こうぞう
21:47から。
雪がちらつく白い雲間に膨らんだお月様がちらつく夜。
夜ご飯はのメインはお鍋にした。
お鍋って基本的には自分で味を付けるのも込みなのだが、所望された豚骨スープは流石に作れないから買うことにした。母親が送ってくれた白菜と満月さんが買ってきた長ネギが良く合う。締めは雑炊より中華麺が合うのだが、あいにく買い忘れた。
副菜はほうれん草のなんだっけ。
鰹節と醤油で和えるのはお浸しで良いのだっけ。
固有名詞がだいたい飛んでいる。
あと、大根と白菜のサラダ。
美味い。
前置きはこの辺で。
お仕事。
なんとなく自分のペースでこなしたのだが、店長に言わせるとまだ足りないとのこと。
まぁこれはなんとなく分かる。一応想うところもあるのだが、足りないなら足していくしかないし、時短できる部分をいくらでも足していけば良い。
今は確かに時間が作れていないのは自覚している。自覚があればなんとでも動けるのが人生劇場。
電話については特に苦にならなくなったのだが、プライベートの事務処理で電話をしているとき、満月さんに「電話が苦手な人がお仕事で話している」と評されたのがまず1つ。電話が嫌な人って基本的に何か後ろめたいところがあるのだと思う。偏見かもしれないが、僕がそうだったし。あと、電話ってながら作業できない項目でもある。電話しながら文章を書くことはできないし、なんなら洗い物もできない。歯磨きはできる。
もう1つ。
先輩女子が、スラムダンクの話をしだしたタイミングがあった。面白いですかって。ハイキュー!!は読んでいますかと言うと読んだというものだから、この2つの「構造」は同じですと言ってみたら、「凄い言葉を使いますね」と言われた。
僕は構造主義には詳しくないけれど、構造って少なくとも固有名詞で一言で表現できない言葉だと思われる。
構造が同じだというのは満月さんがオリジナルで、僕もたしかになと思ったところで、それがどういう意味なのかというのは言語化できるのだが、別に日向と桜木が全く同じキャラではないから、固有名詞で物事を考える人にはこの一致はできない。
構造って具体的な一致でもないし。
まぁ、抽象的に考えることがそれほど高尚だとも思っていない。単に世の中に遊び所が増えるというくらい。
どうでも良いけども、世の中に出ている考察動画って、全然考察パートが無いような気がする。証拠から離れていなくて、全然当人の解釈が出てこない。そういう需要があるということで抑制しているようにも見受けられない。
柄谷行人さんが、「文学表現における自分とは『冗談』みたいなもの」と書いていて、こういうのが面白い。自己を固有名詞とか形容詞で表現するって冗談でしかない。別に冗談を下劣だとかしている訳ではなく、確固とした現実的な事実として言語化できるものではないというだけの話。凄く洒落た表現で美味しかった。
この「冗談」には、社会的に証拠がないというニュアンスも含意されているような。
誰かに見られない自分でも自分で在るという変態は、他人からの視点という鏡を度外視していて、言葉で表現できない自分で良い。
証拠と言えば、民法上の家族観って血族でも無いという話が面白いのだが、本筋から逸れるので機会があればまた書く。
本筋は、頭の回転と言葉の相関のお話。
僕は満月さんしか結婚する人居ないのだろうなと思うのだが、別に言葉では表現していない。歴代の恋人さんの中で母親に挨拶しようとする人は皆無だったし、家族になるならややこしい親族が居るのですわというのはやんわり表現していた。
我が母はまともな社会的感覚を持っているもんで、僕に寄って来る社会的感覚を持っていない人とは合わないだろうなと。
考察パート。
言葉にできるとき、脳は遅くなっているよなぁという感想。
個人的には早いから良いとか遅いから悪いということは無いのだが、言葉にできない領域が個人の本質な気がしている。
ここが個人の脳の最高速。
ほんとはもっと言語化しないといけないのだが、眠いのでここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。