ばいおりずむ

 

 

 

 

雨が降ると紫陽花は元気そうだが満月さんが物憂げ。雨に忌避感というか嫌悪感があるのは、服が汚れるとか手荷物が増えるという社会レベルではなく本能レベルなのかもしれない。ゴリラが雨を嫌がる動画を見かけた。体毛が減った恒温動物にとって体温を下げる外界の条件は避けられるならなるべく避けないと体温維持に無駄にエネルギーを使ってしまう。あと気圧と血圧の相関関係もありそう。

 

ここにも特に教訓めいたものはない。本能レベルだろうが社会レベルだろうが、影響を受けるのは仕方ないというだけ。そういえば社会レベルだと一昔前、僕は飲み会を断れないというのがあった。良い人戦略というか、特に他に優先することがないのに断るのはよろしくないという義務感。もっと昔だと告白してくれた人に悪いから断らないというのもあった(恋人さんが居ないとき限定)。

 

 

そんなこんな2人して遊びに行って凱旋。夜ご飯は出前でステーキとハンバーグ。ベビーリーフとビールはスーパーで買ってきて、ついでにおつとめ品のラディッシュを簡単に甘酢漬けにした。2人して汗だくになりながら(含意はない)、お風呂で読書。満月さんは村上さんの街と壁の新刊を読んでいた。洗いっこして出てきていまに至る。

 

 

さておき。

 

岡田さんが、2023年現在、20代の男性で彼女が居ないのは普通であって、居るのが変だから居ないことは全く問題ないということを語っていた。なるほどたしかに前の職場で鬱っぽくなってやめてしまった20代の男性も恋人は居ないらしかったし、それでも趣味を楽しんでいる感があった。

 

別にここは優越感めいて書く訳でもないし、別にパートナーを自慢する訳でもない。たしかに僕の20代の時代って、俺の恋人の方がお前の恋人より可愛いとか、硯の彼女は可愛くてずるいみたいな言説があったような。こういうのには付き合えないなと素朴に感じて居たのだが、社会がそうである以上、そうじゃないよねとは言えない。僕は別にお金は持っていなかったが大学院に行っていて司法試験を経て法曹になる可能性だけはあったから、女性側としてもステータスにはなりえたから、需要はあったと思われる。それ以前の高校とか大学においては、外面という需要という可能性。知らんけど。

 

で、もはやこういう考え方が通じなくなくっているという話。自我と社会的立場は割と直結していたけども、現代はネット世界が発達したから、自我がどうも薄くなっている。何処かの場所だけで存在できていたとしてもそれだけでは安心できないからパートナー関係は安住の地ではなくて、コストの方が上回っている。

 

いや、岡田さん曰く、2023年現在でも誰かの恋人になる為には、その人の知り合いに自慢できるような人物にならないといけないという感じだったから、僕の論はここからはズレている。僕だったらこういう風に選ばれるのは願い下げ。付加価値なく選ばれた方が面白い。岡田さんもなんだかんだこの社会の成功者だから、視点が微妙に違うのだろうな。

 

独自の視点だと、若者の恋愛離れは恋愛の概念が社会的にほとんど一意になっている窮屈さがあると思う。読書離れと近くて、なんだか良いことだとされているというか、人格的に発展になるという風潮。たしかに人と物理的に近いところで関係することは色々起こるけども、これによって他人と接するのが上手くなるなんてことはないと思っている。どちらかというと、ここで分かるのは他人ではなく自分の存在だから、恋愛経験が豊富だからといって、他人のことを慮れるようにはならないという解釈。

 

豊富な人ほど自分にとっての相手しか語らないのが証左だと思われる。1人目はこうで、8人目はこうみたいな。

 

で、社会自体が一義ではなく存在の拠り所があんまりない現在だと、誰かと関係する前に自分の存在の薄さを自覚しているから、特に自分を分かる必要がない。

 

そうして、人のことを識るという人生劇場の醍醐味においては、自分が登場せずに勝手に他人のことを読めるSNS世界がその欲求をカバーしている。社会という生の肉体が動く劇場だと人は自己保存の防衛本能もあるし、人の振る舞いの中に当人の本質はほとんど出てこない。人の中身という意味では、他人の日記とか表現の方が剥き出しだし、憲法上の表現の自由も人が肉体から離れた内心(思想・価値観)を吐露することで法的な不利益がないことを保障しているし、直に接するよりもナカには近そう。

 

ナカでも集合しないといけないというのはなかなかだが、中にはそういう人も居るのは分かる。僕は別に居場所としてここを遣っているのではなくて、遊び場として動いているだけのこと。

 

 

文学理論の話って書いたっけ。

 

フロイトさんの精神分析と文学解釈が繋がるのは何か違和感があったのだが、なんとなく分かってきたという話。何か当人の理屈に合わない文章を読んだ時、その言葉には当人の精神構造にその理由があるのではないかという解釈をする。これがカウンセリングであれば当人の発話とか行動をその根に向けて解釈しながら当人を回復させようとする。文学であれば太宰治精神疾患があったみたいに他人事にする。

 

ここからシュールレアリスムのあるがままを見出した一群の人達は慧眼。

 

 

ともあれ。

 

こういうのって他人を読むときには普通に行われている気がする。この人は普通だとかあの人は異常だとか。この解釈のとき、自分がそもそもズレているかもしれないということは考えない。

 

 

読み進めている本の中に、村上さんのアンダーグラウンドがある。面白い。あんまりおおっぴらに言うと不謹慎だと言われそうだが、個人的には不謹慎という概念は近いだけという感じがあって、なんとも言えない。だって、突き詰めるとご飯を毎日十全に食べられる時点で全世界的には不謹慎だし、結婚式をやっている場所から離れたらどこかで告別式がされている訳で。

 

村上さんが追求しようとしているのは世界の位相みたいなことで、善悪の次元ではない。実際刑法上の犯罪については激しい怒りがあると書いている。2023年という遠くなった僕からだともはやあまり怒りはない。当時もニュースでやっていたが、ニュースに憤るってあんまり意味が分からなかった。今もニュースは見ないし、ニュースって感情を一義的にこうあるべきだって煽ってくる閉じたところが嫌だった。食卓でこれを語るとしてもまずは怒りとか同情が前提になる。

 

僕が大人になってまず分かったのは、大人は物知りではなく、知っている領域にだけ詳しいということ。僕だって未だにほとんど分かっていないし、一生全部は分からない。

 

し、別に分かりたいがために世界に生きている訳でもない。本を読むのも満月さんと一緒に居るのも単に楽しめるからであって、知識とか頭が生き生きしているのも副次作用。

 

楽しいは存在に対して全く寄与しないのが良い。

この次元で僕もそろそろ他の軌道があるかもしれない。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

だれか

 

 

 

作り過ぎたチキン南蛮。タルタルソースを追加した方がいいだろうか。満月さんが帰ってきたらレンチンして中にも火を通す。揚げないチキン南蛮のレシピを参照したが、小麦粉がなくて片栗粉で代用しようにもこちらもほとんどない。徒歩3分のコンビニで片栗粉を追加。正味、最寄りのコンビニは、店長さん以外水準がそんなに高くないような気がする。あんまり強く言えずに1人でやっちゃう人なのだろうなという解釈。良い店長が良い職場を創り出すとは限らない。

 

コンビニ仕事論。僕は大学時代コンビニで3年程働いたからコンビニの仕事の暇さ忙しさは経験済み。コンビニ店員の水準の高さって、正確性は最低限だが、なんというか、自分が品出しのタスクをしていても店内に居るお客さんがそろそろレジにやってくるという空気を読むことだし、自分でさばききれない量のお客さんが来たらバックヤードで飲み物を補充の仕事をしているパートナーを呼び出してお客さんをさばく判断ができること。いや、こんなのどんな仕事でも同じような気がする。僕が無能だと判断された仕事はいくつかあるのだが、できないことをできるようになる暇もないし、マニュアルがないのに不文律があるとかそういうところ。

 

 

 

さて。

 

チキン南蛮はあんまり作らないからなかなか時間がかかった。これは果たしてチキン南蛮なのかというと定義的にはなんとも言えない。状態的にはおそらくそういう味になっているはず。酸っぱさに黒酢を使えるってなかなか上品に仕上がっていると想像。

 

そういえば、昨日の人格は状態であるという話。もう少し細かく言語化しないと誤解を受けそうだなと考えていた。文字文化って誤解しか起こらないから別に問題はないのだが、僕の中での定義の区分けみたいなところは書いておいた方が面白いだろうなというだけ。

 

人格は性格とも近いところで、どれだけ長く過ごしたところで状態でしかない。かといって、僕が人をこんな風にころころ移り変わる(もしくは習慣化された現実)として見ている訳でもない。例えば前の職場の同期はお花を摘みに席を離れる際、自席の椅子を下げたまま仕舞わない。僕が観測した限り例外は無かった。女性上司がしれっと締まったのは見た。これが人格であって、たぶんまぁまぁ甘やかされてというか、自分の世界だけで生きてきた人なのだろうなというのが読み取れる。もしくは集団生活をしたことがないのか。別に違法でもないし、倫理的にアウトでもないというところにこそ人格が出る。

 

送別会で、先生に「親切だけど冷たい」という人格評価をしたのが、先生は特にこれを悪口とも捉えなかった。こういうのが人格の話。

 

おそらく通常の人間関係ってこういった人格同士の状態の交流だから、そこで不具合とか齟齬が生じる。満月さんも、昨日の食器を片さないところの下りを「どこかで見て来たのか」と、僕が愛想を尽かせることを心配になっていた。たしかに、僕が人との関係を人格という状態の交流で捉えたら、減点が積み重なってでは離れるかとなるかもしれない。

 

ここは、要は量的な関係。量的に自他を捉えることは個人主義に適っているような気がするけれど、こういうのってパートナーがいつ自分より良い人に移るかもしれないという不安と、もっと自分にとって良い人が居るという野望が相俟って、ホッブズさんではないけれど自然状態っぽい。あんまり人間的ではない。

 

人間の醍醐味は外界を時点の瞬間で捉えなくても良いということ。減点方式でも加点方式もよろしくない。もっと時間も空間も引き延ばしたのが人だろうという概念が「存在」。

 

人格が更新されない人はこの水準だと退場した人だが、ここだけで人を捉えることからは進化している。元恋人だってそう。これは人格が相手の世界で更新されているという中間領域だけど、ほんとうに更新しようがない人だって存在としていっぱい残っているのが人の存在。

 

僕の世界から退場した人でもっとも人格交流したいのは父親。これは別にフロイトさん流の精神分析の父性とかではなく、単純に子供として遠慮していない自分と当人で飲み明かしてみたかったなというだけ。ここを語ると、早くに父親が亡くなってお気の毒みたいな一般的な解釈がされるからあんまり言わないのだが、単に存在的な興味だから父子としての関係の話ではない。

 

こういう意味で、どこかに生きている僕と関係してくれた存在の人々の動向はまぁまぁ気になる。存在としていまどういう風に生きているのだろうって。

 

まとめると、人格は関係している他人から見える現象で、存在は見えないところも含めたその人。時間の流れでいうと、人格はいまとか進行形で、存在は時間とは無関係に普遍的。人格は僕にとってどうかで、存在は僕にとってとは無関係という感じ。だからこその人。

 

これ、意味分かる人どれくらい居るのだろう。

 

 

どうでも良いいちゃいちゃ。

昨日日記を書いたあと、熟睡でぐーすか寝ている満月さん。頭を撫でてもぐーすかの音量が変わらなかったので、接吻をしてみた。「うへ」という声と伴に少しだけ音量が収まった。音量を収めるためにしたかった訳でもない。

 

こういうのって。昨今の「性的同意論」からすればもってのほか。どういった関係だろうと同意がない性的接触は赦されない。他人に接吻したら強制わいせつ罪だし、寝ていて意志が消失している人は他人扱い。

 

もちろんこれはこれで問題ない。社会(刑法)の問題を俎上に上げないといけないような関係は構築していないので、たぶん元恋人さん達は僕のことを存在としても忘れていると思う。

 

存在は無意識の領域でもあり、酔っぱらいの領域でもある。

ここには特に論理が無い。最初に満月さんに逢ったとき、寝ながら抱きしめていたとのこと。大丈夫だと捉えたのだろうなと解釈するしかない。まぐわいはなく。

 

性的同意論って、社会的に拒否できる立ち位置を確保したいというのが滲んでいてなんとも言えない。ほんとに極致の犯罪めいた領域であれば同意が問題になるはずもなく、なんとなく雰囲気でそういうことになってしまったという中間で、私(もしくは僕)は同意して無かったという保険を確保したいみたいな。

 

まぁ、あんまりここに居る感じもないから、ここを大事にするのもよく分かっていない。

生理に他人を使うとかそれがないと自分の存在が軽んじられているとか。何それ。

 

 

 

 

最後。

 

お母様印の梅酒が濃くてうまい。

 

 

社会性の話で、おそらく少し前の動画で岡田さんがマスクはパンツみたいなものだと言っていて、僕もそんなこと書いていたなぁって思いつつ。自分の為に装着するものではない。相手にとりなんとなく安心させるためのパンツ。

 

あと、良い人戦略の話が面白い。

良い人にならなくても良いけども、良い人に見えるようにするのが合理的。嫌な人であるという合理性もかつてはあったというのが面白い。

 

マスクはパンツだが、悪口は放屁みたいなものだというのはやや分かりつつ、悪口がほんとに生理現象と一致するのかというは無いと思う。僕も満月さんもぷっぷーしているが、それは生理現象だからなんもない。生理現象を我慢しなくて良いのが我が家。

 

でも、満月さんが一方的に誰かに悪口を言ったら、それは放屁よりはしたないことと窘めるような。正しさに固執している人はきっと僕と生活できない。

 

悪口は放屁より良くないこと。報酬ホルモンが発生するらしいが、対価は何もない。報酬に集まってくる人とだけ関係が広まるだけ。だから集まりって基本的に嫌だ(経験則)。

 

誰かの汚点しか言わない人より、美点を語る人の方が読める

この誰かは当人も含んだり。

 

 

梅酒が濃厚に響いているため、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

変型

 

 

 

無職なのに寝不足とは如何。

 

 

早めに目が覚めてカルピスを飲んでごそごそしていたら、満月さんがお弁当を作って欲しそうにしているものだから、米を洗って吸水しつつ漫画を読み、吸水が終わったら鍋で炊きながらもう1つのコンロで卵焼きを作った。メインと副菜は昨日の生姜焼きとブロッコリーの小エビ和えが残っていたからこいつらを使う。感想は梅干しうめぇだった。スーパーで買った安いのだが、かつお梅に間違いはない。

 

まったりダイエットをするとのこと。できるだけ協力というか、日常食に関してはローカロリーでいける。僕が毎日作っていた名も無き料理群は和食が主の居酒屋の箸休めメニューみたいなのだらけだし。

 

あとは心臓疾患の人が手術に備える野菜スープは常備しようかなという次第。基本レシピはセロリ、ピーマン、キャベツ、玉ねぎ、ホールトマト缶、スープの素なのだが、本質はキャベツ、玉ねぎ、トマト缶、スープの素であってあとの苦みは自由な気がする。ピーマンはともかくセロリは高いこともあるし、香味野菜であればなんとでもなりそう。本日は悪くなりそうなやや黄色くなっているセロリがあったからそれを使った。余った野菜をアレンジで使えるというのが良い。ブロッコリーの芯の部分を使い途にもなるし。

 

ご飯にかければ健康雑炊になるし、ちょっと味を加えてトマトパスタにもできる。

米が補充されたから、ご飯を毎日鍋で炊くのも良い。最初はぐずぐずになったが感覚を掴めてきたから、料理に合わせて炊きあがりの固さを変化させるのは鍋の方が自由度ありそう。炊飯器だとセットすれば終わりだから楽だがつまらない。このつまらなさが分かるためには鍋で炊くという新生活がないといけないという。

 

色んなことをやってみたら良いという話はよく聞くけれど、独立して新しいことをすることは場面展開でしかなくて、戻った後でも新しいことが導入されるというのがあるべき姿なような。

 

いや、リフレッシュするために新しいことをしているのだから人格には導入しないという固持的人格は分かるのだが、それだと共同生活ままならん、もしくは人間関係もか。

 

満月さんの話。こんなこと問答するまでもないし、特にイラついていることもないのだが、随分と素直になっているのだろうなという感じがある。実際はどうでもいいのだが、おそらくずっと食べた食器をシンクに片付けろみたいなことをお母様に言われていた気がする。そうして反発して置きっぱなしにしてもお母様がなんだかんだ片付けてくれていた、みたいな。

 

本日お弁当の容器をシンクに置いておいてねと言うと素直に片してくれた。良いことしたという次元ではなく、僕と居ることで変化したっぽさが素晴らしいなと。実際洗い物をし易いようにシンクで水洗いしておくかとか、シンクに洗い物を溜めておくかとか、合理性で言うと、きっとほとんど変わらない。日常的に料理をしていれば洗い物はしないと次の料理ができないし、細々片付けても一気に片付けてもトータルで言えばとんとん。

 

細々片付けておきたいのは単なる僕の気分であって、別に正解でもないから特にどうとかはない。合わせて欲しいというのもない。毎日していくのであれば昨日が残っていると面倒なというだけ。面倒さはどうあっても取り除けないのは確かだから日常ではなるべく減らした方が精神エネルギーを遣わない。

 

 

ふと思った。大昔の高校から大学1回生辺りの1ヶ月でフラれてきたきた何人かの彼女さん達って、彼女達と過ごした時間の中で僕の変化がなかったところにあるのかもなって。それが合わないとか、考えていることが分からないという評価になる。もう少し考えると、他人に存在として屹立するほどの自分が無かったということになりそう。女性であればむしろここはある意味美点になるかもしれない。僕個人の話ではなく一般論。僕に合わせるだけの女性性は個人的に好みではない。

 

 

なんだか本日の文章はいま流れている食戟のソーマのアニメに寄っているような。経験を自分に集約するとか。影響受けやすい。笑

 

 

やれやれ。

 

幸せは定義ではなく状態であるという回答と一致するのが岡田さんというのが面白い。条件で幸せになれるのであれば世の中幸せ者だらけだと思っていたから、やっぱりそういう風に考える人は居るものだ。

 

これを進めていくと、自己という概念もトータルで時間を引き延ばしていけば定義付けられるように想える。普通はここを他人とは切り離された自己とする。僕は常態として接する友達もいないし、これこそが自己だと定義したくなりそうなものだが、いやいやそうではないとしている。だからもともと在った自己の定義外に動けているし。

 

こんなこと誰も言わないはず。自己は幸せと同じように定義ではなく状態でしかない。細かく言えば、体調悪い時にはとげとげになるし、他から来た虫の居所の悪さを他の弱い人に発散したり、気分が良くなったらどうでも良い人に慈悲深くなったりする。

 

これを言わないのは、人格は個人として確立して独立だというふぃくしょんというか理念があるから。自分を顧みたらそんなの創作でしかないというのは分かりそうだが、自他は分けないといけないという理念もあるし。

 

満月さんは僕の反応が薄いと不安になる感じ。

これも状態なのかなと想う。余裕があれば、本日しれっとトイレ掃除と床と階段に掃除機かけたことも気付きそうだもの。やったことを認めて欲しいみたいな子供じみた感覚はないのだが、見える視界って状態によるよなぁという感じ。

 

翻せば、僕が見えないところでいろいろやってくれている人が居るのが見えなくなるのが状態の悪さ。世界が狭くなるのは視野が狭いのではなく状態が悪いのではという仮説。

 

いま状態が悪いのかというと、肌が微妙に荒れているし隈も出ているから、寝不足ではある。

でも、寝不足でも満月さんにお弁当作れるし、お風呂読書もできるし、ここで文章も書けることからすると、日常に影響はなさげ。これだけできていれば就職しても問題はなかろう。

 

(ほんまかいな)

 

なんだろうな、この感覚は個人的に大事。

他人に自分の状態をしん酌して欲しいというほどの起伏はないのだが、他人の状態の起伏をあんまり気にせずに本質を読めばよかろうなというある意味の安心。

 

こんなこと言いながら、定義していこうとする試みも大事とは思うのだが。

 

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

過渡

 

 

 

 

国産豚肉の生姜焼きをほおばる満月さん。副菜はブロッコリーの小エビ和え。味付けはごま油と塩のみ。おつとめ品のベビーリーフはなかなか苦い。

 

 

さておき。

 

日中は時のオカリナをやっていたのだが、早々に詰んだ。ボスに勝てないのではなく、どうやって進めたら良いか分からない。まだ序盤も序盤のゴロン族の所のところ。実況動画は見たことあるのに覚えていない。おそらくあっさり進めるところだから。グーグル先生に聞けば一発に違いない。ただ、攻略情報を見てしまうと途端に作業と化して萎えるのが経験則なので調べてはいけない。

 

啓発本とかSNSのお得情報もある意味人生の攻略情報っぽい。萎えないのは人生をどうやっても作業に単純化できないところか。

 

吉井由吉さんの「杳子」という小説を読んだ。生活の手順がズレてしまうと混乱してしまうということを病質みたいに描いているが、結構普通のことな気がしないでもない。顕微鏡くらいのレンズで微視してしまうとそんなところ省略とかすっ飛ばしても問題ないのに、となるが、これだけ極端ではなくても全くマイルールがない人なんて居ないだろうし。

 

いや、たぶん「杳子」の読むところは習慣に固執しているところではなくて、もっと文芸的なところだと思う。官能性とか。本日はたまたま繋げて書いただけ。

 

岡田さんが文芸とエンタメの違いを書いていた。エンタメは表現されているものに伝えたいものが内包されていて、文芸は読み手が自分として考えるように開かれている外包みたいなニュアンス。内向的と外向的と同じように特に優劣はない。あるのは好みだけ。

 

 

さておき。

 

というか、ここ2、3日の文章って読めるようになっているのだろうか。いつも気にしていることではある。とはいえ、合わせて書くなんて今更できないから、気にしたところで仕方ない。

 

という感じで進めていく。

 

 

昨日の何故という問いに対して答えにくいなということについて更に思索迷子していた。何故の問いに回答が難しいのは、何故の起点からは時間的距離が離れすぎているから。普通の人間の感覚において時間と距離はほとんど量的に同等だと思う。何故を大事する人は起点からずっとここまで続いているみたいなことが人の成り立ちであるという経験則があるのだと思う。別にそれはそれで良い。

 

これってどれくらい好きなのかという量を聞かれることとも近い。量的な感覚は比較的、相対的なものであって、質的な比較対象がないところでは意味をなさない。2次元的な距離は量で測れるけど、質は高さになって別次元。

 

ここで考えたのが、何故ではなく、どのように好きなのかと問われたら紫陽花についても答えられるよなということ。咲き始めると顔が綻ぶし、咲いてない植物形態であってもそれが紫陽花と分かるくらいには好きですみたいな。あと種類の名称もだいたい分かりますわとか。ついでに2日前に名前を追加できるくらい。

 

どのようにと言う問答形式は、距離で言えば0の話。いまどうなのかということになる。0距離のところにこそ人が剥きだされるという解釈。何故は過去が重視されて、どれくらいは相対が重視されるけども、そういうことを言っている当人は果たして0距離でどのように生きているのかという話。

 

いや、僕はいま失業中でちゃらんぽらんしているから特に誰かに誇るような生き様でもないからなんとも言えない。別に仕事しているときでも劣等感も優越感も無かったから、あんまり関係ない。

 

本日はここまでかな。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

満ち欠け

 

 

お母様から心臓外科手術の前に急速に減量する時の野菜スープのレシピを伝授されたので早速作った。満月さんを心配しているから作ってやってくれとのこと。

 

ほとんど野菜とホールトマト缶の味で、申し訳程度にコンソメ味。あまりに薄くてコンソメキューブをもう1個追加した。食べる野菜スープ。実際だと炭酸ジュースを飲まないとか、バナナとこのスープだけの日があるとか精進的な制約もあるのだが、そこまではしない。

 

昨日焼き鳥パーティーをしていて残っていたハツを茹でてきゅうりと和えたのと、だし巻き卵でタンパク質も補給していただく。

 

 

炭酸ジュースと言えば、今朝コンビニに行って無糖で果汁のみが入っている三ツ矢サイダーがあってレジに持っていたら、店長さんにそれあんまり美味しくないですよと言われた。無糖だから通常の三ツ矢サイダーをイメージしていたら味が甘味の落差が凄いのだろうと解釈しつつ、買うのをやめはしなかった。甘味がなければカルピスの原液加えればよかろうし。実際に飲んでみたところ、普通に美味しかった。そのまま飲んでも甘味はあるし、寧ろスッキリした味を求めていたから問題ない。店長さんは親切で言ってくれたのだろう。有難い。ただ、味覚というのはかなり個人的な領域であって、自分の美味しい不味いが他人と一致するとは限らない。

 

満月さんがこの前作った豚肉の野菜炒めをあまり食べなかったのは国産の豚肉でないと臭みがあるからあまり食べられないとのこと。腐った豚肉の臭みは分かるけども国産と国産以外の匂いはあまり分からない。ここで思ったのは、せっかく作ったのにということではなく、次からは気を付けよう。匂いの感覚だって個別的。レンチンご飯のプラスチック臭が鼻に付く人も居た。僕にはそこまでの嗅覚は無さげ。意識していけば分けていけるのかもしれないけれど、ここを分けられるようになったところであまり試行にはならなそう。

 

 

さておき。

 

本日は凄く眠かった。ここまでお昼寝をしたのは久々。昨日の日記にエネルギーを使ったとも解釈できるし、エネルギー消費の筋肉痛みたいなことかもしれない。

 

家制度の話って、別に何が正しいとかではなく、肌感なのだろうな。肌感というのは考えるまでもなく、そういうものだとできるということ。僕の肌感としては、先祖代々のお墓を実生活の中で大事にしないといけないというのは、何か変だなという感じ。宗教における信仰は内心ではなく行動に係るから、何かを想っているということが外(現実)に出てくるようにしないと想いではないというのも分かりみ。ただ、それを守ることってほんとうに大事なのだろうかって。家系は最小単位の社会なのか。お母様に硯家はどれくらい続いているのだと言われて、たぶん結構永いのだが、その永さは僕個人とどれくらい関連しているのかが分からず答えに窮する。

 

たしかに人って個人では生まれてこれらないし、人格だって何某かと繋がっているものだけれど、その情報と実際のその人のいまってその繋がりをどうしてきたかの結果だから実際はそんなに繋がっていない気もしていて。それ通りにすることと反面教師にすることの他にどっちでもないということを獲得していることもありうる訳で。こうなっている人に社会的経験則を当てはめるのは失礼に当たりそうな。

 

もう1つ答えに窮したこと。アジサイが好きだと言うことに対してお母様からなんで好きなのと聞かれたとき。何かを好きなことに他人に合理的説明(言語化)をすることを求めていないから、好きなことに理由が要るのか? となる。何かを好きだということには理由があるというのは、なんとなく心理学寄りの考え方な気がする。

 

山育ちだから紫陽花という物体自体はずっと見えていて、それが好きな物として認識された時点というは確かにある。直近の元恋人さんと万博記念公園の紫陽花祭りに行って、硯さんってガクアジサイぽいなと言われたこと。ただ、これで好きになったのかというとかなり微妙なエピソード。これを言っても良かったはずだが、そうすると心が残っているのかと解釈されそうだし。ずっと目に留まっていたが意識されない存在が認識されたエピソードというだけ。

 

相手がどう解釈するかなんて意識していたら、人には何も語れないよなぁと若干諦めたことによって、まだ言葉って拡がっていくよなという遊びの部分。誰のことも気にしていない自分の言葉がほんとに在りうるのかというのはかなり深刻な命題だけれども、そういう言葉を見つけていく時期なのかもしれない。

 

 

という感じで言えば、好きであることを共通項として説明する言葉も準備はしとくべきだろうなと思う。実際にどうかは不可知だが、なんでそれをやっているのですかと聞かれた時に、一般心理学として納得できそうなストーリーを創作しておくという感じ。辻褄が合えば相手は納得してくれる。

 

 

相手が生活外で何かをしていることの理由が気になるのって、おそらく当人のことを把握したいという動機からであって、宙ぶらりんな事象より、理由付けとのセットの方が相手のことが残り易いということなのかなという仮説が浮かんで来た。個人的にはそういうところはあんまりない。説明されたら事象より動機の方を重視するけれど、実際に見ていると動機はそんなに稼働していないことの方が多いような。動機はあくまで言葉だし。

 

 

満月さんに現を抜かしてしたから昨日より文字数が少ない。

満月さんが半月さんになったらもっと少なくなる可能性もある。三ケ月さんになったらどうなることやら。

 

アイス食べて寝ましょうかな。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

愛とは

 

 

 

2日分。昨日も充実していて書くことはできたのだが、それより眠気が勝る。無理はしない質。無理矢理何かを続けようとしたところで僕の場合は碌なことが無い。

 

 

 

1日目まとめ。

月さんの実家にお邪魔してまったりしてパグのお散歩に行き、大量の夕ご飯をいだいて満腹して帰った。気を遣わなくて良いとはいえ、他人と過ごすのはそれ自体でエネルギーを消費する。消費しないとしたらその相手はきっと人ではない。

 

 

 

細かな話。

 

お母様と書き続けるのもアレなのでそろそろあだ名を考えないといけないが、相性はきっと悪くない。特に自分を出しても引かれないだろうから、特に無駄に発言をしないでも良いという感。家族制度が離れていっているのを自覚しながら、今後をどう考えたら良いかというのは、今までの誰より参考になる意見だった。旧来の家制度の繋がりと、そこは要らんよねという感覚を埋める筋みたいなところ。

 

実際、家制度の親戚の集まりは幼少期に経験していた。祖父が退場する前は毎年親戚筋が集まっていて、男の兄弟がいない僕は1つ下の従弟がやってきて遊ぶのを楽しみにしていたし、別の家だが無条件に繋がっている人達という感じで楽しかった。どれだけ父母がギスギスしたとしても、その場ではうやむやになるという意味ではイベントでありオアシスであったとも言える。

 

だからと言って、血縁が良いとはならなかったのは、大きくなるにつれ大人の本音(特に母親)の本音が見えてきたから。祖父が退場したら、集まりというのはとんとなくなったし、父親も退場して、父方の親類と母親の対立に母親の親類が助勢するみたいな構図ができていて、そうはいっても一番近くて仲間なのが親族よなという感覚が学習されなかった。むしろ、結び付きがたまたま血族ないし親族であるという人間関係は、社会的に離れにくいだけでなんとも脆弱な関係なのだろうと解釈している。

 

この意味で、婚姻もそういうこと。もう離れないという意志の確認という意味で喜ばしいこという視点が一般だが、普通の恋人関係とか同棲関係より社会的に別れたときのダメージが強いとされているという意味で離れにくいということが含意されている。意志さえあれば離れられるのだが、離れにくさで持続を保っているというのは結構ありうるはず。

 

こういうことまでは語らないが、お母様に籍を入れる意志はあるのかということを聞かれた(2回目)。これに対してどっちでも良いですと答える僕はなかなかと思うが、満月さんが補足してくれる。ずっと一緒に居る気があるのかという問いだったらはいと答えますよって。その通り。これに対して、私はその答えで問題ないが、一般的な社会ではそうは見られんよって。このバランス感覚はとても良い。たしかにそうだなって想うし。

 

社会的なフィールドって、社会的なポイント制みたいなところがある。学歴が東大より結婚の方がポイント高い視点は当然ありうる。結婚していないとか、もっと進んで子供が居ないと参加できないフィールドもあるし。

 

これくらい止揚的な考え方を持っている人が親であればうちの家族もまとまって居たかもしれない。我が家の母親、誰かの立場を慮る考察を述べたことがない。あくまで自分の視点が主人公の人。いや、周りが遠回しに見て来た結果かもしれないから、僕がもう少し世界をぶっ壊さないとなというのはあるのだが、なにせ接するのが疲れる。

 

 

なんか凄いのが夕食の中華屋さんの食卓。

傍目から見ると無茶苦茶ギスギスしている。

 

僕はこの家族一様に好ましいというのは前置きしておいて、大食いの弟さん(あだ名は勇者とするのでここからはこれで)が、お母様とやり合っている。

 

勇者の理屈として面白いのが、お母様が勇者の頼んだ炒飯を1口頂戴って言ったとき、「貴方が頼んだかた焼きそばをお父様の方に回しているのに、それでも人が頼んだ料理を食べようとするのは違うよね」みたいな理論。これって屁理屈だという言う人も居るだろうし、当然だと思う人も居るかもしれないが、僕としてはそんなのどっちでも良いじゃんという感じ。お母様には僕の食べかけの炒飯をよそってあげた。僕としてはほぼ満腹だったからむしろありがたい。

 

自分が頼んだものに食べる権利があるという理屈と解釈してみたところで、お金を実際払ったのはお父様だから、法的な意味での所有権の話ではない。食い意地が張っているのか、潔癖なのかという解釈はともかくとして、お母様もそれを通常営業としているし、家族全体がそこに頓着していないことになんとく愛を感じる。それぞれ相手に気を遣わない自分の人生劇場で生きて居ながら、根っこは相手の欠点をともかくとして尊重しているという感じ。

 

何か良いものを見たなーとまだ残っている炒飯をもしゃもしゃしていると、友人語りをしていた勇者が、硯の友人話はないのかーと振って来る。友達を断捨離した話を聞いている満月さんとお母様が、この人話題にできるような友人関係ないからと返してくれる。

 

友達とのエピソードを語っていることは話題にはなるし、あの友人がどうこうみたいな話は場を繋ぐ話にはなるけれど、ほんとうに当人の話になるのかというのはとても微妙。僕が話そうとすれば本の話とか花の話とか森の話とかなるのだが、前提が共有されない話題で会話のネタにはできない。

 

僕に現在友人が居ないのもてきとーに流されるのがこの場の面白いところ。仮に僕に友人が居たとして、その友人の話を話をしたところで前提がないからきっと聞き流される。親の話がお母様に聞き流されないのは、記号として近似しているからであって、友人は記号として近似されないから固有名詞が優先される。満月さん一家は記憶力がたくましい。

 

 

勇者はおそらく僕に若干興味がありそう。それは僕も同じくらい興味があるからであって、2人きりになる場があればもっと話すことはあるかもしれないと思っているから。そこであった個人的やり取りは満月さんにさえ伝播させないはず。

 

満月さん一家は傍から見ればなかなか喧嘩している感じだが、一本筋が通った愛があるのだろうなという感じで心地良いという話。この愛は我が家で言えば父方と母方双方のお祖母ちゃんの感じと通底する。孫だからという眼鏡があるにしろ、微妙な色合いがあって、母方の祖母が僕を優遇する意味は特にないから、ほんとは母親より先にこっちのお祖母ちゃんに紹介したいのだが、あとあとその事実が発覚したら母親がぐずるのは分かり切っている。何事も自分を通せよという感じなのに関門が狭いんだよなぁ。

 

感謝の色眼鏡がないのは、僕の感謝は物理的な生存ではなく変化に寄っているから。僕に対して何を発言したのかというは子供だったら誰でも親の発言を覚えているだろうが、あんまり無いのだよな。個人的には、ちゃんと姉も妹も褒める発言を僕の耳に入れてくれていたらとは思う。この人にとって愛ってなんだろうって。自分を犠牲にして対象に費やすことが

愛だとすれば、他人はきっと褒める対象ではないというのも分かる。愛の範囲内だから。

 

 

 

やれやれ。

 

1日目の話に比重を置き過ぎたから、2つ目が少なくなってしまう。

 

本日は満月さんがかなり早く終わりつつ、勇者に64とゲームキューブを借りてきてゲームパーリー。人生ゲームで最後のギャンブルに勝って1人勝ちになった。楽しかったが勝ったところ別に面白くはない。

 

いちばんしたかった64スマブラのケースには何故か時のオカリナが入っていて、進めてみたがかなり難しい。指と脳にラグがあるのがゲーム下手。僕はそこまで反射神経がないのに64スマブラを今更やろうとしているという。ちなみに、肉体的全盛期と反応速度は変わっていないというのはどういうことなのか。肉体的全盛期にドンキーコングとかスーパーマリオワールドのスターロードのふーせんステージにあくせくしていたし。

 

それでもあんまり不器用ではない領域もあったり(どこかはここでは書けない)。

 

 

本題というか、考察ステージ。

 

 

岡田さんがベーシックインカム奴隷制度だと解釈していた。なかなか現実として理に適っている。能力がない人は最低限の収入を得て遊んで暮らせよという世界になるとか。でも、別にバイトとかはできるだろうしその場は能力問わずだからあんまり関係ないようなという気もする。誇張して語るのがエンタメだからそれはそれで良かろう。

 

で、岡田さんはベーシックインカム制度ができて1人で生きられるようになったとて、1人で居ることが不安で安心できないから、職場は無くならないだろうなという話をしていた。1人で文章を書いたり絵を描いたりして一生孤独に生きられる人はそうそう居ないって。

 

人と繋がっているから安泰であるという感覚はいまでもであるだろうし、これが勇者がはなしている近場の友人の話題でもある。

 

あぁ奴隷だっていうのは、この制度で遊んで暮らせると思っているけども、俯瞰的に見ればそれは安心ではなくて、それしかできないという不安の裏返しの不自由でしかないという話。

 

岡田さんすら語って居ないからほんとにタブーなんだろうなと思うが、不安を解消する為の不自由としての奴隷みたいなことは全世界的に喫緊に経験してきたことだから、ベーシックインカムで人が不自由になると語られたところで、今までもあったことだよなとしかならない。

 

能力がない人は自分を労働させて更なる収入を得られない世界が推進されるという理屈は分かるけど、その欲求はメタバースが吸収できそうな気がしないでもない。バーチャル世界においては肉体的社会的ハンデは問題にならないし。ここは参与意志至上主義だろうし。

 

それよりも、生活が忙しいということに燻って居る自由になりたりたいクリエイターが世界に顕われてきた方が、観測世界においては面白そう。それでしか生きられない人はどうあれ表現するだろうが、それをしなくても生きられるけども、時間があればもっとできるという準備がある人が稼働できる。

 

 

実際どうなるかというのが分からないのが社会制度だから、ベーシックインカムやってみれば良いと思う。それで社会がどうなるかは運次第。

 

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

自在

 

 

 

本日はこのあとあぶく銭で焼肉を食べにいく。満月さんの仕事終わりまで時間が限られているためインプットのお風呂読書とアウトプットの漂流文とどちらを優先するか。考えるまでもない。インプットは本を読まなくても生きていれば途切れることはないが、アウトプットは意識しないと行われない。言語化をサボっても思考はしているから内的世界は恙ないが、前者の方ではもう少し遊べそうなので試行していきたいところ。

 

前菜のビーリーフサラダをお供に。

本日も気が向いたら読んで下さいませ。

 

 

さて。

 

午前中は相変わらず岡田さんの動画などを見ながら洗い物やら考え事などをしていた。岡田さんは自覚あるサイコパスであって話が上手い。プレゼンは相手の心を動かすことだというのも良かったが、Twitterが炎上するところと学力低下の話が組み合わされている話が面白かった。読解力とかの言語能力って一定不変で上げるのも下げるのも難しいとのこと。それでも下がっている理由は何か溝が形成されているとか。学校のお勉強をする前にどれだけ本を読んでいるかに依るということだが、僕は本を読んでいた記憶がない。

 

Twitterが炎上するのは、論理的な文を読めない層がいるとのこと。たしかにあんな文字数制限で論理展開をしようとしても難しそう。ただ、岡田さんの公平なところは、論理の壁を越えられない層は気持ちで表現する層で、論理の人は逆に気持ちの理屈が理解できない、この壁をインテリは馬鹿の壁と呼称したりするが、これは気持ちの壁であってどちらがどうということでもないとバランスを取っていること。

 

そういえば、僕はどちらかと言うとどっちつかずで論理というより単なる徒然した取り留めない思考派。かつてミクシィに真面目に文章を書いたとき、その時生活圏に居たカップルの女性は何を書いているか分からないと述べ、男性は、俺は分かると述べた(特に何か感想がある訳でもない、知ったかぶり)。論理展開で読めるような代物ではないような気がするから、どちらもなんとなくズレている。世界線が違うので縁が切れてしまった。理解的な読み方で読めるような文章はそうそうない。というか、誰が読んでも完璧に伝わる表現は皆無だろうと思う。この辺は文学とか記号学がやっている。

 

 

論理的な文章は理解し易いけれど、論拠とか前提がそもそもよく分からないからそこを共有していないと読みにくい。法律の条文とか説明書とかは論理の極致みたいなものだが、正確な論理を追求すればするほど読みにくくなる。丁寧に読めばきっと理解できるのだが、そのコストをかける意味があるのかという感じ。

 

気持ちの壁の方は、特に文を負わなくても良さげ。言葉より空気感を読めばよい。こちらの方が文学寄りだと思わなくもなくもないが、だいたい身内にしか通じない。

 

伝播性でいえば論理的な文章の方が普遍性はあるけれど、読み手に気持ちの壁の人がほとんどだということからすると、気持ち的に文章を書いた方が読まれやすいのだろうと思う。

 

内心の言語化のススメという話もあって、言語化できるようになるためには言語化するしかないというトートロジーみたいな。好きとか嫌いとかは評価であって言語化ではないから、何と似ているかを考えてみるという話。

 

個人的にあんまり好き嫌いはどうでも良いのだが、とりとめない感じの言語化はもっとやった方が良いのかなと想っていたりする。ツールとしてTwitterは良いのかという感じだが、かつて一瞬棲息してみたとき、目まぐるしさに辟易した。コメントきたらちゃんと返さないといけないのかとか、ローカルルールがどうも分からない。まったく誰もフォローせずにただ垂れ流すというのはアリそう。

 

 

 

目まぐるしいといえば、本日の現実的な迷子。

 

気になっていた近所の山の公園に行ってみることにする。歩いて行くものではなかった。ベンチが置いてあって歩道の整備ができているところもあったのに、その先は誰ひとり歩けないというか歩いてはいけないという雰囲気。白線が途切れていて行き止まりが満載。近づいていくと鯉の釣り堀みたいなところにやたらと人。釣り好きのメカニズムはあんまり分からない。狩猟本能の名残かと理屈付けてみたところであんまり意味がない。鯉を釣ったところで食べられないだろうし。

 

もっと先に入口が見えて、もっともっと人が多かった。自然に触れたくて公園に行きたいのに、人が多いところだと空気を読みまくってゆっくりできないわとなる。自然公園というより公園モール感。そこから山沿いに迷子してみたが、息がつけるような森はなかった。人工の自然、というより開発された自然という感じ。ちょっと息が抜けたのは神社から住宅街に抜ける道。人がほとんど居なかった。ただその先も行き止まりが多い。抜けられそうな匂いを醸しながら抜けられない。行きつく先が誰かさんの家だと単なる不審者でしかないからこういう道を歩くのは怖い。蛇とか蜂とかより人間の領域の方がよほど怖い。歩いていたら知らぬ間に不法侵入になりうるのが恐ろしい。

 

トータル、山成分も森成分もあんまり採取できないという。まぁこの街、川が綺麗で亀だらけだし、紫陽花も生き生きしているから普通に歩いているほうが自然成分を吸収できる。

 

土地の所有権って、子供の頃にやっていたバリアの陣地とあんまり変わらないような。

 

 

 

やれやれ。

 

 

ここから少し取り留めない思索の話。

 

読書をするときに内的に音読されるのかというテーマがYouTubeで流れていた。この文章を読んだ時に何か流れてくるだろうか。僕もなんらかが流れてくる派。ただ、音声なのかというと微妙。小説は音声プラス情景のシーンが出てくる。だから言い回しをコピペとかできない。抽象的な文章は音では遅いから言語の塊だけになる。文字は対話じゃないのだから、都合良く読むに限る。

 

あと、僕は人でなしなので本日スロットであぶく銭を稼いできた。このあぶく銭は満月さんのたんぱく質になる予定だから問題ない。いや、楽しかったが、楽しさの層で言えばもっと面白いことがあるだろうからそのうちここは終わる。

 

僕が人でなしという部分はともかく、利き腕のことを考えた。スロットっておそらく右利きにとって都合が良くできているというところ。お構いなしで左手の自動性を追求しながら打っていた。利き腕じゃない方って、バランスを取っているだけではないかって。

 

ここで、この前さわやかハンバーグを食べるとき、フォークとナイフってどっちがどっちだっけとなっていたことを想い出す。箸の扱いならともかく、フォークとナイフ程度であればどっちでもできるようになっているから、何が正道なのかに混乱する一瞬。対面の満月さんはやや両利き傾向だからあてにならない。箸は利き腕の左だがフォークとナイフはおそらくどっちでもできそう。

 

ここからさらに発展して、義務教育の中で利き手を矯正するというのがあったのも、工業社会において並列にする為だったのではという仮説が浮かんできた。社員食堂で利き腕がちぐはぐだと困る以前に、扱う道具を一定にした方がコストかからないから。ハサミとかテープとか。

 

まぁ、右左が分かるのって、よく使っている方と使っていない方みたいな感覚のような気もする。お箸を持つ方が右で茶碗を持つ方が左とか。

 

 

この話がなんぞやというと、自己の中にある当たり前のほとんどは自分が決めたものではないということ。

 

とすると、自分が口下手だという世界観もそういうことかもしれない。

相手のことを無駄に気にしない方が言語表現できるのか。自分の世界を相手に伝達したいというもの欲しさは全くないし、伝播するのが普通だろうという感じだし。

 

したい人は好きなようにできるのが現代社会だから好きにすれば良き。

美味しかったら勝手に読みます。

 

言語化は別に自己開示でもないのだよな。

自己演舞の方が近そう。

 

明日は満月さんの実家に行って遊んでくる予定。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。