という心の領域だから、単に理屈が上手く運ばれているだけでは納得はない。

 

それでも理屈が大事なのは、理屈スキルというよりは理屈と自分の癒着を排除するため。どういうものが理屈なのか知ってないと、自分がたやすく正当化されてしまう。まぁそれでも生きることには不自由はないだろうが。だって、自分が卵焼きに醤油をかけることをケチャップを是とする人に納得させる理屈なんてないし。簡略化したが、もっと大きな思想上の問題でも同じ。

 

理屈の本質は直感とか感性に訴えることではなく、理性に訴えることで、もっと言えば、当人もそれについて疑っているというところにあるのではと思った。

 

実践例は会社法の、株式が相続によって共有された時の株主権の行使の扱い方なので、書いてもつまらない。法律はルールの理屈だから行き当たりばったりの感情論ではなく、過去から蓄積した事例をもって未来にも安定的な判断ができるようにするところに理屈が使われる。自分が何をしたらどうなるかという予測が付くというのは心理的安全性においてはとても大事よな。ただ、感情がメタ的にはなりそうな学問。凶悪事件に煽られて感情的になるのは簡単だが、感情では裁けないという縛りはなかなか大変だと思われる。多数派が感情的に悪いと思ったことは理由なしに悪いとすることは自分が多数派のうちはいいだろうけど、どこまで人の良心を信じて良いものか。そういう大岡裁きがおかしいという歴史の学習から法理論ができているのだが、素朴に考えると実際どうなんだろうと思う。

 

理屈の学問の極致と言えば数学だが、数学が人の本質を示しているというフレーズも見た。確かに、そういう面もある気がする。1,2、3、、、と数えていく数の無限と、0と1の間の無限(の濃度)が等しいって、なかなかすげぇ。僕はまだ数学は高校レベル未満くらいだが、1つの世界だとすると、とても静謐な世界だと思った。気分で覆されるような理屈はないし、追えば追うだけ分かる。難しさで言ったら具体的な個人より遥かに簡単。

 

「数学で遊ぼ」という漫画で、数学科のゼミの光景があったのだが、コレをソレと定義するというところから始まるのはとても良きだと思う。意味を決めてしまえばそれしかなく、感情が入り込む余地がない。期待も親密感もない。良い世界だ。統計学は最高の学問だ(数学編)も2周目。三角関数辺りから一気に分からなくなるんだよな。たぶん分数の本質が分かっていない。

 

数学の理屈はきっと時間性からは離れている。

 

ちょっと、「いま」の話。

 

仏教では、妄執から離れていまを見ろという教えがあるようなのだが、ブッダさんが「理法」って、どうあっても時間の概念が付着している。父母・妻子を大事にとか、あ、要は人生自体を「いま」としているのか。それなら割と分かる。自分は奔放だった癖によく言うものだ。笑

 

どうでも良いのだが、昨日の自分がへぇぁーと声を出していたこと。通勤路に「カムオン」というベトナム料理屋さんがあって、いい匂いを漂わせている。一回だけ別のお店には行ったことあるのかな。これって、漢字を当てると感恩で感謝という意味らしいという情報が原始仏教にあった。

 

感謝の念は今の範疇にあって、何とも交換できないものだ。

いや、理屈が付いている感謝もいっぱいあるが、ないものもある。

 

そうして、好きな人への好きの感情についての理屈を考えたとき、僕がほんとうにして欲しかったことをしてくれたところにあるのだろうなと思った。他の人にはきっとできないこと。ただ、別に物理的に何かを消費することではないから、取るに足らない心の動きだったのかもしれない。精神の交換にバランスなんて必要ないし、僕はむしろ貰い過ぎているというところが苦しかった。不自由。

 

素朴な僕は、もともと理屈を必要としておらず、世界の構造とかもどうでも良かったはずなのだが、世の大人が知ったかぶりしているので、ほんまかとなっただけなのかもしれない。いちいち言わないけど、心配の定義はなんぞやとか聞きたくなる。愛の作用なのかもしれないが、であれば、愛とは。

 

僕の余計な心配は、当人が生存しているかというより、当人がちゃんと当人で居るのだろうかというところであって、僕との関係性においてどうかではない。純粋な心配は自分にとっての利にある。恋人さんが浮気しているんじゃないかという心配とかそういうやつ。全然相手の存在を尊重できていない心配。吐き気がする。

 

いや、雑く愛情があるから心配するという観念でも良い。

言い過ぎ野郎。でも、この心配軸って、誰かが自分の世界に存在するか問題であって、どう存在するかは見ていないよな。

 

あーあーあー。

 

怒っているのでなく語れば語るほど引かれるのが分かっているから、ちょうどいい塩梅に収めていたのに、350本くらいとこの連休のアレでこうなる。

 

世の中には語るべきでないことがあるらしいと教えてもらった。

 

修行が足りないな。

もう少しほんわり過ごしたかったのに。(いや、既に無理が)

 

そういえば、舞踊が「現在性」の芸術だという話があった。確かに。曖昧な人生の中で、現在を捉えるカタルシス。オリンピックもきっとそういうもの。僕はいまに不満がないから何かの解消のためには見なくなって、ウィンブルドンとか深夜に見るの好きだったのに、何の衝動もなくなってしまった。

 

でも、演劇はしばらく見に行くつもり。

 

なんだか結局僕は寂しいのかと想ったりもする。ただ、普通の安心では安心されない。僕で安心する人も求めていないし。

 

もっとしっかり自分で生きよう。

 

思い付くたびに誰かがダメージ受けそうだと思うのはなんなんだろうな。

中学時代の「勉強してない」からきているのか。ここに至るまでそれなりにはやってきたのだが、別に理屈でもないし方法論もない。

 

では、おやすみなさい。

 

人生でありますように。

 

おしまい。

生活の意識化

 

 

本日は比較的ぐーたらデイ。朝ごはんはうめしそダレのレーメンがあったため、安くなると買ってしまうズッキーニを細切りにして塩もみして10分置いて洗い流したものをくわえたものと、納豆ご飯。

 

昼過ぎまで、何度寝とかしつつ、BOWのボーカロイド実況を見たり、ハリーポッターを読み進めたりしていた。ボーカロイドの技術というか調律とか知らないが、人が話すように発話する人工音の進歩はすさまじいと思った。キャラ付けもほとんど知らないが、可愛らしい声と人格。これとAI組み合わせたら音声通信で人かどうか見わけがつかなくなるのでは。

 

あと、こういうのって表現の幅も拡げているよな。自分の声が嫌いな人でもこれを介して世界に発信できる。ある意味人ではないという前提があるから楽しんでいるのだろうか。

 

そうして、昼過ぎに洗濯機を回す。シーツを洗いつつ、布団を干して、コンビニで昼ご飯。個人的に、店員さんの仕事ぶりを観測するのが好き。コンビニで働いたこともあるが、そういうのとは別に、この店員さんは何を意識して働いているのだろうというのをご当地で眺める。最寄のコンビニの店員さんの水準はとても高い。徒歩圏内のコンビニ駅前以外は軒並み潰れているのだが、ここはいつ行ってもお客さんが居て、潰れる気配がない。

 

細々した行動に意識が読める。読めない?

 

本日レジをしてくれたのは学生っぽい男性で、僕が買ったのは弁当、サラダ、2リットルの水。あと、家賃の支払い用紙。袋は持参しないため、これをどう入れるかあくせくする男の子。お弁当温めてもらうとさらにハードル高くなるから温めはなし。普通のサイズの袋だと横に2リットルペットボトルは置けないとなりもう1サイズ大きいのを探す。ハンコはこのレジ側にあったのだが、押すどころではない。

 

僕のすぐ後には、公共料金だけを支払に来た人(色的に住民税だろうか)がいて、もう1人のパートぽい女性店員さんが、奥からやってきて別のレジで対応する。で、ハンコを取りに来たのだが、ちらりと僕が置いている支払用紙を見て、持っていって自分が対応するお客さんに押したあとすぐこちら側に返しにきた。男性店員は気付かなかっただろうが、僕は見ている。

 

この気遣い(意識)に感動してしまう。当たり前の好意的行為より、やってもやらなくてもほとんど変わらない行為の中のポリシーが好ましい。

 

晩御飯のお買い物に行くと長野フェアがやっていた。どこかに行ってご当地モノを食する衝動は無いが、家で食べる分にはまぁまぁ買ってしまう。生蕎麦と野沢菜のわさび漬けを購入。生活的に消費される食材の値段は気にするが、こういうときの金銭感覚は別で、より美味しそうであれば良い。食材を全部生活的ものさしで測ると、外食なんて一切できなくなるだろう。いや、僕はしないが。生活的食材としてしゃぶしゃぶ肉とレタスと豆腐。お刺身ばかりだとバランス悪いから、本日は豚しゃぶポン酢サラダをメインにする目論見。

 

帰ってきて、音楽を聴きながら一通りおべんきょの本を読み流した。読み流したというのは語弊がある。ただひらすらなるべく早くめくり、それを眺める作業。おべんきょ感を払拭しないと上手く考えられないから、苦肉の策。いったん一字一句を再現しないという観念を払拭するために、ただの景色みたいにする。僕は苦行しながら生きたい訳でもないし。

 

ご飯を作る段階。お風呂をためながらしゃぶしゃぶ用のお湯(塩、酒、チューブ生姜)を沸かしつつ、布団に乾いたシーツを装着させる。掛け布団のひも縛るの大変。なにせ不器用なもので。これが終わるとお湯が沸きそうになっている。洗い物をしていると沸騰し出すから肉を投入し、火を止めて洗い物を完遂させる。ざるに肉をあげ水で締めて冷蔵庫へ。ざるを洗って、レタスをちぎると、お湯も溜まっている。

 

良い塩梅。

 

ご当地野沢菜わさび漬けは、結局絹ごし冷奴の上に乗っけてみたのだが、クリームチーズ感で美味しい。発酵食品の共通項。

 

そういえば、ここのところ部屋から出て階段を下りた2階にずっと居座っておられるカナブン氏。何食べているのだろう。僕の記録にあるカナブン氏は樹液を吸っていたのだが、階段にも何かあるんだろうか。何日か観測していると少しずつ動いているから生きてはいるのだろう。と、ここで昆虫の時間について考えたことを想い出した。2日前くらいに住宅街を歩いていると、石造りの玄関の柵にセミの抜け殻が残っていて、よく見ると、樹木に抜け殻が密集している。もう少し前に子供とお母さんがセミの抜け殻を集めているのも見かけた。

 

そもそも、セミは何故何年も地面で過ごして、生殖期間が数日しかないのだろう。セミの死骸ってほんとすっからかんのわりに、かなり構造が細かい。と考えたところで、そもそも虫に時間の観念はないから、ただそういう風に生きるように決まっているだけだよなと思う。なにか種の存続上、都合が良かったのだろう。時間を考えられるのは人間の特権だが、これを人間の一般的時間だけで考えるのはもったいない。

 

 

という、比較的ぐーたらな1日の描写でした。

あ、そういえば、起き抜けで水分を自販機に買いに行った帰り猫氏が居て、傍らに座って15分くらいお邪魔したのもある。迷惑そうだった(悲しみ)。

 

これくらいのことはふつーに誰でもやっていると思う。

やっているというか、生きているというか。

 

僕は記憶能力はほとんど普通の人と変わらないと思う。円周率何万桁とか覚えられない(覚えるつもりがない)し、電話番号すら覚えられないし。

 

ただ、自分が生きていることくらいは描写できる。

この意味で、言語化できないだけで人は僕と同じくらいの軸で過ごしているはず、なんてことはないか。

 

ここが時間性の外付けマジックというか、記憶力の概念の嘘というか。

外のことなんて人は残して居られない。結局はどれだれ内側の世界観にできるかということ。そんなこと誰も教えてくれなかったが。

 

試みとして、毎日というか毎瞬、右脳のちょっと上に「自分がいまなにをしているか、考えているか」というモニタリングの意識を残すことにしている。ずっとやるのはとても大変だが、ネガティブと病気は無意識の隙間にやってくるから、このやり方は割と正しいはず。

 

だから、今日のぐーたら描写も記憶でやっている訳ではない。

ちゃんと自分で在ったときの出来事はきちんと覚えられているはずで、それを日常生活でやっているだけ。無意識脳にはそれくらいの器はある。でないと人は無意識の中でうじうじ意識する余裕はない。

 

別に何か行動しないといけないみたいなこともなく、むしろ本当に大事なのは、瞬間瞬間に自分が何をしているかを意識すること。これがいましか自分が居ないということに成れるし、過去を手放さないで居られる。

 

どうでも良いが、興味深いという感想というか感情って、意識の交換からするととても高尚なんだよな。良いオトナになった人達が、固定された自分の外に興味を持つってなかなかない。僕は普通に興味で生きているから全然意識していなかった。

 

このヨクワカラナイそわそわは嬉しいで良いのだろう。

ある意味エネルギーが補給される不可視な交換。

 

まぁ、この興味深さが僕の物理にまで繋がっているかというと、そんなことはないと思われる。それが普通の事だが、メンヘラについて文章を読んだとき、僕の興味深さは当然物理まで繋がっているのだよなと思った。別にそれで何か自分に役立つとか生活圏になるとかはではない。女性の方が興味をそそるのは、女体への性欲ということでもなく(感触上の興味は否めないが)、女性の日記的文章の方が、わりと素朴な自分であるということが多いから。

 

男性になるともっと突き抜けた人になる。かつての文豪とか森さんとか。

 

性によるものさしの差異はとても分かる。

スーパーで、文脈は分からないが、「だったら知ってるって言えよー」と大声で話している人が居て、正しさを信奉しなきゃならないのは男性性の痛みだよなと。家督を継ぐのはなくなっても伴侶を養う正しさは残っている。ジェンダー論者は怒るかもしれないが、女性はなんだかんだ、守られてなんぼみたいな感覚があるし。

 

この守られているという精神的安全性があるから、素朴に世界を考えられるという傾向があるという話。自由だなって思う文章はだいたい既婚者さん。

 

個人的に、世界の話はどうでも良く。

世界の話で言えば、人間の集合意識が天候をコントロールできるかみたいなオカルトなことを考えているのだが、億単位の人が完全に一致したらありうるのではという推測はある。人の意識が電磁派としてのエネルギーであればだけど。

 

だから神様はバベルの塔をぶっこわしたんだろうな。

 

僕としては、「いま」接している人が僕にとってどういった「縁」があるのだろうなと思うだけ。別に寂しいから友達が欲しい訳でもないし、何かの有用性のために人と接している訳でもない。こういう友達が欲しいですってプロフィール情報に載せているのって、なんだか、自分で足りていませんって表明しているようで、そこの穴埋めのための人物にはなりたくないって思う。

 

明日どうしようかな。古墳群をめぐる旅とかもあり。

 

難しい天皇性で、第三者の審判性みたいな話があった。

自分が考えているではなく、誰もが考えているみたいな超然性。こういう共通項はとても心地良いまどろみだろうな。

 

かつて、僕を好きだった男性と居酒屋で話していて、僕がフェイスブックはなんだかキモチワルイって言ったら、それは羨ましいからではと言われ、自身暗鬼になったのだが、今ならきっぱりキモチワルイと言える。全然うらやましくもないわ。

 

僕は、賞賛されるために自分を書いている訳ではないのはたしか。

イイネはなんの交換にもならないです。興味深さの指標にはなるけれど。

 

では、おやすみなさい。

 

素朴な自分で居ることはすなわち人が離れるという経験則がある。

 

よい夢を。