どっちがどっち

 

 

酔いどれになると世界に対してデレてしまう。本性とは。

お邪魔した人には挨拶をしてお邪魔したから大丈夫なはず。(知らんけど)

 

誰かの記事にコメントするときにお邪魔するという感覚があるのは、そこは当人が精神世界の中で拵えた場であるから。挨拶とかその場に準拠したとしてもお邪魔しているには違いない。mixiのお友達が僕の文章を「硯さん宅」と表現してくれたことはとても心地よい。

 

そう考えると、文章は言葉を材料とした建築物としても捉えられる。料理っぽくもあり、絵画っぽくもある。方程式はなかなか難しいが。現実の物理法則を前提としなければならない三次元世界とどちらが実存だろう。僕は文章体のとしての人の方が当人に近いと感じる。

 

そういえば、個人的な精神世界の核に暗がりの穴ぐらがあるとイメージしていたのだが、継続的に掘り下げないとすぐ埋まるようなものでしかなかったという感じ。精神世界の時間は物理的変化より自在。自分が存在することが罪だって決めたのは自分しか居なかった。お邪魔の感覚がある限り、人を過剰に傷つけることもないはず(たぶん)。

 

酔いどれになっても世界に要求しないのであれば、それが本能で良い。

貴方はそのままで良い、価値なんてなくても、と想う。ただ、僕は生きやすくなることが一般的に人にとって良いことなのかということには答えが出せていない。自分が自分として存在することには苦しさという要素も当然含まれていて、除去する対処療法でなんとかなることなのかなと。

 

社会的な規範についてはあまり気にする必要はないとは思うが、分かり易さという魅力は無視できないし、社会からの承認の希求は単に生きるための本能とも言える。褒められるのが嬉しいのは、たぶん不安だから。

 

本能と言えば、現実生活で1つやめたことがある。そのあと自分から獣臭がして嫌だということもあるが、最低限のことではないなというところ。人とするのは禁じてないが、そんな機会は今のところない。

 

(この文だけで何を止めたか読み取れたら凄く読解力があると思う)

 

僕がこういう文体だからかもしれない。好ましい文章の最大公約数を解析すると、メタ的な視界がある人。単にスポット的に読むのであれば人となりが面白ければスキをぽちぽちするが、読んでいる他者がメタ的に意識されているとか、そもそも言葉を扱っている自分をメタ的に観測できている文体が美味しく続けて読める。

 

言葉は現実と非現実の狭間にあるものだが、精神世界ではまごうことなき物質である。

 

これ以上の継続的な関わりになると、僕の存在が精神世界で意識されているかどうかになる。別に舞台裏は知らないし、妄想という可能性もある。でも、ここは問題にならない。残滓がちょっと見えるだけで普通におかしい。

 

現実世界において、他人が当人にとってただの情報でしかなく、親しくなって初めて人になり、精神世界にも居住されるというところからの比較。

 

起き抜けに、ふと、自分って「いま」の範囲で定義されているのかと思った。この「いま」であれば、たしかに他人は出てこられない。自分のいまを捉えるだけで必死だから、誰かのいまなぞ見る暇はない。

 

精神世界において、親しくない他人は存在できないのだろうなという観測則と、だったらなんで僕が居る感じなのだろうというところと。

 

自分の定義も良く分からんな。

 

さておき。

 

髪を切ったあと、大きめの本屋に行った。同じ本ばかり読んでいると頭が固まるし(もはや固まりようはないが)、縁がある2名に由来したのを買う。ほんとは国際私法と経済法と生命科学も欲しかったが、田村書店は法律界隈もとい専門分野疎いからしょうがない。これは明日。

 

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」と、なんとなく惹かれた「計算する生命」。ウィトゲンシュタインは宵顔さんのブログで読んでいるのを見かけて、きちんと読んでみようかなという縁。計算する生命の方は、もっと新しい縁で、数学の妙味を読みたくなったから。

 

ウィトゲンシュタインさんとはなにか気が合いそう。言葉の限界を意識した上で最低限で語る。世界、現実、事実、対象、全部意味が違う。ここに色が入ってくるのが面白い。色合いが世界を識別する指標になっているのかという人間味。僕なら味と書きそう。方程式の文章ってこういうことだろうな。あと、この本は教科書ではなく、理解できる人が1人でも居れば目的を達成しているという我がないのも好き。

 

 

「計算する生命」は、人が計算することができるようになった起こりを語る。数は物理的な物を数えることから始まる。指で数えるやつ。ここから数字という記号が生まれて、人の思考は抽象世界に至る。

 

人はわからないことも操れるという話。分数の割り算が典型。分かるは後からやってくるということと、数字に対する忌避感を素朴に抱いてしまう人が一定数居るとか。数学恐怖症。

 

ここからは完全オリジナル。

 

なんだか色々繋がりそうな気がする。

 

人は現実離れしたことも認識はできるが、脳がセーブする。

数学世界って、物理世界の安定感と比べると自分の立ち位置が無いから、そこで遊べるかどうかは自分の存在を気にしないようにできるかどうか。

 

これができるのが思春期の不安定さと一致しているから、義務教育ってよくできている。ここまでは現実感がない。

 

でも、現実感は、社会的な互助関係としての存在感であって、これもバーチャルだとは思う。バーチャルで良いとできた人が社会的に成功していく。

 

世界人口でいうと、何らかの原始宗教を信仰している人がほとんどで、これも現実感を何処に置くかの話だから、宗教とかおかしいと思っている人は、無意識で別のものを信仰している。

 

脳は分かり易さを欲しているから、物理的な感覚が間違いないということを是とする。

(そもそも物理的な感覚も省エネで情報制限されたやつなのだが)。

 

物理的な世界には社会規範があるし、このルールが前提になった自分がまず居る。

 

 

細かく書けなくなったのでここまで。

 

おやすみなさい。

 

他者に依拠しない自分でありますように。