存在感

 

 

感情的日曜日。

 

初枕はなかなか寝心地が良かったはずだが、あまり寝入ることができず、やはり悪夢っぽいものを見た。母親が何か箸がどうのと言っていて、それに対して皮肉を聞こえるように他の人に発すると、激昂し箸で刺されそうになるところで目が覚める。

 

目覚めた自分は凄く怒っていて、こういう感情も在るのかという感じ。寝入れないのも気絶のように寝ていたことの反動だろうから、全部含めてどんとこいである。あれもそれもこれも自分。

 

なんで怒ったのだろうとお風呂に入って考えたのだが、母親のやり口が嫌いだったのだろうなと想った。感情によって見解が変わるのは遊びに行けるかどうかの死活問題だったがそれはまぁいい。いけないのは、感情論に正当性を乗っけるために権威的な理由をつけるとか他にも良くない理屈をつけて繕うこと。別に感情なら感情で良い。ただ、これだと受け入れるかどうかの主導権を相手に渡してしまうから、自分が正しいとしておかないといけないのも分かる。この所作に怒りの感情があったのだろうなと思った。

 

訥々と正しい理屈で教えてくれる大人というのはいなかったから、理屈アレルギーがあるのかもしれない。いや、素朴な自分は完全に感覚人間だから無知なだけか。適切な理屈は学習中である。議論は前提を均す(数学みたいに)か、相手の前提を相互に受け入れるところでしか成り立たないよなという感触。

 

寝たが寝不足で顔も頭も死んでいるがあまり関係なく本は読んだ。漫画とかインターネット文章に逸れてしまったところもあるが。そうして、仕事日の昼休憩の時間に合わせて温そば。えのき、舞茸、人参、昨日の夜ごはんの余りの焼いた豚肉を加えて食べる。18時にクリーニングの回収があったが、毎日大量に消費しているミネラルウオーターを補充しなければならないから、食後にもぞもぞした後、先に買い出しに行く。天気は良くて日光は暖かいはずだが、ウルトラライトダウンを羽織っても寒かった。部屋も20度くらいはあったのに寒い。特に背中が寒い。寒気かと思い体温を測ってみたが平熱(36.7度)だった。寂しさなのか、血流が頭に行っていたからか。

 

18時でもまだ明るい。一軒家の屋根に取り込み忘れたのか、大き目の熊のぬいぐるみが日向ぼっこの延長戦をしている。冬にはススキの群生地だったところに、はっきりした花弁が5枚の紫の花が群生していた。最近気になっていた花だから先程調べたが、ツルニチニチソウというらしい。漢字は蔓日々草か。語源は蔓を使って輪を作ったからだとかなんとか。

 

道中の考え事としては、更新されていた日記の中の作ってくれたスープを飲んだというところから、一番長く過ごした元恋人さんとの別れ際の言葉について。この人とは昔1年半くらい同棲をして別れ、3年後に再会するという物語があるのだが、再開したとき、前半部分について、曰く、「私は貴方の為に色々していたけど、それが駄目だった、今度は自分の為に色々してくれる人を選ぼうと思った」みたいなことを言われたのだった。かなりあやふや。確かに料理とか作ってくれていたし、諸々してもらったことはあるかと思うが、この水準だと、家賃とか住むところとか、もろもろ何か理屈に合わないところがなくもない。いや、比べるところはそこなのかと。

 

別にもう会うことはないだろうが、嫌いな人物の棚に入っている訳ではなく、なんなら感謝すらしている。けど、何かをしてくれたということに対するものではなく、存在として近いところに在ってくれたということだから、ズレはある。してくれたからするみたいな関係は相互に自分の為だろうという概念がはっきりしていなかった僕に問題があるとしか言えない。この論法の欠点は、何かをしてくれるから相手にとって自分に価値があるとする評価にあって、これだと相手主導になるし、ひっくり返して自分は誰かに何かをしてもらえる価値があるのだと自己評価にしてみたところで、相手がどこに居るのかが分からない。というか誰でも良いのではと。

 

今の僕はおそらくそういうことはどうでも良い。誰かがしてくれるような日常の営みは自分でできるし、そこが誰かによって省略できるとしても、その為に誰かと居ようとは思わない。こう考えていくと、自分の使い方をちょっと変えればもっとまともに生きられるのではと思わなくもないが、まぁ仕方がない。

 

まだまだ知らない領域があるというのは、なんというか自己検証不足が過ぎるが、検証どころではなかったんだろうなという俯瞰。合わせるのに必死だった。

 

そういえば、これも道中思っていたことだが、現実感というかアイデンティティの拡張論から考えると、何かを現実化しない人の中には、しようと思っていてできない人と、そもそもしようとすら思っていない人が居るが、前者の方が現実に近いのだろうなと。まぁ外から見た分にはどちらも同じだが。

 

知らない自分と言えば、まず自分の文体。たぶん対象の核心を言語化するよりその輪郭をなぞろうとしている。ドーナツの穴を残して食べる、みたいな。あと、は書くべきか書かざるべきか。

 

あいにく10分程時間がある。ふむ。

 

経験則上、僕は自分に好意を持っている、もしくは種がある可能性がある人にアプローチをかける性質があった。まぁ感覚の話だが、それほど外れない。

 

しかし、今は全くそんなことがないのに、なんかあると思っているのか、マジか自分の無意識よという感じである。左脳で読む限りそんな余地はないぞ。まぁ、現実に触りたいとは思わない、いや思う、統一してないのはともかく。

 

何はなくとも存在として近さを感じるというのは自分の感覚を突き詰めていけばありうる感情で、肉体より精神より内側にある輪郭をなぞってみたいというのもしかり。生活上もこの位置にあることで、とても精神衛生上良きだし。嫉妬がないのになぞりたいというのも謎だが。

 

謎過ぎるため色々と解釈をこねくり回して整合性を保とうとしているが、結局は「見つけてしまったものは仕方がない」という一言で済むことなのかもしれない。なにせ可愛らしい。

 

そんな感じで、今日は上手く寝られるかな。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

現実感の拡張

 

 

能動的土曜日。

 

ある人に追い駆けられる夢を見た。良い意味ではなく、何処に逃げてもそこに居る。同性なのだが、本当にあるかもしれなかった世界線でもあるのかもしれないというくらいには現実に近い、と少なくとも僕の心は認識しているらしい。この意味での執着はこの人だけだが、道具として扱えるというか消費できるという意味での執着は同性間の方が強いような気がしないでもない。競争の歴史。

 

ここのところ夢の方は不穏だが現実は平穏である。14時に理容院の予約があり、ついでに枕を探しに行くことにしていたのだが、天気が良かったため、シーツを選択して布団を干したことから芋づる式に部屋を片付け、シンクを磨き、汚くなったルームウェアと体を洗って出かけた。我ながらなんでこんなにちゃんとしているだと思っていたら、このご時世で必需品を装着していないことをクリーニングに出した後気付いた。急いでコンビニで買ったが、社会性の欠如が否めない。

 

寒の戻りとのことだが、太陽光の下を歩いていたらTシャツの上にパーカーを羽織っただけでも十分暖かった。道中、2000字って発話換算だったらそんなに量が多くはないだろうなぁと思ったり、自分の中の或る感情について、もう誤魔化し利かないなぁと思ったり。

 

理容院はとても賑わっている。曰く、外出があまりできないからせめて髪をさっぱりという人も多いらしい。なるほど。確かにさっぱりはする。雑談は漫画ではなく、店長さんと、血のつながりと外形上の相似みたいなテーマになった。というのも、もう一人の店員さんの弟さんが4月から入社しており、とても似ていたから。我が家は全然似ていない。姉と妹も似てないし、それぞれ母親とも似ていないし、僕も然り。いや外から見れば似ているのかもしれないが。我ながら父親の当時の写真とはちょっと似てきているような感はある。そういえば今日は姉の誕生日か。おめでとうございます。

 

理容院に向かう途中で、電気屋さんだったスーパーの3階にニトリができたようで、枕探しの旅はすぐ終わるなーと思いながら、おでこ丸出しにセットされた髪型で向かってみる。4月16日オープンとのこと。旅はまだ続く。徒歩圏内(20分くらい)の東急ハンズに向かっても良かったが、職場の最寄りのためあんまり行く気にならず、電車で2駅の無印を目的地にする。

 

店舗に着くと15人程並んでいたため、目星を付けていた同じビルの上の階にある寝具専門店にも行ってみた。ざっと見たところ、さすが専門店。軽く予算オーバーだった。引き返すと行列が収まっていたため、直感で選んで即購入。「ついで」という概念をなくす試みをしているため、本屋には寄らずに帰る。

 

ルームウェアとか枕とか生活用品を揃えているのは何故なのか。部屋着が汚れないようにエプロン買うことさえ考えているが、別に誰かと生活する予定はない。ただ、しっかりしようとする領域にここも入ってきたというだけなのか、なんなのか。自分でもよく分からない。

 

しなくてはいけないことからつい逃避してしまうという人間心理がある。作業があるのにそっちのけでしなくても良い片付けをしてしまう、みたいな。しかし、最近の流れは逃避の心理というより、自分がしたいようにして良いという心理の方が近い。お酒を飲まなくても良くなったが、これを誰かに「健康」だとか「健全」とか「偉い」とか褒められると、きっと萎えてしまう。そういうことを目的としてないわと。天邪鬼というよりめんどくさい奴である。

 

まぁお酒は日常ではなく、非日常の楽しい席のためにとっておこう。そんな予定もないが。

 

なので、本も問題なく読んだ。そういえば、本を読むことも現実からの逃避手段みたいに言われることがあるなと、メディアの話の中にサルトルの「嘔吐」が出てきたとき想った。この本は読んだことないから又書きだが、曰く、主人公は世界の真理は書物(文字)の中にあり、現実とのギャップを気持ち悪く思ってしまうとか。

 

説明として、人は想像しているイメージと現実との違いに幻滅しないようになるべく鈍感になっているのだとか。人のアイデンティティは5感によってもたらされる過剰な現実感であり、匂いとか感触はイメージには盛り込めないから、そこに溝が生まれるらしい。映画とかテレビのイメージは現実とは近いが、身体的アイデンティティの欠如があるとか。だから、肉を伴わないものは現実の外にあるものとする(ここは解釈)。

 

世界文化史で、教養とは「あってもなくても良いもの」というフレーズがあり、通じている感がある。現実的な生に無関係なものであるというアイデンティティの外にあるもの。

 

ほんとか?

 

僕は本を読みまくるが、別に本の中にだけにしか真理がないとは思わないし、本だろうが物理生活だろうが、全ては世界の構成物だから、何を抽出できるかがアイデンティティなのであって、ここからすれば肉の器も一部でしかない。一部じゃないのであれば、自分の欲求に従って肉体を害するようなことが許容されることはないはず。分析が雑くないか。

 

5感によって構築された世界観というか現実感については個人的にずっと疑問に思っていた。別に電気信号でもたらされる幻想でしかないみたいな脳科学的なものではなく、実感として。

 

唐突に恋愛遍歴みたいなものを出すと、相手と繋がったと感じるのはまぐわいではなく、手を繋いだり、軽いキスをしたり、ハグしたりすることだった。様式ばっているというものがあまり好きでないというか、本能のついでみたいな行為を純粋な行為とするのがなんとも。いや、分かり易くはあるし分かった上であれば良いのだろうが。あぁなるほど。ふと思ったが、5感で感得された世界ってほぼ受動的な自動精製されたものなのか。その世界で生きる個人の精神からすれば客観的な世界とも言える。

 

僕が言語化できずとも考えていたのは、「それだけではないだろう」という疑問だったのかもしれない。認識とか感情とか意識とか、現実には含まれないものを現実化させようとする所作とか、それを読み取ろうとする試みとか、そういったものも現実感に含んで良い。そうすると、鈍感にならなければいけないことはなく、敏感になったとしても一致できる。個人的に世界がしんどかったのは、鈍感に合わせて色んなことを紛らわせていたからのような気がしてならない。

 

誤魔化しが利かない、全く一般的な現実感と連動していない感情も、自分の現実なのだよなぁ。邪魔にならないどころか、存在しているだけでプラスになる人。マジか自分と思ったが、まぁそういうこともあるのかと諦める。

 

しかし、直接は書くまでもないことである。

 

 

そろそろ初枕のお時間。

 

なるべく平日の1時間程度はここにあてたいところ。

 

それでは。

 

おやすみなさい。良い夢を。

姿かたち

 

 

ハロー現在の自分。明日は休みだが文章を書いているということは素面である。刺身が食べたくてご飯は少しサボった。全然お酒を飲みたいとは思わない不思議。

 

昨日書いていて思ったが、もう文章を書くことへのハードルはそんなに高くないのかもしれない。パブロフの犬の何百本の日記も、挙動が現実化されなくても良いという穴倉をこじ開けることには寄与した模様。音楽を聴きながら1時間弱で2000文字の日記を書けるようになっていたのか。原稿用紙5枚分って読書感想文の量だ。見分けは、どうなのだろう。酔ってくると終盤がぐだぐだになるから、そこで分かる、どうだろう。

 

メタ的前置きはさておき。

 

悪夢を見たからパジャマを買った。次は枕。悪夢はなんとなく寝つきが悪くうつらうつらしていると、人型の影に襲われるという下り。半覚醒で来るなって言っていると、首筋を噛まれるか刺されるかされ、とても痛い。血も流れていて口の中にも充満し、「こふっ」と影に返り血を浴びせ、あぁ、また終わりかというところでまた目が覚める真夜中。寝ることとそれは個人的に凄く近いところにあると捉えているから、終わりは別に鬱とか低空飛行のサインではない。次に意識が覚醒すれば睡眠だが、意識が途切れて覚醒しなければそれである。

 

影についても、別に幽霊とかではなく、自分にあるどろどろしたものなのだろうと思うと、台詞は「来るな」ではなく「来ても良いよ」だったかもしれない。世界という得体のしれないものに対する怖さも自分のもの。もう先延ばしにはできない。昨日の日記を書き終えたあとの空いた時間は、やはり文章を読む時間に充当される。日記を読んだり青空文庫を読んだりした。流行りについての何かに対するコメント的な文章よりその人がその人で書いている言葉が好みらしい。

 

青空文庫はなんとなく梶井基次郎ラッシュだった。「Kの昇天」は読み返してないが、タイトルを読んで中身を想い出したからもしかしたら悪夢に少しは寄与しているのかもしれない。「檸檬」を読み返していると、高校の国語の先生が美しい文体だと評したのがやっと少し分かった気がした。言葉がかっちりしている。どうでも良いが、高校時代に既に慈姑を読んでいたのか、とか、今更ながらここに出てくる「丸善」って、三条にあるあれだったのかとか。

 

言葉がかっちりしているという味わいについて少し分析すると、この人は世界において物体に心を傾けているという感じ。だから物体の描写とか、重さが生生しいというか。もう少し背景を想うと、病弱だった自分の肉体との対比あるいは、悪夢におけるそれとの対比みたいなことなのかもしれない。ついでに「愛撫」も読んだが、官能的な話ではなく、猫の耳とか手だもんな。

 

 

そうして、やっとこさ現実の1日。悪夢の原因は肌ざわりにあるのではないかと非論理的な思考が起こり、昼休みにしまむらユニクロを梯子する。小学生時に着ていたシャツみたいなパジャマをイメージしていたがそういった種類のものは見当たらず、結局ユニクロのルームウェアにした。上がクリーム色で下がカーキ。なんとなく寝やすそうな気がしないでもない。そういえば、そろそろ田んぼの蓮華草の絨毯が完全体くらいになっている。細かく見れば緑の面積もそこそこあるのだが、心象風景にしてしまえばぼやけてピンク一色になる。

 

人間模様とかは特にない。というか、素面で過ごすことで内部が鮮明になって、一部とか一瞬しか接することがない人間は逆にぼやけるような。悪い意味ではなく、そこまで心を波打たたせる対象ではないというか。雑談は全然できないが、できないことでおとなしくてよく分からん奴だと思われても、まぁ使えるから良いかと思われていれば問題ない。

 

また本の話。

 

メディアの話はパソコンが登場し、パソコンで書かれる文字メディアはクールなものであるということだった。クールというのはユーザー参与度が高い、すなわち想像とか解釈の余地が多いということ。ホットなメディアである電話は相手の表情は読めなくても声色やトーンで相手がどういう気持ちで話しているのかということについて受け手に解釈の余地があまりない。そしてクールなメディアが盛り上がるのはその情報量の不足について書き手も受け手も欲求不満になるからというフレーズがあったが、僕にはよく分からない、いや読み手としては分かる。ただ、それ以上がないならないでそれでも良いかなとも思う。在るものだけ読めれば十分。そうして書き手としてはクールでなければ書くことはできなかったし、全くもって不満はない。

 

そろそろ時間もあれなので、最後。梶井基次郎さんの文体が物体への憧憬みたいなものにあるとすると、自分の文体はなんだろう。無常観というか循環みたいなものはありそうだが、ただ取り留めないだけなのかもしれない。あまり気にしたことなかったからちょっと意識してみようと思う。では今日もこの辺で。

 

おやすみなさい。

 

こうしん

 

 

次の試行は文章を書くこととアルコールの切り離し。普通は連動しないが、垂れ流しの為にセルフパブロフの犬化させていたものを終了させる。

 

昨日は切り替え日。

 

夢では何かわいわい過ごしている中、僕は密閉された軽トラックの荷台に閉じ込められ運ばれる。途端、幽体離脱し、あぁもう終わったなと思う。一応探して呉れる人達がいて、どうせ間に合わないだろうが、追ってみる。どこかの木々に囲まれたちょっと広場で見つかり、肉体は人形のようにくたっとなっていた。心臓を叩いてくれる人も居たのだが、復活はなく何故か本当に人形サイズになり、宙に放り投げられていた。その後のシーンでは何かの管(リアルなものではなく、ストローみたいなものがたくさん見えた)のような断面を見せられ、これって人間の断面なの? そうなんじゃない? いや違うだろう そうなん、じゃあ最後に棺を担ぐのやめていい? というような会話が繰り広げられ、夢は終わる。

 

目が覚めると、終わって居なかった。なんとなく心はすっきりしていて、今日がこれからの人生の始まりの一日目なんだよ~♪みたいな感じ。帰りは夕飯の食材が十分だったため、本屋には寄ったがスーパーには寄らず。精神衛生上良き。別にお酒を飲まなくするのは健康の為ではないが、昨日と本日の食卓にならんだご飯を見るとひとり暮らしでこれほど健康的な晩御飯を食べている人はあまりいないだろうから、外からすれば間違いなくそう思われるに違いない。ただ、煙草は吸っているから矛盾とか思われそうだ。

 

昨日のメニュー。レタスと目玉焼きのサラダ、納豆ごはん、厚揚げと小松菜とぶなしめじのレンチン煮浸し(作り置き)、鶏もも肉と茄子と人参のケチャップ炒め。本日。作り置きの残り、人参と新ごぼうのレンチンきんぴら、目玉焼き、豚肉と青梗菜の中濃ソース炒め、納豆ご飯。

 

お酒を飲まなくなると、時間が長くなる。昨日は風呂上りにカモミールミルクティーを飲みながら小六法読みながら小難しいことを考えていた。本日はこうして私的な領域でも文章を垂れ流す訓練をしている。

 

飲んでも飲まなくも中身はあまり変わらないのだが、飲むと中身がぼやけて拡がる。発話も言語も挙動だから別に外に向けようが向けなかろうが内部では一切意味をなさないのだが、意味がないなら挙動しても良いかというメカニズム。たぶん話したいことも書きたいこともない。ただ、聞きたいことや読みたいことはあるというアンバランスが均される。

 

書くことも、酔うと口の蓋が開くみたいな意味合いで思考を言語化する歯止めの機能をぼやかすことによる施行だったのだと思われる。色々理由を考えてみたが、書きたいことがない、正確には「書くまでもない」という穴倉で過ごすことに何の違和がないということ。ただ、別に自分からあえて出さなくても、いざという時に素面でも話せるような訓練が今の仕事であり、書くことの訓練である。たぶんやっていないとすぐ衰えるはず。内在的な衝動ではないから。

 

これまでのように毎日とはいかないだろうが、それはそれでよい。「してもしなくても良い」ことの中で挙動することが自分になっていく手段だと思われるため。どうでも良いが、意識して歩いてみると、歩くのって凄く難しい。どちらの足と手がとこんがらがるというよりは、意識的に回転数増やすこととか、肩とか全身連動しているのだなとか。

 

ともあれ。本の習慣は途切れない。メディア論読んでいると吉本ばななが出てきて、吉本隆明の娘と知り、ちょっとびっくり。内容は、原始時代のテレパシーみたいな意味で携帯電話は超能力だとのこと。なんかわかる気がした。空間を越える能力としての共通性。全然使ってないが。あと、シェイクスピアさんの演劇はいままでのものは割と分かり易かったのだが、どうも「リア王」は難しい。権力的感覚がないからなのか話が難しいからなのか。全然読めてない感じ。

 

昨日、刑事訴訟法強制捜査の概念のところを読んでいて、難しいなあと思ったのだが、高尚な学問というより、刑罰権を独占した国家権力が人権を尊重するために発明された概念装置と考えた方が読めるのかなとなった。この違いは、自分の中で疑問を挟めること。

 

僕が訓練していなかった「自分になっていく」ことの中には、対象に触発されて出てくるとっかかりとか疑問とか興味を見ないことにしてスルーしないということも含まれていて、これをいちいちやっていくと頗る時間がかかるのだが、これで良かったのだという感じ。ちゃんとする。

 

ただ、人にこれを向けることができないのは、相手にはこんなのに付き合う時間も意味もないだろうなと思うから。それほど自分にも純粋な興味ないじゃろとも思う。だから、人も読み物なのだろうな。酔っていれば特定の人に私信を発信したくなるが、酔っていなければ誰にも送る気にならない。

 

だいたい頭の中も文章もきりがよくなったのでここまで。次いつになるのかは未来の自分に委ねよう。

 

では、おやすみなさい。

 

皆さんが自分でありますように。

 

不越

 

 

巡り合わせの悪さに悲しさを通り越しもはや笑ける。お前に人生上のご褒美は要らんだろうってか。ぶち壊してやるという天秤の片一方もなかなか重いが。

 

夢。何か集団の宴会というか宅飲みみたいなシーンで、何か誰かと致すような雰囲気になる。面影としては高3の時に1か月だけ付き合った恋人さん。最終日は体調悪いみたいな感じでメールが途絶え、その後に別れましょうだった。放課後の誰も居ない教室で2人きりといういちゃいちゃし放題のシチュエーションで、手を出さなかったことが原因なのだと思われる。思春期は難しい。今も触れないのは一緒だが。

 

夢に戻り。僕の中では面影だけどって言うと、私にとってはまだ「今」なんだよと返され、そうなのかと致すとなったとき人が乱入してくる。ドア閉めたら分かるわって。じゃあ出ようかとなり、2人で車に乗って何処かに行こうとする。僕の夢にとっては珍しく自分が運転していて、運転楽しいなとか、色んなところを移動しつつ、何故かマーライオンの残骸(大根おろしと卵焼きみたいな白と黄色のデフォルメだった)とか、巡っているうちそんな気分は萎え、結局何もなく夢も終える。

 

目が覚めたとき、なんだか終わったのだなと感じた。立ち読みで睡眠について読んでいたとき、夢に出てくるのは何をしたのかではなく、感情が動いたエピソードが多いらしい。こういう意味の感情ってなんなんだろうな。言語化できるようになった感情は知っているものだからおそらくどれだけ言語的に感動したとしても夢には出てこない。夢に出てくるシーンは別に当時なんとも意識してなかったとしか自覚できないものがあったり、もはや記憶には残されていないものがあったり、一体何が自分を動かしたのか分からない。

 

好きではなくなったというか、僕の中の語彙では好きという単語では加増度が足りないということなのかもしれない。

 

ちょっと本の話を挟んで。

 

そろそろヘーゲルさんの精神現象学は下巻に行く段階なのかもしれない。3、4周してみたが、分かるようで分からない。感覚では食べているのだが、言語として吐き出せない。語彙が特有なんだよな。たぶん。でも、自分が扱っている言語圏の言葉の一般的語用から独立させた自分の語彙を探るという試みは分かる。僕も文章では流暢だが、発話とか会話でこういう風淀みなく発することはできない。一般的語用が分からないということでもないが、一般的な会話って自分のことを話してなんぼだもの。これでアイデンティティ保てると思えるのも個人的にはおかしくてたまらない。偏屈極まりないが、仕方がない。こういう目で見ると現実世界もちょっとゲームぽくなる。遊びだらけじゃん、みたいな。

 

真面目という言葉の意味。僕は真面目と評されることが多いのだが、全然不真面目だと思っている。ルールに従うことが真面目だとするのであればそうかもしれないが、ルールの枠は当たり前の前提としてその中でどうするかをしているだけだから、ルールに従わないといけないという規範で生きていることはない。ルールに従っているように見える人が「真面目」に見える人は、ルールに従うか従わないかが全てというか、素朴な自分ルールに真面目なんだろうなという感じ。ほんとの真面目は、この延長にあるような。僕は外に向けられるような自分ルールを構築していないから駄目なんだよな。

 

正しい言葉。僕は普遍的にどんな人にも伝わるという意味での正しい言葉は信じないし、自分の中にあるものに正しい言葉を当てはめることができるという意味でも信じない。ただ、具体的な状況における適切な言葉はあると思う。たぶんこちらの方が難しい。意味は変わらなくても言い方で容易く人は激昂するし、内心が籠ってなくても適切な言葉には容易く人はなびく。

 

ともあれ。

 

新刊枠の竹宮さんは読み終えてしまった。はちゃめちゃなんだがなかなか味わい深い。なんだかすごく考えている人のような感じ。今度は「砕け落ちるところを見せてあげる」だったか、何年前かは分からないけど、知っていたタイトル。生生しい話は省略。

 

 

あー。書き言葉より脳内言語が回る。

そうなんだよな。きっと、次の段階。

 

終わりだなと思ったのが、もうブーストは要らないし、ブーストで言語化したことを読まれることを嬉しいものだと思わなくて良いみたい。

 

嬉しいは疑似的な感情で、僕の言語を読んでどうなんだという具体的な人を読んでいたらしい。まぁこういう疑似感情はどこにでもあるから問題はない。例えば、いや、喩えたくないな。一応まだ弁えはあるらしい。

 

何故なら、僕を読んでくれたよく知らない人は夢に出てこないから。

 

もう、こういう言語化は十分らしいな。

 

雑に生きないってこういうことなのかとなると、もはや。

いや、僕の現実の部屋は雑過ぎるから逃避という説もある。逃避しているやつが仕事で試行錯誤するかとなるとよく分からん。今の仕事全然生きがいとも思っていない。

 

なんというか、僕は自分を蔑ろにしていないから、覚えていることは夢のごとくいっぱいある。いや、こんな話でもないな。

 

要は、なんだ。僕は別にインターネット世界に逃避するために日記を書いている訳ではなかったらしいというだけ。もちろん払ったコストだけの効果はあった。完全な個人的世界だとあんまり無駄はしない奴である。

 

そういうコントロールをしている司令塔が主観より上にいて、もう良いだろうっていう感じがする。別に物理に傾注する訳でもないが、言語の枠として物足りない。

 

では、またどこかで。

 

おやすみなさい。

 

拡がり

 

 

寒くて縮こまっている人も居るようだが、個人的には寒くてリカバリーが利いた。家を出て5分後財布を忘れたことに気付く。気温と時間を天秤にかけて、走って電車に乗れば間に合うなと判断し、実際間に合った。走るとすぐ汗をかくが、汗をかかないようにバランス取るのもなかなか大変だ。大人の嗜み(違

 

でもこういう思考って、たぶん論理的思考というよりはいい塩梅の直感みたいなところがある。ただ、後から言語化できるかどうか。細かい判断はもっと細かく言語化できるが最終的には体感というかブラックボックスみたいな領域になる。なにせ僕は感覚偏重のてきとー人間である。料理の味付けもてきとー。

 

さておき。

 

仕事は普通に試行錯誤を継続。やはり人と話すのはあんまり好きではないなと実感。聞くのは良いが、必要以上に自分を話す気にならない。雑談しようと思い付く言葉は僕がどうしたではなく相手はどうかとう発言だし。

 

仕事と言えば、誰かが風邪引いたかもしれないみたいな話をしていて、ふと、自分ここ2年程まったく体調不良になっていないなと。セルフ深酒で体が重いときはあるがマーライオンにはなっていないし、なんとも体調がよろしい。邪気が全然溜まってない。人は人と接してないとストレスたまるしスキンシップがセロトニンとか言うが、孤独で免疫力アップするとかもうどうしもない。というか物理的には孤独としても魂的にはそんなに孤独ではない。栄養価が高いものばかり食べている訳でもなし。むしろ、無理に食べることをやめたことが良い効果をもたらしている。この見地があの時あれば、体調不良になってまで食べんでええよって言ってあげられたのだが、なにぶん見識不足。

 

食のロスは人類全体で見れば深刻だが、個人レベルで見れば食のロスなんかより当人の体調とか健康の方が大事に決まっている。購入した時点で経済は回っているし。なんとも雑な概念を採り入れていたものだ。

 

ロスとかコストの概念も面白いよな。費用って日常用語でいえば単純にお金みたいなことになるが経済学用語でいえば、時間とか選ばなかったもの価値みたいなことを含む。経済学を読んでなかったら、もっと雑だったかもしれない。

 

今気になっている次の技術は、Excelで日常の作業を自動化するというやつ。メールとか。まぁ今のところそういうアプリを仕事では使ってないが、この先独立するようなことがあれば使えることもあるかもなと。こういう、払ったところで時間しか消費しないコストは排除した方が良い。ただ、払ったことで自分に効果が還元されるコストというものあるよなとな料理を考えた。単純な行動経済学だと、お金を払って外で食べるコストと、自分で食材買って作って洗い物して献立を考えてというコストを天秤にかければ確実に軍配が上がるだろう。

 

この前「銀の匙」を読み返していて、石窯を営業したら、「自分で作れる物を買う奴は居ねえよな」という返しがあり、このフレーズ良きだ。僕は料理に価値をあまり置いてない人物だからコストはなるべく払いたくない。ここのコストはお金だけではなく外食の味とかちょっと体調悪くなる感じとか、買いに行くこととか諸々の総合考慮である。とすればコストをかけなくしたいがために、できるようになったのかという推論がなり立つ。なるべく早く美味しく作るとか調味料の組み合わせで当たりをつけて見切りで作るとか面白いが、別に好きではないのだよな。自分が作った料理を美味しそうに食べられるのはちょっと好きかもしれない。でも、べつに押し付けるものでもない。

 

この流れでというか、むしろこちらが発端なのだが、帰りにめちゃくちゃ早歩きで帰っているとき(早く会社法を読み進めたいため)、ふと、自分って考えること好きではないのかもしれないなと思い付いたこと。考えることが好きだから考えている、すなわち常に考えるみたいな、論法にはできない。考えないと生きていないみたいな強迫観念でもないし、別に日常でも生活にもできないし。まぁ自分のポンコツ具合を解消しなければいけないというくらいの意味はあるのかもしれないなと思いつつ。

 

人の夢に文字は出てくるのかを聞いたことがないが、毎日何万文字くらいは読んでいても一向に夢に出てこないというところから、僕は文字を右脳で読んでいる節があるというという発想。だから、視覚というより味覚が近いし、けれども完全に食べている訳ではないから、第六感と呼んでも良いかもしれない。利き文体という発想もそうなんだろう。僕にとって文字、言葉、文章は特に至高ではないから、考えるという意識で出てきた言葉も量が増えるだけであって、別によく考えている訳ではない。

 

たしかに、意識下にできれば言語化(=現実化)できるから、なんかすごい考えている人みたいに見えるが、個人的には誰だってこれくらいのことは無意識下で考えていると思っている。要は、どれだけ意識しようとして施行したかどうかの違い。僕は空っぽに辿りついたから良いが、他の人はどうか分からない。

 

インターネットの心理学。匿名性の方が酔っぱらいより本性剥き出しになるよなという感じ。匿名性における言葉って、変な話架空のキャラクターの装飾品みたいな趣があるが、本性からは離れられない。図と地で言えば、どれだけ図を綺麗にしたとしても、地はどうしようもない。まぁ一過性の文章であれば現実と同じように振る舞えるだろうが。個人的には、現実における言葉とインターネットの言葉がどれだけ違うのかという感じ。当人が自分のことを言葉で語るとき、発話であることとSNSの言語であることと何が違うのか。まぁ、肉体に本質が宿るとすれば、発話の方が生の声かもしれないが、ちょっと分からなくなってきた。

 

個人的な試みとして、インターネット世界と現実世界における自分の境界線を撤去するみたいなことをずっとやっているんだろうなと思わなくもない。別に現実で発話しても良いが、そんな機会はないなというくらいであって、飾らない。まぁ具体的に母親にここが知られて、私とのLINEが苦痛なのかーってヒステリーになられたら説得に困るが、それでも良い。

 

どちらの自分もちゃんと自分の身の丈で生きているし、壁はない。僕がこちらで文章を垂れ流せるのは、口を挟まずに聞いてくれる架空の存在を読み手として、素朴な自分から出てくる言葉に任せているだけであり、そんな現実はないことは知っているし、別になくても問題ない。だって人と話すのそんなに好きじゃないし。

 

あと、匿名性の機能には本性剥き出しの攻撃性の外に、抽象的(属性的)な共通項で集団に慣れるということがあるとか。僕はこういうのも駄目だ。匿名的世界ですらコミュニティに入れない。なんでかって、何処かだけで切り取れる程自分を決められていないから。誰かと話していて、自分の中に相手との共通項があるということは出てくるから、なにやら通じていると思われるのだが、そういう人たちは僕と通じたいのではなく他人と通じていることで満足したいだけなのではないかと思われる。

 

インターネット世界も現実世界も人が構築しているという意味では同じであって、解放されるなんてことはないだろうな。

 

言語化できてない面白いことはいっぱいあって僕の人生も言葉では表現しきれないし。ほんとどれだけ書いても一部にしかならない。逆から考えれば、他人も一部しか見られない。という感じのことをプルーストさんも言っていたような。現実世界における他人の把握は自分が感得した相手の一部でしかない、みたいな。

 

どうなることやら。

 

 

おやすみなさい。

 

純化

 

 

 

専門書はあんまり進まなかったがちょっとどきどきしながら読めるようになっている。会社法が面白くなる日がくるとは。法律上(厳密には私法上)の「人格」は、権利義務の主体になることができる資格のようなもので、法律で物理的な人間以外に人格を認めるメリットとか、人が人を抽象的に捉えられるようになった概念の発展によるものなのだろうなと。個人事業主は商人であり中間のような存在になるのか。でも完全な私的な個人は消費者保護法の対象であり、まぁ省略。真面目に読みだすと色々考えて全然進まんが、だからこそ残るのだろう。

 

進まない代わりに放射線技師と、病理医の漫画を読んでいた。人体の物理的構造すらまだまだ分かっていないのだなぁという感じ。まぁ読んでしまったのは、それぞれのキャラが好きだからであって、別に情報収集のためではない。情報なんて後から勝手についてくる。

 

さておき。

 

ミクシィで、日記検索してさらっと10分くらいでめぼしいものを読むのだが。そこで三島由紀夫の登場人物が「輪廻」を語るのがよく分からないというような話があった。面白いのはその先で、「輪廻観」の発明に対する考察。来世があると信じさせることは、身分制とセットなのだろうなぁという感じ。

 

僕の考察の前に、昨日の「壁」の観念について、雨の中、買い出しに行くときに考えていた。この時期の雨は、花びらをたくさん落とすが、別に儚いものではなく役目を終えた花弁は早く落として次のための緑を茂らせた方が合理的なのだろうなと考えてみる。花を愛でている人は雨でぐしょぐしょになった汚らしい残骸なんて見向きもしないだろうな、とか。

 

そうして、人類史上の最初の壁ではなく、個人の最初の壁って、「皮膚」だろうなとふと考える。自分と世界を隔絶する問答無用の存在。自我というものがなければこんな絶対的孤独感は認識されないのだろうが、人間はそういう風になっている。自分の肉体と他人の肉体は別物だと本能いや、先験的な悟性かもしれない、が捉える。だから、集団化とか同一化に対するどうしようもない衝動が起こる。職場の仕事量が最も多い先輩が、誰のことを言っているのか知らないが、「依存関係」だったと言っていたが、当人が上司と雑談せずに居られないのも十分な「依存」ではないかと思う。違いは替えがきくかどうか。

 

同一化の方法として社会化とか音楽とかまぐわいがあったりするらしいが、僕はどれも馴染まなかった模様。自分が薄くなるのも人が薄くなるのもどうもよろしくないのかも。今は、絶対的孤独であって問題ない、解消の為に他人を使うことはどう言葉を繕っても嘘っぽいという見解。まぁ人脈は大事だろうが、これって主体は誰だ。

 

輪廻という発明品について。僕はここまで世界を読んできた見識として、宗教も1つの概念装置でしかないと考えている。これは常識とか民主主義とかと同じ水準で、人は自分が最も心地良くなる装置を拡張メディアとして選べばいい。誰かに押し付けない範囲で。社会的にどんなルールがあれば最適化という概念も見つかってないし。

 

輪廻は仏教っぽいが、たしか原始仏教は輪廻を提唱してなかったはず。もともと輪廻って身分制で生まれで地位と場所が決まっていることに対する人の閉塞感を慰めることに目的があったのではと推測する。よく働くようにという意味と、精神の慰撫。だから、人格そのものが来世でも再生するという観念があり、ではなんで過去世を覚えていないのだということになる。たぶん当時の人もそう思っていた人は居るだろうな。

 

ただ、僕はこの考えた方を完全に否定はしない。だって分からなないし。たとえば、今後の発見で、3次元では捉えらないエネルギーがあり、その中には脳という構造物にしか宿らない魂というか思念みたいなものがあったとして、脳が活動停止をして離れた後に次の脳に移動するということがありうるかもしれない。もちろん人格は脳というか肉体の体感を経ないと形成されないものだから都合良い輪廻とは至らないが、何かしらのエネルギーは巡る。のかもしれない。

 

そういう観念があるってことは、何か五官の外で感じるも器官があるのかもしれない。

 

ちなみに素朴な僕としては、物体ではない存在があると感じるのでどちらかと言えば後者寄り。ただ、本当に神様みたいな存在が在ったとしても、既存の概念装置で記述されるようなものではないだろうな。

 

今日はまだまだある。が時間が足りない。

 

メディアの話で、右脳、左脳の話があった。この機能の発見も歴史はとても浅いんだよな。「話しを聞かない男、地図が読めない女」が出てきた。かなり流行ったような気がするが、僕は読んでいない。傾向的にどちらがどちら優位みたいな話なのだろうという想像。

 

仕事で好きな方の上司が、貴方はアナログ人間だと評した。これって完全に右脳人間である。左脳の方がデジタル。文系がアナログで理系がデジタルだとなりそうだが、むしろ逆かもしれないなと思う。左脳脳は、システムに従順なんだよな。自分がやってないことでも信じてしまう。論理は確かに大事というか便利だが、中に何を入れるかによる。もともとは人間は右脳で世界を捉えていたが、表音文字が発展したことにより世界が分かり易くなった。

 

面白いなと思ったのが、左脳優位の人は環境の変化を捉えにくくなるというところ。僕も随分世界に対して雑な時期があった。今捉えている世界が正しいというか規定値になってしまうという弊害。こう考えていくと、地図が読めない左脳脳も当然ありうる。

 

日本語は表意文字だから良いよな。情報の外にカタチがある。

 

あと、ルビンの壺とおばあさんとお姉さんの図。よく見たら壺ではなく接吻しているとか、ぱっとみおばあさんだがお姉さんに見えるやつ。この説明で分かる人が居るのかはともかく、メディアには図と地があり、影響を受けるのは背景の地の方なのに、表音メディアの発展により人は図しか見なくなったという話。ちょっと分かり易く書けば、何が書かれているかしか人は読んでないが、本当に影響があるのはどう書かれているかというところ。余計分かりにくいか。

 

僕は人が書いた文章を無茶苦茶読んでいるが、そこに書かれている情報(図)より、なんで作者はここにこの言葉を当てたのか、当てたい理由があったのか(地)を読んでいるから、ストーリーの結末を先に知っても関係ないのである。読み味が美味しいかどうか。最近読んだ文章では、三島由紀夫さんのがなかなか。

 

あと1つだけ。

 

影響という意義。言葉では誰誰に影響を受けたって簡単に言えるから、僕はそういうのはあんまり信じない。影響を受けることができるのは、思想ではなく実践であって、実践は言語に馴染まないし。

 

ここで輪廻観を持ってくるが、他人に何か影響を与えようとするときというか、英雄譚みたいなことで一方的に伝授しようとする人は、自分と相手が「人」としていっしょくたになっている。まず、時代も違うという前提はともかく、体感としての経験則は当人が当人であるから感得できたものでしかない。容姿とか声色とか物理的な「その人」は他に代替できるものではないだろう。でも、その結晶を簡単に求めるから、これをしたらこうなれるよという法則にすがる。これは聞き手の問題かもしれない。

 

こういう論理化は完全に左脳優位だと思うのだが、どうなんだろう。人をデジタルとして捉えている。なんなら自分さえ。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。