はらわた

 

 

 

負荷が足りていない。

 

朝ごはんはキャベツとミニトマトとわかめのコンソメスープ。納豆、梅干し、それとご飯。昼はスルーして、夕方くらいにスーパーの小さな弁当を食べた。お弁当用に作った豚肉ともやしのウスター炒めの胡椒の味。三日目の長いもの漬物はちょうどよく馴染んでいる。味付けは梅入りゆかり、わさび、昆布茶、ほんだし、醤油、酢。味から調味料が辿れない味が好き。梅干しも作れるようになりたいくらい好き。

 

自分の体のケアの優先順位が下がるくらいで負荷がかかっていると言える。思考が足りていないような感じ。なんだか勉強と認識してすると途端に想像力が落ちるみたい。配分が難しいけど、定着させるためにはそれを使って考えるくらいにならないといけない。

 

 

さておき。

 

自己分析が厚いとの言葉を賜りちょっと嬉しかった。自分が気に入らないからだと返したけれど、どちらも、ほんとかなぁと自分で思う。確かにこれはもともと僕の中にある当たり前についての思索から始まっている。でも、もはや自分にとどまった領域で考えているとはいえない。自分について考えることは、自分を媒介にした世界を考えることに等しい。自分がこの世界のどこまで読めるようになるのか。完全に客観的な世界は存在し得ないということまでは分かった。

 

雨月物語は、仏法僧という章になった。仏教を全く知らない人にはこの並びはよく分からないだろうけど、仏教で言う三宝ということは知っている。知ったところで物語が面白くなるのかは別のこと。原始仏教と日本の仏教は随分違うということまでは読んでいるのだけど、まだ読み進めていない。仏教で言えばわかりやすい漫画がある。お慕い申し上げております、だっけ、ちょっと18禁みたいな奴。アプリで見つけたのだけどどこかで立ち読みしたことがある本だった。原始仏教に近い説明をしている。人間の苦は抑圧と煩悩だったっけ。原始仏教も何か経典がある訳ではなくて、問答集が残っているだけっぽいから、日本の為政者も使いやすかったのかもしれない。

 

でも神道と仏教の関わりはよく分からないところはある。古事記由来の八百万信仰ではまとめきれなくなったのかね。火の鳥を犬の皮を被せられた話を想い出す。漫画読み過ぎかよ。

 

確かに、漫画であればそんなに潜らなくても良い。

 

あ、僕は当然信者ではないです。お墓も先祖信仰を推進するシステムだと思っている。告別式は悲しい。ただ、時系列で住職さんが生きている人が集まる口実になるとか言っていて、高校生の当時はほうほうと思っていたけど、今となると、そういう儀式のシステムなのだろうなと。儀式というか、親族という括りで管理するための。

 

これを覚えているのは、姉が当時ブログでめっちゃ怒っていたから。死者はどうでも良いんかいみたいな。姉の現実的人格は全然好きじゃないけど、文章はとても好きだった。文章の方がほんとの中身なのでは説はここからなのかもしれない。もう一つ好きなエピソードは、ある日母親の指輪が変わっていて、あぁもう父親のことを想っていないかとがっかりして聞いたら、これはある記念日にくれた指輪だよって言われた話。

 

でも、今書いて思うと、良質な創作という気がしないでもない。そんなに内側をさらけ出せる関係であれば絶縁になったりしないような。もうブログは残っていないし、当人に真相を聞く気もないから闇の中。人が書いたブログについて現実との一致があればより面白くなるなんてこともないし。

 

 

現実との一致を真実とするという観念の動きって、要は現実的に信用できるかどうかということ。掘り返すと、幼稚園から小学生低学年くらいの時期に、自分の発言を糾弾されたとき、それは何時何分に言ったことですか証拠はあるのですか、みたいなのが流行っていた。証拠とか証明の観念はその時期から知っている。こういう観念ってきっとテレビとか大人の影響だったのだろうけど、どこ由来か分からない。

 

あと、権利には義務とか責任が伴うという観念を真理みたいに語る大人も多い。これも外付けなのだろうな。義務を果たさないと権利を主張できないという観念は例えば、選挙に行っていないのに政治のことを語る資格がないとかいった文脈になるけど、普通に雑。

 

憲法上の権利と私法上の権利義務を曖昧に教育している国家の功績なのだろうなと。選挙権とか表現の自由とかの義務の主体は国家だから、国民に対応されるような義務はない。権利の範囲というは問題になるけど、義務を果たしたらという文脈ではないし。権利と義務が対応されているのは売買契約とか経済活動のルールであって、道徳観のことではない。家族関係で言っても、親は民法上子供を養う義務があるけど子供に親を敬う法律上の義務はない。昔は自分の血筋で年長の人を殺したり傷つけたりすることは赤の他人にそうするより罪が重かったから、法律が他人より親の方に価値があるとすることには理由があった。

 

でも、国民が法律を知らない方が専門化にとっては飯のタネになるし、国民も他のことに時間を使えるから悪いことでもない。というのがミクロ経済学の考え方。知らなくても良いことを知ろうとするより、自分のできることで分業しましょうって。ミクロ経済学と心理学はとても似ていると思う。

 

なんだろうなこの話。というのは、素朴な人間関係をこういう権利義務みたいに見る人はとても嫌ねというだけ。ここから抜け出してやっと自由というか自在になれてきている。自分が誰かに何かを求めるときに自分はこれだけ費やしただろうって罪悪感を煽って来る感じ。

 

あぁ自由には責任が伴うという言も微妙なところ。そもそも自由の定義もひとそれぞれ。今の時代の刑法が許している範囲が最大限で、自分が許している範囲とか、自分が生きている生活圏とか、諸々あると思う。

 

情報量の話。

 

出歩くと、同じような顔の綺麗な人を良く見る。これって綺麗だとかはどうでも良くて、情報量が少なくて分けられないだけだろうなと。道行く人のあの人とこの人を分けられないから、一般的な人になる。たぶん、人に対する負荷はここにもある。情報量が少ないことに対する不安。

 

でも、そもそも論だけど、人に対して情報量が多いってどういうことを指すのだろう。

 

自分の掌を見ると変なところが厚くなっていた。中指の付け根当たり。なんだろうと思うと、たぶんビジネスカバンを支えるところだろうなと思い至る。ここから思うに、現実的なその人の肉体的所作って、どういう環境を生きてきたかの証拠にしかならない。表情だってそう。

 

環境が変わればすぐに適応できるのが人の肉体。

 

だから、人が笑い合っている光景が懐かしいと想うのも別に個人を見ている訳でもないし、顔が見えないことに対する不安も、自分にとって判断材料が少ないことなのでは。文章はあくまで独り言説からすると、この癖には自発性しかない。人にどういう言葉で接するのかとかどういう言葉を綴るのかは環境だけでは造れない。

 

ということは、情報量が多いのはどちらか。僕の中では自明だ。

 

そもそも、他人に対して情報量が多いと思えることがまぁまぁおこがましいこと。仕事なら限られているし、有用性に限定した他人ということなら分かるけど。

 

では、皆さんちゃんと睡眠時間を確保できますように。