捨てるものと拾うもの

 

 

怒涛のお風呂読書のあと目を瞑ってシャワーと言葉の流砂に浸る。

言葉の方が水よりも個体状。

 

 

残業でも日々遊んでいる。返ってから一回だけアクションのアプリもする。ログインボーナスとかないから、稼働しないとレベルアップしない。緊急回避にも馴れてきた。

 

いったん時間を巻き戻して。

 

なかなかの汗だく出勤。でも、汗だくで歩く速度をセーブするのも何か違うのかもしれない。「天才脳」曰く、普段の歩行速度が速いほど老化が遅くなるのだとか。移動の歩行はなるべく早く、散歩の歩きはとてとてと。

 

仕事は、まだ昨日の感覚が残っていて、ちょっと疲れるし、眠い。同じことを聞いてくるなぁとか素朴な感覚を持ってきてはいけない。あと、先生の当たりの強さが拡がっているといいうか、僕が感知できる範囲が拡がったというか。新人さんはもちろんだが、お洒落な先輩と同期にもやや強い。これってたぶん、仕事としての成果と一致していないところにある。こういう上司って個人的には良い。たとえ内心僕のことが嫌いだったとしても、きちんと仕事ができれば当たりは柔らかいという意味。

 

憲法学専攻の院を出ているアカデミックな土壌がある人だから個人的には馴染む。相手の事情としての感情論も理解はしつつ、効率性とか実践的な部分に重きを置くべきという感覚も、仕事ってそういうもんだよなと思える。まぁ働かされているという感覚の人では馴染まないのだろうな。

 

お昼休み。暑いのだが、オフィスが冷えるから外が恋しくなる。人間は生物としては恒温動物の分類だが、体感的には変温動物。「結局のところ、何か語ることができることは何も起こらなかった」という冒頭文を想い付いた。ここから始まる物語はあるのだろうか。この文章みたいな小説は成り立つのかどうか。

 

帰宅。母親への生存報告兼お米の催促を先延ばしたせいで、米2キロを買ってビジネスバッグに詰めて反対側の手にはビール6缶パックとアイスコーヒーと草(ベビーリーフミックス)ときのこ類。汗だく帰宅。

 

やっと冒頭の時間と一致。アプリゲームをしながら洗濯機を回し、きのこ3種に四つ葉バターをのっけてレンチン。味付けはオリーブオイル、白だしお酢、ゆかり(梅入り)。思いつくままだが、なんとなくバランスは取れている。最近きのこ不足だったこともあり、美味。

 

洗濯物を干しながらアイロンを温めつつ、ここからは通常営業。

こういうことでは疲れない。だって、生活はやらされているタスクではないから。

 

僕の原初であり唯一の生れ落ちた家族は、生活を随分としんどそうにやっていた。そのしんどさを家族のヒエラルキーの弱い部分に巻き散らかすって何のための生活なのだと思う。もちろん今となってはの話。僕は姉にはストレス解消の的にされ、妹には馬鹿にされという感じだったのだが、ここは分からなくもないし、特に恨みつらみもない。同じ世界線で生きていなかったというだけのこと。

 

母親が、生活がしんどかった、うちにはお金がないって言えば良かったとか当時の辛かったことを暴露するのだが、いや、家計の財布を握っていたのは貴方よねとしか思わず、その点について感謝が起こらない薄情者。突き放してくれれば、それを前提として動ける訳だし、これって他人に対する投資みたいな観念よなって。

 

まぁ良い。もともと家庭内離島みたいなところで生きてきて、家族に対する期待もないから恋人から家族になりうる人みたいなところでパートナーを選んでいなかった。

 

まずもって家族観に理想がない人でないといけないはずだが、誰かと家族になりたい人にはきっと理想像があるという矛盾。

 

別にここに対して殺伐はなく、さっぱりしているので大丈夫。

僕にとって最初の配偶者は最後の配偶者でもあるだろうなというだけ。パートナーは誰かと比較するものではない(パートナーの中の時系列を比較するのはあり)。

 

やれやれ。

 

本の話。

 

「文学理論」がテクストから「読むこと」の章に移った。読むことは「出逢い」であるというフレーズは、まさに読む人である僕の専門領域。読むことは景色を見るように通り過ぎる事物ではなく、自分を動くこと。

 

人の始まりは「驚き」にあるというのも面白い。驚きの情感には対義語がないとかなんとか。

たしかに、「感動」という言葉もあるように、ほんとうの読みものは動きの中にある。読むは多義語だから、自分の世界の中で驚きなく対象を捉えることも然りだが、僕はそういう世界に留まる自己を自分とはみなせないような感じ。

 

そういえば、ちょっと俗っぽい話があった。

 

青空文庫の「羅生門」の文字数が読める時間で換算されていること。19分とのことだが、人の平均読書速度って何をもって算出しているのだろう。平均歩行速度が時速4キロみたいな統計的な観測なのだとしても歩行速度はGPSとかで測れても、読書速度はなんだろう。

 

ここから、悪い生活習慣をしていると死亡リスクが何パーセント増えるという話も眉唾になってくるよなって。西洋医学って部分的に悪いところがあるっていう視点だから、統計的に捉えるときにも、その生活傾向があるという部分しか見てなさそう。このリスクが同じ生活習慣の人が100人いたら41人早死にするという測り方だったとしたら、全く同じ生活習慣なんてありえないし、そもそも体の性質は1人1人違うし、天気予報くらいな信ぴょう性しかないような。

 

喫煙傾向があって自炊して草ばっかり食べている人の死亡リスクは測ってないよなとか。

 

 

ともあれ。

 

どうでも良い話だが、ふと、僕の文章、一元化しようかなと思った。

SNSに居たところで場に馴染んでないし、wordpressで作っている場はあるし。

 

インターネット世界に居なくなる訳でもなし、存在として認知している人はきっと読みに来てくれるだろうし。もちろん、スキとかコメント欄はない。何かコメントしたいことがあれば、自分の場に流せば良い。縁があれば読むことになる。

 

 

人生とは、どれだけ驚けるか。

 

 

はい。

 

では、おやすみなさい。

 

さよならの人も居るかもしれないが、それも縁。

 

良い夢を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

閉じたり開いたり

 

 

前残業で早めに出たのになかなかの熱気。これはお弁当を窮屈な休憩室で食べるしかないと思ったのだが、昼までにオフィスで冷やされた体が外気を求めてくる。むんむんするが、風が強いからなんとかなった。白いカフェオレで一服。

 

仕事自体は忙しいような忙しくないような感じだが、やたらとエネルギーが消費されている感。相手の人としての存在感をもっと薄めないといけない気がする。進んで、人の存在を抽象化しないといけない場で働いていて良いのかという疑問も。

 

こういう意味での「自分、大丈夫か」はいずれどこかにたどり着くからそのままにしておいて良い。僕も転職活動かぁ。外的に特に何も無いから派遣から入るしかないのだが、まぁある意味何処でも生きていけるのだろうな。

 

そうそう、昼休みに青空文庫で芥川さんの「羅生門」を読み返した。昨日通話していて、「下人の面皰(にきび)は良心のようなもののメタファーなのでは」という解釈を院で披露したという話を聞いて、その視点で読むのも面白そうだなと。たしかに、冒頭から下人のキャラクターを示す描写として頬の髭の下に面皰があるし、ずっと触っている。そして、老婆の服を強奪する前には手を放す。この視点だと作中世界の下では良心めいたものは「膿」のような存在とも読める。面白い視点。

 

そういった、メタファーが入り組んでいる作品だとしてみると、ただの風景描写である「雨」も外との隔絶に見えてくるし、個人的に気になったのが、梯子の上と下の世界は別なのではという感じ。物語が唐突に飛ぶ。死者の世界と生者の世界というより、梯子の上は人でないものが住む「地獄」みたいなところで、その世界に当てられた下人は良心を手放して人ではなくなったみたいな。

 

何気ない歴史風景みたいな物語なのに、解釈が諸々出てくるのは、作者がそこまで計算しているというより、開いているような。髪を一本ずつ抜くことも描写通りには読めなくなってくる。

 

あと、さっそく「それから」も買ってきた。冒頭から格調高い綺麗な文体。おそらく最初辺りは読んだことがあるのだが、格調高さに挫折したのだと思われる。読んでないところまでくれば感触で分かるはず。「行人」と「硝子戸の中」は読んだ。あと「こころ」。読める人と読めない人が居るのは、芥川さんの物語と違って、解釈が社会性みたいなことに絞られるからなのかな。

 

こんなに美味しい文体ばかり食べていると、グルメにならないかどうか一瞬心配になったが、自分にとって美味しければなんでも食べるから大丈夫。

 

 

帰り路で、母親に生存報告の電話をした。

 

内職を辞めて、今はポスティングをしているらしい。陽の者というか外面の良さは相変わらずだなと思ったのが、チラシを入れる対象の家人が居たら声をかけているらしい。「チラシ入れされてもらって大丈夫ですかー」みたいな。なかなか脳に良いことをしておる。歩きまわっていると車で遠いと思っていた距離が近くなるというのは、まさに頭の身の丈に調整する運動めいているし、社会との繋がりは認知機能の低下を予防できるのだとか。

 

話していても若干すっきりしていそうだった。

 

ただ、この相手の事情を加味できる性質がなんで夫である父親に発揮されなかったのだろうというところに一種の拒絶感があるのだろうな。この話は省略。

 

バツイチの従兄が、婚活アプリ経由の彼女を作ったらしいとの報告。あんたはどうなんだと聞かれたが、話が長くなりそうだから省略した。どうでも良いが、最初、SNSのことを「出会い系」と言っていて、言葉のチョイスよと思った次第。「パパ活」の語用にげんなりしてそうなお友達と同じような気分だと想像。

 

その言葉が外から聞かれたときにどんな印象になるのかというところに無防備というか無頓着なのかな。僕も大昔、汚職事件をお食事券という音として認識していたし、ざいけーほうてーしゅぎがなんとなくカッコイイなとか思っていたし。

 

まぁ、今も語感で話すことはある。

語義より語感でしか聞いていない人は多いし。

 

個人的にマッチングの手段をインターネット世界に拡げるのは良いと思っている。

言葉は装えるが、それでいえば現実的人格だって装えるから程度問題。証拠という意味では現実の関係に軍配が上がりそうだが、人は証拠で判断する存在でもないような。発話ベタでも書き言葉に馴れている人も居るだろうし、無意識レーダーだと、やり取りとしての言葉は発話でも書き言葉でも装えるが、その人が書いた自由な文章は偽れないという感じ。

 

 

文章ってその人にとって世界がどう読み取れるかの鏡であって、関係に対する反応ではないから、どういう意図があったとしても本質が見える。僕の文章が散策であるのと同じく。

 

そういえば、仕事の機能的な代替的な人格について思索していて、先生という職業って過酷というか、人格と連動せざるを得ないよなと。これは母親が養護教諭をしていたからかと思ったが、比重は「砂の女」の主人公の方が重い。あとはシュールレアリスムとか資本主義もブレンド

 

教職を取っている人という意味では代替的だが、ある特定の学校における社会科とかになると、なかなか代わりが居なくなってくる。臨時だったら教頭先生がやるのだろうが、教頭先生ももとの教科でないと無理だろうし、教頭先生のお仕事もあるだろうし、学校って法人として成り立っていないのではないかって。その為に教育課程を均一化する学習指導要領があるのか。でも、教育って人格の承継みたいな部分もあって、システム化できるものなのだろうか。ちなみ僕にとって、こういう意味で見習いたい先生は居なかった。あんまり人としては捉えてはいけない存在という規範があったのかどうかは知らない。

 

あえて言えば、仕事場の先生だが、これはある程度対等な立場になったからそう想えるのかも。

 

現代日本人の知性の水準というがまぁまぁ気になる。

日本人は夫婦別姓とか同性婚を議論できる段階ではない、まずはマイナンバーだっていう垂れ流しを見かける。個人的にマイナンバー制度って、受け入れるかどうかがまずあって、その先はこれを決めてからというところだと思っているのだが、受け入れるかどうかは議論でなんとかなるのかな。

 

そもそも感覚で議論しているところで、議論によって感覚を納得させるかどうかなのか。

 

 

小難しくなってくるから省略。

議論的納得より保証を重視してそう。もしくは自分の認知との一致。

 

 

もっと面白い話へ。

 

 

文学理論の「テクスト論」が楽しい。提唱者はテクストとは認識できないものだとしていて、この話は僕の素朴とすげー親和性がある。

 

テキストに書かれた言葉から離れて別のことを想うことがまさにテクストを読んでいるとうのは、文学的は異端だと思うのだが、文の読み手が人である以上、必然的にそうなる。

 

面皰の例でいうと、言葉そのものの意味を手放してしまうことがほんとうの読むこと。

証拠は判然としなくても解釈がそれを支持する。

 

物語の筋は当然として、そうではない読み手側の感じがテクスト。

 

これってもっと拡げて、人を読むとか、世界とか、なんなら自分自体の解釈でも同じだよな。

学問でも良い。

 

要は、閉じたものとして読むのがテキストで、テクストは閉じた世界をはみ出してしまう。

 

はい、ここまで。

 

おしまい。

 

良い遊びを。

 

おやすみなさい。

 

遊民

 

 

人生の目的は無くても目的意識はある。

 

 

ほんとうは先週が切り頃だったのだが、12連勤のために行けなった散髪に行ってきた。金曜時点ではネット予約できず、最終手段で電話するか(電話苦手)と思っていたが、昨日見たら一個だけ空いていたからそく時空取り。午前中に行くのは初めましてという感じ。

 

徒歩で向かっている最中、「高等遊民」の概念がふと浮かぶ。憲法の本と、見かけた「それから」の書評で出てきたから。人生劇場の解釈として、全然別の2方向から同じことがやってきたとき、何かの啓示なのだろうとしている。きっと「それから」は未読。これから逢うのだろうな。

 

歩いていて思ったのが、僕はかなり「遊民」しているなということ。いや連勤してきたし、明日からの1週間9時間労働で、土曜日も出勤になっている社畜だが、そんな日々でも遊べては居るなぁって。「高等」の方はなんともいえない。一応大学院まで出ているから高等教育は受けているのだろうが、卒業したあと、むしろ今の方が自発的に学んでいる感じがある。「中等遊民」で良い。

 

戦後の社会史は最近よく出てくるから、そろそろ学ぶ時期なのだろうなという感じ。

高等遊民の語源も良く分からないところではあるが、社会に居てなおかつその社会を外から考察できるような人というニュアンスがあるような(たぶん僕の印象論)。夏目さん自身も社会に属していない訳もでないし。

 

遊民は侮蔑的なニュアンスがありそう。憲法の本で、現代の通俗道徳観に、勤勉、倹約、正直とかがあるということが書かれていて、なるほどなぁって。僕のいう「遊び」は浪費とか消費ではないのだが、そういう語義があるのも分かる。

 

僕は中等だから、世俗的な通念とか職業的経験則も大事とは思う。

でも、相対的な視点がないと、その本質は抽出できないのではという感じもある。本質はきっと方法論に留まらない応用が利くもの。まぁ、使う場があるかどうかは定かではない。

 

 

そんな感じで床屋に着く。いつもの店員さん。フォルムが違う。随分と絞っている。聞くまでもなく話してくれて、健康診断を契機として減量で遊んでいるのだとか。ゲーム時間を運動に当てて、水泳などをしているらしい。夜ご飯も高たんぱくで糖質なしだとか。健康診断的にどうなのだろうと思わなくもないが、この人は楽しんでやっている風だから、きっと変なストレスはかかっていない。ゲームのように自分をデザインしている。

 

こういう感じの人だから、話していて楽しいのだろうな。脳に良いことしているから記憶力が凄いし、表情も瑞々しい。某海賊漫画で最新の掲載について、ずっと前から考察している人が居たとかも、過去情報とのリンクが太い感じ。

 

あとは、過去のゲームの記憶とかも生々しいし。

 

この辺りで想ったのは、時間上過去とされている情報を再度掘り返すことって、もはや新しいことなのではということ。自分の過去のテクストを解釈することは自分が過去のままでない以上、新しいリンクになる。

 

新しいゲーム実況のことも収集し、さっぱりもして帰り道のスーパーでお買い物。ざるそばといなり寿司のセットと夜ご飯用の食材を買う。ついでにコンビニで家賃も振り込む。自動振替にしたいのだが、一回平日に電話しないといけないみたいで原始的な方法のままにしている。

 

そこから、ゲームしながら実況を見ていた。昨日書いていたアプリはとりあえず全クリまで行った。全クリすると漫画アプリでライフが付くためにやっていたのだが、さらにやり込みもある模様。緊急回避中は無敵で、どこで無敵になるとかタイミングがあって勝手にキャラが動いてくれないから、こっちも動く。

 

ゲーム実況も面白かった。60秒で爆弾が落ちてくるからシェルターに必要物資を入れなさいという自分で動かす要素と、その先の運と。自分でしようとは思わないが、見ている分には良い。略奪したら外界の治安が悪くなるという自業自得性はなかなかの作り込み。

 

いちいち考察しながら見ている訳ではない。念のため。

考察は感じに任せていて、後発的にスケッチしているだけ。

 

 

「それから」の書評を書いている人が転職活動真っ最中で、中途採用枠でしか就活していない自分の過去が再起された。福祉系の会社で、シフトを組んだりするようなやつ。社長面接の時に、僕が新しいことがしたいからと言ったら、「なんでそんなに新しいことをしたいの?」と返された。なにを返したかは残っていないが、結局受かった。ただ、遠いし当時東日本がアレだし母親に猛烈に反対されて今に至る。

 

僕が新しいことを求めているのは、古いのが悪いとかではなく、単なる自己の新陳代謝ふう。

古典を新規として読むのが最近の好みだし、時代とか社会の新旧とは別のこと。

 

現代詩で、「感受性くらい、(時代に巻き込まれずに)自分で守れ、ばかもの」というフレーズがあって、まさにそんな感じ。茨木さん。

 

新しさの指標くらい、自分で決めるもの。

 

新古今和歌集に「君が代」のフレーズが出てきて、苔がむす(蔓延る?)くらい君主の時代が続きますようにという由来なのか、無知が過ぎると思う。

 

 

色々が過ぎる。

もろ味噌を早速使った料理の話も書こうと思ったのだが、省略。

 

 

新陳代謝としての人生劇場において、ただ歩くということはきっと必須。

「天才脳」の本も、脳の健康には早歩きでも効果があると言っているし。筋トレも良いらしいが、歩けば十分。

 

ある意味ではただ歩くことの方が、車の運転より高次だと思う。車の運転において荷重のかかり具合とかを試行しだせば運動になるが、体を動かす部位は一部だし。もっと違う部位が活発になっている可能性もあるが。

 

とはいえ、脳って、脳に良いことをすれば稼働してくれるようなものではなく全生活の反映。

インプットだけでは身重になるし、アウトプットだけでは自転車操業になる。

 

ここの文章は僕が歩ける場として陣取っているというはある。

どこに向かうべくもない散策的な文章、読んでいて面白いのだろうか。

 

人のことは知らん。

 

そろそろ最後。

本の話。

 

アンダーグラウンド。まだ長々の前書きなのだが、どんどん地下に潜っている感がある。

僕はこの事件、リアルタイムでは四国の辺境でニュースを見ていた世界の外の出来事だったのだが、今更生生しくなってくる。

 

ノローグを発話した人はもう位相がズレているはずなのに。

 

このコンセプト、僕が三年越しで観測し続けている演劇と一致する模様。

こちらも、あるテーマでインタビューをした誰か個人を材料にしている。「争い」に焦点を絞ったみたいだが、個人的には初期の「生死観」の方が好き。まぁ争い観の方が分かりやすいというか、共感展に観られるのだろうなというのはある。

 

個人的には人って争いから解放される可能性をもたらされた人格な感じがする。

だって、自分から離れたことを認知できるし、考えることもできるのに。

 

はいおしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

断続的に眠りつつ、アクションゲームのアプリをしていた。

アクションほんとへたくそ。不器用なのか、ゲームをきちんとしようとしないのか定かではない。

 

基本的にきちんとしていない。

 

外からは結構きちんとしているように見えるよう。部屋が綺麗そうとか(皆無)。文章も雑になってきていると思うが、文体はより素朴になっている感じだからこれで良い。

 

無知の塔に、置いていった狩りの収穫ブツを追加した。「文学理論」。理論に思索の意味が当てられていて、なるほどと想う。たしかに理論は思索の集積というか体系化。ここからすると、僕の思索もなかなかきちんとはしていない。

 

まぁでも、きっと、個人個人、それぞれが自分としての理論を所持している。

体系化のメリットは、既知と未知を分けることができて、未知に対して既知を使えること。

 

僕の学問の最初は法律学なのだが、この学問、結構体系化がしっかりしている。

法の存在形式(法源と呼ばれる)から抽象的な趣旨目的があり、そこから枝葉末節の細々したルールに至る。

 

おそらく数学をモデルとした教育法なのではという感じ。具体的なルールから抽象的な目的というか原理に遡っていくやつ。たしかに、現在どういった運用がなされているかについては暗記というか知識が必要になるが、知識そのものをどれだけ増やしても学にはならないという。

 

法的三段論法に馴染めない落伍者(おちごしゃと読んでいた誤読者)。

 

数学をモデルとしても社会において自明な規則がある訳ではないから、定義付けが曖昧になってしまう。まぁ曖昧さこそ人間の存在だし、ここであくせくすることに疑問はない。現代日本の自明な定義は、個人の尊重であって、個人とは固有の人格で在る存在と定義されているはずだが、そもそも人格も曖昧であるという難しさ。

 

 

この感覚で他の社会科学を読もうとすると全然読めない。それぞれ理論はあるのだろうが、流用した科学の出自が微妙に違うのだろうな。経済学は数学と物理学のブレンドで、心理学は臨床試験という意味で医学っぽい。どちらも現象から理論を構築するものであって、理論から現象を考察していく学ではない。帰納法で良いのだっけ。

 

傾向で捉えるしかないのが人間の全体性だし、面白くはあるのだが、心理学はとんと食指が向かなくなった。人の中身を類型にはめるのはそもそも無理なのではないかって。もちろん、この社会と相性がいいかどうかくらいではざっくり分けられるはずで、類型を増やす学問なのかもしれない。

 

自分の社会に馴染まない傾向に名前が付くことで安心する人は居るのも分かる。

アイデンティティは生きている社会との癒着があるもので、自分について何も思索しなくても自分で居られる層が通常の人という統計がありそう。

 

 

社会科学はともかくとして。

 

(投票用紙が届いたのだが、「大切な一票です。棄権せずに投票しましょう。」と書かれている。これって誰にとっての「大切」なのだろう。憲法学で、投票権は人権であるという説と公務であるという説があることが思い出される。選ぶためには情報が要る)

 

 

人文学はほんとに学問として成り立っているのかと危うい感があるのだが、学問の源流である哲学由来だから自由度が高い。変な話、特に理論がないように見受けられる。より思索を練り込んだ人の思想が理論になっている感じ。だからきちんと人のテクストを読み込んでいる。科学になると、偉人の理論から抽出した意味が問題になる。

 

テクストはテキストではない。僕にとっては当たり前なのだが、テクストの語源はテクスチャーである感触。個人的に「感じ」としている、言葉の意味ではないもの。

 

日本語だと情緒とか端緒とかになりそう。

でも、日本人、そもそもここで楽しむ文化がある。俳句とか短歌とか。

 

自分が読みたいように読んでも良いし、もっと別の軸で読んでも良い。

テキストの解釈は文字から離れられないが、テクストだとそうはならない。

 

やれやれ。

安部公房さんの「砂の女」、めちゃくちゃ面白い。

言葉をいちいちかみ砕かなくても、情景が浮かぶ。砂にコーティングされた女の裸体とか。

 

読んで居るうちに、この「砂」って何かのメタファーなのではというテクストの解釈が浮かぶ。きっと資本主義における「貨幣」なのだろうなって。生きる上で必ず付着するもの。

 

もちろん、こんなの異端で良いし、正解なんて知ったことではない。

安部公房さんの小説ってたしか国語の教科書には載って居なかった気がする。おそらく文学者の権威が一意に解釈できないから外したという説。

 

かといって、国語の教科書に載っていた小説が一意的に解釈できるものというかと、んなことは絶対ない。一意的なのはその時代の中だけで共感的に読まれるのだが、時代を越える小説は何か普遍的なところを書いている。

 

文字数少ないが、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

 

まま

 

 

梅雨に入った感じもないのにもう明けるのだとか。

世界が高気圧を求めているのだろうか。

 

皆さん、熱中症に気を付けて下さいな。

 

 

お弁当画像は、なんとなくお裾分け。

 

さておき。

 

そろそろ選挙だから、それぞれの政党のマニュフェストを調べてまとめて考察してみるみたいなことをふと思いついたが、なにかに引っかかりそうだから止める。素直なのが良いが、素直を許容するような土壌が世の中にきっとない。

 

僕はたぶんリベラル派だが、保守を踏まえてないリベラルはきっと、続かない。

神話が受け入れられるのが最低限の直感に反するところなのだから、完全に反したものは逆張りでしかなく。

 

お仕事は、気付いたら12連勤が終わった。

労働基準法的に大丈夫かという感じだが、何かやりくりするのだろう。

 

まぁ、余力がなければ日記は書けないので、まだいけそう。

これをここからどう扱うかという指針をどうするかが問題。

 

お仕事終わりに、美味しいフランス料理を食べてきた。なんというか、シェフに愛が在る。凄く場を把握しているというか、締めるところは締めているというか。撮るより味わうのが大事だから撮ってないが、デザイン性も美味しい。

 

場の相性としては、僕も通えるところなのだが、食の楽しみの軸が少しずれているから1人では行かないとは思う。

 

 

やれやれ。

 

うーん、どっちが先だろう。大まかなテーマが2つある。

 

てきとーに書くか。

 

本日も先生と新人さんのばちばちしたやり取りを観測していた。

新人さんの世界はあくまで一人称軸で、先生の軸は三人称くらいな感じ。先生は雑談でよく一人称で話しているのだが、これは結局のところ、場を和ます目的を持った仕事上の発話であって、仕事をしている軸の人格の話ではない。

 

仕事軸の人格はもっと目的に適うように運動すべきというところにあって、時々出てくる発言でそういうのは読める。素朴な人格とは別の軸で動くのが働くということ。

 

人格と仕事上の機能が連動するというのは、なんとも人間味があることだし、人格が仕事に影響するのは当然だが、ほんとに相手が人格を見ているのかというと、ちょっと違うと思う。人格として言語評価できるような確固とした物として人は人を捉えていないよなぁって。

 

お洒落な先輩と先生のやり取りも結構ばちばちで、先生がばちばちになるのは、仕事の解決の上で、本当にそれが必要なのかというところをちゃんと見ているのかどうかによりそう。

 

仕事においては機能になることが至上で、そこで人格としても認めらるって、なかなかの贅沢。クリエーターとかの次元だったら連動すると思うが、人格と機嫌はべつのもの。

 

 

こういうところでうふと思いつく。存在の相性。

 

素朴な次元でも、人はきっと機能的な存在で在りたい。これを役割としての言葉が後押しする。僕はちゃらんぽらんだが、きっと機能的な存在にはなれる、なってきた。

 

機能であることが自分が世界で存在して良い理由になるというのは、ある意味では簡便で、ある意味ではディストピアユートピア)。

 

誰か特定の人に名前で呼ばれることも、一種の機能的な存在論

 

僕の素朴はまじでやべー奴。化石のような家電に囲まれて、本にも囲まれて、一般論としての清潔な生活をしていない。まぁGがやってこないのは、ナマモノはきちんと片付けているからだろう。シンクには洗い物が無いように保っている。

 

存在の相性は、嗜好の同期ではない。

 

 

この辺りから、潜ってくる。

 

 

存在の相性は、自分の人格にとっても然りなのだろうな。

個人的な感覚として、人格は統一化できるものではないと思っていて、これって他の人もどうだろうなという観測がある。だから、他人の矛盾は気にならない。指摘するまでもない。

 

自分の本当の存在にとって楽しいことを気付けないまま一生過ごす人は多そう。

 

 

ここから、存在論

 

僕は自分の存在は、何か成したとか、どう在るべき自分みたいなところに置いていないから、影響を受ける自分を是とする。ただ、影響を受けない自分であることがふつうのおとなのアイデンティティぽい感じはある。

 

行動を変えられられないのは、人格が確立しているからという観念は僕にはあんまりないのだが、アイデンティティの捉え方としてはありうる。ただ、この人格が他人の行動を変えようとするのは自己矛盾だと思う。そういう人は観測としては楽しいが、一緒には居られない。

 

自身を考えたとき、行動の変化としては影響されるのだが、これって自分のことを結局どれだけ変更されたとしても揺るがない存在としているからなのだろうな。

 

自分のアイデンティティを非言語領域に置けば、どれだけ動いたとしても自分のまま。

 

はい、ここまで。

 

右ひざに置かれた頭の存在感。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

なんも知らん

 

 

 

美味しいご飯でお腹いっぱい。明日のお弁当がそういう専門のなんとかグラマーくらいの彩になっている。ささみの大葉包みフライ、茄子の煮浸しもろ味噌和え、残っていたマリネ。

 

今朝、10分程の時間で、自分用の味噌汁、目玉焼き、納豆、食べるラー油(きくらげ)でご飯を食べる姿を見て、生活と料理が馴染んでいるなぁという感じ。僕は朝ごはんを食べない派なのだが、あんまり気にならない。手際が良いなぁというだけ。見倣おう(影響されよう)。

 

本日の晩御飯にはタコと茗荷ときゅうりの和え物もあったし、高菜と鶏そぼろの混ぜご飯(混ぜたのは僕)もあった。これと同じクオリティを外食で食べるとすれば数千円規模なのでは。まさに個人が作りましたという角がないのも凄い。まぁ、角のなさでは負けてないとは思うが。

 

惚気はとりあえず収めて。

 

さておき。

 

本日はなかなかの暑さ。そろそろ日の下では出歩けない。でもオフィスが冷えるからお弁当は光合成しながら食べたいところ。どれくらい気温が上がれば公園から人が居なくなるのかは気になる。白い鳩ぽっぽの走り方が独特の前傾姿勢で見ながら笑い合った。急いでいる風だが、普通の鳩の姿勢で持続的に走る普通のポッポーに持久力で負けている。

 

仕事では、オープニングの発話をしたら、「○○さんの声だと分かりました、今日は良い日だな」と言われる。僕もこの人は適度に距離感を保ってくれるし、変に指名しようとしないから良き。たまたま当たって良かったなという感じ。あと、もう1人はたまたま苗字が同じ人で、年齢と既婚かどうかを聞かれる。これは下心ではなくて、同(氏)族感から来ている。職場的に答えて良いのかなぁと思いつつ、気ままな独身ですわと返してしまう。制限かかっているお喋りはあまり面白くない。まぁそれが仕事だ。

 

どうでも良いが、僕がふわふわふらふらしているように見えるからか、僕の動向を見守る層みたいに分類される人が時系列で所々現れる。別に大丈夫ですがと思いつつ、変な感じはなくもない。なんで僕の動向がそんなに気になる? 興味関心とは別次元のような。

 

帰り道は7時過ぎていても明るい。夢で見かけた紫の彼岸花風の花をまた見つける。

 

 

やれやれと、思索パート。

 

「人生を変えた三冊の本」というのは何かテーマだったのだろうか、僕が見た記事は教科書だった。たしかに、それによって指針として方向づけられたという意味では変えたとも解釈できるが、個人的には本が人生を変えることはないと解釈している。

 

まぁどう捉えるかという話で結果としてはあまり変わらないのだが、そもそも本って教科書も含めてそれを読もうとする何かが自分にないと読まない。ちなみに僕は教科書は、全滅だった。国語の教科書に載っている小説の抜粋から原著を辿ることはあっても、教科書の平易性がなんとも駄目。だから今自分セレクトで再勉強しているところ。

 

倫理ではなく政治経済選択だったから、倫理の教科書に何が書かれているのかは知る由もないのだが、下敷きの哲学者は誰なのだろう。日本って西洋かぶれだから、カントさんは載ってそう。政治よりの思想だとモンテスキューとかルソーとかロックで、儒教よりだと孔子とか?

 

ともあれ。

 

僕は読書家と自称している人より貪って読んでいると思うが、本が人生を変えるではなく、人生が変わったから出逢う本が変わるという解釈。世界線の選択に本は使わない。人が遣えないように。

 

こういうのは、捉え方だが、捉え方が個人の世界の全てのような気もする。

人生を変えるような本があると捉えることは、主体としての自己が受動態になっている。こういうのは、人生の主導権が自己の外に置かれることになって、なんだか他責になってしまう。

 

自分が動いたからその本と出逢えたという方が人生劇場においてドラマチックではないかというロマンチシズムでもあり、あくまで主導権は自分にあるという自責で生きる方が楽しい。

 

たとえば、僕は法律学の資格試験をずっと勉強していて受からなかくてご破算になったのだが、ここは人生劇場では全然無駄でない。人の自明的なルールがそうでもないと知る為にはこれくらいの時間が必要だった。ほんとうに何かしたいのであれば、きっと習得より試行に向くのに、この枠では生きれらないということにやっと気付くという。

 

最近、仕事で自発的に弄っているExcel関数が面白い。統計とか集計とか僕の素朴ではないのだが、EXACT関数とか。統計学もなかなか。世界が悲観的であると決めるにはまだ早いよなって。経済学の統計化はどうなっているじゃろう。

 

ところで、「香君」の次の枠は、「砂の女」になった。100分名著がなかなか面白いというか、なかなかぴったりな本を提供してくれていて。ミーハーっちゃミーハー。聞いところによれば資本主義のことも書かれているようだし。

 

それとは別に、引き込まれる。昆虫とか砂が腐るとか、現実感から微妙にずれていくのは、神話の定義にも当てはまる。最低限の直感に反する。

 

資本主義の概念は未だによく分からない。

 

ふと想っているのが、この概念の流入は個人観を強固にしたけど、英知の継承とか共有を阻害しているのではという感。

 

文字数少ないがここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。