ちゃんと人を捉える

 

 

人は水物。安定するためには揺れに合わせなければならない。

 

 

夢ではユニクロが出てきた。現実では買わない半ズボンを買ってもらう。ハーフパンツも買わないな、骨ばったふくらはぎがバレる。唐突にさっき除毛をしてみたのだが、これは高校時代より細い。高校時代はテニスでふくらはぎの筋肉使っていたから、筋肉量の問題か。今は歩くことしかしてないし。どこに向かっているのかよく分からないが、自分の領域の中で色々試してみているだけ。

 

通勤。昨日はとぽっぽ達が落ちているだろう米粒を貪っていた田んぼ、本日は誰も居なかった。面積に比べて全然広がってなかったからそこだけにしか落ちていなくて、食べつくしたのかもしれない。退勤。お月様とはタイミングが合わずにちらっと厚い雲の後に居た。なんとなく存在感は見えたが。昼ご飯の時は、世界と自分は連動してないにしろ、いくら孤独になったとて世界との繋がりは断ち切れないよなとか言語化していた。

 

 

仕事のフィードバックの評価が悪く、しかもよくもまぁピンポイントでそれを選んだなというくらい自分の中で上手くできなかった案件で一瞬凹んだ。どうして沈むのだという自己分析をする。表層では点数が付けられるのが嫌なのだという解釈が出てきて、それも然りと思ったが、奥には、自分はある程度できているという自負があったのだろうなとなった。他の案件がピックアップされていたらそんなことはないという行間的感情。

 

我ながら滅茶苦茶誇張した自己評定だと思う。発話を意識的に扱うってアスリートレベルの動き。反射で発することをコントロールしなくてはならないし、感情めいた抑揚もつけないといけない。文章の方が遥かに簡単。相手に応じなくて良いし、試行がそのまま反映される。意識的に捉える自分の動きで言えば発話は最終段階だからまだまだ。凹んだことを反省した方が良い。

 

発話こそもっとも無意識が稼働している領域だろうなという思索。

周りがそういう言葉遣いだったというところから学習して、この発話で大丈夫だったという実践の積み重ねだし、意識が上の空でも会話はできる。

 

銀色夏生氏の日記本を立ち読みしたのだが、よく会っている人でもしんどいという人のことを冒頭で書いていて、発話が空疎だという話があり、うーんそうだよなとなる。自分の頭で本当に考えているのかとも書いていた。うん、わかりみ。

 

ところで、人類まで抽象化した壮大な発想なのだが、現代人の精神と古代人の精神ではどちらが豊かなのだろうという想起。物には須らく魂が宿っているという観念の方が豊かなのではと想う。現代人は人と物を分けて、物は支配して管理できるものとした訳で、この切り分けは経済の発展に寄与したのは確か。でも、この世界観は、世界は何か支配されているということと連動しているような。

 

一方通行できるというように世界はできていないし。古代ローマには奴隷制度があって、奴隷ではない人の奴隷制の空気感から離れられないと同じ。時空という三次元世界の当たり前は人間に物質的側面がある限り逃れられないが、三次元で捉えられない存在に重きを置けるかどうかは人の存在論としての豊さと等しいのではという感じ。

 

物を支配できているという観念は事実上のフィクションでしかないよな。本当は支配しているのではなくて、恩恵に与っているだけ。その恩恵を人同士の中でだけ支配とか管理とかと呼んでいるだけ。スケールとしてはとても小さい世界。

 

まぁ現物の話はともかく。

 

言葉は物なのかという問題。

自分で考えられるかどうかのほんとは、呈示された問題の答えを解けることではなく、問題を設定できること。

 

僕が今まで世界を読んできた感じだと、人は明らかに言葉を物と扱っている。意を伝達する為の三次元には存在しないはずの物。自分が支配していると思えるし、だから、自分の意が伝わることが当たり前だと思える。話が通じないという観念がまさに。

 

言葉も人間と同じで水物だし、自分のコンディションによって世界の言葉の捉え方が変わるのは誰でも経験しているはずなのに、物から受ける感じは無意識がカットして結果的に従来通りになる。

 

それくらい無意識のメディアとして浸透されているのは凄いことだが、言葉を支配していると無意識が捉えている人は、おそらく言葉に支配されている。言葉は世界を認識する手段だったのに、世界はそうであるという目的になる。言葉で構築された世界観でしか現実を把握できない。

 

この話、きっと誰にも通じないなと思いながら書いている。

 

僕の世界にはもともとそんなに言葉はなかった。というか、決めたり装ったりするために言葉を扱ってなかったし、人もそれくらいの感覚で言葉を扱っているのだろうなと。要は、善意を装った言葉も真に受けてしまう。

 

という悩みは、世界において自分が絶対的優位者とする限り起こらないことで、ほとんどの人に無いことだと悶々していたら、夏目さんが「硝子戸の中」で同じく悩んでいることを書いていた。間に受ける自分の素朴では騙されてしまう、かといって全部疑ってかかれば善い人を傷つけてしまう。これってもっと文学的表現でどこかの作品に書かれていたような。道理と義理がどうのこうの。

 

と、夏目さんの行間まで読もうとする人格。

もう、この世に物理的に存在しないかどうかは、僕の世界観ではあまり重要なことではない。

 

なんだか慰められてしまった。この年代の文士の小説好き。

言葉と「意」が離れている。

 

言葉に込められた「意」ももちろん大事なことだが、これが自分本位だとなんだろうなとは想う。あ、書き漏れる前に、理容院の店員さんが親友の結婚式で大役を担うのが上手くいきますようにと祈っておく。

 

言葉の伝達以上の意味は在る。というか、そういう風にしか僕は言葉を扱っていない。

僕が自分の生活の描写を伝えたいという文意として読み取っているのであれば、それは貴方が伝えたいことしか書いてないからということになる。はとぽっぽが田んぼの稲穂の残り米粒に群がった描写が伝わったところで、僕の人格が暇人であるということしか読めないし、それで何か意味があるのか、いや、ない。

 

祈り的な言葉って基本的に受け入れられる。

害がないからだろうなと思うのだが、たしかに三次元の外にあるからか。

 

僕は三次元の外に在る人に対しても祈っても良いという価値観を構築したから楽になった。生活圏だと心配になってしまう。心配が混在した祈りは自己本位になってしまうので悪手。

 

この行間だと、宵顔さんはずっと遊んでくれたからとても愛おしい。

祈りを嬉しいと言ってくれたし、なんかすごく読んでくれいていた。

 

ただ、現実的に上手く行っている人に対して僕が現実的に想うのはよろしくない。

 

これは存在として場所を取らない方が良いではなくて、取らなくても良いというだけ。

宵顔さんの存在の僕に対する寄与はもう十分貰っている。僕が僕で在って良いというお墨付き。

 

ほんとに現実的に一緒になりたいのであれば、僕がすべきことは毎日私信を送ることではなく、もっと僕を過ごすことで良い。縁があればあるだろうし、無くても僕の中では好きな人として生きている。

 

ほんと、凄く変な人と出逢ったものだ。

これだけ変な人とはもう会わないと想って居るが、あくまで主観でしかない。

 

中学時代の、「なんで分からないのだ」という観念の補足。

別に僕は1を聞いて10を識るような天才ではないし、この分からないは、分からないものとして採り入れることができないかという意味。

 

行動経済学で、人の脳内には複数の基準があるということだし、知識は唯一の判断を補強するものではなく、意識上の支配者とは別の基準を呈するもの。

 

はいおしまい。

 

暖かく安眠していますように。

 

おやすみなさい。

無頓着

 

 

 

継続は執着でも習慣でもなく、意思の連続によるもの。

 

 

わちゃわちゃというかイチャイチャというか、そんな夢が続く。黒髪のギャル(?)と致し始めるときは僕は相手役だったのだが、始まりだけで、その後は俯瞰というか具体的なシーンはすっ飛ばし、最終的にはギャル目線になっていた。

 

「査定(比較)と自分を開示しない交合は詰まらない」

どんな教訓なのだと思ったが色々と想い当たることはある。やっと自分に戻ってきているのだから。

 

 

目を覚まし。あれ、もう木曜日なのかとなる。どこかに曜日を1つ落っことした気分。しかし、お弁当のセーブポイントを辿り、月曜日のメインは豚肉と厚揚げとピーマンと人参のマーラージャン、火曜日は鶏肉とピーマンとキャベツのウスターソース、水曜日は鶏肉と茄子とキャベツの味噌炒め煮、あぁちゃんと生きていた。本日は豚ロースと玉ねぎとキャベツにするつもりだったが、えのきが悪くなっていたからキャベツの代わりに加えてすき焼き風にした。

 

仕事では席替えがあり先輩男子の席に活動的な先輩女性が座り、また雑談を聞き流す日々になりそう。女子トークが盛り上がる。お二方とも爪を綺麗に塗っている。外向きの自分に楽しんでいることは良きこと。

 

キルケゴールさんのいう「絶望」って、どうやら自分が自分自身であることに対するものらしい。支配者になれないことに絶望している人は、支配者になれなかった自分に絶望しているのだという例があった。僕は何かになりたいという切望はないから絶望をしようがないが、微睡んでいるときはこれが一生続くのかと絶望していた気がする。

 

女子トークをBGMに、仕事が暇だったからぼーっとしつつ漢字について思索する。

 

平家物語の冒頭の「ギオンショウジャ」ってどう書くのだっけとPCのメモ帳に打ってみるとすぐに出てくる。では「シャラソウジュ」は。音で覚えていたが、実際は沙羅双樹だった。書き起こしてみると、語感も韻も字面も練りに練られた完成度。祇園精舎のショウジャの音が沙羅双樹のソウジュ、次の盛者必衰のショウジャと繋がる。凄いな。まるまる覚えていた訳でもないが。

 

ここから漢字ブームが巻き起こり、虫編の漢字、魚編とカタチと意味を楽しむ。蟻、蜂、虻、蚊、蝶、鰈、鮃、鯛、鰆、鱈、、、。と、実物とメモ帳で変換される漢字を繋げていくと、虹だけ仲間外れなような。虫にまつわる意味がどこから来ているのだろう。今調べると、龍が空に昇る像になぞらえて、大蛇の「蛇」から来ているのだとか。蛇って見れば読めるが、虫編の漢字が当てられる虫という連想では出てこなかったな。爬虫類、あ、虫が付いてらぁ。

 

戻ってきた自分という文脈。

 

僕は漢字がお勉強になる前の最初はとても好きだった。小・中の漢字テストはほぼ無敵。語源とかは習わないからただのカタチと捉えていた。高校で出てきた漢字のカタチで好きなのは吝嗇(りんしょく)。意味としてはケチとか倹約家という大したものではないのだが、今となっては清廉な感じが合って好きだったのだろうな。

 

この辺りからやり直しをしなければならない。

 

小学校の学習が良かったのは順位が付かなかったこと。中学校からいきなり順位が付いてそのまま続けられなくなった。他人なぞどうでも良いという程には僕はまだ僕ではなかったらしい。ぼーっとしていて、実際ぼーっとしている僕が高得点を取り続けていることに対して、他人から自分はきちんと努力しているのに不公平という評価が投げられる。

 

言語化するとかなり高慢なのだが、当時の僕はきっと逆になんで分からないのだろうと不思議に思っていた節がある。教科書読んだらだいたい分かるだろうって。誰かと比べて自分が優位に立てる、価値がより高くなるという概念もないからただただ委縮することになった。そうか、普通は分からないものなのかという学習。

 

中学時代は毎日学校行きたくなかったな。今から見れば意識的に寝たふりしていた。野球部の空気も嫌だったし、自分を流す。成績が良かったというだけでスコアラーに当てられた。高校受験の面接時に、「字は上手くなったと思います」というネタにはなったが(実際今も全然上手くなってない。

 

高校時代はより査定の世界。微睡みの中の英単語テストは苦行だった。部活は楽しかったな。硬式テニス部で、顧問に考えながら動いていると言われた。実感としては考えているという意識はなかったのだが。

 

昔語りは別に過去の栄光でもなく、やり方を間違ってきたなというところ。

 

良いオトナが机上の勉強を語るべきではなく、実践が問題だというのは分かるのだが、新しいことをするにしろ何にしろ、もともとを辿らないといけないと思う。

 

勉強って、努力とか、目的に向けて時間をかけるという常識があるが、だからできなかったのだよな。負け惜しみでもなく、今のすっきりした世界の景色はそういうところから離れて世界を味わって良いとなったから。ここまで戻るには1人になる必要があったのはしょうがない。

 

世界観を構築される最初に、人は自己観を形成する。その自己観は、自分にとって効用があるかどうか。勉強しても意味がないとなるのは最初の諦め。そんなことよりコミュ力とかコネとかが大事だろうみたいな。

 

僕はそもそも世界をそういう風に捉えてなかった。

自分にとってどうかを問題しだしたのは後付けの学習されたものであって、この世界観は割と地獄だと思う。いや、それで良い人を否定している訳ではない。と、いちいち注釈が必要になってくる。

 

6歳までの環境がよほど良かったのか、再インストールしたのかは知らないが、僕は誰かよりなにがしかではなく、僕が僕であることに意識できるようになっている。今更高校数学をやり直しているのは、僕にとっての効用ではなく、数学が世界をどのように捉えていることを読みたいだけ。ある意味無関係。

 

世界は自分と連動してないのだよな。それが真理だとなると世界がどう見えるかは自分次第でしかない。

 

人って相対的に世界を捉えるから、僕という同じ時空で生きていない存在は刺激が強いのかもしれない。常識人だから外から見たときは一般人だが。

 

同じ時空というのは、別にSF的な話ではなく、常識で良い。

僕ももちろん三次元の世界で生きているし、それがないと思索空間もないのは知っている。ただ、どこに重きを置くかというだけ。

 

法律談義だと、僕は法律を争いのためにできたものと捉えてない。むしろ争わないで済むように創られたルールの方が量的には圧倒的で、ただ意識されないから意識された時にだけ認識できるという文脈で争いの種みたいに見えるだけ。

 

争いと言えば、「人は争うように遺伝子に刻印されている」というインストール理論も個人的には嘘だと思っている。脳的に劣っているとされるボノボですら争いをセックスで回避するし、狂暴とされているヒヒのコミュニティも、狂暴な雄が食中毒で亡くなったら協力的になったらしいし。

 

個人的に言えば、僕の実家ってかなり家庭も親戚関係も不和で争いが絶えなかったのだが、僕はその渦中に自分を置いていない。怒りは発するべきではないという感覚はこの闘争の反面教師みたいな影響があるかもしれないが、この自分は誰にも倣っていない気がする。一応インストールの根はおばあちゃんとかあるが、僕は裏で悪いことを言うみたいな一般論にも従っていない。

 

僕の内心は裏表なく書く。

 

裏があるとすれば、情報として伝えるべきではないというところだけで、それで僕が優位になるとかはない。

 

どうでも良いが、宵顔さんへの私信をしばらく止めようかとなった。

僕の継続が当人にとってどういう影響だったのは定かではないが、宵顔さんの世界観の中で、何も返さないで済むということは楽なだけかもしれないなと。楽である世界は楽しくない。

 

うん、僕がカウンセリングを必要としなかったのはこういうことなのか。

誰の中にも居なくても自分だけで確立できている。

 

はい、おやすみなさい。

 

楽しく生きていますように。

 

 

 

進行形

 

 

 

夢に幽霊は出てきて良いのであれば、生霊も出てきて良いのでは。ふとした想起から生霊論の思索。生霊の発生において負の想念が多いのは重いから人のカタチを保てるから。正の想念は軽いから霧散して漂っているのでは。

 

ちなみに僕は0感なので何も見たことはないが、想念の起こりが脳の電気信号と、環境からの読み取りだとすれば、単なる頭の中の想いが外に影響を及ぼしうるというのは自然。想いという無形なものを感じるアンテナはなくても、信念までいけば行為とか印象になるのだから他人でもその輪郭は見える。想いは最終的に環境になるということ。

 

思索にここまでという限界は要らないという信念は僕にとって自らの環境になっている。

 

 

さておき。

 

本日もわちゃわちゃしていた夢だったが、深く寝ていたというか意識を手放していたためあまり残っていない。意識を手放させるものは絶望の他に安心がある。僕は宵顔さんの存在に安心しきってしまっていることを諦めたらしい。無根拠だが理由がないゆえに抗えない。添い寝しなくても安眠してしまう。

 

キルケゴールさんの絶望論は中身をもったいぶっていて不明なのだが、肉体的な死よりも何か凄い病みな感じ。「死」とは過ぎ去ってしまうものという観念はしっくりくる。この日記にも書いたかと思うが、関わりが無くなった人と肉体的に亡くなった人の違いが分からなかった。僕の中では僕が生きている限りどちらも生きている人みたいなもので、情報の更新がなくなったかどうかはきっと本質ではない。

 

生殺しみたいな生き地獄の感覚が絶望なのだろうなと予想している。

微睡みの中でいたときそんな感じだったから、分からなくもない。

 

うってかわって、僕は「いま」が一番楽しいのだなという感じを捉える。引き延ばされた今ではなく、瞬間でもなく、全部がいま。ポジティブでもネガティブでもなくひたすら見るだけ。

 

昼休み。体感温度でそろそろコートをクリーニングに出さねばと思いつつ、引き続き空中庭園。やはり見間違えでも願望でもない、レモンは黄色が増えている(一瞬宵顔さんに事の画像を送り付けそうになったが何故か抑えた)。ベンチの空きが1つしかなくなんとか座ることができた。さらにもう1人やってきて、どこに座るのかと思ったらすでに座っている人の隣に座って、なんと、と思ったがどうやら知り合いらしい。良かった。

 

食べ終わる頃、また1人。待っているようだったから早めに席を空けた。あまりベンチを専有し続けてはいけない。ゆっくり食べて下されと公園を後にする。

 

帰り道。厳密な満月かは知らないが、月光の面積の何倍分も拡がっている。あまりに大きくてうお、と声が漏れる。自然美の極致。それとは別に、昨日書いていたからか、建物という人工美に目が行く。建築物っておそらく無駄なく構築されていて、例えば階段の高さとかも歩きやすく計算ずくだろうし、外から見て違和感がないかとか、もろもろ考え尽くされているのだろうなと見ると、機能美の極致。別に美術館にあえて行かなくても、日常に芸術品は溢れている。もちろんこういう下地があった上で美術館に行けばもっと美を味わえるのだろうが。

 

「考える身体」、「芸術学」曰く、美は味わうものということだが、これは人生、ひいては世界も同じことだとしたい。全部を自分で味わうのがこの現世なのだから、美に限定する必要がない。

 

時間とか空間を物と捉えるのはまぁ分かるのだが、素朴に捉えると人はそんなところでは生きていない気もする。

 

少し法律学談義。

 

法律は社会の常識としての時間と空間の中で存在している。約束と現実の時差を債権債務としたり時間の経過で権利を取得・喪失する時効制度があったり。このルールは社会の発展に寄与したし、安全を提供した。安全に関しては時空というより暴力を個人から奪ったことだが。今までお勉強用の外付け知識として収集していたから、思索に挙げられるようになってなかなか大変(楽しい)。

 

で、法律学における「物」観。民法でいうと物とは所有権の対象だから権利の客体としての有体物になる。有体物の定義は、「物理的に空間を占めるもの」。これで言うと人も物なのではとなるが、人は権利の客体にはならなくなったため除外。言葉として残っているのは、人質。人は質の対象だった時期がある。刑法上の物は財物と言われる。有体物ではあるのだが、電気も財物とみなされたりして、若干範囲が違う。

 

「物」を有体物捉えるのは、有体性が最小限度誰でも認識できるから、ルールの対象にできるという意味合いくらいしかないのだろうなというのが素朴な感じ。ずっと有体物に特に何も価値を感じなくて、感じないといけないと強制してきたのだがこういう認識で良いのかとなって軽くなった。有体物って経年劣化していくし、価値の置き所は占有よりも効用なのでは。

 

ちなみに、「占有」も法律用語で、「専有」とは違う。定義は「事実上の支配ないし管理」。事実ってなんだろうなとなるが、事実と物理と似たようなものなのだろうか。おそらく物理よりは観念寄り。

 

ただ、ここでいう「有体物」の物理も最新物理学がアップデートされている訳ではなく、あくまで常識的な感覚としてのもので、この常識はニュートン力学から更新されていない。「思考のすごい力」を読んでいるとむしろこの常識は退化だったのではとなるが、詳細は原典を読んでみると良き。

 

こういうそもそも言葉がどういう意味から来ているのかって思索していくと迷子になる。言葉の意味は語意でなくて観念なのだよな。突き詰めて行けば肉としての人間の動きだとは思うが、本来の意味を認識することにどれほど効用があるのかは微妙。僕は迷子になりたい質だから問題ない。より迷子になるのが僕の人生かもしれぬ。

 

 

本の話。

 

物語に逃避したことはないから小説を読むことが現実逃避だという言にクエスチョンだったのだが、伊坂さんの「フーガはユーガ」を読んでいてなんとなく分からんでもないなと感じた。

 

物語って、どんなにハッピーエンドでも何か後ろ暗さがある。これは言わば当たり前で、創作者は現実で実現できない想念を物語を媒体として表現しているから。伊坂さんはかなり後ろ暗い体験を背負っているという味わい。

 

もっと昔だとその社会に対する鬱屈を物語という形式で世に伝播する機能があったのかもしれない。あんまりそういう古典は読んでいないのだが、ドン・キホーテとか宝島とかがそうなのではという感じ。ガリバー旅行記(アニメは見た気がする)もか。

 

後ろ暗さだと分かりにくいが、反社会性だとどうだろう。

社会に馴染めて一生を穏やかに過ごせる人に物語を書こうとする衝動は芽生えるかどうか。馴染めているかどうかは社会的な立場とは別問題。

 

こういう風に見たとき、インターネット世界における言語化にも、日常生活では書けないことを書く後ろ暗さが漂っている向きがある。

 

自分の文章を日常の生活圏の人に見せないのは、後ろ暗さではなく、読んでも分からないだろうし、たぶん読めないだろうなという感だった。感じを現すためには文章という媒体が適切だったというだけで、文章を書けるということで優位になりたい訳でもないし、僕の中身に興味がある訳でもないだろうし。

 

場所を取らないからインターネット世界に存在できる。

 

 

物語を読むことにも後ろ暗さはない。自分の性質と近いかどうかで選んでいないし、そんな物語はやってこなかった。今となってはで、読書家の大多数は自分に合うことを問題としていて、それが当たり前なのかとしていたが、それだったら認識が更新される物語に出逢わない。

 

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

暖かくしていますように。

 

 

 

 

ただの思索

 

 

今まで起こらなかったことがこれから起こらないとは限らないし、今まで起こっていたことが起こらなくなるとも限らない。だから、何かを選ぶときは消極的理由ではなくなるべく積極的理由を優先するしかない。

 

 

 

わちゃわちゃした夢。第1部は誰かと待ち合わせているのだが、その相手が誰か分からない。父親が早めに送ってくれるとのことで、どこかの街中に着く。そこには中学時代の友人が居て、何か高圧的にまくし立てられた。なんでそうなのだと聞いたら、「だって、ゆ」というところで目が覚める。まぁ、僕の夢の中なのだから幽霊も居て良いのだが。第2部はおそらくあの有名人をモデルとしているだろうすっぴん美人といちゃいちゃ。抱擁はなく接吻のみ。今までの経験の集合体みたいな唇の感触。なかなかいい経験をしてきたものだ。欲求不満なのかもしれないが、その為に対価として出せる時間がほとんどねぇ。欲求不満は解消したところでまた不満になるだけだし。別の文脈から充足しないと。

 

第3部は学校で集団行動していた。学校はよく出てくる舞台。実際通っていた小・中・高の校舎の融合した形。学校って芸術としての建築物として優秀。小学校の木造校舎が一番恰好良かったかな。建築と舞踊は似ていると書かれていた。造形美。

 

 

そうして仕事に向かったのだが、気付いたら残り時間3分だった。なんだかトリップしてないかと不安になったが、何を話したか、何を収集したかは残っている、大丈夫。内心の信念が影響してきたのか、高圧的な人に当たったが全然堪えないし自分がまずかったとも全く思わない。なんというか、そういう風にしか生きられないのだなという感じだけ。

 

昼休みは檸檬空中庭園。なんとかドルチェという花を見ながらお弁当を食べているとお母さんと男の子が庭園の植物を鑑賞していて、男の子が「お花、いい匂い!」と世界を楽しんでいた。人間にとってもいい匂いであることは生存にとって良いことだったのか、と思索。

 

トリップと言えば、僕は20代の頃、お酒を飲んでいて記憶が飛んだというレベルではなく意識が途切れたことが数回ある。もう自分を意識することを放棄したのではという解釈だが、普通に会話していたらしいし、歩きながら意識が戻る。でもこれって、無意識が人間の実体のほとんどを占めているという話を読んだ後だと、そんなに変なことでもないな。あくまで意識っていま動いている無意識の上澄みみたいなところがあるみたいだし、別に自分を制御しているわけでもない。

 

そもそも昨日発話した一言一句を繰り返すこともできないというのが意識の視界。

もともと微睡みの中にある。そんなの現代常識は認めないはずだが、意識的に生きるのは意識しないとできるようにならない。

 

母親とまた通話があった。仕事から帰った時間ってかなりかつかつだから、「ごめん、送られたキャベツで料理作らねば」と節電しようかと思ったのだが、下味付けた鶏もも肉とピーマンは既に火を通していて、肩で挟みつつ通話をしながら作りきってしまった。

 

母親には弁当画像を2枚だけ送っていて、また美味しそうにできたら送っても良いんやでと言われたが、「毎日作っているから毎日送っても良いだが」と返す。そうすると、そんなに上達したのかとびっくりされる。なんなら毎日公開しているがとは言わなかった。正味客観に耐える色合いとは思っていないが、お友達の目には耐えている模様。

 

そうして、これもふてぶてしさの一種なのだろうな。お友達に怒られそうだが、打て打て言ってくるから、「今のところ打つつもりはない」と返してみた。そうすると、移動するために検査が必要になるとか、今なら特典があるという、それ自体の効果を問題としない理由付けを積み重ねられた。不利のため(前者)に選択するのは消極的だし、後者に有利のためだと行動経済学上のナッジになる。素朴な疑問だが、本当に真実として効果があって全員そうするべきだとなったら、強制にしても良いのでは。強制にできないのは統計上の効果と、他の予防接種と同様に、致命的なリスクが発生する可能性があるからと考えるのが自然。

 

法律談義だが、適法行為によって誰か個人に損害が偏ったときに、その損害を補償すべきという「損失補償」の概念がある。公共事業、例えば高速道路とか新幹線の沿線を伸ばすために誰かの土地を強制的に取り上げることは、社会全体の利益のためにはなるが、そこに住んでいた人は住めなくなる。であれば、税金を原資として同じような価値がある土地に済めるように金銭で補償するというルール。

 

とすると、インフルエンザの予防接種が強制されたことによって死亡する人が出たときに、それは社会全体の効用のための犠牲だから、土地のルールである損失補償を「類推適用」することができるとするのかどうか。今回のでも周りに居ないだけで、打ったことによって退場することになった人は居る。これをなんとするか。

 

法律談義を続けたいところなのだが、自分にびっくりしたのが、母親に反論した自分。母親は理由とか関係なく意向に反するというだけでヒステリースイッチが入る。でも、言ってみたら、理由にならないような理由を呈示されただけだった。反論するなぞ前の自分では考えられない。

 

これなんだろうなと思うと、「思考のすごい力」にあった、人は環境の鏡で、最終的には人は環境の一部で輪廻転生はあるというところまでいく。曰く、人は環境に反応するトリガーがあるが、環境から読み取ることができるのは反応がある部分だけであり、この反応の集合体が人だから、肉体が滅んだとしても同じような反応ができる人間は生まれうるみたいな話。生物学者がここに辿りつくというのは凄い。

 

僕が反応したらしき部分は、僕は人の鏡で在るが、人にとって僕が鏡であるようにして良いということ。僕が存在している限り僕に関係する人にとって僕が環境であることはどうしようもない。要は場所を取るとか取らないとかの話ではないし、僕が人によって変わるように人は僕によって変わってしまう。ここは退場しない限りは諦めるしかない。

 

僕を読み続ける効用は知らないが、まだまだ制限かかっている感じがあるので、読むならご覚悟を。

 

法律談義の続き。

 

夫婦別姓についての裁判を読んだ。素朴ではイイオトナがなんで自分の姓を気にしているのだって感じだが、「何を気にするか」を尊重する建前なのが現代憲法だから問題ない。

 

この議論って、なかなか盛り上がらないと思う。フラワーデモとは当事者の量が違う。

 

個人的見解だと、選択姓でも良いとは思う。ただ、家族制度とかパートナーの共同体を考えると、家族制度って姓を同じくした1つの結合体としてのパッケージではある。これが「家」制度の歴史からの流れだとしても、その流れに乗りたいから婚姻という契約を結ぶ訳で、その分の優遇制度があるというのも、行政として処理がしやすくなるという便宜による。

 

ぶっちゃけると、大人同士がパートナー関係になるところで、姓が同じになるのが嫌なのであれば、婚姻しなくても一緒にいれば居れば良い。パッケージとしての優遇措置が得られないのが不平等だって、求めすぎでは。

 

もちろん、立法政策が変更されるということはあるし、変更を促すために裁判にするというのもあり。実際再婚禁止期間は短縮されたし。

 

ただ、基本的な姓の選択ルールとして、何か不平等があるということはないんだよな。どちらかの姓を選べば良いだけで、別に男性の方の姓に合わせなくても良い。事実上男性の姓が選ばれることが多いのは、「家」制度の流れだと思うが、あくまで事実上の問題でしかない。

 

事実上の空気感によって決められていることを気にするのも良い。

でも、自分の社会的な姓が配偶者に合わされるのが嫌だとなる人に聞きたいのが、子供はどうするのだということ。

 

生まれたばかりの子供は決めることができないから、どちらの姓にしないといけない訳で選択を回避した問題が顕在化する。事実上の問題もここに顕在化してくると思う。別姓を選択した割を食うのはお子様では。子供って異分子を排除することに長けているし、普通の同性の夫婦からの空気感が伝わって、いじめられるリスクはどう想定しているのだろう、自分の問題だから、子供はどうでも良いとはならんよな、あえて社会的なパートナーになっているのだし。

 

法律論よりも、常識論の方が気になるのが夫婦別姓問題。

法律論が変化したところで、実際に生活している社会に浸透するまでには時間がかかる。だって、ほとんどの一般人は法律の細かい規定なんて知らないで生きているのだし。

 

 

なんだか真面目に書いてしまった。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

気温の変化で体調崩していませんように。

 

思考の道筋

 

 

 

どれだけ善解しても今が続くだけ。

 

 

昨日は蒼では頭が冷え過ぎて普通の枕で就寝。起きて体温を計るといつもの温度より1分下がっていた。流石の恒温動物。

 

稲刈りされた田んぼを横目にジャケットを着て出勤。気が早いことで次のピンクの絨毯を想う。気温が下がるのは動く分には良い。汗をかかないように歩くということをしないで済む。調子乗ってスピードあげていたら滲んできたが。動かない分にはすぐ冷えるデスクワークの昼休み。芯まで冷えて食後の缶コーヒーはあったかいでちょうどよかった。

 

お月様はやはりお綺麗。同じように帰途につくビジネスマンは誰一人気付いていないように見える。月なんか見上げてないで生活の向上を考えろとこれだけのほほんしている様を発見されたら言われそうだが、人のパフォーマンスが最も高まるのは適度なリラックス状態だと思われる。無駄なことが目に入るという自分の余白に気付けるのは、状態としてはよろしい。プレッシャーかかると視野狭窄になるし、必要なことすら見落としてしまう。

 

先週何日か、通勤路の公園に保育園のバスが停まっていて、園児に「走れ! 走れ!」と怒号が飛び交っていた。学校は良いところだというのが一般だが、個人的にはもう二度と行きたくないかな。貴方の為だって言いながら義務に浸らせるのだから。仕事は自分で決めて、きちんと対価が返ってくるのだから、ぜんぜん違う場。まぁ社会の縮図としての義務が子供は勉強であるというのはまぁ分かるが、これは中身を習得させるというより、「時間をかけた」という社会全体の免罪符みたいな感じがする。義務に馴染める人を選別するという意味合いもあるのかも。ぼろくそ言っているがそれくらい遅れている分野だと思っている。

 

高度経済成長期みたいに、社会全体がやった分だけ返ってくるみたいな風潮だったら問題はない。もしくは元寇までの封建社会の戦争で勝った分だけ土地が入ってきて報酬にできるとか。

 

あんまり知らんけど。

 

 

さておき。

 

冒頭に戻ってきて。いまが続くだけと書いたが、折に触れて「世界ってこんなんだっけ?」と変化を感じるから、続く「いま」は今までの今ではないらしい。

 

本日の葛藤は、毎日こんなにぼーっとのほほん生きていて良いのか、何か落とし穴ないかというところと、宵顔さんが僕に懐いてくれていると捉えるのは都合良過ぎないかという常識からのブレーキ。

 

僕はあまり常識という言葉は遣わないのだが、法律学でいうところの「社会通念」みたいな意味合いにしている。一般の人であれば、こういう事態に対してこう認識してこう行動を取るだろうというような、無意識の社会版という感じ。

 

ただ、よくよく考えるとこういうのは今更さらさら。

 

信念が細胞を変化させるとか、憤怒が腰痛として体に現れるとかも僕はそうだろうなと素朴にありうることだとできるが、社会通念はこれを正としないだろうし、何かを記憶するためには義務的に負荷をかける必要があるという正も僕はあまり信じていない。

 

仕事中にことさらぼーっとしているのは、自分の中でやった感とか努力した感を自覚するよりも、緊張をしないようにした方がきちんと問題に向き合えるところ。まぁ、ぼーっと宵顔さんの存在を意識していたのは否めないが、この人は存在として全然邪魔にならない。

 

あとのほほんしていても、自分が何をしているのかはずっと意識している。意識って一般的には行為の後に過去形として認識されることだが、いまどうか。歩いている時には歩いているからだを意識しているし、月を見ているその月を意識する。写真を撮るときを継続している感じ。写真は空間を切り取るのではなく時間を切り取るのだという「考える身体」のフレーズからすると、意識も時間を切り取っている。これをシャッター開けっ放しにすると、時間がほんとにすぐ終わる。ただ、1日が早く終わるということは、人生を退場するまでの体感時間が短くなることでもあり、ある意味生き急いでいるとも言えなくもない。

 

素朴な自分の範疇であればこんな風に社会通念とかなんとでもできる。どうでもいい切り取りでいうと、「スナダ」という建設会社のロゴが何故クジラの尻尾みたいなのかとか、公園の「トベラ」という植物の収集、道行く名も知らない木(サンシュユなのではと勝手に想像)に赤い実が付いているとか、ドラクエ6のチャプターの細かいところとか。

 

ただ、誰か具体的な人物と接する時には、素朴な僕の読み取りでほんとに接して良いのかの自信はなく、であれば僕の常識と相手の常識を見て様子を見ながら接するのが無難となる。僕の常識はずれ観は相手には当然読み取られそうだが、それでも社会通念に合わそうとする。これは常識で言うところの自信がないということか。

 

ただ、僕の人の外見の読み取りって、別に常識との答え合わせではないし、たぶん言語で表現したって当人も分かっていないところ。いや、発言したら自覚するかもしれない。エレベータの待ちで誰が乗っていることを意識していない立ち位置ですよねとか、ポイ捨てした煙草は誰が掃除していると思いますかとか。グレーで言うと、電車で優先座席に座る若者とか。別にけしからんとかではなくて、そういう人とは合いそうにないなというだけ。

 

あんまり細かく書くと細々指摘する姑さんみたいになりそうだが、あくまで読んでいるだけで、僕に合うようにしろとはならない。別にそれを見ることがストレスになる訳でもなし。

 

怒りだけはあんまり読まないようにしている。

負のエネルギーに当てられてしまうため。

 

常識外れだが個人的にしっくりくるフレーズ。「思考のすごい力」で「人間は環境の鏡である」。自分が自分で在るということを当たり前としているが、自分の思考様式、行動様式、言葉遣い、無意識に過ごしている限り全部、鏡だと思う。まず自我の起こりが反射だし。僕は自分が人の鏡だとずっと思っていた。ここまでは思っていなかったが、相手の認識の上限の中で僕が在る、みたいな。割と言葉遣い悪い環境に生きていた人が僕に対しては素朴に注意深く丁寧に言葉を扱ってくれるのは良きだったな。

 

僕の素朴な言葉遣いはここにあるように、まぁまぁオリジナル。母親と話すときは伊予弁みたいに話す。ここは発話とは別の文体。完全な文語でもないが。

 

そういえば、「クララとお日様」読了。美味しかった。

書かれてないけど読み取れる世界背景として、AFは子供が成人(18歳)になるまでの生育玩具という扱いで、物語の最後には廃棄場のシーンで座っている。情報漏洩とか考えれば、AFに意識を残したまま廃棄することなんてあり得るのか、いや、セキュリティは万全で情報の読み取りが不可なのかも。

 

面白いというか、人間の真理だなと思ったのが、この前書いたときに読んでいたところでは、クララ(AF)は人を学習し続けたら人をコピーできるという認識だったのが、最後には、人はどれだけ学習してもその先があってコピーはできない。その先には関係があるみたいに結論付けたこと。昨日の日記みたいであり、「うしおととら」の「とら」が人間を学習した結論と近い味わい。この美味しさはこの読書経験をしてきた僕にしか味わえないから、あんまり言語化はできない。レシピを語りだすとキリがない。

 

この後、大学教授が評論を書いていたのだが、読書感想文みたいだなという感じ。たしかに僕も劇評の時は同じような文体で書いていた。だいたい書き方が決まっている。物語の背景とか、何を書こうとしていたのか、まとめみたいな。

 

そうじゃないという素朴。自分が何を感じたかが全て。フォーマットに合わせて書くより困難だが、僕は劇評のフォーマットに合わせつつやって感じはある。感じに全振りすると文章として成り立たないのだが、土台があればなんとかなる。全部振りしたもの自分のページから世界に投げたいところ。

 

その本を読んだことがない人でも読んだことがある人でも読めるような中庸。

 

ともあれ、人を常識で捉えなくて良いというは若干解放感がある。

 

まだまだだわ。

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

にんしき

 

 

 

昨日まではカーディガン羽織ると暑いくらいだったのにTシャツにパーカーを重ねても肌寒い。本格的に秋ですな。気温が下がらないと紅葉も色付かないし、個人的には寒さは静かさに近くて好き。静かさにも音がある。雪が降る音とか。

 

夜が早く来るようになるとお月様とのタイミングも合いやすい。雲が少なくてなかなかの露出度。堪能させていただいた。

 

 

こんな感じで、本日はニュートラルな世界。ぼーっとしているが、世界の変化を意識している。

 

ただ、せっかくのカーディガン、洗濯ネットを使用することを失念してダメージカーディガンにしてしまったこと、外に出るときにプライベート用マスクではなく仕事用マスク(配給されている)を着用しようとする。無意識にコントールを握らせると、僕のはポンコツだから碌なことがない。

 

ここで無意識について考察。無意識は今まで脳が収集した反応パターンの束だが、ほとんどが「大丈夫だった現実的行為」なのだろうなということ。めちゃくちゃざっくりいうと、死ぬ危険がないとか、社会的立場を危うくすることも社会的な死にはなる。そういう振る舞いだから、初めてのこととか、これからのことには対応できない。「思考のすごい力」でも、無意識は現在の反応をどうするかしか見ていないと書かれていた。

 

この無意識的な行為の振る舞いは制御しようとしても駄目で、こつこつ意識するしかないのだろうな。自分の体がこれから何をしようとしているかを意識で見る。まぁ無意識にポンコツ感を抱かない人はそんなことする必要はないが、意識的なタスクをするときでも無意識が構築した行動様式は当然出てくる。

 

行為の蓄積が存在であるとするのであれば、行為をしない方面に働く無意識はどうにかした方が良い。ただ、「思考のすごい力」もエピローグになったが今のところ書いてない。

 

これが書いているのは、自己観とか世界観の更新の方。こちらも当然無意識が構築した領域の方が広く、統計的に有意な水準になってくると、心理学とか行動経済学の観測対象になってくるのだろうな。「バイアス」がそう。やっかいなのは「確証バイアス」で、判断に迷ったときに、周りが正しいとしているものを選んでしまうというもの。これって無意識が世界を収集する機能の1部だと思う。自我も世界観の1種で、自分とはこうであると周りに決められたことが確証バイアスになる。自分で決めた自分ではないという違和感があるとすればここ。誰かの他愛ない心無い言葉や振る舞いこれを形成することもあり、なかなか恐ろしい概念。

 

個人的には、自我って現実的な「もの」ではないからあまり決めなくて良いのではと思う。肉体と等価のものみたいに捉えがちなのは、唯物史観の影響なのかな。別に無理に決めなくても在るものだし、ものである必要もないし満足の対象でもない。

 

どうでも良いが、僕は我ながら知性も感性もないとしている。悟性はあるのかもしれない。知性は分けて決める能力で、僕は全然決め切れていない。感性はどういうものなのか認識できていない。世界を捉えるものさしという意味ではもちろん自分のだが、自分がどういったものさしなのかが分かっていないし。

 

人の知能の決定要因において遺伝子は37%であとは環境の方が強いとか。特に、胎児期の母体の影響。ストレスに置かれた体はストレスホルモンが血中に流れていて、胎盤を通して胎児に流れる。ストレスホルモンは成長・促進ではなく、危機回避のために緊張状態になる信号だから、胎児もすくすく育てない。僕は知能もないと思っているが、なんだかんだストレス耐性が強いのは、僕がお腹にいたとき母親は安心していたのかもなと想像する。跡継ぎである長男を授かって良かったみたいな。姉の時はどうだったのだろう。のちに面と向かって産まない方が良かったという発言が出てくるくらいだから、環境としてのがっかり感はあったのかもしれない。

 

知能がないというのは本当に思っていることで、これがほんとにあったらもっとこの社会で有用な合理的な選択ができていただろうなということ。ただ、ほんとに素朴な自分が求めるものを選択できているという意味で悟性はあるのかもという次第。

 

「思考のすごい力」で、筆者が講演をしたとき、最後に「1人1人は自分の人生に責任がある」と言ったら、自分の人生がいかに不遇だったかを語りにきた人がいて、「気付いた後には」という訂正をすることになったとか。たしかに、信念で世界が変わるとか言われても難しいよな。今までの自分はなんだったのだって。これも人生を物みたいに捉えている結果だと思うが。

 

「もの」という無茶苦茶難しい哲学本を読んでいる。「もの」とはそもそもなんなのだということを哲学的に本質まで遡るという、興味がなければ一生縁がなさそうな本。まだ早そうだが、僕の素朴なものさしがなんであるかが少し解明されるというシンクロニシティ

 

ものには潜在的傾向が含まれるのかという議論が書かれている部分。馬は早く走れるというと能力だが、走っていない馬の「もの」性の中に早く走れることは含まれるか。怪我をして早く走れないとしたらどうか。

 

ふと、宵顔さんに対する私信で、僕は可能性的世界に生きているということを書いたことを思い出した。宵顔さんを使ったセルフカウンセリングみたいだが、この人全部きちんと自分のものさしで捉えずに聞いてくれる。コメントはないのだが、それも良い。(好き)

 

そうでもなく、僕が捉えている世界の「可能性」は、現実離れした遠い未来の空想を含むということではなく、潜在的性質みたいな意味合いなのだろうなと断片がかちりとはまる。例えば、液体の水は「いま」は液体でも冷凍庫に入れれば個体になるし、火にかければ水蒸気になる。これらは知覚としては全く別物だが、全部おなじ「もの」。

 

これを人に引き直すと、人は可能性しかない。もちろんいやおうない変化としての経年もあるが、そうじゃなくて、行為の継続による変化とか、意志による習慣からの離脱とか、世界に対して唯一自由な存在。この存在として捉えたとき、相手が「自分として捉えている自分」も可能性の一部でしかない。

 

僕は可能性的な自分の存在の変化をモニタリングしてきたから、人のこともそう捉えている。ここになると人は物体ではなく、エネルギーというか波みたいなものよな。どういう存在なのかという波長。役に立つとか知識を更新してくれるかどうかは材料にならない。

 

世界にしてもそう。自分の認識が変わるだけで見え方がガラッと変わってしまうという意味の可能性の世界。確証バイアスは見たいように世界を見ることで、こういう風に見ている限り世界は1つの物体みたいになる。

 

意識はバイアスだとしても、世界の波に影響を受けられるのが人間。

こういう意味でも人が影響を受けうる最大の対象は人。

 

キルケゴールさんも人間が至高なのは、絶望する可能性があることとか言っている。でも現実的に絶望することはいけないらしい。ややこしくて癖になりそうな文体。

 

スケールが大きい話なのか小さい話なのか分からないな。

まぁ現実ってそういうもの。宇宙を観測していたら原子より小さい量子の世界と繋がるとか。

 

認識と知識の違いについてお月様を眺めながら思索していた帰り道。

 

無意識が肉体的な有用性をものさしにして世界を収集していることからすれば、知識を頭に残すためには有用性を刻み付けないといけない。これが忘却曲線とか、頭で覚える前に体で覚えるのだという世界観。忘れたた死ぬぞというストレスをあえてかけるみたいな。

 

僕は知識を積み上げ方式みたいにできないと書いたはず。世界が細かくなるだけ。これは知識ではなく認識なのだろうなという感じ。認識は、世界はこうなのかというピースがはまるだけであって、決して新規のことではない。

 

例えば、法律学で言えば、法律のルールで社会が動いているということ自体は体に馴染んだ現実であって、理念的な学問の世界ではない。あと、ほんとの当たり前だが、街が綺麗なのは掃除している人が居るからとか。こういう認識もない人が多い。昨日の川の画像の場所、地面に目を向けたらやたらと吸い殻が多い。御苑は凄い意識が行き届いている。

 

僕はおそらく、もっときちんと世界を認識したいのだと思う。ここには自分も含まれるし、人のことも含まれる。僕が生きてきた世界だと、人って自分のことが見られたいだけで他人のことはその範疇だけの存在だった。逆から見ても自分は他人から見てどうかという存在になる。

 

こういう世界の見え方は、無意識の構築から当然なのだが、だとすると、僕の素朴が捉える自分とは無関係な有用でもない世界ってなんだろう。という素朴な疑問。スーパーの店員さんの雑談模様とか先輩男子が良いお医者さんに当たっていますようにとか。元恋人さん達も、もはや僕には無関係だが勝手に幸せを祈れる。

 

本の師匠が評価した、貴方は読む人というのはそういうことなのか。

師匠まだ人生劇場続いているだろうか。

 

人の見え方もなんだか変わってきていて、有用性なぞどうでも良く、当人がどう生きているかに目が向いてきた。もっと早くこれだったらとは思わなくもないが、だから宵顔さんを見つけられたという向きもある。

 

人が何を意識して生きているかは別に話さなくても見ているだけで読める。発話の方がきっとノイズが多い。文章の方が本質に近い。

 

うわ、いつの間にか長くなった。

 

早番なので早く寝ないと。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

迷子

 

 

なんかすこしばかり悲しげな変な感じ。

欲しがってしまうのはいけない。感情の復習か?

 

 

昼過ぎに出発。電車から見下ろした田んぼは綺麗に刈られていた。やはり昨日のうちに終わったのか。阪急電車が想定外の人の多さ。座れなくて本を読むことも景色を眺めることもできなかった。しばらくして座ることができたが、本を読む感じでもなく、早々に閉じて車窓から移りゆく景色に傾注する。雲間から差し込むお日様の光は線が延びていて神々しい。田んぼはほとんど刈られていて、何か黒かった。焼くのだっけ。歩いている人も多かった。セイタカアワダチソウを認識したからやたらと目に入ってくる。

 

河原町について地下を歩いていると、あぁここ大学一年の頃に高校時代の同級生と映画館デートをしたところだと思い出す。何番出口だったかまでは残ってないが、自然とそちらに歩いていて、目的地とは反対だった。観た映画はミリオンダラーベイビーという女性ボクサーの話だったかな。その後たしか飲むとかもなく帰ったはずだが、何か恋愛相談みたいなものを受けていたようなシーンが残っている。人を好きになるとは何かが分からないって。デートなのに。笑

 

地上に出たらさらに大混雑。駄目だ、しばらくこの界隈には行かないようにしよう。人が多いところが苦手なのは、歩くペースが合わないのがまずある。もちろん遅く歩くことはできるが、遅く歩く方がエネルギーを使う。丸善も人がかなり多く、大型古書店で見かけて良い人数の許容量を超えていた。買いたいと思っていた本はあったが気が散ってしょうがないため、早々に退却。

 

人が居ないところ、広いところ、と、京都御所まで歩く。鴨川もどの方向見ても人だらけ。御所もたしかに人だらけなのだが、広いぶん少し楽になった。巨木の松と銀杏とミドルタッチ。

 

ただ、人が見あたらないところに行きたく、車窓から見た草ボーボーの川なら。そちらに向かいたい気持ちと裏腹にまた反対に歩いていて、余計に地下鉄を使うことになった。

 

こちらの川の方が静かで好き。(本日の画像)

手入れがあんまりされていない。草の匂いでむせ返る。これ、行政学的なフィールドワークからすると滋賀の観光地でもあったな。人が来ないから手入れに使う予算が回せない。

 

観光の人は居ないが、生活圏の人の散歩ルートらしく川から反対に目線を向けると何かしら人はずっといて、きちんと自然と同期できなかった。選んだ僕も僕だが、川の彼岸は宵顔さんの生活圏で、会いたくなって困る。(ちなみにもちろん会えるような立ち位置には居ない)

 

まぁ、ストーカーになれる程暇ではないし、生活圏に近いとか、この時代に生きていていても、時間と空間の座標がぴたっと合うって奇跡のようなものだから、よほど運か縁がないと起こらない。居たとしてもあの雑多なところで見つけられる自信もないが、もう3、4回は見ているから、無意識が捉えるような気もする。スーパーの店員さんが私服でその辺歩いていると分かるし。

 

川から駅までのルートも別の道を辿っていたら、迷子になった。行き止まり多すぎ問題。何か大明神と書かれた提灯を見かけて、異世界感はあった。そういうお祭りの時期なのだろうか。

 

という、総括すると「やたらと迷子になった日」だった。

 

ぎりぎりの曇天で、折りたたみ傘をリュックに入れることも抜けていたからどうなるかなと思ったら、最後のスーパーに寄った後のあとは帰るだけという時に降ってくれるという優しみ。ゆっくり帰ってもよかったがあんまり濡れるとおまもり代わりに常備しているピンク、青、黒本が読めなくなるから走りながら帰った。

 

雨といえば、長く過ごした恋人さんと初めて会ったときも雨だったな。その時点で恋人だったから、足回りずぶ濡れでホテルに駆け込んだような記録。

 

会わなくてもわかる、わかられる人が在るというの素朴に戻る復習みたいだな。

僕が読んでいるのは、世界の現実とされているものではない。

 

自然の中で人が視界に入ると煩わしいのは、人は自然ではなく自分ルールで動いているから。そのルールを読み取ろうとするシステムが働きだす。気にならなければ人が動いている光景は景色の一部でしかないのだろうが、そこまで人に対して薄くないらしい。

 

僕は人が自分とは無関係に好きなのだと思う。だから、見てしまうし波長を合わそうとしてしまう。最寄りのスーパー店員さんの人間関係上手くいっているのかすら気になっていて、雑談しているようだったら大丈夫、うまくいっているなとか。どれだけ仕事が遅くても仲間だし、というどこ目線か分からない安心感。

 

ちなみに、僕の職場はあまり仲間感がない。無駄に雑談する感じはなく、先生の話題だけが純粋な雑談感はある。先輩男子と女性上司はあれだけ無駄な雑談していたのに、先輩男子にとってこの場は安心ではなかったとかとなると、会話量と安心度は全く相関しないらしい。

 

もちろん、ホルモンバランスと色々原因はあるのだろうが、楽しそうに仕事しているように見えたのだが。これ穿って考えると、僕の存在が何か影響していないかという自虐思考も芽生えなくもない。

 

なんだか薄っぺらいことしか話さない人というか、自分が認められてなんぼの人だとは思っていた。一生懸命自分の立ち位置を守っている人。もちろんそんなことは発言しないし、僕は雑談嫌いだから、仕事中に誰かと無駄に話すことはあまりしない。

 

何かこの人のバランス崩してしまったのではという勝手な負の観測。

まぁこの時代当たり前が崩れたから、いつ精神バランス崩してもおかしくなくて、こちらの方が要因の可能性としては強かろう。

 

潜在意識と顕在意識の話。

 

いまこの瞬間の外界の検知はほとんど潜在意識がやっているらしい。そうやって形成した反応パターンがあるから、スマホをいじりながらでも歩けるし、意識しなくても日常は終わる。

 

で、このパターンは全力で外界をインストールする幼い時期が支配している。この時期は観察するだけで習得できるらしい。人のしぐさとか言い回しをほとんど何の意識もなくトレースできるのは、そうしないと生きていけないから。

 

その後に自我が生まれる。

 

で、面白いのが、胎児の時の環境もいずれ自我になるものに影響しているというところ。

自分の名前が体を現すというのは、もしかしたら名付けについて話し合っている環境を最初にしているからかも、僕に限定すればそうかもしれない。

 

僕の名前って、父親のも母親のも名前を継いでいない。ついでに、名付けた祖父の名前すらない。長女の名前は父親の1字を取っているのに。どういう話し合いが起こったのかは知らないが、おじいちゃんのグッジョブのおかげで、今の僕の人格上の悠々自適さがあると想うと、子供の名前に自分の理想を付けるというのもいかがかということになる。

 

おじいちゃん、この漢字どこから持ってきてくれたんだろうな。もう聞けないし、聞ける人、父親の妹さん達ならあるいはだが、嫁に行った人がこのエピソードを知っているのはなさそう。

 

僕は自分の本名は姓も氏もバランスも良いと思っている。

 

氏だけ開示しとくか。「悠」です。まさに名が体。

 

姉がこの漢字を子供に付けるって相談されたとき、好きにすればと言ったのだが、なんでこれを付けたかったのだろう。どこかで生きているだろうからまだ聞けるが、聞かなくても良い。要は僕の存在のような子供になって欲しい。あれだけぼろくそ貶して打ち付けたのに。

 

ぼろくそ言った人が僕に一目置いているところでいうと、中学の同級生で、何か夜の仕事をしていた人が居た。本名は祐介なのだが、源氏名は悠介という。

 

まぁ字面自体がカッコイイというだけという説もあるが。

語義は、ただふわふわしているという、良い意味も悪い意味もない。

 

まさに名前通りの人になっている。

 

ただ、揺蕩う。

 

どうでも良いが、今の時代の本名を開示すると何か悪いことが起こるというのは忌み名を知られると云々と近そうで面白い。

 

特定されて後ろ暗いことは書いてないから僕は大丈夫。

ストーカー云々も宵顔さんは読んでいるし。読んでなお読むほどの情報価値が僕にあるとは思わないのだが。

 

何も分からないまま退場するのだろうな。

この虚無を埋めるのは、楽しさしかない。

 

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良いハッピーを。