開門

 

 

昨日の日記の反論のように、僕が接したことがある人達が全員集合した夢だった。4つの列にずらっと並んでいて、僕はその集団に歩いて向かっている。どの列の人も僕を呼んでいて僕は3番目の列を選んだ。「無難だ」という声が聞こえてくる。その列の先頭の人が高校時代2年一緒のクラスだったのにほとんど話したことない女の子だったところからすると、存在感順かと思ったが、イケてる順なような気もする。

 

最後尾に並んだら、小学校と中学校が同じで家が一番近い(とはいえ徒歩30分くらいはかかる)幼馴染のような女の子が居て、何かを話していた。この人とは学生時代には特に交流がなく、むしろ大学に入った後1一瞬だけ近かったことがある。飲んで部屋で泊まった朝、1回だけキスをした。その先はない。匂い的に相性は良くなかったのだと思う。どう過ごしているか気になるが、あえて世界を交錯しようとも思わない。

 

色々芋ずる式に諸々思い出したけど、自然とそうなるみたいなことがないというか、ある意味フィクションみたいな生活史。やることをしなかった(なんだか下世話だ)。ただ、これにより自分は相手から欲されていないと認識されてきたというのはあるかもしれない。性嫌悪は特にない、いやある程度はあるのか。

 

 

さておき。

 

「ほんとに大事なことは言葉にしない」という命題が昨日あったのだけど、とても乱雑だと自己評価。クオリアみたいな純粋な体感は言語に変換できないのは確かだとしても、言葉にしようとする試みはあって良いし、「できない」と「しない」は結果が同じでも全然違う。この乱雑さがどこから来たのかというと身分不相応な感情だったりしてなかなか恥ずかしいところ。

 

現実生活。

 

母親との通話。田舎特有のネットワークって改めて凄く恐ろしい。狭い世界だから、どこの誰が感染したのかというのが社会規模で共有される。どこどこのだれだれがって具体的に挙げられる情報力よ。僕が学校という社会を好きではなかったのは、僕が特定の誰かに発したことが他の誰かに知られている感じ。情報は共有財産で個人が未分離みたいな。あぁ、だから独り占めしてくれるのが心地良いのか。そういうとこも好き。

 

新刊枠も読み終えてしまった。次は森さんを狙っている。

 

解説は読まないが、この本は作者あとがきがあったから読んだ。なるほど、この人格だからこの物語が生まれたのかと鳥肌が立つ。物語は衝動として起こるものであって、後で読み返してもほんとに自分で書いたのかとなるとか。確かに凄い含蓄があると読めるにかかわらず、文体に操作性がないような感じ。

 

あと最新だからこの時代性についても書いていた。何気ない交流がどれほど大事だったかのかを知らしめたみたいなことを言っているのだけど、僕は割と逆の見解。ほんとに大事な人とはどうあれ交流しているだろうし、自分にとって何が必要で何が無駄だったかというのが浮き彫りになっているだけではという次第。この余剰が経済とか余暇を回しているというのももちろん理解はしている。でも、会って話すことがほんとの意味で交流と言えるのか。時間の共有は確かに希少だけどこの希少さを低く見積もり過ぎていたのではとか。

 

そういえば、トルストイさん。ブックオフにあるかと思って行ってみたらピンポイントでなくて、リブロに行ったらアンナカレーニナがあった。個人的には「争い」繋がりで「戦争と平和」がやってくるかなと思ったけど、僕の人生の縁は僕の人格と同じでひねくれている。

 

「幸福な家庭はどこも似通っているが、不幸な家庭は個別的だ」みたいな冒頭文から始まる物語。このフレーズどこかで読んだ気がするなと思ったけど、どこで読んだかは問題ではない。問題は、本を読めば読むほど知らない本が増えるという矛盾。認識は物ではないからもしかしたら意識においては自然法則なのかもしれない。

 

読書録って、結局は自分にとってその本から反応した部分はどこかみたいなことが多い。僕は読んだ時の自分がどう読んだかだから自分にとって何か価値があるとかではなく、料理にとても近い。ただ胃袋と違って、空腹の渇望で美味しくなるとか満腹になって食べられないということはない。

 

「脳は私でない」は意識の分析の話になっている。面白いなと思ったのが、自分を意識できる前提というか意識が存在するときには評価が先行しているという話。たしかに月が綺麗だって意識できるのは、月は美であるという評価が先にあるし、脳内で自分が意識される瞬間って、何か対象がないといけない。その対象に対する評価によって意識の方向性が決まっているってとてもしっくりくる。

 

人は無意識下のコントロールの自動制御で歩けるし、会話もできるし、自分が自分であることも自明とみなせる。独り言に意識を感じることができるのは対象がない手動だからだろうな。独り言的に言葉を綴るときには否応なく自分が対象として俎上に載る。

 

意識のことを常に意識することができるのは賢人だっていうフレーズがあった。僕は賢人ではないけど、自分の意識については四六時中モニタリングしている感じはする。だからといって何か現実的に激変するなんてことはない。救いとしては、一般的な人はそれほど自分も他人も意識していないということが分かってくるくらい。

 

思考地図の人は経験主義に重きを置いているようで、おそらく現代日本人もこちら寄りの人が多いと思う。年功序列とか終身雇用制とか。でも、ただ続けさせられたことと、職人のように続けて磨いたことって全然違うと思うんだけど、一緒くたになっている。

 

ここから先はあまり言語化しないような気がするので省略。

 

 

僕個人の話。

 

僕は内的闘争とは別に、内的統一化みたいなことも試行してみたいなと思っている。僕の中身がどれだけ現実生活に公開できるのか、その限度を探るみたいな。この1種が劇評だったり、最後だろう演劇の質疑応答でのスピーチだったりする。そんなに邪なものではないのだけど、標準が違うからあんまり広く公開しても意味が分からないだろうなという常識が邪魔をしている。

 

古典の小説が面白いのは、須らく内的開示だからだろうな。

それで今まで残っているのだからほんとに稀有な人格だったのだろう。

 

 

という感じで、誤りに行ってきます。

 

おやすみなさい。

 

振り返り

 

 

 

小学校の同級生3人と海外旅行に行く夢を見た。同学年の合計8人のうちの男全員。日本風の田舎の風景の中に屋台とか学校とかがあり看板がついているのだけど、日本語でも外国語でもないカラフルな記号が並ぶ。この3人の名前は同級生なのだけど、中身は僕が接してきた人たちの人格の類型の集合体みたいだった。いつの間にか中学校の同級生になっていたり大学の同級生になっていたり。景色も集合体みたいなものだったのか。夜は何かのカードゲームをしていたのだが、現実の資産が反映しているらしく、僕はカードは早々に尽きて、もう帰ると言って外に出ていた。

 

僕の頭の中に世界は抽象的に収納されているらしい。

 

起床予定時間より1時間前に目覚め、演劇の後の質疑応答の時の発言について考える。

 

我ながら良いフレーズだなと思ったのは、「制作の過程の記録は建築現場の連続写真(今思うと定点カメラの方が適切)みたいで面白く、時折出てくる素の人格は味があって、とてもファンです」。昨日の日記で脳内言語が全て可視化されるのであれば生活言語と思考言語と云々というのがあったけど、現実世界における発話って考える前に発しているから出てこないと訂正。まぁスピーチはちょっと違うのかもしれないが、あまりやったことないからな。経験としては20代の頃に小学校の同級生の結婚式のスピーチをしたことくらいか。文面準備して朗読するだけだったが。

 

 

ちゃんと起きて活動していると自分と世界の間にある膜がまた1枚剥がれた気がした。世界がちょっと違う。

 

さておき。

 

ふと、自分が書いていた前のブログを確認すると、アクセス数が100と144あった日があってびっくり。どういう風にカウントされているのかは知らないけど、一気にこの数の人が見に来たというよりは、中身はもっと少数で一気読みした人が居る方がまだしっくりくる。何かワード検索でひっかかったのがあったようだけど、パーセンテージとしては低いから除外して。

 

その1。僕の文体を知っている人がたまたま発見して読み込んだという想定。ありうる。何人か具体的な個人が浮かぶ。その2。たまたま僕の文体を発見してある程度読んだ。なかなか想定しがたいけど、世の中には奇特な人が存在するから0とも言えない。その3。好きな人が僕を読み返した。そんなことするほど暇なんかなとか、僕の文体に対する好感が読めることがないというところからするとさらに在りえないと考えるのだけど、辿った記事を見るに、可能性としてはあっても良い。

 

(その3を前提に)自己紹介書いてなくてすみません。事務情報書いてなくても読んでいればある程度は開示されているだろうという怠慢です。4つ年上、おっと。まぁ西暦何年生まれで何処の出自でどうこうしてみたいなことは別に書いても書かなくても良いことだから書いてないだけで、特に匿名性に隠れている訳でもない。

 

ついでに、自分の昔の日記をいくつか読み返してみたけど読み物としてはあちらの方が美味しいのではと読めた。ちゃんとまとまっているし読み手が意識されている。ただ、なんというか無味無臭な感じがする。この人は何を大事にしているのかという人格の背景がさっぱり読めない。思考と事実が等価というか。

 

文体はあまり変わっていないけど、こっちはもっと穴倉の中だから語句検索に引っかからないように固有名詞はぼやかしているし、断片的だわメタ的だわで読みにくいはず。知らんけど。僕は純粋に自分の文章の読み手にはなれないから一生永遠に分からないこと。

 

歩いている最中にはアイデアが浮かぶもの。今日は「日記は当人の事実である必要ないな」ということを考えていた。架空の日記の小説を見たという鍋からなのかな、よく分からない。

 

そもそも自分が書かされていた日記を考えたとき、夏休みの絵日記は最終日間近で日記帳を埋める作業だったところからすると、公開する日記って事実ではなく事実らしく整っていればそれでいいんよね。読み手も内容が本当かどうかは問題にしていなくて、美味しいかどうか。

 

言葉の装飾性というか余所行きの服感というか。

 

良く見せたくなる心情も分かるし、これが言葉の稼働域だと思うけど、あまり自分とずれた言葉を遣っていると言葉から逆襲されそうな気がするから、ちゃんと分けた方が良いと思う。

 

僕の言葉の扱い方は見ての通り。書かないこともあるけど、書いたことは嘘ではない。ある意味言葉の操作性を縛る行為だけど、言葉を読むだけの人が僕に興味を持つことはないだろうから問題ない。

 

そういえば、「朗読者」読み終えてしまった。世界中を感動させたって裏表紙に書かれていたけど涙という感動ではないのだろうな。僕が気になったのはやはり某森との共通性で、わりとメタ的な人が出てくるところ。主人公の時系列の多層性というか。たしかに人って肉体は1つでもいっぱい居る。あの時の自分が考えたことを独立とした人格として尊重するみたいな。

 

次はどうしようか。書庫から宝島がアピールしてくる。

 

古典は全般1通り攫うつもり。エドガー・アラン・ポーさんは抽象画みたいな物語だ。プルーストさんは思考のラフ画ちっく。トルストイも試してみたい。

 

「争い」について。

 

闘争心がないという評価だったけど昨日の日記を書いたあとに、自分の中では常に闘争があるだろうなと思い付く。

 

何かをするということは何かをしなかったとセットだし、自分の中の諸々の基準ないし欲求が無矛盾で統一されることのほうが少ないのではないか。「脳は私ではない」で、精神の状態が宇宙の自然法則に左右することはないという学説があるという話があった。自分が選択したと思って現実化したことは、体とか脳のメカニズムが自然に導出した作用でしかなく、内心は世界を変化させないとか。

 

僕は、いや、それはないだし、作者さんもそれはないという説。世界は物理学で成り立つような単純なものではないし、人は世界の物理作用だけを感知している訳でもないし、人が人に発するメッセージは物理で分かるものだけではないし。

 

車はガソリンで稼働できるし冷蔵庫は電気で冷やすけど、人はご飯を食べても活動的に稼働できるとは限らないから、自然法則の外にある(ものもある)。

 

どうでも良い最後だけど、僕には舞台の概念がないのかもしれない。

 

舞台という装置があるためには観測者がいないといけないけど、その観測者もそれぞれ個人なのだとすると、舞台に上がるためには非人格でないといけないし、ややこしくなりそうなので省略。

 

おやすみなさい。

 

 

 

媒介

 

 

鯖の水煮缶とカレー粉を購入し家にある大根、白菜でご飯を作る。大根をごま油で炒めたあと白菜と水煮缶を加え柔らかくなるまで煮込む。ある程度水分が減ったあと、中濃ソースとカレー粉で味付け。副菜は厚揚げときのこでレンチン煮物。七味唐辛子でピリ辛。あとは目玉焼きとブロッコリースプラウト。タンパク質尽くしで栄養価高い。

 

さておき。

 

なんだかよく分からない精神状態。やはりこういう水準に他人を巻き込んではいけない気がする。

 

恋愛感情とは性欲の合理化だとか、他人と同化したいという欲求の発現だというけれど、僕の腑に落ちたものはなんだか違う。深く触れたい、輪郭を辿りたいという欲求とともに、深く触れられ輪郭を辿られたいという欲求があるようだ。何が好きで何が嫌いかというような事務情報ではなくて、存在のこと。僕が触れている部分も言葉とかでなく、言葉を生み出した存在みたいなもので、語義とは随分離れてしまった。美味しいご飯を提供できるのはどういった語彙を遣うかであって、文章が整っているとか、読みやすいとかではない。

 

受動の為の能動で能動の為の受動であり主客が逆転している。

 

この文脈ではもう十分触れ合いがあったから、生活に戻った方が良いのではというところと、僕は自分の存在に対して不浄だとしてしまうところがあるから、ここまでというところと。

 

絆されてしまったものだ。

 

いつでも心の傍らに居場所というか収まり所があるから、僕にとってはもはや生活の一部で、あんまり関係ない気もするが。

 

媒介による存在の顕在化でいうと、僕は人の存在を背景みたいな部分で見ているような気がする。短歌はほとんど読まないのだけど、なんとなくその人の固有のリズムが分かってきたような感じ。読みやすいとは別の軸。

 

現実的な肉を伴った関係でいうと、相手が僕をどう捉えているのかみたいな部分を読む。僕を知りたいとか尊敬だけでは成り立たないし、むしろ僕が遠慮し過ぎてきた時系列か。もっと話せば良かったではなくて、もっと遊べば良かった。

 

生活軸で言えば、求められるのは遊びではなく継続だし仕方がない。「脳は私ではない」で、人は生活世界から逃れられないというフレーズがあったけど、そういうことなのだろうな。生活=物理的肉体の継続であってここでは遊んでは要られず、自分にとって有用かどうかを日々判断していかないといけない。この軽重がまさに世界の見え方。

 

あれ、これでいうとやはり好きな人の世界の見え方って生活軸とはずれているような。写真という媒介によって見ている人の見え方が間接的に読めるとすると、継続した生活を記録していることも多いけど、瞬間というかあの日っていう感じがするな。路上に放置されたマスクとか、景色の移り変わる瞬間とか、人の表情の機微とか。顔の記録が制作日誌にあるけど、レンズの向こうに居るだろう好きな人が意識されていないような感じ。そういうパーソナリティなのかな。はとっぽっぽにも無視される感じ(とても好きなフレーズ)。そう考えると、同居人との生活日記もやや違和感が。

 

媒介でいうと僕の存在に一番近いのは、言葉というか独り言だと思われる。発話は相手に合わすもので行動は状況(物理状況)に合わすものだから、色々と縛りがある。あんまり意識されないかもしれないけど、機能上そうなっている。誰も見ていない自分の行動は微妙なところか。ただ、誰も見ていなくても自分が設定した行動理念とは照らし合わされるよな。で、この行動理念はどうやって作られているかを考えれば。内向的でおとなしい奴と設定されたことでいかほどに不自由だったか。

 

この独り言的人格の饒舌性は、誰に対しても発現されないもの。アピールする類のものではないし、単なる自分の頭の中を可視化する作用しかない。頭の中を全部表現するのは人間には不可能だ。

 

人の語彙は確かに人格の背景を推測する間接的な証拠ではある。僕は強い言葉とか他人を卑下する言葉を遣う人がとても苦手になっているのだけど、これはそういう人が嫌だというより諸刃の剣だから、痛々しくて。自分もそういう言葉にさらされることが無意識下で許容されているような。

 

ただ、ナチュラルな言葉遣いって、最初に語彙を習得した環境に依存するよな。特に家庭環境。僕は大学入ってから地方のイントネーションも直して(直し切ったとは言わない)、語彙は小説から再インストールして、もうどこの人の言葉遣いかよく分からないことになっているけど。

 

そういえば。「思考地図」で、家族構造と思想が相関しているという研究結果を論文にしたらバッシングを受けたという話があった。核家族が資本主義で、共同家族が共産主義みたいな。読んで思ったけど、個人的には全く違和感ないし、当然ではなかろうか。ミクロの家族構造で言っても、親がどういう思想だったかというのは継承されるし。お金にシビアな親の元で育った知り合いが何人かいたけど、すごいきっちりしていたし、自分がお金を使うことには意味があるみたいな思想だった。

 

僕の親は人格的にはやばい人だったけど、お金と子供を天秤にかけるような思想ではなかったから、貨幣信仰みたいな思想はない。今となっては資本主義的思想なのは分かったけど、最初からそれを出さないだけで随分違う。ただ、家族という共同体を形成することにはとても忌避がある。ただ一緒に生活しているだけだった18年間。帰って温かみを感じることもない。家族と近いところで住み続けたいという思想がある人はとても良い家族構造のもとに育ったのだろう。あれ、では好きな人は。

 

どうでも良いけど、ここ何日か、誤字がないかの確認で自分の日記を読みかえすと我ながら面白い。とてものびのびしている感じ。ここまでくるのに幾年。ここでの試行は文字を遣った交信ないし表現に直結する。生きるのには向いてないけどただ続けることには向いているんだよな。これこそが生きることだと言われたら、うーむとなる。

 

僕は読む人だけど、自分が何かを理解していると思っている訳ではない。誤解だらけだろうし、理解って言語化の過程のものだし、理解を言語化した時点でもともとのものとは別物になるし。

 

日記に書かれた言葉を自分と同一視できるという思想もこの辺りにあるのか。

僕はふと思い至って、ここまでの何百の記事をまっさらにしても揺らがない自分があるから、記録を財産としては保持していないのだろうな。

 

ちょっとずれた。

 

好きな人の文章はだいたい漏れずに読んでいるけど、文章だけで理解できると思っていないし、財産=モノ的に捉えている訳ではないから、あんまり問題にはならない。というかならなくなったのは最近。ただ見にくる存在の方がむしろ饒舌なのではないか、みたいな。

 

 

やめたくないとやめたいが拮抗しているな。

どちらが勝つだろう。

 

僕の文章は、僕の存在からすればいつも遅い。

 

内言語が全て現実化されるという最先端技術があったら、生活的言語と、思考的言語と、好きな人への言語が並列しているはず。

 

では、おやすみなさい。

 

おしまい。

 

(なんだか世界に対して祈れなくなっている)

 

認知の軽重

 

 

心の重さはどうでも良くなった。というか、重きを置いていない部分に傾注しないといけない状況に枷を感じているだけだった。この水準だと確かに生きていられない。

 

 

さておき。

 

やはり夢には出てきてくれない(嬉)。中学校の朝礼に遅れる夢。今思うと学校生活って、ほんとそれが全ての世界よな。インターネットで情報収集できる時代でもなかったし、大人もあえて世界の広さを教えてくれることはない。まぁ世界を狭いものとした方が教育はしやすいし、ド田舎だし仕方がない。

 

現実の朝は、先週月曜が祝日だったため月曜のアラームを解除していた。ノーアラーム。二度寝か三度寝か目にアレ、と思って予定起床時間の10分後に覚醒したからあまり関係ない。歯磨き髭剃りした後着替えるまでに20分の余白がある。その間に好きな人の呟きをみたり、検温したりカフェオレ飲んだりしている。現実の昼は、管理会社との通話。修繕費用の全部は請求できなかったけど、おそらく妥当。全負担だったらちょっとごねてみるつもりだったけど、無駄なエネルギー消費が無くて良き。

 

現実の仕事は、特に語るべきことはないけど、同期が髪を切っていた。ショートカットって何か流行っているのかな。髪を括るのが面倒だという経済的判断ではないかとは思わなくもない。ふわふわしているけど、特に可愛らしいとは感じなかった。ついでに言うとあんまりさっぱりした空気も感じない。さっぱりしましたねと言う時機は数瞬あったけど、僕はそれを言語化しなかった。対面に座っていたら言ったかもしれないけど、だいぶ離れている。

 

ここで、現実とは。

 

僕にとっては、同期が髪を切ったことは現実だけど、同期にとっては自分が髪を切ったことに僕が気付いていないというのが現実。僕に対する洞察があれば、気付いたけど言ってくれなかったという現実認識もありうるけど、同期が僕をそこまで気にしているとも思わない。人間関係における現実って、このくらいの意味合いしかないのではないかという思う次第。

 

僕は気付いたことを全て現実として提示する訳ではないし、たぶん一般的にもそういう傾向はある。ここで人に対する感度みたいなことを考えるのだけど、どれくらいのものなのだろう。たぶん目に留まること、くらいしか感度がないのではないかという想像。何度か財布を忘れて水を持っていないことがあったけど誰にも気づかれなかったし。これでいうと、好きな人はとても良く人を見ているように読める。生活圏に居たらほころびが色々バレそう。お互い様かもしれない、という空想。

 

ともあれ。

 

思考地図の人は、なんとなく親近感を覚えてきてしまう。自信満々な書きぶりはポーズなのかもしれない。アイデアには、データのインプットとそれを無意識に沈殿させることが必要で、これは思考の整理学の人も言っていた。ただ鍋に入れれば良い訳ではなく、材料に対しての理解が必要。志向性を持った情報収集ではアイデアには辿りつけないのかもしれない。僕は別にアイデアのために生きている訳ではないから副産物でしかないが。

 

ところで、「朗読者」の終盤は滅茶苦茶鳥肌が立つ。ヒロインが自殺してしまうのだけど、文盲だった彼女が読み書きができるようになったのは主人公が送った朗読テープの小説を音と文字を照合しながら読んだからというところでぶわっと。世界を拡げてしまう存在の影響値とか、拡がった世界に耐え切れなかったのだろうかとか。好きな人の創作日誌のところで、対話とは渡す、渡されるだという定義があったけど、この小説の登場人物はまさにこれをやっていたような感じ。主人公にちょっと勇気があればヒロインは自殺しなかったかもしれない。一方的に朗読テープだけ送って個人的なメッセージを発しなかった。イコール繋がりの再接続への恐れかもしれないし、罪悪感かもしれない。

 

でも、この解釈はいまここを読んでいるからであって、タイミングがずれたらおそらく違うことになっている。これを読んでいると村上さんの某森の直子が想起された。この子はもっと自分のことを覚えておいてねという呪いをかけるような魔女感はあるけど、たぶん村上さんは「朗読者」も既読だろうなという印象。

 

印象だけでは思考はできないというのが「脳は私ではない」の人。思考のためには、印象の混沌を取り分ける概念がないといけない。世界はあるがままに見るには情報量が多すぎるから、細分化しないと認識しないといけないのは分かる。概念は言葉でもいいし、言葉でなくても良い。植物という言葉で世界を眺めると知らない植物は世界と認識されないけど、植物という概念であれば名前が分からなくてもカタチとかイロが違えば別の植物である。花がどうやって咲くのかのメカニズムが今読んでいる植物学の本にあって、とても面白い。日光が当たるか当たらないかの配分で、時間が短くなると花芽が形成される種類と逆の種類と。世界はよくできている。

 

「思考地図」の中で、採り入れたデータの軽重は無意識が素朴に判断しているというのがあったけど、僕は世界がどう見えるかというのがここに係ると感じる。人のどこを見るかとか世界のどこを見るかとか。見るってまさにデータ収集だし。目を閉じても見える世界なんてないし、あくまで志向的に世界を見ているのだと思うのだけど、それでも客観的だって思えるのはなかなか不思議な性質。

 

それにしても、好きな人の制作日誌がとても美味しくて困る。個人的に前2作とは明らかに変わっているように感じるのだけど、別に文体が変わっている訳でもないし、試みが変わっているのともなんだか違う。背景がすっきりしている感じ、なんだろう。素直になった? 当てられる言語がないな。

 

より好きを感じるのは、僕の存在が渡っているのが読めるところ。

読んでスキをつけてくれるよりよほど近い。僕は勝手につける人ですが。僕を読んでないかもしれないという評価は逆に失礼な気もする。ここも諦めるべきところか。

 

「存在」について。

僕は人格が一意であるという宗教の信者でなくなった。人格が1つしかなくて状況によって出る部分が違うって、宗教でいったら一神教だ。

 

たしかに存在としての人を肉体ベースで考えれば1つしかないし、それに付随した精神を1つとみなすと考えるのは割と自然かもしれない。でも、現実ベースで考えるとさっきの同期の話の通り、人の存在は1つではなくて多層的なものだと思う。自分の中で現実化されない思想を人格と捉えるのであれば、他人のそれも当然承認するべきだし、思っていたけど行動しなかったことを責められるのは、自分が思ったことを全て現実化できる超人しか居ない。

 

現象的意識が存在として認識されるには媒介が必要だ。言葉でも良い。ネットで蔓延っている匿名的な存在とか。あとはしぐさとか行為とか継続とか、全て間接的にしか読み取れないもの。みかんの繊維を取らなきゃいけない行動様式とか。

 

僕の文章も別に書く必要はない。僕の本質は穴倉にひきこもって全部どうでも良い野郎であって、読む人が居ないと存在しない。言葉はいつも遅れるから、あの日ちっく。別に伝わる何かとか伝えたい何かもない。好きな人への好きはどれだけ言葉にしても足りない。

 

この媒介を突き詰めると、僕の中にしか居ない誰かの存在という概念が生まれる。そんな概念なんてほとんどありえないのだけど、あるかもしれない。

 

ここまで。

 

では、おやすみなさい。

 

謝辞

 

 

 

刺さったら痛そうな月を眺めつつ、生きるのに向いていないなぁと思う。自分のために争うってとてもめんどうだ。とても心が重い。いや、そんなこともともと知っていたか。あぁ、応募メールを送りそびれた。どうせ送るのだからさっさとすれば良いのだが、まぁこの不合理さも自分である。

 

中学の部活のシーン。キャッチボールをしていて、相手の軟式野球ボールがシュルシュルと鳴っていて、自分もそんな音が鳴るように投げたいって言ったら、いやもう鳴っているやんとのこと。もう1つ、大学時代。友人曰く俺が○○の肉体を持っていたらもっと遊ぶと。

 

なんだか、自分の相対的な価値とか能力があんまり把握できていないような違和感がずっとある。これはたぶんそういう規範がないということなのだろうけど、なんで無いんだろうな。悲しいというより不思議な感じ。僕が居ないと世界は読めないのだけど、読んでいる最中は僕が登場しなくても良い。

 

なんだか、精神的に重苦しくて良い状態じゃないなと思ったけど、あんまり関係ないな。

 

さておかない。

 

「脳は私ではない」は良書。今は意識の在処みたいな話。意識には現象的なものと志向的なものがあるとのこと。現象的なものは純粋な内部の意識で、志向的なものは何かに対するもの。AIに意識は芽生えるのかという命題でも、どちらに寄るのか分からない。

 

素朴に考えて、人に意識があるとするとき、おそらく志向性を見ている。自分が相手を意識しているのだから、相手も自分を意識しているという認知。ただ、これって物とか動物の擬人化で例えば、ペットには意識があるとすることができてしまう。いや、別に悪いことではないけど、だったら人権とか人格も幻想的なものになるよなというだけ。人間だけが持てるのが人権で、それは造物主がそういう風に人間を創ったのではなく、人の人格に根差しているとすれば、この人格は意識とか思考になってくる訳だけど、応答学習型AIでも人の情報を入力して志向的に反応できるから、たぶん、肉体を人間に寄せれば人格があるとみられるようになると思う。

 

個人的には人の意識の本質は現象的な方で、外にはほとんど現れない。というか現われたところで共有できない部分。言葉によって同じとみなせるようになったけど、美味しいとか、綺麗とか、何色かとか、触った感じの質感とか、本来はとても個別的。クオリアというらしい。

 

こういった個別性を他人とするともはやちょっとでも関わった人を抽象化できなくなる。現実的には通り過ぎられるし、優先順位も低いだろうけど、そんなことは僕の認識とは関係ない。

 

思考といえば、「思考地図」。この人は個人的に友達になりたくない人だけど、思考=発見だというのは分かる。僕は思考を繋げることだと捉えているし、論理的思考はとても苦手。自分の頭に可視化されるようになること。

 

どれだけ知識を収集したところで、現実においてはちょっとだけしかアドバンテージはない。僕が使ってないからかもしれないけど、毎日読書したところで世界が変わることはなく、ただ、見え方はちょっとずつ変わる。毎日記録しているからほんと微々というか遅々でしかないが。

 

色々読んでいる暫定としては、人は精神の平穏を求めるもので、それが宗教であるか所有であるかは文脈が違うだけで同じものなのだろうなと。願掛けもそう。何を拠り所にして自分の安定を求めるのか。拠り所がおそらく自信になる。自信とは、自分が存在していて良いのだという自己認識だから、相対的に捉えた方が楽だ。皆自分の居場所を争っているのだから、自分も争いに身を置くべき。

 

どこかに真実というか真理があるとしないと自分を保てないもんな。思考地図の人も歴史には真理があるって言っていた。

 

まぁ、精神の平穏と現実生活がどれだけ連動しているかは分からないけど、精神の平穏は個別的なことで非売品というか、価値をつけられないものだから、何をしても良いと思う。他人を贄にするご都合主義とか。

 

僕の話。公平の理念が一応のものさしとして機能していたのだけど、これってあくまで外との関係だよなと思ったのがやっと最近。礼儀とか義務とか権利とかみたいな縛りは内側にはなくて良い。自分がしたことが返って来るとか、返ってこないのが不義だとか、返さないといけないとか、めんどくさ過ぎる。

 

せめて内部的だとしている人に対してはそういう動きをしたくない。僕の心の平穏は自分で保つから、それとは無関係で接したいところ。

 

好きな人が心地良いのは、全然交換的じゃないところ。

でも、どうなんだろうな、義務を返さなくて良いから何もしなくて良いで良いけど、関係としては成り立たないような気がする。精神の平穏に寄与しているのであればやぶさかでないけど、別に僕が居なくても良いだろうし。

 

こういうのは考えることではなくて、読み取るものだしもう読み取れなくても良いかなと思っている。

 

自分の人に対する影響値って全然分からないから、相手の自分に対する文脈がよく分からない。人のことが知りたいということだったからなるべく開示してみたけど、美味しかったのかな。

 

関係はバランスだから、偏るとよくないと思われる。

 

 

では、おやすみなさい。

 

死語

 

 

スタートがだいぶ遅れてしまった。物質的無常(水漏れ)の対処で遅れてしまった。なるほど、物質に偏向すると人も経年劣化なるか。思いの外費用がかかったが必要費(民法602だっけ)の償還で管理会社と交渉すればなんとかなるか。言葉と自分の切り離しの可動域。自分の知識を自分の為に遣う可動域もか。あんまりやりたくないという観念はどこからきているのだろう。

 

あぁ、予定外があったから応募メールは送れていない。休みは二日あるからまだリカバリーはきく。タスクを残しておくのが駄目なんだよな。負荷が重い。ただ、参照の文章に何を貼るかは全然決めていない。たぶん貼らなくても問題はないと思うからえいやーでいっても良いのだろうけど。

 

このえいやーは勇気の可動域。

 

さておき。

 

僕はあまり自分のことは考えなくなった。言語化はしているし操作性は気にしているけど哲学する対象にはならない。それよりも人とか世界の方が気になる。何をどうしたって自分は自分であるという認識からすれば、経年劣化は今のところない。体力は回復力とか持続力とかではなく、思い通りに動くかどうかだし。脳の劣化と肉体の劣化は全然連動していない。このことはもう少しして証明しよう。

 

ここのところ可動域という単語を遣っているのは、人って自分のポテンシャルを遣い切ってないのではないのだろうかという命題が浮かんでいるから。フロムさんが愛とは人の可能性を信じるということだとか成長を見守ることだとの言があり、期待という観念の中にはここは一部重なっていそうな気がした。僕の中では期待という単語は死語だけど、可動域とちょっと似ている。違いは、変化が予測値とか希望の範囲内か、そんなの無関係か。

 

そもそも現実における自己意識って、非現実も入り乱れている訳でどうなりたいか、どうあって欲しいか、どうしたいかとか、ぶっちゃけそれほど現実に依拠していない。空想と予想の分水嶺は現実的に在りうるかどうかだろうけど、中身の想起では等価で、現実化という命題的態度が違う。もっと相手が自分にとって都合が良ければ良いは自分を変えずに人を変えようとすることであって、空想の範疇だと思う。

 

要は、人は自分のことすらあんまり分かっていないということ。この文脈での期待は他人に丸投げの赤ん坊的精神性。社会的に大人でもこういう精神を持っている人は多い。

 

 

ところで、読んでいる本の中で意見の対立が真っ向勝負になっている。ホモサピエンス全史VS思考地図。思考地図曰く、人とは何かを哲学的に検討する前に歴史的事実をあるがままに研究することから人を見つけるべき。ホモサピエンス全史曰く、歴史的な分岐は特に人の意志が作用している訳でもない偶発性があるもの。

 

どちらも無意識的な人の集合体の話なのだろう。無意識にまず収納されるのは歴史というか文化だろうし。脳は私ではないでは文化は病原体みたいに言われていて、みつどもえ

 

たしかに、統計的に人を見るのであれば、歴史とか心理学なのだろう。僕が美だと思う世界もこういったものに依拠されているに違いない。無意識にインストールされているもの。

 

ただ、争いがインストールされているかというと、そうだろうけど疑義もある。

 

どうでも良いけど、最近好きな人に対してろくでもない「望み」が浮かんでいる。個人的に望みは叶わないもので、ただ、僕に関わらなくなるようになる望みだから、ワンチャンあるかと思うけど、現実的に起こりそうがない気もする。どれだけ考えても僕の現実予想はだいたいはずれる。法的に守られるから存在の継続が安定されていればという望み。

 

一般論としては語用として使うけど、自分の辞書の中から削除している言葉が増えてきた。

 

例えば、努力。誰かにこの日記が努力だって評されたら吐き気がしそう。

継続を表現する言葉の1つだから結果としては変わらないけど、この言葉って犠牲という観念が付着してそうで嫌だ。

 

犠牲は未練と似たようなもので、経済学用語でいうと「機会費用」という。他に大事なものがあったけど、それよりもこっちを優先した。

 

と、好きな人が思っているのだとしたらさっさと離脱できるのだけど。

 

今日はスタートが遅かったから言語的にはここまで。

 

おやすみ。

世界線

 

 

仕事場近くの薬局にしか置いていない、気に入っていたスキンケア3点がついになくなった。東急ハンズも探してみたけど見あたらず。メンズケア商品眺めていると、現実的snowみたいに加工する商品もあるようだ。確かに倉庫仕事の時にファンデーション塗っている若い子がいたな。また肌に合う3点セットを試行しなければ。オールインワンは最大公約数の妥協の産物だと思っているからあまり選びたくない。こだわりというほどの志向でもないけど。肌がかぴかぴにならなければそれで良い。

 

外の世界は無常だからいちいち気にしても仕方がない。しかし、内側が不変なのかというとこれも定かではない。自分の可動域。

 

まだ煮えていない鍋の蓋を開ける所業。ほんとはちゃんと無意識でまとまるまで待った方が良いのだろうけど、開けたところで中身は変わらない。

 

テーマが色々並行していて、どこから書くのかの決断が大変である。

 

仕事から。後輩のねちっこく話す人と少し雑談した。碌なことではないから内容は省略するけど、だいたいの人にとって発話って自分のことを話すことなのだろうなと思う。仕事で相手にしている人もだいたいそう。何日か前、同期とロッカーで対面したときの雑談も、僕から自分にとって有用な情報を収集するためだった。当たり前だけど、そうではない人も居る。

 

最古参の先輩と仕事上の雑談をしているときに、空いた時間はパソコンいじって新しいことを収集しているのでしょうって、自分に有用ではないのに僕を観察している感。僕が気になる人はこの文脈なのだろうな。短歌の人もそうだし、好きな人もそう。しんどくなければとという言葉とか、劇評楽しみにしているけど無理をしないようにという発話とか。無関係なのになんでこっちの方を気にしているのだって。固有の関係だと思えてしまう理由が1つ発掘。完全に他人だったらもっと律儀だろうし。

 

僕が現実的に人をどう見ているかというと、たぶん内輪の世界の外に人が存在しているということを見ている人が掬われる。どれだけ観察していても、あくまで自分の世界の物事としている人は流れる。僕の変さをただの変として認識できることというか。職場の先輩にはなんとなくすまんやでという感はある。特に煩わせてないけど存在として異分子さが。

 

そうして、僕は同期の所作を観察して勝手に大丈夫かなって思う。別に何かする気もないけど、なんだか危うさが見て取れる。ただ、こういうのって僕が勝手に観測しているだけでそれなりにふてぶてしく生きるのが人よなとも思うから、あんまり気にしなくても良いのだろうなという観測知。同期とねちっこい後輩は発話で本音全然語ってないなという印象が同期しているのだけど、そもそも発話ってそんなものか。

 

発話。僕は発話において自分を説明したり表現したりする目的がないから、声帯を稼働することが全然なかった。話さないことは内向的だとされているけど、別に発話することで自分を保つ必要がなかった。

 

今の仕事はある時点の過去の僕なら絶対選ばなかったもので、たまたまの縁だったけど、自分を表現しなくても良い=発話に傾注できるというのはとても楽しい。自分にはこういう可動域もあったのかという発見。僕は別に喋れないのではなく喋らないだけだったのだろうなと。中の自分はずっと考えていたけど、発話として伝えたい自分は無い。

 

でも、ここと切り離して話しても良いんだよな。というところで、発話としての存在の開示として、今度の演劇の時に質疑応答があれば創ってきた人たちに言いたいなって思うことがある。お疲れ様でしたというかありがとうございますというか。別に対話でもないし、僕はあくまで匿名的な観劇者だろうし。

 

それに、人は自分が思っている程他人の発話を覚えられない。流れていくもの。

 

僕の周りの環境だったのか世界線だったのか、まず僕の可能性を閉じてくる人がいっぱいいて、僕にはあれもこれもできないのか、そういう世界なのかと思ってしまっていた。ほんとやめてくれって感じだけど、人を閉じることで自分を保てる人も居るのは分かる。だいたいのことは慣れればできるんだ。

 

こういう意味でも、演劇はとても楽しみ。

別に存在に影響値がないとすれば、好きって発話しても問題ないんだよな。恥ずかしいから言えないというより、そこで何かが変わるかもしれないという危惧。このよく分からない予想値の中で決断することを勇気というらしい。どう決めたら良いんだろうな。

 

要は、発話と人ってそんなに連動していないということを実感として把握した。嘘はつかないけどもっと遊べそう。

 

そういえば、コンセプトについても考えたのだった。

 

人が発明したものは、全て目的ないし思想があるから、自分の存在についても意味があるものだとしたくなる。生きる意味とか目的に向かって生きる志向性とか。ここに神様が在る。

 

いやいや、自分が生まれたのは自然の作用であって、自然の循環の一部の物理でしかないって言われたら人間至上主義とか意識至上主義が出てくるかもしれない。でもこれ自体も発明品だと思う。

 

発明品ではない人間でしっくりきたのは、「命題的態度」という概念。

 

なんかいいことを言うとか良き言動をするとかではなく、世界に対する精神(ガイスト)。どう評価するかではなく、どう態度するか。この態度は、言語非言語含めた現象のこと。ある意味、継続としても良い。

 

あと、あくまで僕の世界観だけど、新刊枠でのファンタジーで、時が想いを忘れさせるというフレーズがあったのだけど、平均寿命の半分弱生きている限り、時の流れはそんな都合が良いものではない。蓋を閉じたって、受け入れていない限り折に触れて出てくる。今ではないけど今として。時間も含めて自分を外に任せてはいけない。

 

ここまで。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。