不調子

 

 

 

それはそれは良く寝た。

 

坂道の上の家に引っ越す夢を見た。ルームシェアをしている。身勝手な友人(架空)と何人か住んでいて、いやこんな状況は気に食わないと、時間を逆戻りさせて無かったようにするような。

 

昨日の低回転と本日の高回転のギャップで変なことになる。昨日の案件で計算式を頭の中で暗算しながら出勤し、いまの感じで共通1次の数学どれくらい解けるのだろうな、公式すっぽり抜けているから地頭でというくらいは良い。

 

ただ、あんまり気付かなくても良いようなことに気付く。仕事というか社会関係にある他人と会話によって疎通することにほとんど欲求を感じない。満足なところに落とし込めれば嬉しいだが、仕事中にあんまり人と話したくない自分の存在を観測してしまう。もちろん最低限の報告やら応対やらはするし、笑顔で話している。貢献という意味での嬉しさの燃料が少ないなぁって。

 

あと、仕事上というか社会上の自分のバイアスにも気付いてうへぇとなる。まぁバイアスが構築されていないとその場に馴れていないということだし、全てが予測(想像)値を越えるようなことは労働とは言えないし、ある程度は大事。厳密には失敗ではないが、自分の中では誤りだという領域にうへぇとなるのは、調子が悪いとも言えるし、素朴が外に出てきているとも言えるから一概に悪いとも言えない。

 

昼休み。寒波の影響で流石にお弁当は休憩室で食べたが、一服は会社の地下ではなく雨やらみぞれやらがぱらぱら降る公園でした。ちょっとは冷まさないと。

 

漫画タイムに「Shirnk」という精神科医の本を読んでいて、なんだか気持ちが他人事ではないと警鐘を鳴らす。僕は社会生活に支障がないから精神性に名前は付いていないのだが、症状というか特徴みたいなことは分かりみ。日本は先進国で自殺率がトップクラスだが、精神科医にかかる人は少ないらしい。僕の中では需要はないが、社会関係から切り離された他人に自己を暴露する場を当たり前にして精神を調整するというのは良いことなのだろうな。精神の調整というよりは、脳機能がバグっていると客観的に指摘してくれる人というか。パニック障害の症例。

 

僕がどきどきするのは自閉症スペクトラムの人の話だった。空気は読めるけれどそこが馴染むかどうかは別で、どちらかというと症例として出てきた人の感覚と近い。これはまずいのだなと学習したのが幼少期なのか、もっと後なのかは定かではないが、アルコールによってある程度変なことを言っても「酔って支離滅裂なことを言っているだけ」と認知される楽さに気付いた20代。

 

素朴が割と滅裂しているのは、当たり前にあるだろうとされている「意志」とか「空気を読んで察する」みたいな肌感覚が馴染んでいないから。いや、人を観測するときにそういうものが在るとした方が分かり易いのは分かるし、そこで生きることは可能だった。うまいこと欠陥とされる精神性が組み合わさっているのかもしれない。

 

そもそも、察してと非言語の疎通を求める人ほど人を察していないのはなんだろうなと観測されることを思うと、おそらくその場において有力だから相手は述語的な存在でしかないのかもしれない。ある意味、通じる人以外は人ではないみたいな感覚。

 

SNSが発展したのもこの文脈なのか。

僕はこれだけ毎日書いているのに顕在的な読者の存在を需要していなくて、「居場所」としてのここではなく、単に可動域としているだけ。言葉を書くことは存在の拠り所でもないし、慰撫でもない。別にそういう風に遣うことも自由ではある。ただ、存在証明って、自己の主観だけではできないし、他人の観測に依るという意味ではあんまり独立したものではないから、それを求めるのはなんだか不毛な気がする。

 

まぁ不毛こそ人生劇場の醍醐味ではある。毛を生やすことに意味があるとしても良いけど。

 

 

そういえば、満月さんに、僕が満月さんに出逢うまでに誰ともパートナー契約してなくて良かったと言われた。たしかに僕は基本的に怒らないし、相手を否定しないし、なんなら家事(料理)もできて、誰かと共同生活する能力はあると思う。パートナーが居るときは浮ついたことをしないし。ただ、問題は言語的疎通にありそう。いや、なんだろうな、どれだけ発話したとしても、「何を考えているか分からない」という評価は拭えないのか。

 

それぞれの恋人さん達を大事にしていたとは思うのだが、「大事」の感覚が相手を所有するとか相手を自分のステータスにするみたいなのだと駄目だし、自分を楽にするみたいなのも違う。いや、自己保存という意味では大事な本能だからそれはそれで良きこと。

 

「考えている」って、人格というよりも状況によることだと捉えているから、「何を考えているか」は更新されないとおかしい。石のような意志であれば、固定された人格としての基準で物事を考えているということを観測することで固定された人格に遡れるということになるが、僕はそもそも人をそんな風に読んでいなかった模様。要は、考えていることとか、発言とか文章から当人そのものに遡ることはできないという説。

 

でないと浮気されたタイミングピンポイントでそれまで全く触る気がなかった元恋人さんのガラケーを触るはずがない。ロックかかっていたのに何故か解けてしまう。誕生日とか簡単なものではなかったような。超能力。

 

 

なんだっけ。

 

noteの記事で、深い話とはなんぞやという記事が流れてきた。

私生活の話とか仕事の話が深いのだという情報収集しながら、自分も深い記事を書くとのこと。まったく深みの味わいは無かった。

 

そもそも浅いが悪い、深いが良いみたいな感覚がおかしい。

ちなみに、僕の文章に深みがあるとも思わない。コクはあるのかもしれないが、好き好きでしかない。

 

深い話は個性的であるという感覚があるのかもしれない。

個性を前提とすれば、浅い話はコピペと固有名詞(何とか主義とか)で説明した気になっている。深い話は、他者の言を自分のものとせずに固有に自己の世界を描写しようとしている。

 

でも、ほんとに深い話になると、自己の主観的な世界が取り除かれている模様。

ルソーさんが提唱した自然は、読んだ人から「自然に還れ」と解釈されたらしいが、そんなことは原文には一切ないのだとか。

 

自然状態には邪悪がない、なぜなら、邪悪という観念は社会が成り立っていることを前提とするから。ホップスの「万民の万人における闘争」が自然状態とするのは、社会条件を先取りした観念だという話らしい。

 

もっと原文を読まないと。また聞きだと、表現者の解釈が本人の言だと錯覚してしまう。

まぁ伝聞も大事なメディアだが、その媒介になるにつけ、人よりもレコーダーの方が有用なことは確か。

 

テクストは読者を通すことで再創造されるというバルトさんの見識は慧眼。

誰かを通して改変された原文も加工品として美味しくはあるのか。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。