憤怒

 

 

全く必要じゃないのに全てを求めて良いのか。

 

 

 

引き続き本日も夢からえらく怒ってはる。

 

家賃も諸々も払ったし、リセッシュの詰め替えとマスクの予備とシェービングクリームも買ったし、食べたいと思っていた納豆もオリーブオイルと塩とわさびで食べている。しいて言えば蒸し焼きようのアルミホイルはなかったが。そういう問題でもないらしい。

 

ただ、存外すっきりしているという不思議。

 

夢。引き続き、新しくない方の実家みたいなところで、親戚筋というか同年代の姉、妹を含めた従弟達が、僕が居ない場で僕のことを嬉しそうに語っていた。発話者はもちろん姉。「仲良くなった人とダンスをしていたんだよ」と。ダンスなんかしたことないわ。その後、その場に居合わすのだけど、同調しようとして拒絶される。そうしてイライラしてふて寝して夢は終わる。

 

こうやって夢は終わったのだけど、自分の意識の一部にひたすら怒っている部分が可視化される。不機嫌では全然ない。外交上はむしろ余計に元気だった。現在進行形で在るのだけど、自分の右側に自分に向けた純粋な憤怒が居る。

 

まぁ精神分裂とかではく、「喜」があるなら当然「怒」もあるよなという感じであり、僕の一部なのだけど、あまりに看過し過ぎていたカウンターなのだろうな。

 

昼休憩くらいまでは、この憤怒は他人に対するイライラどころではないなと恐々としていた。これは分裂ちっくだけど、その部分をつついてみたら、やたらめったら言葉遣い悪くわめき散らすの(頭の中で)。うるせーとか、俺はなんたらかんたらとか、わー(叫び)とか。ほんとに対話できる。めっちゃ反応早い。「すべてがFになる」が想起される。

 

思わず、グーグル先生に憤怒について聞いてみたら、臨床心理学の論文とか、すでに持っている「心は何故腰痛を選ぶのか」とかが出てきた。臨床心理学の論文で罪悪感とセットのようで、まさにそうだなと思った。ちらっとしか読んでいないけど。

 

あと憤怒と侮蔑を切り分けているというブログが出てきて、なるほどなと。

 

この憤怒の感情、自分にしか向けられていないのだけど、侮蔑ではない。むしろ、侮蔑をしてきた自分の罪悪感に対してかなり立腹されている模様。うるさいけど怖くはない。自分を否定することに怒ってくれているって、良い奴じゃんと。

 

なんとなく現実化してしまったけど、こんなのは本来無意識化で統合されている訳で、おそらくそんなに不思議なことではない、はず。腰痛の本でも抑圧された怒りが無意識に収納されて痛みという現実になるということだから、精神とか意識とか体の領域ではこんなこと茶飯事なのでは。

 

で、僕の憤怒は、世界に対しては怒っていないらしい。夢には像として色んな人物が出てくるけど、結局はその時の自分がどうだったかということを問題としている。確かに人は世界から影響を受けるけど、自分にもっとも影響を与えるのは自意識だよなと。年中無休24時間体制で影響を与え続ける。

 

変な話、ずっと自分を守らなかった自意識に対してそうとうに腹を立てているみたい。

 

じゃあほんとにしたかったことって何なのって問うても、知らん!って返されるのだけど、悪くない。というか、僕の中で一番善きものなのではと思う。

 

虚構ではないけど証明不可能だからこんな話は誰にもできない。決めつけられた像で接されたらこいつが自覚的に活躍するかもしれん。まだよく分からないから、地道につついていく。これが守護霊というやつか?(飛躍

 

ともあれ。

 

本の話。

 

徒然草からの黒猫さんの流れはとても美味しい。

 

徒然草は、物に付着した過去へのわびしさを書いていた。その時の自分への回顧。

 

 

「テクストは読むものではなく、読まれるものとして創造された言葉。」

 

芸術家は他者性に辿りつくための精神の昇華のために薬物に手を出したというのもなんとなくわかる。俳優とかもそうかも。鑑賞者は生活もちゃんとある素朴な人格として芸術の他者性を一方的に食べるわけで、そうやって他者性を食べていたのに、その中にいる個人がどうのに影響を受けるって矛盾している。

 

でも、このSNSコミュケーションがそもそも他者性の関わりにもなるのか。自分も他者として良い、みたいな。

 

で、他者性で考えると、僕の演劇も感想文も全然主観的ではないなと思った。これは自分を他人事にしている訳ではなく、主観的に世界において言語は要らないのだから、そもそも他者性が前提とされている。僕にとって読まれるものだけど、別に僕だけに読まれるものではなく、創作者も含んで。

 

結果がどういう風に見えたかたと、どういう建築工程だったのかを見るが重複した感じ。

 

あと、ゾクッとしたのが、「言葉で書かれたものは現実を書き換える」というフレーズ。

 

これは個人的にはまさに在ることで、言語化したことを明日の現実にするとか、あるいは言語化することであえて現実化しないとかもある。

 

で、別に僕の言語と現実の関係はこれで良いのだけど、影響範囲を考えると、誰かの現実も書き換えてないかという可能性。

 

確かに言葉は遣い方によっては自他をマインドコントロールできるものだし、言葉自体が現実の一部ではありうる。

 

あぁ、だから箱なのか。言葉にしたものは自分に返って来る。

 

僕は言葉で自分を決めていなくて、言葉は自分の表現くらいな意味しかないのだけど、言霊的には反響してしまうのはしょうがない。

 

では、おしまい。

自己分析(深)

 

 

「どこまでも見通したいと思える人間の前で、謎を保有し続けるなんて不可能に近いよ。」

 

 

今日は大変だ。

 

さておき。残りのかまぼこは万願寺唐辛子とごま油、ほんだしでレンチン煮。かまぼこの味が濃いと思っていたのは板わさの思い出だったのかもしれない。ちくわの方がよほど濃い。そしてじゃこ天はいがいがするという思い込み。ちゃんとする事務処理も1つ済ませた。保険の切り替えの時に漏れていた公課を一括で支払い。明日は家賃ともう1つ。これは毎月のやつだから遅れてはいない。口座振替にしたいのだけど、平日に申請の電話をかけないといけないという時代遅れな制度だからなかなか。でもこういうのもショートカットしていかないといけないとは思う。

 

確かに、これだけ目を開いて来たのにここが死角になっているということに疑問すら感じなかった。いや、億劫だからでしょ。で、済ませる程、微睡んでいないはずだろうよと。ちょっとした行為であとはしなくて良いのだから、毎日の弁当より確実に楽であることには違いないのに。

 

こういう地平に至ったことについて、人に対してちゃんとできるために自分のことをちゃんとするという迂遠なところからやっときたかとのほほんと思って居たのだけど、どうやらそうではなかったらしい。

 

今朝の話。

 

別に現実的に具体的な何かがあった訳でもないのだけど、個人的主観的にとても満たされて、これが自分にとっての「幸せ」で良いのではないかと思った。鼓動が高まるとかではなく、心臓辺りの感覚が物理的にあふれる感じ。

 

そうして二度寝に入るのだけど、姉、妹、僕が三人で蒲団を並べて寝ている。これはもちろん具体的な記憶としての姉、妹ではなく、精神に刻印された何かそういった像の集合体。

 

姉は寝静まって、妹と、兄妹らしからぬ親し気な会話をしている(これは幸せの方から引っ張られているのであって、現実の妹とそんな関係にあった訳ではない、念のため)。すると、いつの間にか姉的な像が起きていて、二人の肩を鷲掴み、「なんでそんなに楽しそうにしてんねん!」みたいなことを怒鳴る。形相がまさに鬼のようで、肩に残る感触とも相まって滅茶苦茶リアリティがあった。

 

僕はどうしたかというと、すぐ起きて、余韻に対してその怒りは自分の幸せに向けるエネルギーにしたら良いのにって姉的像に対して思っていた。そこからはうとうとしそうになるとこの像が近くなってくるから寝られなかったけど、まぁ良い。

 

これで生霊的なものを感じる程には呆けていない。姉は僕が世界から居なくなって随分すっきりしていると思うし、僕に憎しみをかける現実的な理由ももはやないだろうし。

 

ここからは個人的無意識の解釈になる。なんだか自分が幸せであることに対してかなりの反発があるようだなと。別にほぼ自家発電で、相手の現実にも関与していないのだからええやんと素朴な自分は思うのだけど、それでも自分が充足されることがお気に召さないらしい。

 

この幸せであってはいけないという自己意識を探るためには、具体的な記憶を遡るしかないだろうなぁと、自分の歴史との対話。

 

確かに、原初の辺りの小学校低学年くらいまでは妹とはまぁまぁ遊んでいたかなという気もする。まぁお兄ちゃんなので、無条件の信頼とまではいかなくても、まぁこいつは大丈夫だろうとは思われていた。ちなみに呼び名は「おにい」だったな。

 

翻って、個人的に姉には親密性を感じたことがない。姉として弟を守るみたいな精神性は全く感じたことがないし、むしろいつもなんだかんだ敵対性というか毒があった。

 

でも、なんとなく、姉が感じていた寂しさは理解できてしまう。「家」の中でも長男である僕が居る限り重宝されない。認められようと努力したところで、僕が居るからそれも無理だし、愛は末子である妹に注がれるし。それに加えて母親という大災害は真っ先に姉に向かうし大変だったろうなと。

 

こういう文脈で見ると、第二子に僕の名前を入れて大丈夫だったのかと思わなくもない。

 

ただ、理解できることと寄り添えることは別物で、おそらく僕の存在自体がコンプレックスだと思うのよね。

 

思い出すのが、母親と姉がろくでもない口論をしていて、〇はどっちの味方なのと言われたこと。そのときの僕は曖昧に濁してしまったのだけど、今ならどっちの味方でもないわって切り捨てたい。味方が居ることは自説の補強にはならんよねって。これは姉が僕のことに一目置いていたという証左でもある。

 

もう一つ別の線で、姉からも妹からも僕はひょうひょうと自由に生きていると観測されていると思われるのだけど、これは、今から思うと、そうではなかった。いつから殺したのかは分からないけど、自我を殺して、相手の世界から観測される自己像に自分を重ねることによって生き延びていただけ。

 

ただ、この世界には「僕があまり発話しない人格」だというのが付加されていたからとても楽だった。人間失格でいう意味には笑っていたと思う。ニコニコしているとか、造形のまともさとかでなんとかやり過ごしていた。

 

で、ここからの派生で、他人の世界に含まれたときにはそれを断ってはいけないという規範ができて。告白は断ってはいけないとか、飲みの誘いは断ってはいけないとか。

 

今思えば、家族親族と会うときはいつも緊張しているのだけど、そこには自分の人格像が規定されていると思い込んでいるからなのよね。

 

まぁ意味が分からないと思う。きっと自分のしたいことが先にあって、その後に天井というか壁を感じるとかが普通の人格形成だろうけど、僕の場合は、規定値があってその中での自由という意味。

 (実家に帰る度に、漫画で見た、蚤を小さな箱に入れるとその箱の高さまでしか飛べなくなるイメージが頭の中にある。次の日付記。)

 

こういう人格形成によって、主観的に他人は別存在だとなりつつあるのだけど、相手が自分を当人の世界に含んできたら、ではその土台で接しましょうかとなるのだろうな。

 

自分のほんとうにしたいことが分からないというのは別にどうでも良い気がする。高校時代の学部選びも文学部とか経済学部とか、やたらと色んな学部を設定していた。もともと自己観に注視していないから、渡り切ったとも言えるし。

 

ただ、満たされることに対するカウンターは別物だろうよと、きっと僕が僕であることへの罪悪感だろうけど、ここも気にしなくて良いよ、そんなに怒るなと自分を宥める。他人の世界での自分の異物感はあるだろうけど、異物のままで良いって観測してくれている人が居るじゃんって。

 

 

本日は、僕の個人的無意識からくる自分への憤怒との対話でした。

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

うろ

 

 

 

副菜のタンパク質、何かバリエーションあるかと検討していたら、かまぼこがあった。よく父親が板わさを食べていた。あと、シャンプーが切れたので見に行くと、メーカーも良く分からない、馬油と椿油とココナッツオイルの艶やかな柄のものがあった。保湿効果に優れているとのことでちょうど良かった。使い心地もまぁまぁ良い感じ。

 

かまぼこは味が濃いからどうやって調理しようかと冷蔵庫と調味料と相談しみて白菜とレンチンして昆布茶で味付けすることにした。結果、かまぼこなのに優しい味になった。なんというか、昆布茶漬け。

 

 

今日もいろいろある。順番が大変。

 

発端は昨日の恋文か。実際に読んでいるかも知らないのに、おやすみなさいと発信できることがとても嬉しいなと思ったら、顔が勝手に微笑んでいた。そうして、昼休憩の時に本屋に寄ったらまさかの黒猫シリーズの続編が出ていて、思わずにんまりした。あ、同じだって。

 

存在に接することができるという「喜」の感情。本は娯楽の消耗品であって存在ではないだろうという反論がありそうだけど、本だって書いた人がいる。自分が知覚できる人にも内心があるのと同じ。本も実物も自分に対する効用ではなく関係を食べるもの。

 

ついでに仕事でも笑っていることが増えたし、発話も若干増えたけど、これはまたちょっと方向が違う。なんというか世界に対する興味津々が解放されてきて、諸々の人や物事に気をかける。幼稚な精神性かとも思うのだけど、自分とは無関係の事象に自分事への関心より等価以上に心を傾けるってフロムさんの言う愛に近いような気がする。未成熟の時は自分に有用なものはなんだという自分の建築作業のための興味。

 

そんな奴居るのかという点で、毎日僕は前日の日記と恋文にツッコミを入れる為に点検する。

 

意図なく好意の表明をすることが本当に在りうるのかという命題。

 

好意の表明は歓心を買いたいという意図があるのが一般ではないか、そもそも、みたいに考えたのだけど、結論としては、僕がそれを表明することが嬉しいくらいの意図しかないなということになった。

 

これはこれとして、他人を気にかけるくらいには自分もちゃんとしようという方向にエネルギーが向かい、年末調整の書類がポストに入っていたからさっさと準備した。ちゃんとしてないと心に引っかかるよなって、宿題をさっさと済ますではなく、宿題が残っていることに心を傾けるのももったいない。この層にはまだいくつかあるからさっさと処理せねば。

 

面倒だからやっていないともちょっと違っていたのだろうな。と勝手に思っている(自分のことなのに)。

 

この日記の時系列の最初の方に、自分の精神の原型というか原風景みたいなことを考えたのだったのを忘れていた。スピリチュアルでも心理学でもなく、掘り下げていったらなんとなく分かるはず。僕は雲に憧れる樹木みたいな感じで、虚ろというとうか洞があるなぁって思っていたのだけど、空洞だから叩けば響くのだなと「喜」でかき鳴らされる自分を想ったのだった。

 

こういう今日考えたことを言語で再現できるのって、記憶力の領域ではなく「いまここ」だろうな。記憶だと今の自分とは関係ないことだけど、「いまここ」はあくまで自分の範疇であって、「ワーキングメモリ」がどこまであるか。一般的な語用だと外界の情報を処理するための刹那的な記憶領域だったはずだから若干ずれるけど、今の自分が記憶しなくても良い領域と考えるとまぁまぁ似ている。

 

さておき。

 

本の話。

 

徒然草はやはりどうしようもない。「風が吹かないのに落ちてしまう花びらのように人の心ははかない」というフレーズはとても切ない。この時代に死別よりも親密になった人が別の世界の存在になってしまうことのほうが寂しいという感覚。いや、今もそうなのかな。人は自分の世界から離れてしまった人に対しては生きていたとしても無慈悲だ。

 

僕も、累々の人達、関係と別枠にすれば定期的に気にかかるけど、また近くとかは思えないし。でも近かったからそういう感情になったであれば、それは近ければ誰でも良いということで、ノーサンキューで良いのかもしれない。

 

 

美学の本もなかなか響く。研究とは愛を持って対象にのめり込むことだとか。

 

あと、なかなかの爆弾発言。作中、ある作家が某犯罪で検挙されたことによって評価が下がるのだけど、表現物と作者は別だろうみたいな。たしかに、太宰さん時代とかの薬物関係は大丈夫なのに、現代アーティストだと不倫すらアウトなのはとても面白い。不倫すらというのは、これって別に犯罪じゃなくて、責められるのは婚姻関係にある配偶者だけということ。

 

なんだか、創作者に対して完全な人格であるという信仰がありそうな感じ。別にその信仰を守るために創作者さんは個人として生きていないし。

 

偶像崇拝というより、どこかに自分が求める完璧な人格があるみたいな、まさに宗教的な感覚のだろうか。

 

ほとんど受動的な情報収集していない自分にすら見えてくるのだから、よほど話題になったのかな。

 

情報過多に対して、ちらっと見たのだけど、自分の現実的利害とは全く関係ないことに感情的になるのは情報が多すぎて処理できてないのではないかとのこと。

 

まぁ、情報は話題のためではなく自分がちゃんと欲したものだけ取り入れるべきよな。あと、異常独身男性というのも見かけたけど、きっと僕の方が異常だからあんまり見ていない。

 

なんだろうな。まだいっぱいありそなのだけど、ここまでっぽい。

 

言語化のいまここもどれだけ客観性があることを主観的に提示できるかだけど、相手が主観的にしか言葉を扱えなかったら、単なる無駄な長文にしか見えない。

 

どう見えるかとどう見たいかの齟齬は一致させなきゃならんな。

 

おしまい。

 

ここでおやすみなさいと書くのがもったいなくなってきている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

沈殿

 

 

 

フライパンを使わずメインを作った。白菜がちょっとだけ安かったしあまり食べてなかったから購入したのだけど、フライパンで炒めるのもなんだかなと思い、レンチン蒸し。アルミホイルがあったらフライパンで作ったが。

 

晴れたからほんとうは丸善に行く予定だった。確実に目当ての小六法はあるだろうし、ちょっと気になる本も何冊かあるし。しかし、本を買う方より本を読む方に能動的になるべきだとか、他諸々の理由で断念。まだまだ能動性が足りていない。二度寝もしても良い。が、その後があんまり良くなかった。ちなみに生物進化のアプリはアンインストールをしている。こういうのでは暇が潰せない。

 

スーパーに行ったら直前で財布を忘れたことに気付く。携帯があるから楽天ペイをダウンロードすればワンチャンと思ったけれど、セキュリティコード3桁を覚えていなくて駄目だった。記憶力不足。

 

さておき。

 

今日はなんとなく思考が低活動な感じ。だからとて、考えないということはできない。なんというかフロムさんの言う能動性って愛することの基礎というより、僕にとっては人生の最大限の暇つぶしみたいな感覚。人は愛することを恐れると書いていたけど、僕は愛されることの方が怖いと感じる。ちゃんとした愛に出会っていないからかもしれないけれど。なんの条件もなく与えられることって、どう返したら良いのだって思う。

 

コンビニのくじとか、自販機で当たったらもう1本とかは、購買意欲を刺激する経済的な目的がある。ファミマのくじでほうじ茶と微糖のコーヒーが当たっていたのだった。あげる人が居ないから交換しないまま捨てそう。ここを気にするのも世界への受動性よなと。自分がキャンペーンを利用していると思わせて、本当は余計に買い物しているみたいな。ポイントが付くから加入するとかも、長い目で見れば企業の利益になるからやっている訳で。

 

それを自覚した上でしているのであれば問題はないけど。

 

そうか。世界への能動的な関わりって自覚なのか。

 

 

僕はかつて世界史の横断問題がさっぱり分からなかった。この国がこういう情勢だったとき、他の国の情勢として正しいのはどれかみたいな。歴史の意味が分からない。年表的時間感覚が元々備わっていないというのもある。自分の歳も多分これだろうなというくらいな感感しかないし。

 

でも今プルーストさん読んでいて、ウェルズさんのタイムマシンの描写が出てきたことにおーって思える。この人もこれ読んでいたのかって。史学は具体的な人の歴史を知ろうとすることに似ているなと。ただ、なんというか汎用性はないような気もする。広く人を捉えれば、結局のところいまここの受動的世界の繰り返しっぽいし。

 

受動性とは世界も自分もこうに違いないという感覚のこと。そういう人は外界の変化に適用できないみたいなことをフロムさんが書いていたけど、なんとなくわかなくもない。いや、自分の本質とか相手の本質については変化がそうそう起こらないとかも言っていたな。何が違うのだろう。

 

この人は経験則上こういう類型の人に当てはまるという判断は受動的な気がする。情報によって変化するのだから。だったら人に対する能動的関わりってなんぞやというと、相手の普遍的な部分を知ろうとすることかと思う。これってあれこれ質問したところで意味がない。社会的関係でも素朴的な関係でもそこまで相手のことを知らなくても対応可能だし、相手もそこまで自分を掘り下げたくないと思う。

 

だから、能動性はあくまで自分の世界の中で行うことであって、関係ですることではないわなということ。関係の中でお互いが自分を掘り下げてないといけないという条件が満たされていれば在るかもしれないけども。

 

一般的時空間も結局は人が分かり易いように切り取っただけだから、真実らしくないのだよな。村上さんの小説で、誰かとの空間を頭の中で半分にしていって最終的に手の中に納まる箱になったという描写があったけど、まさにこんな感じ。時間も空間もあくまで主観的なものでしかない。

 

時空間といえば、演劇が好きな理由って書いたっけ。建築の美が効用に根差していて、建築と演劇が似ているというところから。演劇の効用は、一般的時空間から離れた場所に観劇者を連れていくこと。そうやって非現実に連れていくことで、時空間軸は1つではないということを伝えて現実を際立たせる。映画とかにも似た効用はあるけど、演劇は観劇者も作品の一部だからやや違う。

 

ともあれ、こういう恣意的に作られたら現実という時空間の虚構性を皆無意識で自覚しているから、現実がつまらないということになっているという疑問はある。不自由なのが現実だとか、ままならないとか。

 

確かに時空を画一化するって考えなくて良いことが増えるからそれなりにメリットもある。自分の肉体が置かれたところの判断で良いし、距離感も分かり易い。

 

存在で考えるとこの時空ってほとんど関係なくて困る(今日まさに困った)。

ここでいう近さは、時空を容易く超えてしまう。

 

まぁこれも、肉体的に接した人のことがちっともわかっていなかったという経験則にある。もっと厳密に言ったら親しき関係において人の中身なんてどうでも良いという世界。人も建築物みたいなもの。

 

まぁいいや。

 

恋文書こう。

 

では、おやすみなさい。

 

元気でありますように。

 

 

 

 

感度

 

 

 

雨に濡れた金木犀はとても映える。朝、水分補給の為に自販機に伊右衛門を買うために外に出たときに思った。伊右衛門、ちょっと小さくなったな。

 

寒い。もうコートが必要なのでは。そういえば、気温の変化に過敏になるのは、適応力が衰えたからだという説が、統計的データと一緒にあったな。ただ、僕は、どちらかというと、小さい頃は気温以上に気にすることがあっただけではという気がする。世界が変化しなくなると気温くらいしか外界の変化を感じる事象がないという意味。

 

そうして、夜ご飯の買い出しに向かう頃には雨が止んでいて外は真っ暗だったけど、雨上がりの金木犀の存在観の方が凄かった。匂いが問答無用。

 

金木犀が気になるのは、実家の母屋の下に植えられていたから。他にもサルスベリ百日紅という漢字良いな)、びわ、圧巻は樹齢何年だっていう紅葉があった。紅葉はほんと凄くて、登れるし、座る場所もあった。そこにブランコを作ってもらったり、妹がとがった石でぱっくり足を切ったり、時代によって風景は変わるけれど、この紅葉はきっとまだ在るはず。

 

昨日の恋文はやらかしたかなと思ったのだけど、読み返してみると特にこれといった執着的感情が読み取れなかった。越権行為のような気もしないでもないけど、なんだか大丈夫な気がしないでもない。ただ、これって何の根拠もないし思い込みでもないから不思議な空間だ。

 

ちょっと置いておいて。

 

僕が自分の精神性を現実から逃避させるために本を読んでいるのかというと、全然違う。一瞬の非現実の体験を現実とするほど現実が肉体に寄ってないし。現実感と現実を一致させるための能動的試みでしかない。微睡んだ世界を生きたくはないというだけ。

 

まさに現実の結晶の法律学ですら、世界を観念的に見ている。世界は観念的だと捉えられないと思って居る人も自分は観念的に捉えているような。

 

不当利得の本は終わった。ほんと面白いのだけど、これを共有する為には、ある程度の法律学の土台がないといけないので省略。

 

債権という言葉は債務と一緒で=借金みたいな一般的感覚だろうけど、この概念も面白い。

 

経済的交換の時間軸に間隔があることができるようになって初めて生まれたのだろうなと。もともとは物々交換だから約束に法的拘束力なんて要らなかったけど、貨幣とかインフラの整備によって空間的な約束に時間的な誤差が生まれたからできた創造物。法的生産物は全然自然ではない訳。自然っぽいルールもあるけど、そこは道徳がやってればいいのではという感じ。

 

物権の方がとても分かり易い。人が物を所有するルール。物とは有体物というややこしい概念があるけど、要は、空間に在る物をどう使うかということ。

 

人工物と捉えることによって理解が進むという自分の中の話。何故何処で渡すのかが問題になるのだろうみたいな。素朴な僕は規定を規定と認知できなくなくなっているから、いちいち考えないと記憶から離れた自分にはならない。

 

概念ではなく、人をこういう風に捉えようとすれば理解が最上級なのだろうなというの分かる。素朴な僕は理解って自分にとっての対象の構造分析であって、人をこの枠に置くのは物扱いだと思うけど、お互いが物扱いであれば問題はない。

 

 

では、本題。

 

 

ユング心理学において、自分とは辿りつくものだという観念はとても納得できる。トラウマとか夢診察も、抑圧がなければ在っただろう可能性的人格を問題としている。まぁもともとがカウンセリング的な治療法の中で生まれたものだし。

 

自分の本心というか本質を探るための方法論として対話があるらしい。ふと出てきた本音をお互い探りあうという医師も患者に影響を受けるというなかなか大変なやつ。

 

僕は常々自分と対話しているから、自分にとって抑圧だったのは他人が自分を決めつけることだというのは発掘した。あとは一般論的諦観とか知ったことではないというところ。1人が楽だけど、怠惰ができるからではない。怠惰に流されるのがとても嫌なのだと。

 

まぁ、個人的無意識との対話は、個性とかそういうものではなくてその人の枠の中で自分がこう在るというものを見つけるものらしい。だから自分を鮮明することがすなわち世界の鮮明化だけど、微睡んでいて自己観が得られるのであれば別に啓発する気はない。

 

対決という文脈で言えば僕が三角関数とかベクトルを再履修しているのも自分を取り戻すみたいなところはある。

 

そうして、フロムさんを1回目読み終えた。愛の概念自体はさっぱり分からなかったのだけど、たぶん自分の世界ではなく他人の世界も当たり前に同じようにあるってことなのかね。

 

それよりもええなと思ったのは、人を愛するためには「能動的」に生活しなきゃならないというところ。毎日を自分の五官をフル活用して過ごすのが大事らしい。弛緩するのは寝るときだけ。素朴な僕はこれを読んであぁそうやって生きて良いのかと学習した。

 

能動性とはなんぞやというと、確証がなくても動くこと。フロムさん的には自分が愛しているのだから、相手も自分のことを愛するのだという信念をもって動くことらしいけど、これはとても気持ち悪い。物の所有の観念から離れられてない。

 

確かに、人が物理的な肉体を前提にしている以上、空間的な近さを求めるのは否めない。例えば頻度が多ければ多いほど近いとか。

 

僕は人の存在をてきとーには見てないから、自分にとってどうか一般的にどうかでテキトーに括られることにかなり嫌悪感がある。

 

これが生活が長いだけで近いと思っていた人達を断捨離した根拠。

 

でも、これって価値観を更新したわけではなくて、もともと在ったものでしかない。

 

この文脈でいうと素朴な人格に感情が必要ないというのもよく分かる。感情自体は刹那のバイオリズムでしかないから、自己観とはほとんど関係がない。

 

 

では、おやすみなさい。

 

祈りが嬉しいというのは、自分の存在が他人の中では想起した時にしか居ないという自覚があるということなのか。

 

関係なく勝手に祈るけど。

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人は自分の為に在るものではない

 

 

人の本質への接し方を考えていた。

 

 

さて、どこから書くかな。

 

最近続けて書いている人格の話は、抽象的にみえるかもしれないけど僕にとっては生活的というか実際的なこと。人が何をもって人としているかと、僕が見ている人像が全然違うみたいだから、自分の視点の為の覚書。おかげですごくすっきりしてきた。

 

でも、別に僕が何かを判断するための基準ではないという注釈。自分の判断は割と自分が勝手にやっていて、それが意識できるカタチでやってくるというだけだから、僕の内部は全然変わっていない。

 

あと、世界の諸々は、時間と空間と関係という抽象的要素でだいたい収まる。

感情ってまさに空間を前提とした想念よね。場としての自分にとってどうか。

 

例えば、居酒屋の店員さんに高圧的な人って、自分が主賓である場面を前提としているから高圧的でありうる。逆向きの親密感でも、空間の占有時間が長いとか場において安心・安全であることが学習されていないといけない。

 

社会的時間に自分の時間を調律できないのも時間がずれている証左なのだけど、当たり前に客観的時間が在るものだとしている。素朴な僕はほんとに曜日とか暦とかどうでも良い時間を生きているから、今が何年の何月何日何曜日とか、自分が今何歳かと気にしていない。

 

でも、社会時間に調律はなんなく合うし、誰かとの待ち合わせではあんまり遅れない。相手が遅れる人だったらそれに合わせるかもしれないけど。ここが関係の話だけどややズレた。

(可能性的デートの時はやや遅れた)

 

もはや何事も不具合なく生きている人なんていないと思っているけど、外から見て安定しているように見えるのはこの軸が当たり前な人なのだろうな思う。

 

僕が法律学を選んだのはたまたまだったけど、世界への入門編としては適切な教材だったのだろうなと、今となってなんとなく思う。客観的基準は恣意的で在ってはならないし、まさに時空と関係の学問だし。あと、理由はいくらでもつけられるのが世の中というのも分かる。ただ、つぎはぎの理由ではなく、一貫性が必要だから個人の中の理由付けと比べればかなりの縛りがある。老舗の権威みたいな歴史の重みなのかどうかは知らない。

 

今となっては、人はそれほど時間も空間も関係も気にしていないなと思う。いや、主観的には気にしているのかもしれないけど、主観的基準は誰かを規定することはできない。この基準だとこうですが、どうですかってお伺いを立てることくらいしかできない。そうして、この基準は全然主観的ではなかったのが僕の基準。

 

素朴な僕の基準として、フロムさんは今日読んでいてなんだかにまにましてしまった。曰く、何かを信じるためには信念と勇気が必要だということ。その価値観が一般的になるまで継続するべきだとか。

 

いや分かる。分かるのだけど、なんだか揺れている感じ。そもそも自分を信じることに他人の承認って要るのかという疑問。

 

自分への愛が必要で、自分が自分であること、自分には芯があることを信じるのがそれだって、ほんとか。

 

僕は自分が自分なことには疑ったこともないし、信じたこともない。あくまで関係とか環境の中で自分が自分で居られないというのはあったけど、ここに愛が必要なのか。

 

芯って、そうあるべきものではなく勝手に在るものとしか思えない。

 

笑ったのは、「根拠あるビジョン」が必要だっていうフレーズで、スタンドだって。根拠ある信念と根拠がない信念の違いも面白い。根拠ある方は、自分が自発的に時間と労力をかけたものらしい。

 

あと、可能性を信じられることが愛だとか言っている。これも分かるけど、例の対象が幼児だったのがなんとも幼稚な感じがある。なんだか、自分が優位で高尚だという関係的自己感が見えてしまう。

 

僕は僕の素朴な捉え方でしか世界を見ていないから、権威とか歴史の重みとか知ったことではない。あくまで対等にしか人をみない。年齢とか立場でしか優位だと思えない人はノーサンキュー。

 

愛について語る人が居たら、フロムさん程考えたことあるのかと問うてみたいところ。客観的であるべきといいながらあんまり客観的でないところが好ましい。あくまで主観から離れられなかった。

 

確かに考えることによって人格に変遷があるというのはあると思う。ただ、この考えるが内側によったときというような気もする。

 

僕の話。承認欲求がそもそもないけど、自己肯定感がないとも違う。ポイントカードは持っているのにレジ袋はほとんど毎回買うみたいな。なんというか、自分が世界から肯定される必要あるのかという感じ。

 

僕はまぁまぁ全人類的にその人は在っても良いという薄い肯定感はあるし、古本に線引きとか蛍光ペンでなぞった痕跡の人の方が、生活圏の人より本質に近いと思う。

 

関係ではなく何を自発的に想ったか。

 

関係の縛りはとても大変。思い込んでしまう。

 

 

で、冒頭文の人の本質との接し方。

 

自己観と同等に相手を捉えること。自分が自分であることは自明かもしれないけど、自分が世界に現われるのは意識したときということに共感できるのであれば、相手は自分の世界の一部ではないと捉えるのがほんとうの対等。

 

ここまで厳密に捉える必要はないけど、祈りを嬉しく思えるって、他人の世界に関係とは別に自分が在ることが分かる人なのだろうな。

 

要は、その人のことを想っている間だけその人が在るということ。

 

僕は好きな人は平均16時間くらい考えている(概算)

 

では。おやすみなさい。

 

 

 

遷移

 

 

あれだけ鮮やかだったきつね花。もう茎以外はほとんど残っていない。かつて花だったものは枯れ葉色の糸模様。かわって、かほりが咲き誇る。マスクをしていても、いや、マスクをしているからこそ、か。1年周期で鼻腔を刺激するそれは、金木犀という名前が付いている。秋が最も良い季節だとされているのは、過ごしやすさだけではないのかもしれない。

 

何の目的も執着もなく習慣にもならず続けていることについて、自身に何か裏があるのではないかと勘繰ろうとする精神性。まるでそんな継続はありえないと糾弾されているようだ。弁当を食べた後、歩いているとふと彼の人の顔が想い出される。おや、遂に記憶に収納するのか、それも良いだろうと思われたが、以降、鮮明に浮かべることができなかった。やはりまだいまにしておきたいのか、それも良いだろう。

 

 

さておき。

 

この文体で続けると日記ではなくなりそう。しかし、ほぼ毎日在り続けるって、ある意味命みたいだ。いったい何がこの生命力をもたらしているのかは知らないけど生きることを気にしないほうが明らかに生きている気はする。

 

「人はどこからきて、どこへ行くのか」という本を立ち読みした。文系のインタビュアー(びゅいー?)が理系の人達から色々人間について聞くというもので、好きな脳科学者さんが居たからそこだけ。

 

そこで語られたのは言語のトラップというもの。言語で考えるというのはループになるということらしい。曰く、自分とはなんだと問うたしてこうだと結論付けても、ではこれを決めたのは誰だという上位者が前提となっているみたいな、昨日の無意識の海の話が1つ。

 

もう1つは、言葉によって、自分の範囲が拡張し続けるという話。言葉によって指示される対象は自分の世界に含まれているとか。自分と世界の境界が曖昧になっていく。例えば月という言葉によって月を認知できるけど、その認知は客観性ではなく主観的なその人の世界、みたいな。

 

悩みはループするから意味がないみたいな言説ここからするととても分かるし、いかにも脳科学者的な視点だと思う。脳は無駄なことに疑問を持つようになっていて、それが人間を特長付けるとも言っていた。この無駄というのは、物理的肉体の維持とか種の存続なのだろなと推測する。

 

言葉は何か流動的な非言語を規定するものだということからすると、まぁまぁ分かるし、僕もそういう考えを持っている。ただ、そうでもないかもとふと今日思った。

 

この話の前に昨日の人格の階層の話。これを書こうとするのも、何の目的も…なく継続して読んでいる人を仮定していて面白いな。

 

ともかく。

 

法律学における人って、社会的人格だよなと。社会的に意味あるなしを判断して制御した行動ができる抽象的な人がモデルになっている。ただ、これってほとんどの人が意識せずに最大公約数的にはできているということで、近頃になってやっとこの括りが分かった僕はなかなかの欠落的人格。

 

行為論も意思論も社会的効果を目的としている。どこからがどこまでが社会的人格に値するかというのも法律によって違う。民法では胎児はいくつかの類型でしか人ではなく、刑法では、殺人罪の対象になるのは母体から一部露出した段階で、それまでは堕胎罪という特別な類型になる。堕胎罪の方が遥かに罰は軽い。人として生命が存続する肉体があって初めて人間になる。憲法がいう人格の尊重もこの社会的人格で、まぁ確かに法的ルール自体が社会の存続の為にあるし、そういう枠だ。

 

経済学は消費者としての人格が考察対象だから、もう少し素朴な人格に近いかもしれない。合理的な判断をしきれない人も想定されている。が、この雑多な個人の嗜好は捕捉できないから、経済学では経済は良くならないのだろうなとも思う。ゲーム理論は面白い。

 

心理学はあんまりよく分からないな。無意識の海の話はユングさん以降知らないし、フロイトは性衝動が全てだとしたらしい。唯物的な心理学は脳科学に吸収されそう。好きな学者さんの本が心理学的だった。こういう感情はこういう脳の機能からやってきているのだ、みたいな。

 

でも、性衝動が云々とういうのもフロムさんと合わせれば分からなくもない。素朴な孤立感を解消するためには、何か自分が他のものと同一であるという感覚が必要で、一体感を手っ取り早く得られるのはこういう肉体の繋がりだろうし。

 

ただ、この欲求って食欲と一緒だから、一瞬しか満福にならない。

どうでも良いけど、世界への興味関心もこの意味では一生満福にはならない飢餓なのではと危惧している。いや、満福は後がしんどいので必要ないけど。一生人のことなぞ分からないと規定したとき、何をもって満たされるのか。この文脈からすると、ひたすら本を読むことも理由をつけようとすれば、本から取り入れる何かとの融合化欲求とも考えられる。

 

僕はもう自分が1人しか居ないというのは自明だから、融合はないと決めつけている。尊重があればそれでいい。取り入れることを対象との一致とみなすかどうか。

 

というところで、フロムさん曰く。成熟した人格に必要なものはナルシシズムをなるべく排除することだとか。ナルシシズムって自意識過剰でいいのだっけ。要は世界を自分の主観で捉えるのではなく、客観的にはどうなのかという視点を持てること。自分の世界が他人の世界でもあるという人と接するのはとてもしんどい。

 

でも、ありのままで他人を捉えるようにすることって、どういう関係になるのだろうな。利益不利益で意味付けしないというのは分かる。あぁそうか、それでも関係するかどうかか。

 

僕の世界の自己観は社会とか物理に寄っていないけど、こういう自己観の意味付けによって人と関わるのは面白いことだなと感じている。相手から規定された人格を気にしてもしょうがない。

 

とにかく、まだまだ中途半端だからもっと突き抜けなきゃならんなと思う次第。

 

 

そうそう。言葉の箱の話。

 

フロムさんのいう客観性としての理性が言葉の箱だとして、その箱に自分を収めるという感覚はどうなのだろう。

 

何かを伝える、そう伝わるみたいな意味論で言えば、自分を世界にどう意味づけるかという文脈なのだろう。

 

僕がふと思ったのは、どう伝えるかを吟味したところでどう伝わるかは受け手次第だから、ここに手をかけても仕方がない。

 

これだけ毎日自動書記した収集として、想念は言葉に閉じ込められなくて、どの言葉というパッケージを宛てるかだけのような感じ。言い回しで本質が変わる訳ではない。

 

箱理論は、どう伝えるかというよりどう伝わるかに向いている。

 

少なくとも僕は僕を言葉で規定はしなくなりました。

 

人の本質と話がしたいな。

 

 

おしまい。

 

皆さんが笑っていますように。

 

おやすみなさい。