条件

 

 

 

ひたすらグロテスクな夢を見た。何か教室みたいなところが舞台で、登場人物には僕も知り合いもいなかった。森に自然に囲まれた斜面の途中に建っていて、ガラス張りというかなんだかとても景色が良かった。そこに狸が迷い込んで来たのは良かったけど、どんな経緯分からないけど、狸の首が胴から離れていてプラスチックケースに入ってゲル状になっていた。ただ、別に死んでいる訳でもなく、体がまだ生えてないとなり、いつの間にか消えていたから元気に野を駆け回っていることだろう。

 

僕が今まで現実で見た一番グロかった光景は、神奈川某所で見た、おそらく車に轢かれた首が取れかけた鳩を啄むカラスの画。なかなかこれを越えるグロさはない。

 

そうして、その後登場したのが、皮が剥がれたひよこが大きくなって嘴がやたらとでかい生き物。くちばしも柔らかったのだけど、左手を噛まれて外れなかった。珍しく痛かった。これは起きて分かったのだけど自分の腕を枕にしていたため。窓の外に腕を出したらこの鳥は光の筋に分解されて消えていった。

 

場面がかわり、廃工場というか学校みたいなところの地下。顔が隠れた死体があって、その前に1人たぶん男性が居て、僕はそれを眺めている女性の目線だった。男性が運び出すためにコンパクトにしようとしたのだけど失敗したって言う。僕はそんなの当たり前だろうと思っていたのだけど、他はなんとかなったって言い出してぞっとした。そこから逃げ出すのだけど、確かにコンパクトになった人が追ってきた。細かい像までは見てないけれど、頭と同と腕のと足の一部を使用したのだろうなと。SEというか足音がトコトコだったのが余計にグロい。階段上って逃げるのだけど、真ん中にスロープがあって、あぁこれで追ってくるのかと冷静に考えていた。

 

この先もあるのだけど、なんだかんだここから脱出できた。そうして世界線が違うのだろうなっていう感じが今日の現実の自分にこびりついていた。

 

きょうこれを書いたのは、最初自分病んでいるんじゃないか、供養しなければと思ったから。昨日の日記の前半の影響かと。しかし。原因は判明した。ちょっとサイコパスぽい人が実況しているピクミン3の動画を見たから感化されただけ。ピクミンはまぁまぁグロい。自分でプレイしたことはないけど。スプラッタな性質がある訳でもないけど、世界に対して開き過ぎではないかとは思わなくもない。

 

病むと言えば。不安についての記事を読んだ。日本のニュースではなくて、外国の論文を翻訳しているもの。この状況に対するマスクの効用は安心感でしかないみたいな。記事を書いている人がマスクに良い印象を持っていなくて、マスクに囲まれた世界では知らぬ間にストレスが溜まると書いていて、それも分からなくはない。

 

この社会で超健全だと宣える人はやばいみたいなフレーズがあったけど、僕はそのやばいに当てはまってしまってやべぇなと思った。

 

真面目に考察すると、確かに世の中には抗不安剤というものがあるし、不安という感情は人を殺しうるとは思う。ストレスとしてのなんとなく嫌だなぁという感じも体調不良として現実化しうるし。

 

だから、現状の天災と感性症のセットはなかなか人の不安を刺激するもの。ただ、不安って誘引にもなる。不安を煽ることで、さらにテレビは見続けないとか、不安だから人に依存するとか。要は、コントロールしようとする存在からすれば、不安はあればあるほど良い。想像だけど、今のテレビの報道で、今日は何人感染したとかどこが洪水だとかそんな話ばかりなはず。ゴートゥー政策も良く知らない。

 

僕が健全で居られるのは、テレビを見ていないことじゃなくて、単に潜在的なものが顕在化されただけだと思っているから。この世界、見えないところで毎日誰かが亡くなっているし、自分が死ぬリスクだってあらゆるところにある。いわば当たり前ではというだけ。自分の身に降りかかるリスクが増えたように見えるだけだし、悲惨さも自分に見えるようになっただけ。ニュースになったことしか共感できないのかいな。

 

もう1つ。マスク社会での安心感は、どうも仮初らしい。ウイルスの大きさを考えれば息ができるという時点でスカスカなのは想像できる。酸素分子とウイルスでどっちが大きいのかは知らないけど。

 

そういえば、この記事を書いている人、割と宗教観が強い。終末論に引き付けて世界を見ている。僕は宗教観も1つの世界の見え方だから特に何も思わないし、原始イスラム教の神秘主義は素朴に共感できるものだった。

 

曰く、人は異なる内的宇宙を持っている、人はひたすら笑って過ごすべきだ。

 

内的宇宙という言葉は大げさだけど、宇宙の定義をひたすら広い時空であって、その中に運動があるとすれば、自分の中身は人と違うということは自分を探求している人には分かるはず。

 

笑って過ごすというところと、マスク社会の不安はセットかなと思うところがある。ここからは独自説。

 

たぶん、人の表情という情報が欠けることに対する不安感がありそうだなと。直に接することに重きを置く人は、人の物理に重きを置く。表情が見えないと相手のことが分からないということは、表情が見えれば相手のことが分かるということ(対偶、合っている?)

 

素朴な僕からすると、人の表情で他人のことが分かると思えるのが浅いから、表情が見えないくらいなんの苦もない。表情って、例えば笑い皺っていうくらいにどういう表情を生きてきたかどうかしか見えないから、人柄は見えても自分に対してどうかは分からないと思うのだけど。無表情の人でも他人を独立した存在と認識できたり、表情豊かな人が冷徹だったりするし。

 

表情に対する安心感という観念もよく分からないところ。自分が見えないところで冷徹だからかなとか想像してしまう。

 

あと、所作だってそんなに情報としては変わらない。所作を観察していて面白いのが職場のエレベーター。どういう人が開を押してくれるのかみたいなのが面白い。僕は別にあえて良い人アピールしたくないから、誰も居なければするのだけど、上司とセットだったら開く前からずっと押している人とか。あ、然は押してくれる人だなと認識してしれっとしている人とかいろんな人が居て面白い。

 

面白いけど、現実的な所作で当人が分かるかっていうとかなり微妙な話。分からなくても有用かどうかは測れるとは思う。

 

僕はマスク下の自分でいつも意識的に笑っているけど、これは周りの人に見せなくても良くなったからという面が否めない。表情というか顔って仮面で、自分がどう他人に見られたいかだと思う訳で。ペルソナ感。

 

僕の笑いの表情は、自分が笑っているのであってその表情を他人に見せるためではない。見せる為に笑っている人って、表情が全然笑っていないように観測される。だから、良い風に自分を書いている人のことも文章で無理して笑っている感はなくもない。確かに公開範囲という限定はある。僕も自分を慰めている描写は確かに書けないし。全然官能的でもないし。と語尾の重複。

 

この後恋文をここで書くつもりだったけど、当人に書こう。

 

では、皆さんがほんとうに笑って過ごしていますように。