標準

 

 

 

セロリは美味しいけどすぐ食べ終わるのが難点。とはいえ葉っぱの炒め物と茎の浅漬けで計4食分だからそうでもないか。今日はきゅうりの浅漬け。どうしても昆布茶で漬けたくて購入したのだけど、昆布茶とごま油だけでひたすら美味しい。素材を組み合わせただけだから僕のスキルとは関係ないけど。美味しいという感覚も精神によるのだろうか。

 

そういえば、陰謀論チックだけど例のブログが更新されていて、自粛もロックアウトも無意味だという話があった。致死率が低い病災に対してこれだけ過敏になる全世界の傾向を見ると、確かに一定の説得力はある気がする。曰く個人事業主を破綻に追い込むとか。ちなみに致死率は0.5%くらいらしい。

 

そうして、この問題って来年辺りの某法律国家資格の論文で出てくるかもなぁと空想。憲法で。一般の人って憲法も法律だと思っているのかもしれないけど、法律は国家という一定の領域の中のルールを決めるもので、憲法は国家そのものをルール付けるものだから全然違う。

 

たぶん、今の自粛要請を法律でやったら完全にアウト。国民の自由を制限するためにはそれなりの目的が必要で、それは具体的で現実的でないといけない。国民の不安を守るために行動制限するって、不安な人にとっては都合が良いかもしれないけど、その不安って具体的な基準が抽出できるのかという話になってくる。基準の判断が恣意的になりうるルールはよくない。のは暴君の親のもとに育った人は分かるはず。

 

では、どの自由が守られるべきかというと、職業としての営業は難しいような気がする。テレワークでなんとかなるとか。ただ一律に営業自粛になったとすれば、どこに移動しようが営業活動ができないからなぁ。

 

表現の自由でいうと、音楽もなかなか難しい。だって、音楽表現って音源が世に流通することが本質であって、ライブという現実的臨場感は中核から外れるような。裁判でも音楽が問題になったというのは見たことがない。だったら演劇はどうだろうとなるとやや話は変わってくる気もする。演劇表現も映像データとして表現できるじゃんってなるかどうか。臨場感自体が中核と見れば、致死率が低いウイルスから国民を守る目的とバランスが取れるか。

 

音楽も含めた芸術って確かに物理的に生存することに必要かと問われれば必要ではないけど、人間的に生きるためには必須だから守られてきている訳で。

 

人格に対する影響値が現実的な環境だけの世界は、ある意味動物でしかない。

 

あくまで法律で義務化されたらという前提の話だけど、要請だって事実上の強制みたいなものだから、これを憲法問題にできないかという思考実験はありだとは思う。法学ってこういうものだと認識している。まだ専門家じゃないからこうやっててきとーに書ける。

 

書籍としての表現の自由はこういう現実的にどうかにかかわりなくて強い。新刊枠の話書こうと思ったけど今日は良いか。

 

夢の話。

 

何故だか飲み会。そこにもう1つ何故か今話題の退場した某俳優さんが登場して何かぼそぼそと会話をしていた。特に好きな俳優さんだった訳でもないし、ネットニュースでちらっと画像を見ただけ。

 

僕が考える自殺論。

 

僕は素朴に自分が病んでいるのではないかという節がある。どれだけ楽しく生きていても自分はしれっと退場してしまうのではなかろうかという浮遊感が拭えないところ。別にここは問題ない。別に無理して生きている訳でもないし。

 

そうして、こういう素朴な感覚からすると、この選択肢自体は任意である限り一般論としては在るべきものだと思う。どうしようもない、どこにも居れない、この先何十年もそうだって思っている人に対して他人は何も言えない。キリスト教が自殺は罪だとしたのもなんとなく分からなくはない。日本でもそういう地獄観はあると思う。

 

この俳優さんに対して、もっと観たかったというニュースの表題が見えたけど、つまりそういうことで、要は、死んでしまった相手そのものではなく死なれた自分に重きが置かれているのが自殺の道徳感。

 

僕の身近で任意的に命を絶った人が居ないということもあるだろうけど、たぶん、その人をそんなに見てなかったのだろうという感じ。任意的ではなく広義で言えば父親は緩やかに死に向かってそのまま亡くなったから僕では何も寄与できなかった無力感はある。けど、この悲しさが、一般的に自殺は駄目だという理由になるか。

 

個人は行動の自由があるし、お酒とたばこは分かりやすい緩やかな自殺とされているけど、メタボな人が最低限のカロリー以上を食べるとか、強度のストレスに晒されている人がその環境のままに生活することとかだって含まれるはず。

 

だとすれば、任意的に退場に直結する行為だけ取り立てることにどういう意味があるのだろう。自分から見えなくなる、うん、そうだと思う。自分が寄与できなかった、ほんとか。

 

命は大事だという一般論は分かるけど、その命をどうするかって、現実的に保護できない他人が言ったところでなんにもならんよな。言葉を発するだけならとても簡単。だから某俳優さんもこの選択をしたのだろうし。

 

あくまで、人って自分の観測圏内にある命しか命として認識できないということは自覚して良いのでは。

 

 

ここで居場所論がやってくるのか。なるほど、僕は父親の居場所になれなかったから、人の居場所になることに特に違和感がない。代償行為なのかもしれない。素朴な僕は居場所なんて要るのかと疑問に思っている。移れるような場所なんて居場所ではなかろうよって。居場所という観念は後付けみたいな。

 

でもそれが自分を統制する基準になるのであればそれも良いかもとは思う。個人の判断の領域。

 

結論。僕は一般的にはありだと思うけど、関係者がその選択をしようとしているならきっとなんとかしたいと思うだろうというダブルスタンダード。このなんとかしたいに、無理やり健康であり健全を強いるということは含まれない。

 

もう1つ見た夢。これのせいで今日は1日なかなか悲しかった。

 

前の前の恋人さんが出てきて、添い寝をしていたのだけど、近い、もうお別れしたんだからって言われた。いやそんなことは知っているのに何故登場してきたって。確かにこの人のお腹の触り心地は凄かったけど。つるつるしているし余分な肉がないし、僕の両手でつかんだらもうちょっとで一周しそうだったし。

 

そうして、その後見つけた手紙には修正できるよ、2022年2月22日と書かれていて、起きてからいやいやって思った。もう人格的にきっと交流はできない。

 

ただお別れした時の残像としての悲しさがこびりついた1日。まぁこの人が僕を歴代最大限に悲しくさせたことは確か。別に仕事に支障はなかったけども。

 

どうせ夢ならもっと楽しくさせてくれもよかろうに。むしろ今が楽しいからこういう夢を見て整理しているのか、いや、分からん。

 

まぁ、こうやっていちいち夢に刺激されている時点でまぁまぁ現実的に生きていないのは確か。僕の中身がどうあれ現実にはほとんど影響ないから、あくまで僕の内部だけの物事。

 

では、皆さんに居場所がありますように。

 

おやすみなさい。